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夏の雪だるま

浅井氏の居城 (2016/09/22 訪問)

本百名城と中世五大山城の一つ滋賀県長浜市の小谷城です。城は江北を治めた京極氏の家臣であった浅井氏が京極氏の内紛に乗じ自立1524年築城したとされます。城は、北国街道・中山道の交通の要衝にあり、標高395mの頂に山王丸、それから続く尾根部に小丸、京極丸、中ノ丸、本丸、大広間、桜馬場、赤尾屋敷、御馬屋、御茶屋、番所、金吾丸、出丸が配され、麓の清水谷には家臣屋敷と城下町が配されています。1570年織田信長の朝倉攻めに対して、浅井長政は織田との同盟を破棄、織田軍を朝倉軍と挟撃敗走させています。これにより同年、浅井・朝倉と織田・徳川の姉川の戦いが勃発、朝倉軍の敗走により、浅井・朝倉軍は敗れ、織田軍の小谷城攻めが始まります。1573年援軍として来ていた朝倉軍の砦を織田軍が強襲、朝倉軍が撤退を始めると猛追し、朝倉軍は壊滅的となり居城の一乗谷城も陥落し滅亡します。越前を制圧した織田軍は小谷城を3万の大軍で包囲。しかし、5000の兵が守る堅城の小谷城は攻撃に耐えます。そこで木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)が兵3000で、本丸の長政と小丸の父久秀の分断を図るため中間にある兵600が守る京極丸を夜襲により占領。引き続き久秀の小丸が陥落させられ、本丸の長政は落城を覚悟。信長の妹お市の方と娘達を信長に引き渡し後、自害落城しています。城は、城攻めに功のあった木下藤吉郎に与えられるも、藤吉郎は山城で不便な小谷城を廃して長浜城を築いています。当日は、中腹の出丸下の駐車場から小谷城攻めで藤吉郎が陥落させた京極丸まで登城。京極丸から上の山王丸にある一番大きな石垣は見逃してしまいました。向い側の峰にある大嶽城・福寿丸・山崎丸は援軍の朝倉氏の陣地跡で、地元の方の話では熊の巣があるとのことで、そちらを訪れる方はご注意ください。

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夏の雪だるま

徳川四天王井伊氏の居城 (2016/09/21 訪問)

日本百名城の一つ滋賀県彦根市の彦根城です。1600年関ヶ原の戦いで功をあげた徳川四天王の一人井伊直政が石田三成の領地を与えられ、1601年佐和山城に入城。彦根山に新城築城を計画するも病死。子の直継が1603年築城を開始。将軍家康が奉行を差し向け12カ国の大名を動員し、1622年完成させています。その後井伊氏は代々幕府の大老などの要職を勤め、桜田門外の変で暗殺された井伊直弼も彦根藩主です。その間彦根藩は18万石から加増を繰り返し30万石となり幕末を迎えています。明治政府による廃城令が出されましたが、参議大隈重信の明治天皇への進言により破却を免れ、天守や櫓などの遺稿が残り、天守が国宝、櫓などの建物が重要文化財に指定され、城址が特別史跡となっています。城は、琵琶湖近くの標高50mの独立丘陵の彦根山に、本丸、西の丸、太鼓丸、井戸丸、鐘の丸、山崎丸を丘陵上に配し、東麓に二の丸、三の丸に重臣等の屋敷を配し三重の堀で囲んだ東西1400m南北1000mの規模とされます。

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じゅんじん

(2019/01/14 訪問)

天守台へは駅から入ります。

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じゅんじん

ルーフィング (2019/01/13 訪問)

台所の屋根が飛び散り始めています。ルーフィングが見えますよ

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夏の雪だるま

戦国葛西氏家臣の城、江戸時代伊達留守氏要害 (2016/06/11 訪問)

岩手県奥州市の水沢城です。いつ頃築城されたかは定かでありませんが、葛西氏家臣佐々木氏により築かれたとされます。1590年葛西氏は小田原の戦いに参陣せず領地没収となり、この地は伊達領となり要害と呼ばれ家臣が配されたが、1629年留守氏が城主となり明治維新まで続いています。留守氏は宮城県仙台市北部の領主でしたが、戦国時代弱体化のため伊達氏より養子を送り込まれ、伊達氏の配下となっています。戦国末期は政宗の叔父の政景が留守氏当主となっています。城は本丸、二の丸、三の丸、南曲輪からなる平城で土塁と水堀で囲まれ東西300m南北300mの規模とされ1万6千石の城下町として整備されてます。城は現在本丸・二の丸は住宅地となり、三の丸の一部は奥州市役所となっています。市役所には推定500年の姥杉が三の丸土塁の遺構に立っており、冠木門も移設され残っています。市役所の西500mにある日高神社は初代城主留守宗利が社殿を改築したとされ、留守宗利の銅像があります。

