かつての五福小学校跡地は,富山市シルバー人材センター管理のゴルフコースへと改変されていました。土塁内部へは富山市シルバー人材センターの駐車場から中に入ることができました。とくに立入禁止とも表示されてなく…。ただ,土塁の周囲を2周したのですが,パネルを見つけることが出来ませんでした…<泣>。
名古屋に向かう高速バスの乗り継ぎの合間に立ち寄ったので,ここで散策を打ち切りとしました。
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2022/05/23 00:35
ゴルフコースへと改変! (2022/05/21 訪問)
かつての五福小学校跡地は,富山市シルバー人材センター管理のゴルフコースへと改変されていました。土塁内部へは富山市シルバー人材センターの駐車場から中に入ることができました。とくに立入禁止とも表示されてなく…。ただ,土塁の周囲を2周したのですが,パネルを見つけることが出来ませんでした…<泣>。
名古屋に向かう高速バスの乗り継ぎの合間に立ち寄ったので,ここで散策を打ち切りとしました。
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2022/05/22 22:33
2022/05/22 22:19
小田原攻め、家康の陣 (2022/05/08 訪問)
小田原駅から徒歩で20分くらい。
東照宮が建っていますが明確な遺構はありません。
周辺は住宅地と畑になっています。
東照宮が建つ部分はやや高くなっていて土塁の跡かも。
また側の畑っぽい部分は一段低くなっていて堀の跡のようにも見えます。
背後に酒匂川を背負い家康が小田原攻めの際に陣を置いた地。
石垣山城から見える小田原城とは大分風景も違いますね。
鳴くまで待とう、というのが解った気がします。
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2022/05/22 21:46
2022/05/22 21:44
岩殿城ハイキング (2022/04/30 訪問)
巨岩がシンボルの岐阜県苗木城と群馬県岩櫃城。
この種の城に興味が湧き、ゴールデンウィークの最初は比較的近くにある山梨県大月市の岩殿城へ。
このエリアは南(桂川)西(笹子川)北(葛野川)の3方向からの川が合流し、東の相模へ流れていくポイント。
川沿いに四方から物資や情報が流通したことでしょうか。
比高250m以上の岩殿山は古くから円通寺の修行場だった岩山で、1500年代初期に武田氏が対相模の拠点として城郭化したという説が今は有力とのこと。
甲陽軍鑑では関東三名城にあげられる岩壁と深い渓流に守られた要害ですが、歴史的には武田氏の滅亡にも関与した城でした。
現在は山の南側中腹に丸山公園が整備され、櫓を模した岩殿山ふれあい館は小さな歴史館。
山頂の城郭部へは複数のルートがあるものの、岩の崩落により通行止めが多く、大きな迂回が必要な状況。
訪問時は丸山公園へ寄った後、北側の畑倉ルートで山頂へ。
前日が雨だったため鬼の岩屋が神秘的な滝となっていましたが、それ以外はただひたすら山城らしい急斜面を登山。
登り切ると、本丸、蔵屋敷、馬場の平場が階段状に構成されており、富士山は雲に隠れてしまったものの南物見台は大月市街を一望できるビュースポット。
休憩後、揚城戸跡を抜け、浅利ルートで大手口だという築坂峠まで歩き、来た道を引き返して帰ることに。
ルート閉鎖で巨岩信仰は感じにくかったものの、計5時間半のハイキングが、私の城巡りの123城目となりました。
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2022/05/22 21:22
富士見城(城びと未掲載) (2022/04/29 訪問)
城びと未掲載の富士見城を訪問しました。
この城は小諸城の支城として築かれたとのことであり、小諸城の城名を借りました。
徳川、上杉、北条が争った時には、徳川家臣の柴田康忠が城主を務めたこともあるようです。
写真をご覧頂ければおわかりのとおり、主郭を中心に初期の石垣が築かれており、高石垣の技術が未発達であったため、複数の段差をつけた形で築かれています。
この城の場所は飯綱山高原の一角(歴史地区)にあり(小諸高原美術館の裏手にあたります)、小高い丘の上にあります。
遺構としては、上記の石垣の外に、堀切や土塁などが確認でき、野戦築城としては十分な供えができているように思います。
アクセスは、小諸インターから車で5分程度であり、小諸高原美術館の駐車場等が利用できます。
これほどまでに遺構が残っているのに、あまり知られることがなかったことが不思議な感じがします。
なお、訪問したのは4月末でしたが、城は小諸八重紅枝垂桜に囲まれており、本当に美しい風景でした。
皆様も是非訪問して下さい。
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2022/05/22 21:00
尼ヶ淵から眺める城塁と南櫓・西櫓は感動❣ (2009/05/23 訪問)
復元整備で甦った松代城を建物、土塁、石垣、年代物石垣、真田邸、旧文武学校、武家屋敷、城下町を充分に堪能して、南東直線に約20km上田城を目指し、よく整備された尼ヶ淵専用駐車場に駐める。
着いた駐車場からもうドキドキの興奮状態、尼ヶ淵の絶壁、城塁、石垣、石垣台に建つ南櫓と西櫓、ここだけで十分な城郭景観です、初登城は10代の終わり頃、登城した13年前の平成21年5月下旬で40数年は経ていました。
