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夏の雪だるま

雲海に浮かぶ城 (2016/09/22 訪問)

岐阜県郡上市の郡上八幡城です。岐阜市から長良川を北上、飛騨山中へ入り長良川が吉田川と分かれる地の八幡山に、戦国時代の1559年遠藤盛数が山頂に砦を築いたのがはじまりとされます。ちなみに盛数は山内一豊の妻千代の父とされ、城址には山内夫妻の像が建っています。1567年遠藤氏は美濃に侵攻した織田信長に従い領地を安堵され、城と城下町を整備します。1588年美濃国加茂郡へ移封となり、替わって稲葉貞通が城主となり城の大改修を行い近世城郭に整備しています。1600年関ヶ原の戦いで稲葉氏は当初西軍に加担、東軍に参加した遠藤氏は八幡城を娘婿の飛騨国金森氏とともに攻撃。城を守っていた貞通の末子通孝と激戦となります。その頃、稲葉貞通は東軍福島正則から誘いを受け東軍に転向。城が攻撃されているとの急を聞き、自城へ戻り遠藤軍と和議を締結。関ヶ原の戦い後、稲葉氏は豊後臼杵へ5万石で移され、遠藤氏が郡上八幡城復帰を徳川家康より許されますが、1692年遠藤氏は家督騒動の中で当主となった7才常久が家臣に毒殺され跡継ぎが絶え改易となり井上氏が4万石で入封、その後1698年金森氏が城主となりますが1751年失政のため農民一揆が起こり改易。同年青山氏が4万8千石で城主と成り、それまでの山頂の本丸を桜の丸・松の丸に、中腹の二の丸を本丸に改め明治維新を迎えています。城は標高354mの八幡山の南北に延びた稜線上に天守閣・桜の丸・松の丸、中腹に本丸、二の丸が、山麓に居館が配されています。明治維新により石垣だけを残し取り壊されましたが、昭和8年模擬天守が木造で建てられ城山公園として整備、中腹の本丸跡には山内一豊と妻の像が置かれ、天守閣展示写真にあるように雲海に浮かぶ天空の城としてもPRしているようです。

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夏の雪だるま

清州会議の城 (2016/09/20 訪問)

愛知県清須市の清洲城です。15世紀初め斯波氏が築き、1476年尾張守護所が戦乱で焼失したことから清州城が守護所となったことから、尾張国の中心地とさて栄えたとされます。その後、尾張下四郡を支配する守護代織田氏の本城となり、1555年守護代織田信友の時、織田信長が守護代織田氏を撃ち、清洲城は織田信長の居城となっています。1563年美濃攻略のため小牧山城に信長は移り、清洲城は城代が置かれ、本能寺の変で信長が亡くなると、1582年跡継ぎをめぐる清洲会議がこの城で開かれています。その後、信長次男の信雄が城主となり、大天守などが造営され城下町も取り込んだ東西1.6km南北2.8kmの規模に改修したとされます。豊臣秀吉の小田原北条攻め後、織田信雄は秀吉の命による国替えに従わなかったため改易、豊臣秀次の所領となった後、1595年には福島正則が城主となっています。1600年関ヶ原の戦いの功績により福島氏は安芸へ転封となり、徳川家康四男松平忠吉が城主となりますが病死したため、1607年家康九男義直が城主となり、尾張藩初代藩主となっています。1609年家康の名古屋城普請の命により「清州越し」と呼ばれた清洲城から名古屋城へ城下町毎移転され、清洲城は廃城となっています。現在城は、新幹線や鉄道により分断、市街化により遺稿はほとんど残っていませんが、模擬天守が城跡に隣接する文化広場に建てられ、線路に分断された城跡の南側の清洲公園に信長像が、北側の清洲古城跡公園に清洲城址碑があります。早朝に訪れたため天守は時間外で入れませんでした。

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夏の雪だるま

道三の城 (2016/09/20 訪問)

