中世播磨三大城の一つ
(2023/12/30 訪問)
中世の御着城は別所氏の三木城、三木氏の英賀城と並んで播磨三大城の一つに数えられていて、当時の姫路城は御着城の出城としての機能を有していたようです。小寺政職の時代に羽柴秀吉の攻撃に会い落城し、その後廃城となったものの、江戸時代に本丸跡の一画に御着本陣が置かれたようです。
本丸跡の一部は御着城公園として整備されていて一画に黒田官兵衛顕彰碑が建ち、北側に城郭風の建造物である姫路市役所東出張所が建ち、その裏手に移築された天川橋があります。道路を挟んで東に御国野市民広場があり、ここが二の丸跡とされ、間の道路は堀跡になると思います。出張所の西手に黒田家廟所があり、黒田官兵衛の祖父重隆公と母明石氏の廟所とされています。
廟所の造営は福岡藩主黒田家が享和2年(1802)に資材を福岡から運び完成させたとされていますが、瓦は深志野で焼かれ、塀は竜山石を使用しているようなので、けっこう現地で調達しているようです。
本丸の発掘調査の際、井戸・石組み溝・建物礎石・掘立柱建物跡・瓦溜り・石組施設などが発掘されています。二の丸からは井戸・石組み溝・建物跡・土塁・埋甕遺構などが見つかっています。井戸は二基発見され、いずれも石組井戸だったようです。どうせ史跡公園として整備されるなら、これらの遺構を見学できるようにしてほしかったですね。
移築された天川橋は元は、姫路藩が文政11年(1828)に、ここから南西200mの天川に架橋した竜山石製の太鼓橋で、橋柱に刻まれた銘文は姫路藩儒者・近藤顧一郎によるもののようです。
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