岩手県二戸市にある九戸城です。九戸城は、三方を川の断崖に囲まれた台地に15世紀末頃、南部氏の一族である九戸氏が築城したといわれます。南部氏24代晴政が1582年没すると、有力一族の石川信直と九戸実親の後継者争いが起こり、石川信直を支持する一派が強引に信直を当主とし、豊臣秀吉朱印状により公認。これに不満を持つ九戸氏一派が1591年挙兵し信直派の城を攻撃。もともと領土拡大に貢献した主力の南部氏精鋭部隊であった九戸氏を鎮圧することは信直派には難しく、豊臣秀吉に援軍を要請。この当時、小田原参陣せず取り潰しとなった、奥州の小大名達の大規模な一揆が多発していたため、これらの鎮圧も含め秀吉は大規模な奥州仕置軍を編成。各地の一揆を鎮圧しながら北上、9月初めには蒲生氏郷・浅野長政・井伊直正・南部信直を含め近隣の諸大名の総勢6万が城を包囲。これに対して九戸派5千の兵が籠城。九戸城は西の馬淵川、北の白鳥川、東の猫淵川を天然の外堀とし、本丸、二の丸、三の丸、松の丸、若狭館、外館を擁す東西約700m南北約500mの34万㎡(東京ドーム約7個分)の規模を誇る要塞堅固の城であり、九戸勢は良く防戦し寄せ手に多大の被害を与えます。そこで戦の長期化を嫌った仕置軍の蒲生氏が城兵の助命の和睦を持ち掛け、九戸氏はこれを受け降伏。しかし、助命の約束を違え一族郎党を二の丸に押し込め惨殺したとされます。戦いの後、蒲生氏郷が九戸城を改修後南部信直へ引き渡し、名を福岡城と改め信直が南部氏本城としました。その後、南部氏は1597年から本城を盛岡城とすべく築城を開始。1633年盛岡城が完成したため廃城となっています。
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