高瀬城(尼子十旗⑥ 6城目)から車で15分くらいで、ゴミステーション付近空スペース(35.381263、132.915187)に着き路駐しました。
そこから徒歩5分くらいで、南宍道駅の登山道付近(35.379901、132.917917)に着きました。
築城年代は定かではないようですが、宍道氏によって築かれたと云われています。
宍道氏は出雲国守護京極高氏(佐々木道誉)の孫秀益が、宍道を領して宍道八郎と名乗った応仁年間(1467年~1469年)から、天正年間(1573年~1592年)までの約130年間の間、この地方で勢力を誇った宍道氏の本拠地です。
宍道氏は尼子氏の重臣でしたが、1540年(天文9年)尼子晴久が毛利元就の安芸国吉田郡山城攻めに参陣するも、大内氏の援軍によって尼子氏は敗走、その後大内義隆が出雲国富田城の尼子晴久を攻めると、他の多くの国人同様に大内氏へ寝返りました。
しかし、大内氏が尼子氏を攻めあぐねると多くの国人が尼子氏方へと寝返り大内方は敗走、この時宍道氏は大内氏とともに山口へと落ち延びます。
その後、大内義隆が陶晴賢によって討たれると、陶晴賢を倒した毛利元就に属して1562年(永禄五年)に雲芸攻防戦(1562~1566)の先陣をきって出雲国へ復帰し、旧領を回復しました。
しかし、関ヶ原合戦によって毛利氏が防長二ヶ国に減封となるとそれに従って防長へと移りました。
城は金山要害山の西の峰を主郭として築かれています。
山麓には城主・宍道氏が常住したと伝える御居出成(おいでなり)があり、他にも二ノ成、茶臼成、出張成、天狗成、長成など、48の成(なり)が要害山にあるといわれています。
48の成(成(なり)一般的に丸(まる)と同等の意)とは多数の曲輪で構成された山城です。
今回は時間の都合で、北側の成には行っていません。
詰成と二の成の間に大堀切があり、北側には桝形の虎口が残っています。
詰成(山頂)からは宍道湖が見えました。
また、詰成(山頂)の眼下には支城といわれる宍道要害山、佐々布要害山方向が見通せます。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=玉造要害山城に向かいました。
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