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じゅんじん

(2008/05/05 訪問)

図書館裏にあります

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じゅんじん

石垣に松 (2009/02/28 訪問)

ここの石垣は素晴らしかった。萌え萌えです。

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じゅんじん

IC近く (2009/07/16 訪問)

浄願寺前に立派な城址碑があります。

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カルビン

この年の初被弾は山上城でした(時期早くない?) (2014/05/28 訪問)

以前群馬県前橋駅から中央前橋駅に移動し、上毛鉄道上毛線沿いのお城を攻略しに行った際、膳城の後に訪問したのが山上城。
漫画「花の慶次」で関ヶ原合戦前に上杉家に加わった浪人衆の中にいた山上道及が城主だった場所です。
・・・あの人が城主?イメージ浮かばないわ~ww

城域は城址公園になっており、奥の主郭と思われる場所には朽ちる寸前の錆びついた遊具が・・・なんか哀愁漂ってましたorz

遺構の派手さ・大きさは先に見た膳城には及ばないものの、形の良い土塁や堀、虎口等が見られました。

南側にある芝生の場所は木々が無く明るいイメージなのですが、遺構の残る北側は木々が生い茂っている為、暗いイメージがしました。。。陰と陽が備わったお城ですな(汗)


どうしても遺構を見るには日影メインになっていた訳ですが、この時期にして早くも蚊に刺されまして・・・
この年初被弾となりましたorz

ちなみに膳駅から徒歩15分くらいで到着出来ます。

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イオ

楠公さんから言われては… (2019/01/13 訪問)

楠木正成公つながりの〆は下赤坂城。

上赤坂城からの道中、消防署の隣に駐車場の案内があるのが見えましたが、上赤坂城をじっくり堪能しすぎて日没も間近なため、中学校を抜けて現地の駐車場まで行こう、と思いきや、中学校の門が閉まっていました…。やむなく先ほど見掛けた駐車場まで戻って、そこから徒歩約10分で城址に到着。すっかり薄暗くなった中、城址碑と説明板を眺め、棚田を見渡し、遺構も特に無いし帰ろうかと思った時に目に入ったのが、楠公さんの肖像の案内板。そして…

「歩いてまいろうではないか 自動車の乗り入れは禁止である」

あらら、そうなんですか!? 駐車場だったと思しきスペースはありますが、乗り入れ禁止になっていたとは。帰宅してから確認してみると、確かに千早赤阪村のホームページでその旨案内されていました(http://www.vill.chihayaakasaka.osaka.jp/images/stories/kakuka/kankosangyoushinkou-ka/tanada/H3011-tanadaaccess.pdf)。ただ、道路沿いの下赤坂城址の案内表示はそのまま残っているので、そちらを早く何とかしないと中学校に迷い込む人が続出すると思うんですが…。

ともあれ、楠公さんから言われては従うしかありませんが、棚田のついでならともかく、城址碑と説明板だけのために往復20分歩く価値があるかと考えると…微妙ですね。

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イオ

河内平野を睥睨す (2019/01/13 訪問)

千早城に続いては、楠木正成公つながりで上赤坂城へ。

登城口から少し登ると一の木戸。そこから先は尾根筋を掘削した切通道が続き、途中、喰い違い的に折れ曲がった箇所もあったりで、城塞感を満喫しながら登ることができました。国史跡だけあって整備状態も良く、そろばん橋付近の堀切や竪堀、二の丸周辺の横堀と竪堀、本丸を取り巻く帯曲輪など、見応えのある遺構が数多くありましたが、私が一番気に入ったのは、本丸からの河内平野一帯を見晴るかす絶景! 近くはPLの塔、遠くはあべのハルカス、彼方には淡路島まで見通すことができ、ここが赤坂城塞群の中心であることを実感しました。

…それにしても、苗木城や岐阜城など、山城からの眺望に強く惹かれるのは、元登山部の習性ゆえかもしれません。

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刑部

小寺氏の城 (2018/05/04 訪問)

ここは、黒田官兵衛ゆかりの城址。運動公園としても整備されていてとても見学しやすい城址です!

