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夏の雪だるま

天下統一最後の戦い (2015/09/11 訪問)

岩手県二戸市にある九戸城です。九戸城は、三方を川の断崖に囲まれた台地に15世紀末頃、南部氏の一族である九戸氏が築城したといわれます。南部氏24代晴政が1582年没すると、有力一族の石川信直と九戸実親の後継者争いが起こり、石川信直を支持する一派が強引に信直を当主とし、豊臣秀吉朱印状により公認。これに不満を持つ九戸氏一派が1591年挙兵し信直派の城を攻撃。もともと領土拡大に貢献した主力の南部氏精鋭部隊であった九戸氏を鎮圧することは信直派には難しく、豊臣秀吉に援軍を要請。この当時、小田原参陣せず取り潰しとなった、奥州の小大名達の大規模な一揆が多発していたため、これらの鎮圧も含め秀吉は大規模な奥州仕置軍を編成。各地の一揆を鎮圧しながら北上、9月初めには蒲生氏郷・浅野長政・井伊直正・南部信直を含め近隣の諸大名の総勢6万が城を包囲。これに対して九戸派5千の兵が籠城。九戸城は西の馬淵川、北の白鳥川、東の猫淵川を天然の外堀とし、本丸、二の丸、三の丸、松の丸、若狭館、外館を擁す東西約700m南北約500mの34万㎡(東京ドーム約7個分)の規模を誇る要塞堅固の城であり、九戸勢は良く防戦し寄せ手に多大の被害を与えます。そこで戦の長期化を嫌った仕置軍の蒲生氏が城兵の助命の和睦を持ち掛け、九戸氏はこれを受け降伏。しかし、助命の約束を違え一族郎党を二の丸に押し込め惨殺したとされます。戦いの後、蒲生氏郷が九戸城を改修後南部信直へ引き渡し、名を福岡城と改め信直が南部氏本城としました。その後、南部氏は1597年から本城を盛岡城とすべく築城を開始。1633年盛岡城が完成したため廃城となっています。

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刑部

田畑の中に遺る城址 (2019/01/17 訪問)

普通の田畑の中にあります、良く崩さずに土塁と空堀を後世に伝えて頂きました。・・・感謝!

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カルビン

野球部のランニングコースwww (2014/06/01 訪問)

当時伊勢新九郎が城主だった事等知らずに、そこに見やすいお城がある・・・ってだけで訪問しましたw
今思えばなんて無知だったんでしょう(汗)

観光用の駐車場から溜池の脇を歩いて10分もかからずに登城口に到着。
熊野神社を抜けたところで、正面の山道から威勢の良い声がしてきたと思ったら、いきなり10人くらいの野球部が自分の脇を駆け抜けて行きました(驚)
しかも全員礼儀正しく挨拶しながら(笑)
みんな結構な勢いだったので、返答聞き取ってもらえただろうか・・・ww
そもそも大事な史跡でランニングするってwww

遺構が見やすいシーズンの訪問では無かった為、遺構が雑草で見辛い場所も多かったですが、流石は当時から整備がしっかり整っていて藪の中を歩くような事はありませんでした。

現在お城として残っている遺構を見ると、本当に豊臣の大軍から長期間耐えれた?と疑問に思うくらい規模小さいですが、そこはそこ、山城というより丘城くらいの高さなので登りも苦にならず、気軽に散策できるお城です。


前回訪問してからもう4年半経つので、今なら違った観点から見学出来る気がするのでそろそろ再訪してみたいですね。

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刑部

連郭式 山城 (2019/01/17 訪問)

霞ヶ城の看板を入ると直ぐに駐車場がありますが、そこから道なりに進むと車で中腹まで行けます。かなり時間短縮です! そこからなら往復30分以内で行けます。 連郭式縄張りの山城は三の丸から二の丸・本丸と攻めることが出来て面白いです!

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チェブ

桶狭間の戦い前夜。 (2018/12/29 訪問)

今川 義元公が桶狭間に向かう前に宿泊した「沓掛城」。
桶狭間の戦い後は勲功一番の梁田 政綱の居城になりました。
今は公園になっていて本丸、空掘、土塁ときれいに残っています。
「沓掛城」に行く前に信長軍の砦跡を何ヵ所か巡りました。
信長軍、やる気満々、攻めモードONです!
「沓掛城」に泊まった義元公はどんな気持ちで桶狭間に向かったのでしょうか?

