<オススメ>★☆☆☆☆
有吉城跡は、標高30m前後の台地上に立地する。古墳時代の集落と墓域が発掘調査により発見された。古墳は5基で、すべて円墳である。規模が20m超のもの1基、20mに近いもの2基がある。後北条氏が川越城主・北条綱成に有吉城を築かせたとされるが、確実な中世遺構は検出されていない。
<アクセス>
京成千原線 学園前駅 徒歩約15分
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2019/05/19 19:11
「有吉城」 (2009/05/18 訪問)
<オススメ>★☆☆☆☆
有吉城跡は、標高30m前後の台地上に立地する。古墳時代の集落と墓域が発掘調査により発見された。古墳は5基で、すべて円墳である。規模が20m超のもの1基、20mに近いもの2基がある。後北条氏が川越城主・北条綱成に有吉城を築かせたとされるが、確実な中世遺構は検出されていない。
<アクセス>
京成千原線 学園前駅 徒歩約15分
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2019/05/19 19:02
「千葉氏の支城 小栗原城」 (2019/05/18 訪問)
<オススメ>★☆☆☆☆
鎌倉時代には、下総守護の千葉氏の支配下となり、栗原氏が入城。舌状台地先端部にある城で、稲荷神社の付近が主郭とされる。小田原征伐後に、廃城となったとされる。現在、遺構は消滅している。
<アクセス>
JR下総中山駅 徒歩15分
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2019/05/19 18:47
「有馬家5代60年の陣屋 五井陣屋」 (2019/05/18 訪問)
<オススメ>★☆☆☆☆
江戸時代後期、伊勢西条藩主の有馬家が藩庁を五井に移したため陣屋が置かれた。5代約60年間存続した。第5代藩主有馬氏郁の時代に、下野吹上藩に転封となったため、五井藩は廃藩になったとされる。 JR内房線・小湊鉄道線 五井駅が建てられ、遺構は消滅している。
<アクセス>
JR・小湊鉄道 五井駅 徒歩5分
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2019/05/19 18:44
復興中 (2019/05/07 訪問)
大好きな熊本城❗️
前回は悲しすぎたが、復興が進み😁✨✨
次回が楽しみ~
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2019/05/19 18:32
2019/05/19 17:57
上州真田三名城ウォーキングに参加しました (2019/05/18 訪問)
真田丸で人気になった名胡桃城。続日本100名城になって、一層人気が出たようです。
天守はなく兵士たちの詰所のような建物だったそうですが、50メートルはあると言う深い沢に挟まれた天然の要害、段丘の台地の端をうまく使った構造が、ここに立ってみるとよくわかります。ささ郭からは眼下に利根川、右には沼田城、正面には長年の宿敵であった北条側の明徳寺城が見えたそう。小田原攻めのきっかけとなった名胡桃城にいた武将や兵士たちがどんな思いでここから明徳寺城を見ていたのか…歴史に想いを馳せるとワクワクしてきました。
地元のかたがあちこちのポイントにいて、名胡桃城の歴史や構造などを詳しく説明してくださったおかげで、更に理解が深まり充実した幸せな時間でした。堀切は草刈りがしてくださってあり迫力満点。復元した箇所には説明分と図、発掘写真など丁寧な説明があり、とてもわかりやすかったです。駐車場(城跡の一部)案内所もありトイレ、休憩できる椅子、説明のテレビも流れています。大正時代から地元の方々が保存会を作って守ってきたという名胡桃城跡。地元の方の名胡桃城への愛を感じました〜!