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こるまろ

2019消防出初式 (2019/01/06 訪問)

本丸と内堀で放水ありました。
ブログ:https://minkara.carview.co.jp/userid/1532104/blog/42382620/

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こるまろ

2019新年明けまして米子城! (2019/01/01 訪問)

元旦初日の出は雲ってて拝めず。
ブログ:https://minkara.carview.co.jp/userid/1532104/blog/42361960/

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刑部

唯一の現存する建築物 (2019/01/13 訪問)

大変立派な薬医門です、さすが 御三家。

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todo94

3度目の日本100名城スタンプラリー94城目 (2019/01/13 訪問)

2010年以来、9年ぶりの吉野ヶ里は小雨の降る中の散策となりました。園内を広く俯瞰できる展望スポットが増えているように感じました。にのまるさんも投稿されているイノシシの親子、私も思わず撮影してしまいました。展示室や北墳丘墓の中もしっかりと見て回りました。今回が少なくとも7回目になる吉野ヶ里、初めて訪れたのは前世紀中でその時はまだ国立の歴史公園にはなっておらず、入園料はかかりませんでしたが、寄付金を支払っていただいた立派な有柄銅剣のペーパーナイフ、今でも大切に保管しています。

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夏の雪だるま

蒲生氏郷築城の城 (2016/09/21 訪問)

日本百名城の一つ三重県松坂市の松坂城です。この地方を治めていた北畠氏が1567年からの織田信長の伊勢侵攻に屈服、信長次男信雄に家督を譲り、信雄が南伊勢の領主となります。信長亡き後、豊臣秀吉に信雄は伊勢から追われ、替わって158年蒲生氏郷が入封。それまでの松ヶ島城から南2.5kmの四五百森と呼ばれるこの地に1588年新たに築城したのが松坂城です。阪内川南、標高35mの独立丘陵に本丸を中心として東に二の丸、南に隠居丸、西にきたい丸を石垣造りとし、麓の三の丸を水堀で囲み、東西600m南北850mの規模で、松ヶ島城下から寺社や商家を移住させ城下町も新たに整備しています。氏郷が会津へ移封となると1591年服部氏、1595年古田氏が城主となり、1619年徳川頼宣が和歌山藩主となるとこの地は和歌山藩領となり、以後、藩内勢州18万石を統轄する城代が置かれ明治維新まで続いています。現在城跡は、三の丸や堀は大部分が市街地となっていますが、裏門側に御城番屋敷が残り、本丸・二の丸・隠居丸・きいた丸が松坂公園として、城址公園には建物は残っていないものの、高い石垣が往時を偲ばせます。

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夏の雪だるま

将軍上洛時の宿泊用御殿のあった城 (2016/09/21 訪問)

三重県亀山市の亀山城です。1265年関氏が隣接する亀山市若山町の亀山古城跡へ築城したのが始まりとされ、現在の地にも戦国期の空堀が確認されていることから、この地に関氏時代に移った可能性もあります。1573年織田信長により関氏が追放されるまで関氏の居城となっています。1590年岡本氏がこの地に封じられると旧城を母体に築城を行い、本丸、二の丸、三の丸を配し天守も建てられたとされます。1636年本多俊次が城主になると城の大改修が行われ本丸、二の丸、東三の丸、西の丸、西出丸を整備、外周に堀を廻らし、本丸に将軍上洛時の宿泊所用本丸御殿、二の丸に藩主居館と政庁を兼ねた二の丸御殿が造られ、東西700m南北500mの規模とされます。城下は東海道が通り東海道53次の亀山宿として栄えています。城主はその後めまぐるしく替わり1744年石川氏が城主となると明治維新まで続いています。明治になると城の建物は取り壊され、現在は多聞櫓と石垣、土塁、堀の一部が残るのみで、本丸付近が亀山神社・ますみ児童公園、二の丸が亀山西小学校・市役所、西の丸が亀山中学校や住宅地、東三の丸が市街地となっています。

