たてばやしじょう

館林城

群馬県館林市

別名 : 尾曳城
旧国名 : 上野

投稿する
駐車場の北、二の丸(三の丸?)南端の土塁
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

イタさん

場所は城跡より、つつじが岡公園が一般的 (2026/07/04 訪問)

先人さんの情報に、赤井照光が築城するとされる。立ち寄らなかったが、他の情報に、大袋城主・赤井照光が、子供に捕らえられた子狐を助けると、老翁があらわれ子狐の礼を述べ、館林が築城に適していると説く。七夕の夜、老いた狐があらわれ尾を曳いて縄張りをし、完成後は永く守護神(弁財天?)に使えると、照光は築城し名も尾曳城とし、社殿を造営したとある。

説明板に、最も古い資料は、室町時代の文永3年(1471)のもの。1590年に徳川家康は江戸の北を守る要所として、榊原康政を配置する。以後、館林城は徳川一門・親藩・譜代大名7家が統治する。後の幕府5代将軍徳川綱吉も、寛文元年(1661)から将軍就任まで城主を務める。大規模な改修などを行うが、跡を継いだ子の徳松が創世したため城は一時取り壊される。その後6代将軍家宣の弟、清武を祖とする松平’(越智)家が城主となり、城を再建するが、秋元氏が城主の時に明治を迎えました。明治7年の大火によって主な建物を失いました、と載っている。

三の丸南駐車場を利用する。道路を挟んで奥に市役所が建っている。道路際には三の丸(二の丸かな)の南面の土塁らしきものが見られる。縄張図に二の丸は庁舎付近と載り(他の資料では庁舎は二の丸と三の丸を跨いでいる)、三の丸は文化会館付近とある。庁舎前から本丸方面を眺めると、野原が広がり、先に本丸石垣と呼ばれる高まりが見える。よってみると明治以降の石組み思えるが。脇に井戸跡がある。本丸の東端に向井千秋記念こども科学館が建っている。南面に土塁が少し残り、南の御厩曲輪(南曲輪)はただ広い野原になっている。科学館の東に八幡神社が建つ。八幡曲輪先は城沼が広がっていたようだが、大分先まで陸地になっている。ここの森には鷺が営巣しており、清掃管理の人に聞いたらカラスとせめぎ合いをしているそうだ。北側には最後の城主、旧秋元氏別邸が建ち、子孫の春朝氏が投網をする像が建っている。庁舎背後から追手門跡を目指す途中の千貫門跡を通るが、碑があるのみであった。追手門跡は三角公園辺りで、低い跡碑がある。戻って土橋門跡を見学。他の遺構を見たあとのため、まず左右の土塁が残っているのに驚く。門は復元だがいかにも城郭らしい雰囲気がでている。短いが土塀も再現されている。手前にあった堀は消滅。潜り門を入れば狭いが枡形になっている。土塁は門側から西に長く延び、見応えのある遺構になっている。この三の丸には文化会館(カルピスホール)が建っている。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

日帰り東武伊勢崎線沿線城巡り①:館林城 (2026/04/08 訪問)

日帰り東武伊勢崎線沿線城巡り1城目は館林城です。
館林駅から徒歩20分くらいで本丸土塁入口(36.244181、139.545440)に着きました。
本丸跡の土塁を確認し、千貫門跡(36.246013、139.541706)➡三の丸復元土橋門(36.246160、139.540521)➡大手門石碑(36.248278、139.536798)の順番で巡りました。

1556年(弘治2年)赤井照康によって、築かれたと云われていますが定かではないようです。
越後上杉氏が関東に進出すると足利長尾氏が城主となりますが、後に北条氏の支配するところとなり北条氏規が城主となります。
小田原の役では落城せず後に開城となります。北条氏滅亡後は榊原康政が100,000石で入封しました。
榊原氏が3代続いた後、陸奥国小峰に転封となり替わって大給松平氏が入封しました。
1661年(寛文元年)3代将軍徳川家光の四男綱吉が250,000石で入封しました。 綱吉が将軍となるとその子徳松が城主となりましたが、徳松の死によって館林城は破却されました。
1707年(宝永4年)6代将軍家宣の弟松平清武が24,000石で入封し築城し直し、 のち太田氏、松平氏、井上氏、秋元氏と入れ替わり明治を迎えたようです。

攻城時間は徒歩移動時間を含め、50分くらいでした。次の攻城先=羽生城に向かう為、館林駅から羽生駅に向かいます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

榊原康政 (2025/03/16 訪問)

館山城は戦国時代に赤井氏によって築かれたとされるが、定かではないようです。その後、上杉氏と北条氏の間で争奪戦が繰り返されますが最終的には北条氏に従い、天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めに際して落城しています。
その後は徳川家康の関東入封に伴い、榊原康政が10万石で入り近世城郭として築き直しました。本丸跡には向井千秋記念子供科学館が建ち、周辺は「館林城ゆめひろば」になっていて、土塁らしきものもありました。館林市役所も城域に含まれ、北西には千貫門跡の碑が立っています。三の丸西端あたりには土橋門が再現され、土塁も残っており、塀も再現されています。遺構は殆ど残っていないのですが、門と土塀が再現されているだけで、周囲には近世城郭としての雰囲気が漂っているので不思議なものです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

まさお

館林城跡&つつじが岡公園 (2023/04/23 訪問)

館林駅からつつじが岡公園-館林城跡を回り駅に戻るコースをウォーキングした。

+ 続きを読む

城郭情報

分類・構造 梯郭式+連郭式平城
天守構造 型式不明[3重/1590年築?/破却(廃城)]、二重櫓[2重/1707年築/焼失]
築城主 赤井照康
築城年 弘治2年(1556)
主な改修者 榊原康政
主な城主 赤井氏、榊原氏、松平氏、徳川氏
廃城年 明治7年(1874)
遺構 曲輪、土塁、虎口
指定文化財 県重要文化財(館林城鐘)、市史跡(館林城跡、館林城本丸土塁および八幡宮)
再建造物 門、石碑、説明板
住所 群馬県館林市城町甲23-1他
問い合わせ先 館林市教育委員会文化振興課文化財係
問い合わせ先電話番号 0276-74-4111