本百名城と中世五大山城の一つ滋賀県長浜市の小谷城です。城は江北を治めた京極氏の家臣であった浅井氏が京極氏の内紛に乗じ自立1524年築城したとされます。城は、北国街道・中山道の交通の要衝にあり、標高395mの頂に山王丸、それから続く尾根部に小丸、京極丸、中ノ丸、本丸、大広間、桜馬場、赤尾屋敷、御馬屋、御茶屋、番所、金吾丸、出丸が配され、麓の清水谷には家臣屋敷と城下町が配されています。1570年織田信長の朝倉攻めに対して、浅井長政は織田との同盟を破棄、織田軍を朝倉軍と挟撃敗走させています。これにより同年、浅井・朝倉と織田・徳川の姉川の戦いが勃発、朝倉軍の敗走により、浅井・朝倉軍は敗れ、織田軍の小谷城攻めが始まります。1573年援軍として来ていた朝倉軍の砦を織田軍が強襲、朝倉軍が撤退を始めると猛追し、朝倉軍は壊滅的となり居城の一乗谷城も陥落し滅亡します。越前を制圧した織田軍は小谷城を3万の大軍で包囲。しかし、5000の兵が守る堅城の小谷城は攻撃に耐えます。そこで木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が兵3000で、本丸の長政と小丸の父久秀の分断を図るため中間にある兵600が守る京極丸を夜襲により占領。引き続き久秀の小丸が陥落させられ、本丸の長政は落城を覚悟。信長の妹お市の方と娘達を信長に引き渡し後、自害落城しています。城は、城攻めに功のあった木下藤吉郎に与えられるも、藤吉郎は山城で不便な小谷城を廃して長浜城を築いています。当日は、中腹の出丸下の駐車場から小谷城攻めで藤吉郎が陥落させた京極丸まで登城。京極丸から上の山王丸にある一番大きな石垣は見逃してしまいました。向い側の峰にある大嶽城・福寿丸・山崎丸は援軍の朝倉氏の陣地跡で、地元の方の話では熊の巣があるとのことで、そちらを訪れる方はご注意ください。
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