天守もない、大きな石垣もない。城=天守と思ってる方には、少し石垣が残ってる程度のただの山でしょうが・・・
最盛期には山陰・山陽八ヶ国(出雲・隠岐・伯耆・因幡・美作・備前・備中・備後)の守護であったものの、そのわずか15年後には毛利氏の侵攻により滅亡した尼子氏の居城。
この月山富田城を奪回する為に山中鹿介こと山中幸盛公が「我に七難八苦を与えよ」と月に祈り、主家の尼子氏再興の為に一生を捧げたと思うと、込み上げてくるものがあります。
尼子経久公・晴久公(国久公と誠久公も)・義久公・勝久公・山中幸盛公等の尼子氏にゆかりのある人物を知っていると、目には見えない往時の景色が見えてくるような、そんな気持ちにさせてくれる城址です。
以下、写真の説明です。
1枚目・・・本丸にある山中鹿介記念碑。割れたような石碑が悲愁を誘います。今は背後の木が綺麗に整備されているようです。
2枚目・・・千畳平の尼子神社。八ヶ国の守護の面影もない小さな社に思わず目頭が熱くなりました。
3枚目・・・月山富田城前を流れる飯梨川。国破れて山河ありといった感じ。往時もこのような風景だったのか。
4枚目・・・洞光寺の尼子清定公・経久公墓所から見た月山富田城(突き出た山の所)。両公は尼子氏栄華の跡を見守っています。
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