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夏の雪だるま

織田信孝の城 (2016/09/20 訪問)

三重県鈴鹿市の神戸城です。1550年頃伊勢平氏子孫の関氏一族神戸氏が築いたとされます。神戸氏は北伊勢に勢力を持っていましたが、織田信長の伊勢侵攻により信長に屈服、1568年信長三男信孝を養子に迎え和睦します。神戸氏当主具盛はのちに強制的に蟄居幽閉され、信孝が神戸氏を継ぎ城を改修するとともに1580年金箔の瓦を用いた五重の天守閣を築き、城下は伊勢街道の宿場町として大いに栄えたとされます。本能寺の変で信長が亡くなると信孝は岐阜城に移り、跡目相続で豊臣秀吉と対立、1583年柴田勝家とともに秀吉と戦い、勝家が賤ヶ岳・北ノ庄城で敗れると、岐阜城で降伏開城、後に切腹となっています。1595年神戸城の天守は桑名城へ移された後、神戸城は江戸時代に城主が次々替わる中、天守は再建されず、1732年本多忠統が2万石で城主となり明治維新まで続いています。城は本丸、二の丸、三の丸の周囲を堀が囲む平城で、現在は堀が埋められ城跡のほとんどが神戸高校敷地や住宅地となり、僅かに本丸部分が神戸公園となり石垣や堀が残っています。

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夏の雪だるま

高石垣の城 (2016/09/21 訪問)

日本百名城の一つ三重県伊賀市の伊賀上野城です。1585年大和郡山から伊賀国へ移封となった筒井定次により築城され、上野盆地中央の丘陵に本丸や三層天守などが造られたとされます。関ヶ原の戦いの功績により1608年藤堂高虎が伊勢・伊賀20万石で入封すると、大阪城の豊臣氏への備えとして上野城は大々的に改修され、西側へ拡張高さ28mの高石垣が設けられ、五層天守の造営も始められましたが、完成直前の1612年台風により倒壊。1615年大阪夏の陣で大阪城は落城、豊臣氏が滅んだことから、天守閣は再建されず、上野城は藤堂氏の支城として城代が置かれ、二の丸(筒井氏時代の本丸)に城代屋敷が造られ、麓に武家屋敷が建て外堀を廻らせた東西900m南北700mの規模と言われ、外堀の外側に城下町を整備、藤堂氏支城として明治維新を迎えています。城は北に阪部川、南に久米川、西に木津川に挟まれた標高180mの独立丘陵に築かれ明治維新により破却された城跡の本丸に復興天守閣が昭和10年に建てられています。麓部分の武家屋敷や外堀は市街化により消失したものの、本丸、二の丸が上野公園として整備され、復興天守と本丸の高石垣、松尾芭蕉生誕300年を記念して昭和17年に建てられた俳聖殿、忍者体験もできる忍者博物館などが有名です。

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夏の雪だるま

藤堂高虎の城 (2016/09/21 訪問)

三重県津市の津城です。織田信長の弟信包により1571年より築城がはじめられ1580年五層の天守が造られ完成しています。その後富田氏が城主となり、1600年の関ヶ原の戦いでは西軍の攻撃を受け津の町は火の海となり、天守閣なども焼失したと言われます。1608年藤堂高虎が20万石で入封すると城を大々的に改修、本丸・各曲輪・堀を広げ石垣を高くし、町外れを通っていた伊勢街道を城下引き入れ、城下町も整備しますが、天守閣は再建されませんでした。城は、伊勢湾近郊の伊勢街道が通る交通の要衝であり、南北を安濃川と岩田川に挟まれた要害の地に築かれ、本丸の左右に東の丸と西の丸を置き、内堀で囲み、その回りに二の丸を配置し、外堀で囲んだ平城で、東西・南北約650mの規模とされます。現在城跡は外堀が埋められ大部分が市街化しており、本丸・西の丸の石垣と縮小された内堀、再建された丑寅櫓、藩校正門(入徳門)が移設され、藤堂高虎像が置かれお城公園とし整備されています。

