本丸跡の北側一帯は、『家中屋敷』といわれる郭の跡です。
その一角に、清水宗治公の胴塚があります。
しかしどうみても私有地というか民家の庭先なので遠慮気味にお邪魔して、手を合わせてきました。
舟上で切腹を終えて城内へ戻った首の無い宗治公の遺体。それを見て城内の一同は嗚咽を隠せなかったそうです。そしてすぐに手厚く葬られたのですが、その際に介錯人を務めた国府市佑は自らの首を掻き切り、墓穴に落ち込んで殉死したそうです。…壮絶。
三の丸跡の駐車場に戻って…と、その前に見逃せないのは『清水宗治公自刃の地』。その名も高松山妙玄寺の境内にあります。
家臣城兵とその家族の命と引き換えに切腹に臨んだ宗治公。その前に秀吉からは酒肴と切腹の為の舟が用意され、謡曲『誓願寺』を舞った後に辞世を詠み切腹したその姿勢は秀吉をして「武士の鏡なり」と感嘆させ、後の世の切腹の作法の手本となったとか。
ちなみに、城の守護神は妙玄寺に祀られたあと、後に最上稲荷妙教寺の妙見堂に祀られているそうです。
そしてその自刃の地すぐ南に『ごうやぶ』と呼ばれる一角があります。
ここは家臣二名が「我らもお供仕る」と宗治公の後を追って差し違えた場所といいます。ここでも壮絶なエピソードが…。
そして最上稲荷の大鳥居方面にマイカーを走らせ、いよいよ蛙ヶ鼻の築堤跡へ。
築堤の規模などについては諸説あるようですが、僅か12日間で高さ約6mの堤防を築き上げ、足守川をせき止めて高松城を見る見るうちに孤立化させたのですね。
堤防は現在ごく一部が残るだけですが、発掘調査によると、土俵を積んで木杭で固定工法であったことが判明しております。土俵だと版築とか土を直接積み上げるとかよりはるかに早く高く積めます。尚且つ、現代の土嚢と同じくしっかり隙間なく積めてさえいれば決壊しにくい。よく考えられてますね。
秀吉といえば水攻めは代名詞みたいに語られていますが、実は水攻めの成功例は世界的に見てもあまり無いようで、高松城の水攻めはその数少ない成功例だそうです。今度ちゃんと調べてみようかな。
まさに物量面や資金面のみならず、人員やその士気が高かったことも、全てがかみ合って上手くいったからこその勝利と言えるでしょう。
この他にも高松城攻略関連の遺跡は数多くあるようですが、今回はここまで。
他に目的地があったので、今回行けなかった最上稲荷とともに、また次の機会に。
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