先人さんの情報に、赤井照光が築城するとされる。立ち寄らなかったが、他の情報に、大袋城主・赤井照光が、子供に捕らえられた子狐を助けると、老翁があらわれ子狐の礼を述べ、館林が築城に適していると説く。七夕の夜、老いた狐があらわれ尾を曳いて縄張りをし、完成後は永く守護神(弁財天?)に使えると、照光は築城し名も尾曳城とし、社殿を造営したとある。
説明板に、最も古い資料は、室町時代の文永3年(1471)のもの。1590年に徳川家康は江戸の北を守る要所として、榊原康政を配置する。以後、館林城は徳川一門・親藩・譜代大名7家が統治する。後の幕府5代将軍徳川綱吉も、寛文元年(1661)から将軍就任まで城主を務める。大規模な改修などを行うが、跡を継いだ子の徳松が創世したため城は一時取り壊される。その後6代将軍家宣の弟、清武を祖とする松平’(越智)家が城主となり、城を再建するが、秋元氏が城主の時に明治を迎えました。明治7年の大火によって主な建物を失いました、と載っている。
三の丸南駐車場を利用する。道路を挟んで奥に市役所が建っている。道路際には三の丸(二の丸かな)の南面の土塁らしきものが見られる。縄張図に二の丸は庁舎付近と載り(他の資料では庁舎は二の丸と三の丸を跨いでいる)、三の丸は文化会館付近とある。庁舎前から本丸方面を眺めると、野原が広がり、先に本丸石垣と呼ばれる高まりが見える。よってみると明治以降の石組み思えるが。脇に井戸跡がある。本丸の東端に向井千秋記念こども科学館が建っている。南面に土塁が少し残り、南の御厩曲輪(南曲輪)はただ広い野原になっている。科学館の東に八幡神社が建つ。八幡曲輪先は城沼が広がっていたようだが、大分先まで陸地になっている。ここの森には鷺が営巣しており、清掃管理の人に聞いたらカラスとせめぎ合いをしているそうだ。北側には最後の城主、旧秋元氏別邸が建ち、子孫の春朝氏が投網をする像が建っている。庁舎背後から追手門跡を目指す途中の千貫門跡を通るが、碑があるのみであった。追手門跡は三角公園辺りで、低い跡碑がある。戻って土橋門跡を見学。他の遺構を見たあとのため、まず左右の土塁が残っているのに驚く。門は復元だがいかにも城郭らしい雰囲気がでている。短いが土塀も再現されている。手前にあった堀は消滅。潜り門を入れば狭いが枡形になっている。土塁は門側から西に長く延び、見応えのある遺構になっている。この三の丸には文化会館(カルピスホール)が建っている。
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