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夏の雪だるま

稗貫氏の居城 (2015/11/03 訪問)

岩手県花巻市にある花巻城です。城は三方を川に囲まれた台地に東西710m、南北500mの規模で本丸・二の丸・三の丸を擁する平山城です。古くは鳥谷ケ崎城と言い、前九年の役の安倍氏の城柵と伝えられ、源頼朝の奥州藤原氏征伐の戦功により稗貫郡を領した稗貫氏が1559年ここに本拠を移したとされます。稗貫氏は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣せず大崎・葛西・和賀氏と同じく領地没収となり、鳥谷ケ崎城には浅野長政の代官浅野重吉と城兵250名程が入城。奥州仕置軍が引き上げた後、領地没収に不満を持つ大崎・葛西・和賀・稗貫の旧臣などが各地で蜂起、1591年鳥谷ケ崎城は、和賀・稗貫の一揆軍2千数百名が包囲。城は東を北上川、南を豊沢川、北を瀬川が囲む台地に作られた堅城であり、城方が保有する多数の鉄砲により、簡単には落城せず、その間に三戸城の南部信直が5百騎を率いて代官・城兵を救出し三戸城に後退しています。一時的に一揆軍が城を占拠するも、その後、豊臣氏の征伐軍により鎮圧されています。そして、岩手県は南部氏と伊達氏に二分され、南部領の南限は現在の釜石市、遠野市、和賀郡、花巻市が境となります。鳥谷ケ崎城には南部領の南方の抑えとして重臣の北信愛を入れ名も花巻城と改めてます。1600年関ヶ原の戦いを好機とみて、秀吉に領地を没収された和賀・稗貫氏の残党が伊達政宗の煽動により再度一揆を起こし、9月20日の夜一揆軍5百名が花巻城に押し寄せました。関ヶ原の戦いは15日に徳川家康の勝利で終わっていますが、奥羽には情報が届いていなかったためです。花巻城主の北信愛は各方面に蜂起した一揆軍に対して援軍を次々と送り出していたため城内には十数名の兵しか残っておらず、一揆軍は三の丸、二の丸を打ち破ってたちまち本丸に迫ってきたため、信愛は本丸の城門を固め鉄砲に火薬だけを詰めさせ兵以外の次女たちにも空鉄砲を盛んに撃たせ城兵が多数いるように見せかけ必死に防戦、彼我の銃声が多数とどろくと城外に出撃していた南部軍がこれを聞きつけ城ヘ引き返し、一揆軍の背後から襲いかかり、形勢は逆転し一揆軍は潰走したと言わてます。以後、城主の北信愛が没すると藩主利直の次男政直の2万石の城下町となり、政直没後は城代を置き南部藩南境を守る重要な城として明治維新まで続いています。

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じゅんじん

吉川元春館麓より (2019/01/13 訪問)

石垣があります

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斯波氏の居城 (2016/06/11 訪問)

JR盛岡駅から南約20kmにある岩手県紫波町の高水寺城です。標高180mの独立丘陵に築城されたこの城は斯波氏の累代の居城です。足利尊氏に奥州管領に任ぜられた斯波家長がこの城を本拠とし奥州の北朝方として活躍しています。室町時代になると斯波郡の領主として地位を確立、格式の高さから斯波御所と呼ばれたとされます。戦国時代に入ると南下攻勢をかける南部氏と争うようなり、1549年には岩手郡の雫石方面を攻略、雫石城に二男を、三男を猪去城に置き支配下を拡大しています。しかし北の南部氏の侵攻を受け次第に劣勢となり、また、配下の反乱が起こるなど弱体化、これを見て、1588年南部氏当主信直みずからが出陣、斯波氏は防戦するも南部氏の攻撃を受け滅亡しています。高水寺城を占領した南部氏は郡山城と改称、城代を配しましたが、居城として築城していた盛岡城築城に難航、一時この城を居城としています。しかし、盛岡城が完成するとこの城の建物は盛岡城に転用され、1677年廃城となっています。本丸(御殿)は東西60m南北120m、本丸の東南に二の丸(若殿屋敷)があり東西50m南北100m、本丸の北東に三の丸(姫御殿)があり東西30南北60mの規模で各丸には段状に腰郭が配され、城全体は東西700m南北1200mと大きな規模とされます。現在城跡は城山公園となっています。