岐阜県岐阜市の岐阜城です。十三世紀の初め鎌倉幕府の政所令二階堂氏が砦を築いたのが始まりとされます。子孫は稲葉氏と改め砦も稲葉山城と呼ばれますが、その後廃城となっています。戦国時代15世紀中頃守護代斎藤氏が稲葉氏の砦遺構を利用し、城を築き居城とし城下町も建設。1525年美濃の内乱で、守護土岐氏・守護代斎藤氏の実権は長井新左エ門尉(道三の父)が握り長井氏が城主となっています。最近発見された文献から道三の国盗り物語は、前半が新左エ門尉、後半が道三との見解もでています。その後、道三が城主となり城を要塞化、西麓に居館を建て、市場を設けて城下町を発展させています。1554年道三は隠居し家督を義龍に譲り、やがて父子の対立から1556年道三は長良川河畔の戦いで討死。しかし、義龍は道三の死後6年で病死、後を幼い竜興が継ぎ斎藤氏は弱体化、1564年家臣の竹中半兵衛が城を一時占拠する事件も起こっています。1567年稲葉山城は織田信長により攻略され、以後、信長の居城となり岐阜城と名付けてます。1575年城主を嫡男信忠に譲り自身は安土城へ移り、本能寺の変後、城主は三男信孝、池田輝政、豊臣秀勝と替わり、織田信長の孫秀信が城主の時、関ヶ原の戦いで西軍に味方したため東軍に攻められ降伏開城、廃城となっています。城は長良川に面した標高336mの金華山山頂に築かれ山全体に郭が配され、麓にも天主と呼ばれる御殿があったとされます。しかし、山頂部の井戸は雨水をためるもので、大兵力による長期籠城には向かない城のようです。現在は岐阜公園となっており御殿跡隣からロープウェイで一の門付近まで乗車し、山頂天守閣まで徒歩7分程です。

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スミヤキ

鉄製の城門・釣り橋の架かる城 (2019/01/03 訪問)

 タイトルにあるのは、ドン・ロドリゴの「日本見聞録」にある 1609年9月頃の大多喜城の姿です。彼らを歓待した当時の城主は、本多忠朝さんでした。
 1590年、家康さんの江戸入府時に安房里見家の抑えとして10万石で本多忠勝さんが上総小田喜に入ります。正月時代劇ではありませんが「忠勝も大多喜を建てる」のです! 天然の地形を生かした要害堅固な城郭、金銀で装飾された美しい木造御殿、屈強な家臣団の様子も含め、この見聞録に書かれています。
 今日の再建されたお城も素敵ですが、忠勝さんが精魂込めて縄張りした慶長期の城も見たかったですね!
 
 また、齊藤弥四郎氏の「御禁止川の鯉(おとめがわのこい)」の話も末永く、この地に伝承されるといいですね。(殿様のモデルが誰なのか気になります)
 生きたまま将軍家にむらさき鯉(今でいうブランド鯉)が献上されていた事にも驚かせられました。

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じんじゃー

木曽氏初期の詰城 (2019/01/12 訪問)

城跡東側にある大カーブから、城域にある鉄塔の保安道がとりつけられているのでそこからアクセスできる。
一つ目の鉄塔から細長い削平地が続き、二つ目の鉄塔の手前から切通し状の通路になっている。この辺りは大きな石が転がっているので門等があったのかもしれない。鉄塔のある郭から主郭へは二重の堀切・土塁と土橋で区切られているが堀もあまり深くなく堅固さは感じない。主郭から西側に細長い削平地と段郭がつづき、物見のような郭で城域は終わっている。
全体的に古風な山城で堀や城塁の高さもあまりないのでそれほど重要視はされていなかったのかもしれない。

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todo94

豪雨の爪痕 (2019/01/13 訪問)

昨年7月にスタンプだけは捺してあったので、今回は水門に直行しました。無事、水門を拝むことができましたが、史跡碑は倒れ、説明板はひしゃげ、石橋にも破壊の跡が見られました。登山道はまだ、通行不可と云うことです。

