JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目:小山城
(2021/07/02 訪問)
JR飯田線/身延線沿線城巡り6日目の2城目は小山城です。
相良城から転戦。駐車場入口(34.778582、138.2478)から侵入して駐車しました。
小山城の築年は不明ですが、武田四天王のひとり馬場信春によって築かれた城で、今川氏によって築かれた山崎の砦が土台となったとされます。
今川義元が桶狭間の戦いに敗戦して以降、武田信玄と徳川家康は、大井川を境界として駿河を信玄、遠江を家康が領有することを約束していました。
しかし1568年(永禄11年)12月、信玄がその約束を破って侵攻し、今川氏真を討って山崎の砦を攻略します。
対して家康は松平真乗に城砦周辺の領地を与え、1570年(元亀元年)4月に城砦を落とすことに成功します。
1571年(元亀2年)2月、甲州から2万5,000人の兵を率いて攻め入った信玄はこれを真乗から奪取して「小山城」と名付け、大熊朝秀(長秀)を城主におき遠州攻略の拠点としました。
それまで小規模の城砦にすぎなかったものが、武田方の改築によって本格的な築城がなされたとされています。
小山城築城は大井川西方の防衛ラインを形成し、武田方にとって高天神城攻略の為の拠点となり、信玄は三河にて足助、田代、二連木を取ったとされます。
武田勝頼が長篠の戦いに敗退、諏訪原城も落城し、残兵が逃げ帰った先が小山城でした。
勢いに乗った徳川軍は小山城を攻撃したが、城番の岡部元信らの防戦により落城は免れた。小山城は堅牢であったため、滝堺城を通じて武田方の最前線である高天神城への補給路の要となっていました。
これに対し徳川軍は、城の南方にある吉田田んぼの青田刈りで食糧攻めを行い、1581年(天正9年)3月に高天神城が落城、翌1582年(天正10年)2月に織田・徳川軍による甲州征伐が開始されると、戦況をみた兵たちは城を捨て小山城は自落したそうです。
現在は能満寺山公園として整備されており、甲州流築城術の特徴である丸馬出し、三日月堀が史料を元に復元されています。
また、かつて物見台があったとされる三の丸跡に犬山城天守をモデルにした模擬天守(展望台小山城)が建てられています。
たくさんの写真を撮りましたが強雨の為、ピントがずれたもの多く残念。
攻城時間は25分くらいでした。
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