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じゅんじん

女子駅伝を聴きながら (2019/01/13 訪問)

故郷愛知がいいレース・・・道を間違えて最後は急壁をよじ登って主郭につきました。駐車場に着いたところで優勝決定。静岡も入賞。
お城は意外に直線登山がきつかった。

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夏の雪だるま

遠野南部氏の城 (2015/09/14 訪問)

「歴史と民話の里」岩手県遠野市にある鍋倉城です。奥州藤原氏の攻めの功績により遠野地方を治めていた阿曽沼氏が、それまで居城としていた猿ケ石川右岸の横田城が、たびだび洪水の被害を受けたため、新たに猿ケ石川対岸の鍋倉山上に天正年間1573~1591年頃に築き居城とした城です。阿曽沼氏は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため、独立大名から南部氏配下とされます。1600年関ヶ原の戦いに南部軍として山形に遠野から出陣した時、一族の鱒沢氏が謀反を起こし鍋倉城を占領。鱒沢氏は南部家当主利直の妹を妻としており、南部氏の謀略とも言われています。阿曽沼氏はこのため、伊達政宗の支援を受け遠野を奪還しようとしますが、南部氏の加勢を受けた鱒沢氏が遠野を守り切り阿曽沼軍を撃退、阿曽沼氏は滅亡したとされます。その後、鱒沢氏も謀反の疑い有として南部氏に粛清され、南部氏は家臣を城代として遠野を治めましたが治安の乱れが続いたため、1627年一族の南部八戸氏を八戸根城から一万二千五百石で遠野に移封。以降、遠野南部氏として幕末まで続いています。遠野南部氏は御三家と呼ばれ、盛岡城に常勤したため鍋倉城には家老が城代として遠野を治めたとされます。城は遠野盆地の南方の標高340mの独立丘陵鍋倉山に築かれ、本丸に当主屋敷を置き、二ノ丸、三之丸に家臣の屋敷を配し、来内川を天然の内堀とし全体で東西350m南北450mの規模とされます。現在は、鍋倉公園として整備され、二ノ丸に遠野南部家墓所、三之丸に櫓を模した展望台があります。

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夏の雪だるま

和賀氏最後の戦いの城 (2016/06/11 訪問)

JR岩手県奥州市の北上駅から西約8kmにある岩手県北上市の岩崎城です。いつ頃築かれたかは定かではありませんが、南北朝時代にはあったとされ、飛勢城を本城とする和賀氏の一族岩崎氏の城です。城は和賀川と夏油川にはさまれた台地上に南北300m東西600mの規模で、本丸、二の丸、三の丸を有し、各郭は土塁と空堀に囲まれていました。1590年豊臣秀吉の小田原攻めに和賀氏は参陣しなかったため領地没収となり、この地は南部氏に与えられます。1600年関ヶ原の戦いで南部氏が出羽の最上氏支援に出陣、この隙をついて和賀氏旧臣が和賀忠親を擁し伊達氏の支援を受け兵2500で一揆を起こし南部氏の花巻城を包囲しましたが敗れ、飛勢城へ撤退するも支えきれず、岩崎城へ籠城。籠城後は伊達氏の支援も無くなり、翌年の1601年南部氏の攻撃より岩崎城は落城。忠親は伊達領に落ち延びた後、自害したとされます。一揆鎮圧後は、伊達氏に備える国境の城として修復され南部氏家臣が城代として置かれましたが、のちに廃城となっています。現在城跡は城址公園として本丸跡に模擬天守が建設されていましたが、老朽化と東日本大震災の被災を受け取り壊しとなり、現在は跡地に岩崎城址舞楽殿が建てられています。この時期になると草も伸び藪状態となり、手入れされていないところは歩道も歩けない状態となります。本丸から岩崎集落側の二の丸へ降りてゆく歩道があるはずなのですが、草で発見できませんでした。

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じゅんじん

名城 (2019/01/13 訪問)

要塞です。石垣の破壊が痛々しい。元就公にご挨拶してから上りました。旧本城は道が分かりにくいところがありました。

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和賀氏の居城、別名飛瀬城 (2016/06/11 訪問)