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山口駿河守幻夢斎

堅田城跡

北陸の天気は、変わりやすく、晴れる日が少ない金沢。

この日も、午前中の土砂降りが嘘のように、晴れた夕方、日の長い夏場ということもあり、チャレンジしちゃいました。

夏場ということもあり、草が伸び切っており、なかなかハード。自分の肩幅くらいしかない道なき道を進みつつ、一通り、観て回ったと思います。

散策中は、必死だったが、あとからじわじわと、遺構のすばらしさが実感される城跡です。

願わくば、もう少し整備していただけると、せっかくの畝状竪堀が伐採した樹木で埋もれています。

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山口駿河守幻夢斎

東林寺城跡

JR牛久駅から牛久沼ほとりにある東林寺を目指し、徒歩50分くらいでしょうか。駐車場は確認しておりません。

お寺の墓地背後の広大な畑の先に、空堀、土塁が残されています。しかし、空堀は劇ヤブです。

土塁に沿って散策すると、深い空堀や、浅くなってますが、横堀なども確認できます。

迫力ある遺構が残っていますが、とにかくやぶがひどい。お寺のお坊さんと話しましたが、たまに市の職員の方が見に来るそうですが、整備は難しいようです。

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くろもり

三日月の丸くなるまで (2013/11/10 訪問)

岩手県の盛岡城を築城した南部氏が、盛岡城に移る前に本拠としていた城です。比高約90mの小高い山城ですが、鍛冶屋御門跡に古い崩れかかった石垣が残っており、天守を模した三戸城温故館からの景色は、往時の南部騎馬軍団が野を翔ける様を連想させてくれました。

城址にある三戸城のイラスト地図は、「三戸御古城之図」と、新渡戸稲造氏の父である盛岡藩士・新渡戸十次郎氏らが作成した「三戸郡三戸御古城御縄張測量の図」を元に作成されているそうです。※8枚目の写真

城と三戸駅との間にある法泉寺に三戸城の搦手門、龍川寺に三戸城の伝・表門(どこの門かは不明とのこと)が移築されています。※9,10枚目の写真

南部氏の隆盛を称える「三日月の丸くなるまで南部領」という言葉、子供の頃は「三日月が満月になるから領土が3倍か4倍くらいに増えたんだ!」なんて思っていましたが、三日月が満月に変わる「時間(約12日)」と「距離(南部領内)」を掛け合わせて、南部領内は移動に約12日かかるほどの広さと謳っていると知った時に、とても感動した記憶があります。誰が思いついたのか知りませんが、そのセンスしびれます・・・

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井伊谷の祐

座間城址へ行きました (2019/01/17 訪問)

本当に何の痕跡もありません。ただ、白井織部様のちっちゃな石碑だけ。裏のお寺さんは白井氏の持仏堂が元になっているようですので、このお寺を含めこの辺りにお城があったのでしょうね。

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朝田 辰兵衛

ここで景虎が没していなければ… (2018/04/07 訪問)

北条からの養子というだけあって,小田原征伐のシナリオが変わっていたことでしょう。登城に関しては,斐太歴史の里総合案内所から,東登城道を徒歩約20分で本丸跡。上信越自動車道の4車線化工事が完了するまでは,北登城道は通行止め。他に南登城道があります。
ランチのおすすめは,R292沿いにある“とん汁のたちばな”。とん汁ラーメンにしようか迷いましたが,とん汁定食(大盛)で。全国を食べ歩いている方は,ここのご飯のおいしさに気づくでしょう。

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こるまろ

金山要害山城 (2017/03/30 訪問)

ブログ:https://minkara.carview.co.jp/userid/1532104/blog/39537892/

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こるまろ

玉造要害山城 (2015/10/28 訪問)

玉造温泉にある玉作湯神社の隣にあります。
ブログ:https://minkara.carview.co.jp/userid/1532104/blog/36749207/

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たかりん

徳島県最大規模の山城 (2019/01/14 訪問)

