とくらじょう

戸倉城

静岡県駿東郡

別名 : 徳倉城
旧国名 : 伊豆

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①主郭
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昌官忠

(東海&関西)遠征25日目(最終日):戸倉城 (2025/06/08 訪問)

八幡神社前バス停から徒歩5分くらいで、矢崎遺跡案内板付近(35.095157、138.897301)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、北条氏綱によって築かれました。 戦国時代には伊豆国と駿河国の境目の城として重要視された。
三国同盟が破れた後、1568年(永禄11年)から1571年(元亀2年)にかけて武田氏と北条氏との戦いの舞台となりました。
駿河国に侵攻した武田氏と小田原北条氏は戸倉城で戦い、1580年(天正8年)頃には武田勝頼が三枚橋城を拠点に小田原北条氏の戸倉城を攻め、1581年(天正9年)笠原政堯が武田氏に寝返り、戸倉城は武田氏の所領となりました。
武田氏が滅亡すると再び北条氏の所領となりましたが、1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で小田原城の落城ととも廃城となりました。

現在は本城山公園となり麓から遊歩道が整備され、山頂部に展望台が置かれています。
攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=戸倉城へ徒歩で向かいました。

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しんちゃん

主郭におわすは「キノコの山」か「きこりの切株」か? (2024/01/25 訪問)

戸倉城は駿河国と伊豆国の境目の城として重要な位置にあり、狩野川に突き出した独立高地の頂部に築かれています。掛川城を退去した今川氏真が寄ったこともあり、武田方と北条氏のあいだで争奪戦がありました。
現在は本城山公園として整備されており北麓に駐車場があり登城道が整備されています。登城道の途中に堀切などの遺構が残っており、比高にして60mほど登ると主郭に至ります。主郭周辺部は太平洋戦争の際に高射砲陣地として改変を受けており、かつての形状とは異なる箇所があるようです。主郭の中心に変なキノコがあります。‥いや切株をあしらった展望台のようですね。切株にしても変な形ですが、安全のために周囲に壁を設けたのと、床面積を広くとるためにこのような形状になったようです。でも展望台からは富士山が良く見えます。
主郭から南西に道が続いていて途中に堀切があり土橋がかかっています。そういえば城郭放浪記さんの記事に主郭南東方向に切り出した石が散乱しているとありました。肝心なところを見損ねてますね。

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92

戸倉城 (2023/10/21 訪問)

旅行のついでに

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T-Shionoya

戸倉城で城跡遺構を探索 (2023/01/28 訪問)

北条領の城を巡っていると、たびたび目にした静岡県清水町の戸倉城の名前。

伊豆中央部から北に流れる狩野川の、河口から約7km。その川を蛇行させる標高75mの山に築かれた戸倉城。
狩野川との間の平地部を守る壁の様にも思える城。
駿河湾へ繋がる水運の拠点となり、陸路も東海道と下田街道の監視ができたでしょうか。

築城時期は定かでないが北条氏綱の築城とも伝わり、1500年代後半には沼津三枚橋城の武田氏と激突。
裏切りにより1度は武田方に寝返るが、武田滅亡後は再び北条方の城となりました。

現在は主曲輪(本城跡)周辺が本城山公園となっており、城主の居館があったとされる場所は龍泉寺に。
西曲輪には八坂神社が建てられていましたが、最近解体されたようです。

訪問時は北駐車場から入城し、東駐車場方面や龍泉寺、八幡神社を経て大手口の水神社へ。
主曲輪の切り株型展望台に上がると、沼津から三島、韮山まで見晴良好。しかし主曲輪西の土橋以外、城らしい遺構を見ることは困難。
また八坂神社へは道がわからず、翌日に再チャレンジ。
八坂神社への道は、西曲輪の西側に山を越える遊歩道があり、その北口の民家の裏にある隠し階段のような細いコンクリート階段。
西曲輪周辺は狭いものの、城跡らしき遺構が確認可能。

遺構探しを楽しんだ戸倉城が、私の城郭巡りの144城目でした。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 北条氏綱
築城年 文明年間(1469〜1487)
主な城主 後北条氏、笠原氏、武田氏
廃城年 天正18年(1590)
遺構 曲輪、土塁、堀切
再建造物 説明板
住所 静岡県駿東郡清水町下徳倉字和田入他
問い合わせ先 清水町教育委員会社会教育課
問い合わせ先電話番号 055-972-6678