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やまびこ

明石城 (2019/01/14 訪問)

久しぶりに行ってきました。

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刑部

竹やぶに阻まれる (2019/01/17 訪問)

竹やぶの中 登城口を探しましたが見つかりませんでした、行けそうな所はあるが身体が前へ進みません断念しました。

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山口駿河守幻夢斎

小坂城跡

JR常磐線牛久駅から、牛久市のコミュニティバス「かっぱ号」で行くことができます。小坂団地入口、もしくは、小坂城址と言うバス停があります。本数は、一、二時間に一本程度、100円と格安。(3倍以上料金がかかりますが、関東鉄道のバスもあります。)

また、駐車場もあります。

この城跡は、以前はすさまじいヤブだったということですが、現在はきれいに整備されています。いつ来ても、きれいな状態の城跡を堪能することが可能です。

空堀、土塁、土橋、虎口、小規模ながら、見事な遺構がほぼ完全な状態で残されています。主郭が、道路拡張で少し削られています。

案内板も充実しており、とても見学しやすく、茨城県屈指のおススメの城跡です。

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山口駿河守幻夢斎

牛久城跡

たぶん、5回目くらいの訪問。JR常磐線牛久駅から、徒歩35分くらい。駐車場は、徳月院前の観光用の駐車場が使えそうです。

前々回、来たときは草刈り直後だったのか、こんなにきれいになっている牛久城跡は、観たことがないというくらい、きれいな状態だったんですが・・・。

夏場の荒天の影響なのか、倒れ掛かっている木や、倒木がありやや荒れた印象。

それでも、見事絵ある遺構は相変わらず。空堀の深さと、大河ドラマにも登場した、本丸への土橋など、素晴らしいと思います。

ヤブ漕ぎして、擦り傷、泥だらけになりながら探索する城跡が、チバラギには多数あることを思えば、ここはよくぞ整備してくれたって思うべきでしょうか。

近くの東林寺城跡も、こちらはさらにやぶがひどいですが、見ごたえあります。

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柳沢 信鴻

訂正 (1985/06/16 訪問)

先ほどの投稿で「初めての現存12天守探訪」と書きましたが、同年の冬休みに姫路城行ったの忘れちょったです(/≧◇≦\)

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柳沢 信鴻

桜の時期に行きたかった(>_<) (1984/06/16 訪問)

中学三年の修学旅行で行きました!確か6月だったと思いよります。初めて見た現存12天守で、小ぢんまりながら破風が良い風格を出していた記憶があるねゃあ(///ω///)♪ 欲を言えば桜の時期に行きたかった…

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刑部

国府山城 (2018/05/04 訪問)

麓の荒神社から登れます、車は付近に路駐。

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刑部

現存三重櫓 (2018/05/05 訪問)

この日 子供の日でイベント開催してたので人が大変多かった、坤櫓は中に入れたました。

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miko

冬とお城 (2019/01/15 訪問)

子供と行く城めぐり

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刑部

今は民家 (2019/01/17 訪問)

普通の民家の周りに土塁があり その前に空堀の名残りの畑です。私有地の為写真だけ撮らせて貰いました。

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にのまる

金城鉄壁 (2019/01/03 訪問)

新八代からえびの高原線特急「いさぶろう」で球磨川沿いの自然豊かな風景を楽しみながら人吉へ向かいました。
車内で地元の方がダムや温泉、白石駅近くの洞窟など、見どころをたくさん教えてくださいました。川が氾濫した時の写真も見せていただきました。今でも川底の土砂を掻き上げ続けているそうです。ぼーっと眺めているだけでは知り得なかったことばかりでした。
人吉城へは復元多聞櫓のある大手門から入城。櫓台跡の雁木は有事に大勢で一気に駆けあがる仕様です。試してみました。段差がそこそこあり、踏み幅も狭かったとは言え、一気に駆け上がれなかった私は多分士気が足りなかったのだと思います。
多聞櫓の建つ石垣にも上がったりしながらようやくメイン城域へ。
かなりの人数が詰められたであろう広々した三の丸。御殿の礎石の残る二の丸。そして意外と小さな本丸。お城の中心は二の丸で、本丸を広くする必要はなかったようです。二の丸高石垣は惚れ惚れするくらいかっこよかったです。
最後に堀合門の武者返しの石垣、撥出を確認しました。何だかずーっと上を見上げていた気がします。