続100名城は、名前くらいは知っている、あるいは名前自体初耳のお城も数多くあり、先入観がないフラットな状態で臨めるのが楽しいです。この一宮城も阿波九城の一つで名前くらいは…というレベルの知識でした。標高は本丸部分が約144mで、麓からの比高は約120m、秀吉の四国平定により阿波を与えられた蜂須賀家政が、徳島に築城する前、最初はここに入り本拠にしたそうで、その際に石垣造りなどの改修をしたそうです。朝イチで向かいましたが登城口至近の一宮神社の駐車場(と思わしき狭小な空き地)には先客1台あり、後続車に変な停め方をされて身動きできなくなるのも嫌なので(実際他でありました、怒!)ちょっと離れますが、安全策で併せて参拝予定の大日寺駐車場にお世話になりました。おかげで10分ほどロスしましたが、登城口から少し上るとすぐに石段道になります。道はよく整備されており途中いくつか平坦地もありますが、基本 本丸到達までは延々と石段が続くので、それなりの心構えで臨んでください。倉庫跡や明神丸、才蔵丸といった曲輪跡を見たため、約30分くらいでメインの本丸に到着です。徳島城同様、「阿波の青石」を用いた野面積みの巨大な石垣遺構が残っていました。城跡の維持管理は一宮城跡保勝会という団体の皆さんのおかげだそうで、感謝です!

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にのまる

未来の森ミュージアムは3月末まで休館。 (2019/01/03 訪問)

一国二城を許されていた肥後の麦島城が地震で倒壊後、少し北に再建された八代城。内堀に囲まれた本丸はカドケシみたいな形です。各隅部にある櫓台跡に登ってみました。全部同じような感じでした(^_^;)
小天守と大天守跡も行ってみましたが、月見櫓跡から続く石垣の上の道は狭くてヤバかったです。強風の時はやめといた方がいいです。歩きスマホも危険です。水堀が待ち構えています。が、たどり着いた先の小天守と大天守跡の石垣、素敵でした!凝ってます。ここの四角い空間の真ん中に天守がすっぽりはまっていた?いろんな角度から眺めたかったけれどコーナーにまわるのはやっぱりちょっと怖かったです。大天守が再建されなかった諸事情のひとつに、「怖かったから。」というのがあるのではないかと推測します。

博物館でいただいたパンフレットを今頃になって見ていたら、熊本地震で被災した廊下橋門石垣隅角部の修復が昨年夏に終了したとありました。手当たり次第撮った写真の中にあるかもしれないと思って確認してみたらありました。10枚目の写真です。「白いから石灰岩?」と思って撮った写真でした。とりあえずパシャパシャ撮っておくといいこともある、と思いました。

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こるまろ

尼子十旗 高瀬城 (2019/01/14 訪問)

ブログ:https://minkara.carview.co.jp/userid/1532104/blog/42421991/

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じゅんじん

(2008/05/05 訪問)

図書館裏にあります

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じゅんじん

石垣に松 (2009/02/28 訪問)

ここの石垣は素晴らしかった。萌え萌えです。

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じゅんじん

IC近く (2009/07/16 訪問)

浄願寺前に立派な城址碑があります。

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カルビン

この年の初被弾は山上城でした(時期早くない?) (2014/05/28 訪問)

以前群馬県前橋駅から中央前橋駅に移動し、上毛鉄道上毛線沿いのお城を攻略しに行った際、膳城の後に訪問したのが山上城。
漫画「花の慶次」で関ヶ原合戦前に上杉家に加わった浪人衆の中にいた山上道及が城主だった場所です。
・・・あの人が城主?イメージ浮かばないわ~ww

城域は城址公園になっており、奥の主郭と思われる場所には朽ちる寸前の錆びついた遊具が・・・なんか哀愁漂ってましたorz

遺構の派手さ・大きさは先に見た膳城には及ばないものの、形の良い土塁や堀、虎口等が見られました。

南側にある芝生の場所は木々が無く明るいイメージなのですが、遺構の残る北側は木々が生い茂っている為、暗いイメージがしました。。。陰と陽が備わったお城ですな(汗)


どうしても遺構を見るには日影メインになっていた訳ですが、この時期にして早くも蚊に刺されまして・・・
この年初被弾となりましたorz

ちなみに膳駅から徒歩15分くらいで到着出来ます。

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