JR北上駅から北約5kmにある岩手県北上市の飛勢城です。和賀郡を領した和賀氏の居城で和賀郡最大の城郭です。別名二子城。並ぶ二つの山に西側の山は物見、東側の山は八幡館が詰めの城として築城されています。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、12世紀頃この地に任じられた刈田氏が和賀氏を称し築城したとされます。北上川に臨む標高130mの丘陵に築かれ東西500m南北1000mの規模であったとされます。城の麓に館群を配し北側より監物館・坊館・加賀館・八重樫屋敷・白鳥館・御台方屋敷・小田嶋屋敷・文殊院・大森屋敷・渋谷屋敷・斎藤屋敷などの名が残っています。城主の居館は白鳥館と言われ、主殿などが存在していたとされます。和賀領は周辺の稗貫郡領主稗貫氏や斯波郡領主斯波氏などとともに、南の葛西氏、北の南部氏の大勢力に挟まれており、特に南部氏がたびだび南下、このため和賀氏は稗貫氏と連合、また、出羽の小野寺氏などに援軍を求めるなどして対抗しています。しかし、1590年和賀氏は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため、稗貫氏とともに改易となり飛勢城には浅野長政家臣後藤半七が城代として置かれます。その後、改易となった大崎・葛西旧臣の一揆が発生、それに連なり和賀義忠と稗貫郡領主だった稗貫広忠も旧臣2000名で蜂起。飛勢城を奪いかえしますが、翌年、伊達政宗・蒲生氏郷により鎮圧され、和賀義忠は逃亡の途中土民により殺害、子の忠親は出羽国へ落ち延びています。1600年関ヶ原の戦いの時、和賀忠親は伊達政宗の支援を受け家臣残党を率いて蜂起。南部氏が守る花巻城を攻めるも敗退、飛勢城に籠りますが支えきれず岩崎城へ籠城するも落城。忠親は伊達領に逃れますが、政宗により殺害されたとも自害したとも伝えられます。

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じゅんじん

郡山城前のウォーニングアップ (2019/01/13 訪問)

元就誕生のお城だとか。よい準備運動となりました。

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夏の雪だるま

伊達藩領北の浮牛要害 (2016/06/04 訪問)

岩手県北上市の浮牛城です。いつ頃築城されたかは定かではむありませんが、安倍貞任が築城したとされます。鎌倉時代になり葛西氏七党の一人、岩谷堂城の江刺氏の子口内氏が戦国時代居城したとされます。しかし、葛西氏は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣せず改易。口内氏も城を去り、その後伊達領となり南部領との境目の城として要害と称し伊達家家臣が在城。1695年には中島氏が城主となり明治維新まで続いています。城はJR北上駅の東約8km、岩谷堂城の北12km程の口内川北岸にあり独立丘陵頂部に本丸、東南側に二の丸、二ノ丸周囲には水堀が廻らされ、北東側は空堀が廻らされ、北側は断崖となっています。口内川両岸には家臣屋敷を配し中島氏は2524石の知行地でした。現在本丸は浮牛城農村公園として整備され二ノ丸跡・堀跡などに立札が設置されています。

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じゅんじん

15年ぶり (2019/01/12 訪問)

15年ぶりの広島城でしたが厳島→原爆ドーム→広島城 ・・・閉館直後に到着となってしまいました。

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夏の雪だるま

伊達藩最北の人首要害 (2016/06/04 訪問)

岩手県奥州市の人首城です。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、葛西氏家臣で江刺郡を領した岩谷堂城主江刺重胤の二男人首如清が城主であったと言われます。1590年豊臣秀吉の奥州仕置により葛西氏は改易となり、伊達氏の一族沼辺氏が伊達領北辺の守りとして、この城に配され明治維新まで続き、城は人首要害と呼ばれたとされます。城の規模は東西188m南北104mで本丸は東西50m南北46mあり招魂社(護国神社の前身)が祭られています。本丸東側に一段高い二の丸があり東西36m南北50mの規模です。人首氏の時代は二ノ丸が本丸だったとされます。本丸と二の丸の間にも曲輪があり、伊達氏時代は搦手門、人首氏時代は大手門があったとされます。城の周りには堀が廻らされ、伊達領時代は西側に大手門があり、城への道、本小路は城内と称し家臣たちの屋敷町があったとされます。城は人首川に沿って東西に伸びた丘陵部にあり、岩谷堂城から北東13kmにあり遠野・三陸に通じる街道が分岐する交通の要衝の地で、現在は、館山公園となっています。

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じゅんじん

厳島 (2019/01/12 訪問)

神社に行く前に宮尾城へ。鹿さんに遭遇

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夏の雪だるま

南部藩の居城 (2015/11/03 訪問)