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dougen

2018.12.29 (2018/12/29 訪問)

瀬木城から県道380号を北に進んで行くと、ビニールハウスが建ち並ぶ農地の中に高い土塁があり、牧野城址となります。
市の史跡に指定されており、解説板と城址の石碑が設置されています。
遺構は土塁が一部残るのみですが、高さに圧倒されます。
なお、駐車場はありませんが、周りが農地ということもあり、路上駐車しても問題ありません。

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くろもり

無高の城 (2013/11/09 訪問)

江戸時代の松前藩は米がとれなかった為、石高が無く、無高(むたか)の藩でした。※一応、格として1万石でちゃんとした大名だったそうです。
木古内駅からバスで向かったのですが、本州では1時間30分も車で走っていれば田園を見る機会も多いですが、確かに道中で田園を見た記憶がありません。でも、今ではこの辺りでもお米は取れるそうです。

お城に野生のキツネがいたり、二ノ丸から津軽半島が見えたりと、蝦夷の地に感動しましたが、一番印象に残ったのはシャクシャインの耳塚でした。

城下町の和菓子屋さんの中村屋で、桜色のカステラをお土産に買って会社に持って行ったところ、次の日に女の子のお子さんがいる上司から「娘が気に入ったからもう一つくれ!」と催促されましたw
女子へのお土産にはいいかもしれません。すいません、カステラの写真は撮ってませんでした・・・
確か「花の松前」ていう名前のお菓子だったと思います。

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朝田 辰兵衛

七つの尾根の… (2018/03/17 訪問)

冬が明ける。

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夏の雪だるま

六角氏の居城 (2016/09/21 訪問)

日本百名城と中世五大山城の一つ滋賀県近江八幡市の観音寺城です。城は、南北朝の頃には存在していたと言われ、石垣が本格的に使用された安土城に先立つ30年以上前の16世紀前半には六角氏の居城としてこの当時では他に類のなく石垣が多用されています。1568年織田信長が大軍を率いて上洛の途中、敵対する六角氏を攻撃、支城の箕作城・和田山城を落とされると六角氏は戦うこと無く観音寺城から逃亡、城は織田氏のものとなっています。1579年観音寺城から北東2kmに安土城が完成すると、観音時城は廃城となったようです。標高432mの繖山山頂から南山麓にかけ郭が多数築かれた大城郭で、東西1000m南北700mの城域とされます。現在の観音正寺を中心に周辺に多数の郭が配置され、本丸や平井丸、池田丸など各郭に石垣が多用されています。先にこの地にあった観音正寺は城を築くため麓に移され戦国時代が終わると、この地に再造営されたと伝えられます。
登城ルートは複数有りますが、一番近いと言われる観音正寺から登城。国道8号線から観音正寺への道標の通り舗装林道へ入っていくと料金所があり600円徴収。料金所の方に城について聞くと、写真の城址図をもらえます。その先の林道は車1台分の幅しかなく、待避所が2~300m間隔であるので、ライトを付け安全速度で行きます。車止めのある広場へ車を止め、観音正寺へ歩いて行くと、道の上の木立の中に石垣が見えます。15分程で寺に着くと入口に料金所が有り拝観料500円を徴収。寺の本堂手前の仏像から左手に閂戸を開け山道を行くと、15分程で本丸です。本丸から右側に虎口石垣、左側の自然石の階段を下り丁字路を右に行くと立派な石垣の平井屋敷跡や池田屋敷跡があります。時間のある方は池田屋敷跡の下側にある大石垣などもお勧めです。全体を見るにはかなりの時間を要すると思われます。山道は蜘蛛の巣だらけで、軍手をはめ道に落ちている枝を振りながら歩くと良いです。

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