愛知県新城市の百名城の一つ長篠城です。1508年頃今川氏方の武将菅沼氏が築城したとされます。今川義元が桶狭間の戦いで織田信長に討たれた後、1561年菅沼氏は徳川家康に従いますが、1571年武田信玄軍に攻められ降伏、武田氏に属します。1573年信玄が亡くなると家康は長篠城を攻略、奥平氏を城主に任命。1575年武田勝頼は長篠城奪還のため1万5千の兵を率い城兵5百が鉄砲200挺で守る長篠城を包囲。しかし、武田軍の激しい攻撃に兵糧蔵が焼かれるなどしたため落城必須となり、奥平家臣鳥居強右衛門が密使として城の麓を流れる豊川の急流を泳ぎ渡り岡崎城へ援軍要請、城へ引き返す途中武田軍に捕縛され、援軍は来ないと言えば助けると強要されるも、城兵の前に立つと鳥居は「援軍が出立した」と叫んだため武田軍により殺害。しかし、これにより気力を持ち直した城兵が城を守りきる間に、織田・徳川軍3万8千が援軍として約4km離れた設楽原に着陣。馬防柵を設置し兵を窪地に隠し兵力を少なく見せたため、武田軍は城の囲みを解き織田・徳川軍に突撃を敢行するも数千挺の鉄砲の銃撃にさらされ歴戦の将士の多くを失い敗走、これにより武田氏は大きく衰退、1582年の武田氏滅亡を招いたとされます。1576年奥平氏は新城城を築き移ったため長篠城は廃城となっています。城は、南が宇連川、西は豊川に面した50mの断崖で、西北は矢沢の険しい谷が有り、平地に面した側に郭に水堀と土居、外郭に柵などを配した堅城とされます。城跡は現在国史跡となり本丸付近は比較的遺稿が残っていますが、本丸外側の郭はほとんど遺構が残っていません。また二の丸跡に史跡保存館が建てられています。
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