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2019/05/19 15:40
渡辺水庵覚書 (2015/02/28 訪問)
山中城は小田原征伐で落城しますが、豊臣方の中村一氏の家臣・渡辺勘兵衛が自身の攻城の体験を「渡辺水庵覚書」に書き残しており、「渡辺水庵覚書」を読みながら城を歩くと、往時の城攻めの疑似体験ができる貴重な城跡です。
例えば以下の記述等。
「三ノ丸と二ノ丸の間に。水堀相見へ。堀の上に十間餘りの欄干橋有之候。それを渡候時は。敵と入ましりて押込候故。」
→三ノ丸と二ノ丸の間に水堀があり、堀に20m程?の欄干橋が架かっており、敵と入り交じり押込みながら渡った。
※三ノ丸と二ノ丸の間に残る田尻の池・箱井戸跡に橋を架けると20mくらいになりそうなので、その辺りでの攻防だったのかもしれません。
「味方。其段の四方から。とつと押上り。其段せはく候へは。敵味方上が上へかさなり。北と西の角堀へ過半なたれ。やくらの段も落居の事に候。」
→味方が曲輪の四方からどっと押し上り、曲輪は狭かったので、敵味方が上に上にと重なり、北と西の角の堀へ多くの兵が転落し、櫓の曲輪(本丸?)も陥落した。
なんとなくの私の訳文なので間違いもあるかもしれませんが・・・間違ってたらすいません。
渡辺勘兵衛を主人公にした、池波正太郎先生の『戦国幻想曲』という小説で山中城の戦いがかなり詳しく描かれているので、気になる方はそちらを読んでみてください。同じく勘兵衛を主人公にした、司馬遼太郎先生の短編『侍大将の胸毛』でも山中城の戦いは出てきますが、こちらは2ページ程しか描かれていません。
三ノ丸跡にある宗閑寺(そうかんじ)に山中城の攻城戦で戦死した山中城主・松田康長、副将・間宮康俊、上野国箕輪城主・多米長定、豊臣方の美濃国大垣城主・一柳直末の墓があるので、後北条方と豊臣方両方の戦没者のお参りも可能です。
また、山中城は東海道の関所を取り込んでおり、東海道の箱根旧街道の復元した石畳の道もあるので、街道好きな方は箱根旧街道の石畳の道を散策するのもよいかもしれません。駐車場のある「山中城跡案内所・売店」の裏の道が箱根旧街道になります。
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2019/05/19 14:48
2019/05/19 12:03
2019/05/19 11:49
久保田城 (2019/05/01 訪問)
平成最後の日に佐竹資料館でスタンプ押印。
令和最初の日に御隅櫓に登りました。
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2019/05/19 09:18
なんでここに亀山城が? (2019/05/18 訪問)
古宮城に向かう途中、道の駅をスルーした後に巨大看板を発見したので戻って登城しました
奥平氏の居城ということで整備が行き届いていて道の駅も近くにあって地元的には古宮城よりこっちが話題になって欲しいのでは?と勘繰りたくなるほど良い所でした。奥平氏の四男は作手藩主としてこの城を中心に領したあと伊勢亀山城に転封になったとのことで奥平氏への勝手な親近感が大幅アップしました
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2019/05/19 09:06
武田氏三河攻略の足掛かり (2019/05/18 訪問)
続100名城スタンプラリー24か所目で訪れました
不死身の鬼美濃と恐れられた馬場信春が築城したと伝わる甲州流の築城術が色濃く残る城です
個人的に衝撃を受けたのはわずか1.3Kmの距離に奥平氏が当時居城としていたであろう作手亀山城があったことです。
しかも古宮城は田んぼの真ん中にある独立した山(あまり高くないので丘)に築城されていてどうやって敵地のど真ん中にこんな大規模な城を建てたのかちょっと当時の築城の状況が想像できませんでした。前線に携わった人々の心持ちを考えると同情と尊敬の念を禁じ得ません
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2019/05/19 08:55
不来方のお城 (2019/04/28 訪問)
桜がきれいでした。ちょっぴり寒かったです。
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2019/05/19 08:51
2019/05/19 08:44
根城 (2019/04/28 訪問)
根城さくらまつり開催中で八戸市博物館と本丸が無料でした。枝垂桜がきれいでした。