そうそう、途中で永国寺にも寄りました。西南戦争の際に西郷隆盛が本営を置き、33日間在陣したところです。初代実底和尚が描いたという幽霊の掛け軸があり、「幽霊寺」とも呼ばれています。写真11枚目に載せました(-.-)y-., o O

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くろもり

九鬼水軍の海城 (2019/01/14 訪問)

三ノ丸広場にパンフレットが置いてありました。

本丸広いです。そして鳥羽水族館から見る感覚以上に、本丸が高所に位置しています。同じ海城である大分県の丹生島城(臼杵城)の倍は高さがある感覚でした。本丸からは鳥羽湾や城主・九鬼嘉隆(くきよしたか)公が眠る答志島(とうしじま)が一望でき、水軍大名になったような気分で気持ちよかったです。お城に興味がない方にも本丸からの鳥羽湾の景色はおすすめできます。

個人的には、古城図には見られない三ノ丸広場の段々の変な石垣よりも、旧鳥羽小学校の校門出てすぐの四差路辺りにある古い石垣が印象に残りました。よく見ると石垣の説明があり、カメラのズームを最大にして撮影すると文が読めたので、ここに文を書いておきます。
「鎬隅の石垣 鈍角に石垣が折れ曲がったところは鎬隅(しのぎすみ)と呼ばれ、地形を削って築城する古い時期の特徴とされています」※6枚目の写真の上の石垣です。

城址散策の後は、中之郷のフェリー乗り場から九鬼嘉隆公が眠る答志島へ。中之郷から答志島の和具(わぐ)へは船で35分、540円でした。鳥羽駅近くのフェリー乗り場からも行けます。答志島では帰りのフェリーが1時間後、それを逃すとさらに1時間30分後となるので、足早に九鬼嘉隆公の胴塚と首塚へお参りしました。首塚は少々山に登りますが、島の方が案内をたくさん建ててくれているので、迷うことはないかと思います。自分はフェリー乗り場から胴塚・展望台・首塚を散策して、フェリー乗り場に戻ってきたのが45分後くらいでした。展望台(愛知県の渥美半島は見えます)に行かなくても良いなら、普通に歩いても1時間で十分周れると思います。

首塚から本丸はギリギリ見えませんでした。城山公園辺りまでなら見えます。本丸から首塚のある山は見えません。城山公園から見える答志島の右に突き出た小山が首塚のある山です。

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たかりん

阿波の青石で築かれた石垣が美しい (2019/01/14 訪問)

2019年最初の攻城は景気よく四国、まずは四県唯一未踏の地だった徳島県へ!他の3県は現存天守がある一方で、石高では四国最大の蜂須賀氏25万7千石の本拠だった徳島城ですが大河ドラマにも出てこないし、正直、印象が薄いです。しかし、実際に行くと確かに遺構建造物は皆無ですが、本丸はじめとする城山の城郭部分、本丸御殿が置かれた山麓の居館部分からなるお手本のような、かつ大規模な平山城です。また特徴は石垣、と言っても材質の話ですが「阿波の青石」と呼ばれる緑色片岩で築かれています。確かに青みがかったゴツゴツした感じの石です。城内にある表御殿庭園もこの青石で造られています。また珍しい遺構として、かつて西側を流れていた寺島川(現JR+小川)沿いに長大な折れ曲がり塀が築かれており、その支柱を支えていた「舌石」という遺構が確認できます。遺構建造物がここまで皆無なのはお決まりの戦災かと思いきや、ほとんどが明治初期の解体で唯一現存だった鷲の門が戦災の犠牲とのこと。う~ん。いかんせん石垣遺構だけでは地味であり、博物館の復元模型を見たら鷲の門を通った先の大手口にはかつて門を挟んで両脇に月見櫓、太鼓櫓という櫓があったようです。特に太鼓櫓は、望楼型3重4階と天守のような規模であり、古写真などの資料もあるようなので、この一角だけでも外観復元されれば、と思いますが徳島市さんダメですかね(笑)。

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dougen

2018.12.29登城 (2018/12/29 訪問)

糟塚砦から国道151号に出て、牛久保駅へ。牛久保駅付近の踏切のところに牛久保城址があります。
付近は道幅も狭く、それなりに交通量もあるため、駅の近くの保育園が年末年始でお休みだったので、保育園の駐車場に駐車して登城しました。
平城の宿命から市街化により遺構は消滅していますが、解説板と石碑が設置されています。

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じゅんじん

多門櫓発祥の城 (2006/04/09 訪問)

若草中学校です。松永久秀のお城

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