岐阜県郡上市の郡上八幡城です。岐阜市から長良川を北上、飛騨山中へ入り長良川が吉田川と分かれる地の八幡山に、戦国時代の1559年遠藤盛数が山頂に砦を築いたのがはじまりとされます。ちなみに盛数は山内一豊の妻千代の父とされ、城址には山内夫妻の像が建っています。1567年遠藤氏は美濃に侵攻した織田信長に従い領地を安堵され、城と城下町を整備します。1588年美濃国加茂郡へ移封となり、替わって稲葉貞通が城主となり城の大改修を行い近世城郭に整備しています。1600年関ヶ原の戦いで稲葉氏は当初西軍に加担、東軍に参加した遠藤氏は八幡城を娘婿の飛騨国金森氏とともに攻撃。城を守っていた貞通の末子通孝と激戦となります。その頃、稲葉貞通は東軍福島正則から誘いを受け東軍に転向。城が攻撃されているとの急を聞き、自城へ戻り遠藤軍と和議を締結。関ヶ原の戦い後、稲葉氏は豊後臼杵へ5万石で移され、遠藤氏が郡上八幡城復帰を徳川家康より許されますが、1692年遠藤氏は家督騒動の中で当主となった7才常久が家臣に毒殺され跡継ぎが絶え改易となり井上氏が4万石で入封、その後1698年金森氏が城主となりますが1751年失政のため農民一揆が起こり改易。同年青山氏が4万8千石で城主と成り、それまでの山頂の本丸を桜の丸・松の丸に、中腹の二の丸を本丸に改め明治維新を迎えています。城は標高354mの八幡山の南北に延びた稜線上に天守閣・桜の丸・松の丸、中腹に本丸、二の丸が、山麓に居館が配されています。明治維新により石垣だけを残し取り壊されましたが、昭和8年模擬天守が木造で建てられ城山公園として整備、中腹の本丸跡には山内一豊と妻の像が置かれ、天守閣展示写真にあるように雲海に浮かぶ天空の城としてもPRしているようです。
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