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2019/05/19 08:00
2019/05/19 01:04
地元民として…prat2 (2019/05/14 訪問)
直近の登城は2019/05/14
先に記載した大田原城同様、まず桜の時期は避けることを勧めます。
後1つ、気を付けなければならないのが、これからの季節。
本丸をはじめ、至る所に紫陽花が植えられていて、その年の天候等によりますけれど、6月中旬〜7中旬は来客が増えます。
尚、毎年紫陽花祭りを開催していて、今年は6/15〜7/7との事なので、この時期は避けた方が無難でしょう。
それでは前回同様、写真連動での案内を(10枚制限、何とかして欲しい)。
今回の各名称は、「近世栃木の城と陣屋(杉浦昭博、随想舎)」の、旧版、並びに改訂増補版を参考にしています。
①会所跡
三ノ丸、九鶴門の脇に有ります。
現在はトイレ併設の駐車場。
トイレ裏手にも土塁の遺構が有ります。
②藩校、作新館跡周辺
画面左手の方角に黒門と呼ばれる門があったとの事。
③浄法寺邸
建物は創建時とは違います。
松尾芭蕉が黒羽滞在時、世話になった家。
黒羽で二週間滞在って…。
④藩校、作新館跡
現在は御覧の通り畑となっています。
⑤本丸空堀
西から撮影、左手が本丸になります。
中央の橋は公園整備に伴い増設された物。
⑥本丸土塁
南西方向から撮影。
⑤から視点をずらした形になります。
黒羽城鳥瞰図をみると、この土塁上に二階櫓らしき建物が確認出来ます。
尚、残念ながら…2011/03/11の地震に因り、著しく崩落、損壊しましたけれど、現況まで復旧となりました。
⑦二の丸(北城)
森林組合の建物だった施設が廃墟化しています。
写真左手が本丸で、本丸と二の丸を隔てる土塁も残っています。
右手は黒羽体育館なのですが…これは二の丸の土塁を削り、三ノ丸に跨がる形での建設だった模様。
⑧中門(桝形虎口)
会所跡から、道路を挟んだ階段を登り、右手に曲がった後、道なりに進んで橋を渡った先に有ります。
黒羽城鳥瞰図には、画面左手の土塁上に、櫓らしき建物が確認出来ます(場所ついては、もしかすると本丸土塁南東端の可能性も)。
⑨北坂門周辺
画面左手に石上台(上城)跡、更に奥に進むと八幡館跡、鎮国社へと続きます。
今は整備が進み、また、個人所有地等もある為、石上台周辺に立入る時は十分注意して下さい。
⑩大雄寺(だいおうじ)
黒羽城の大規模改修を最初に行った、大関高増の建立した寺院で、江戸時代を通じて黒羽藩主だった、大関家の菩提寺でも有ります。
本堂等が茅葺き屋根となっていて、国の重文指定を受けています。
二の丸の南側に位置する三の丸に在って、南へ舌状に広がる平坦地と、道路を挟んだ東側にある、大手口を見据える様な位置取りになります。
尚、事前予約すれば、建屋内の見学や、体験修行なんかも出来る様です。
と、まあ、こんなところでしょうか…かなり大雑把ですけれど、登城の際の参考になれば幸いです。
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2019/05/18 22:35
2019/05/18 21:48
2019/05/18 21:27
未完成の悲運の城 (2019/04/05 訪問)
天正9年(1581年)暮れに武田勝頼は、躑躅ヶ崎館から新府城に本拠を移します。
新府城は甲府盆地の西部に位置した、八ヶ岳の山体崩壊に伴う岩屑流が釜無川と塩川の侵食により形成された七里岩台地上の小山に築かれた連郭式平山城です。
約70mの高さの急崖を城壁に、東西を南流する両河川を天然堀とした要害堅固の地です。釜無川の対岸には、甲斐武田氏初代信義公が眠る願成寺や館跡がある、所縁の地であり、この地が選定されたのも偶然ではないと思います。
武田氏の守護館を踏襲して造営された新城も、織田・徳川軍の侵攻を受け、わずか2ヶ月余りで自落の運命を辿ることになります。新府城退去後、数日で勝頼主従は自決することに。
近年の調査により、城の大手口には門が無かった事が判明したようで、城門が無い状態では籠城の選択がある訳もなく、立ち退くことも致し方ないと思います。
何故、勝頼さんは未完成な新府城への転居を急いだのでしょうね? そんな事を思いながら、悲劇の歴史となった城跡を歩きました。駐車場から、搦手口にまわり、二の曲輪、本丸を目指すと様々な遺構を見つつ、登城を楽しむことが出来ます。甲斐守護名門武田家に相応しい大規模で見所の多い、素敵なお城です。周囲の山々の景観も素晴らしく、きっと満足すると思います!
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