岩手県盛岡市にある盛岡城です。百名城の一つで東北では珍しい壮大な総石垣造りの城です。
南部氏は、青森県三戸町の三戸城を本拠とし、青森県・岩手県北部・秋田県鹿角郡を勢力下に置いていましたが、戦国末期後継者争いが起こり、それに乗じて津軽大浦城の津軽為信が青森津軽地方の南部方の城を次々攻略し青森県の西半分が独立。また、小田原攻めに参陣せず取り潰しとなった和賀氏・稗貫氏などの盛岡以南の領地が南部氏のものとなったことから、三戸では領地の北に偏りすぎるため三戸城から17km南の九戸城を居城としましたが、浅野長政のから当時、不来方と呼ばれていたこの地を本拠することを勧められ1598年から本格的に築城を開始。再三の河川の氾濫に苦しめられますが1615年頃にはある程度完成したところで、不来方から森岡と改め居城を移したとされます。しかし北上川等の氾濫により石垣が崩れたため築城を諦め、17㎞南の紫波町にある斯波氏の居城だった高水寺城を改修し一時本城しましたが、工事を再開することとし、初代藩主信直から利直・重直の3代36年をかけて1633年城を完成させてます。1691年盛りあがり栄える岡との祈りを込め現在の盛岡城と改名され、以後明治維新まで続いています。北上川と中津川の合流部の丘陵に造られ、本丸、二の丸、榊山曲輪、淡路曲輪を配し、それぞれに雄大な石垣を構築し内曲輪とし、内曲輪の北側に南部一族や家臣の屋敷を配して外曲輪とし、規模は南北1300m東西1100mと言われています。南部盛岡藩は当初10万石でしたが、その後、1664年新たに八戸藩2万石を分割したため8万石に。しかし、過去に領地を奪われた津軽藩が1808年石高の高直しにより10万石となったことから、津軽藩への対抗意識により幕府へ石高の高直しを要望し同年20万石となっています。明治維新の戊辰戦争では、南部藩は奥羽列藩同盟に参加し新政府方となった秋田久保田藩を山形庄内藩、仙台藩などと一緒に攻め、北では鹿角郡から侵入し久保田藩の大館城を攻め落とし、中央では奥羽山脈を越え久保田藩領内の田沢湖地方へ攻めいってます。これに対して津軽藩は新政府側に立ち久保田藩大館城へ武器等を援助してます。このため戦後、新政府より南部藩は減封処分、津軽藩は加増となっています。(2015.11.3訪問)

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夏の雪だるま

葛西一族江刺氏の居城 (2016/06/04 訪問)

JR金ヶ崎駅から東6kmにある岩手県奥州市の岩谷堂城です。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、平安時代末期に奥州藤原氏となる清衡の父の藤原経清が居住した砦館が始まりとされます。経清は前九年の役で安倍氏に味方し敗死。その後奥州藤原氏の滅亡後、源氏の重臣葛西氏の領地となり、一族が江刺氏を名乗りこの地に居城しています。宮城県に本拠を置く葛西氏の北縁を守っていましたが、葛西家本家が各地の一族や家臣との対立により弱体化、奥州情勢が混迷を深める中、江刺氏は青森・岩手北部を領する南部氏と親交をもち、1566年秋田の安東愛季が南部領鹿角郡に侵攻した時、援軍兵300名を送ったとされます。しかし、1582年南部氏九戸政実の岩手南部への攻勢が始まり、葛西氏に背き九戸氏に従ったとされます。このように葛西家が混乱するなか豊臣秀吉の小田原征伐が始まり、小田原に参陣できなかった葛西氏は改易となり江刺氏も城を豊臣秀吉の奥州仕置軍に明け渡したとされます。そして、江刺氏はかつての縁により南部氏に召し抱えられています。その後、この地は伊達氏の支配下におかれ伊達氏家臣の岩城氏が城主となり岩谷堂要害屋敷と呼ばれ岩谷堂伊達家5000石の居館として幕末まで続いています。城は人首川に面した東側が断崖絶壁の標高115mの館山に築かれ東西400m南北850mの規模とされ本丸、二の丸を配していたと言われます。現在城跡は本丸が館山公園となり、二の丸が公園下のグランドとなり、城跡には土塁や空堀が残り往時の姿を偲ぶことができます。また、岩谷堂城御館坂の上の旧岩谷堂小学校グランドに三瓶家正門の三瓶門、西麓の興性寺に二の丸裏門が移設され現存しています。

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