尼ヶ淵駐車場で十分観察眺望して旧電車道の堀底道から二の丸橋を渡り二の丸へ博物館も見学し、復元成った本丸東虎口櫓門、真田石も眺め櫓門に入る、南櫓、北櫓も同じく、本丸、本丸土塁、西櫓、本丸西虎口、二の丸西から北へ復元された北虎口石垣を眺め、有名な石樋、百間掘跡のグランドを眺めて戻る、約1時間半探訪。
泊りは戸倉上山田温泉旅館、朝浜松を6時出発でしたので温泉にゆっくり浸かり美味しい地酒と料理を堪能、旅館の方にスナックを紹介してもらい歌も2時間程披露。
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2022/05/22 20:11
正保城絵図・二之丸居所之図 (2018/05/26 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/05/22 20:07
水戸城郭図 (2013/07/14 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/05/22 20:06
菅沼氏の居城 (2022/05/22 訪問)
1470年菅沼定信が築城、田峰菅沼5代目の菅沼定忠が長篠合戦で武田勝頼に味方し、兵を挙げたが、会えなく敗退。その後知らせてを聞いた菅沼定直(定忠の叔父)が謀反を持ちかけ、田峰城への入城をすることができず、勝頼とともに武節城へ逃れ、1576年、田峰城に夜襲をかけ、一族96人を殺害。その後は徳川家康に属し、城主は定利が務めた。
複数の曲輪が置かれ、梯郭式城郭みなっています。遺構は大手門跡にある空堀と土塁のみ。本丸には復元された御殿と物見台があります。御殿は入ることができますが、有料です。また、大手門跡の所には馬防柵らしきものも復元されています。復元されたのは大手門、御殿、物見台の他、厩も復元されています。遺構が少ししかないのは残念ですが、建物の復元により、戦国時代の様子が想像しやすくていいです。御城印は御殿に売っていますが、道の駅のしたらにも売ってます。少し前までは御城印のガチャがあったのですが、今は無くなっています。また僕は行っていませんが、この城びとでは未登録である、津具城、寺脇城など、遺構が残る貴重な城も周辺に存在します。(ただ少し遠いです)そこも是非行ってみては?
評価
遺構:2
建物:3
行きやすさ:2
全体:2
攻城時間
30分くらい
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2022/05/22 20:05
鹿背山城跡配置図 (2017/02/26 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/05/22 17:50
2022/05/22 17:48
国宝 二の丸御殿 (2022/05/07 訪問)
徳川家康公が京都滞在中の宿所として二条城の築城に着手したのは1601年ですが、現存する二の丸御殿の建築物はその23年後に改修されたものが現存しています。「にのまるさん」の言葉を引用すれば、やんごとなきお方「後水尾天皇」の二条城行幸(天皇のお出かけ)に備えて1624年から二の丸御殿の大改修が始まり、2年後の1626年に完成しています。御殿内の障壁画についても寛永期の作であることが分かっているそうです。
二条城へは3度目の訪問ですが、9年前の2013年1月27日に訪問した際は、二の丸御殿内撮影禁止(>_<)は知っていましたが、あまりの荘厳さに、つい夢中になり過ぎてパシャパシャと撮影してしまい、スッタフの方に注意されたのを覚えています。大勢の方の前で、撮影禁止(No photo)の看板を目の前に出され「やめて下さい」と言われ我に返りました(>_<)とても恥ずかしい思い出です。
今回は、前回の失敗を踏まえカメラをバックにしまってから見学させて頂きました。皆様もお気を付けくださいませ。
二条城は国宝 二の丸御殿があまりにも有名ですが、城としての備えも充実しており、特にPOYO58さんの言う通り、石垣群が特に素晴らしいと感じています。天守台の大きさ・高さには目を見張るものがあります。その天守台から見る内堀もまた見事で見応えがあります。残念だったのが、本丸御殿が修理中で外観を見ることも、拝観することもできませんでした。
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2022/05/22 13:27
2022/05/22 10:40
おじいさんの見解。 (2022/05/04 訪問)
西町児童公園に大きな石柱が立っている「知立城」です。
知立神社の神主でもある永見氏により築かれました。
今川 義元さんが桶狭間で討たれると、今川軍は敗走します。追ってきた織田軍により「知立城」は落城しました。
その後「刈谷城」の水野 忠重さんが、将軍の休憩・宿泊する為の御殿にリフォーム。
1699年の地震で倒壊しました。
と、ざっくりな説明なんですが、、、。
「知立城」である公園入口に車を路駐して、写真だけ写して移動しようとしました。
石碑や説明板はありますが、遺構は宅地化の為、消滅したようなので長居は無用だと思ったのですが、、、。
地元のおじいさんが説明板を見てる時、『今川 義元は沓掛からではなく、知立から出陣した』『時間と距離からして、知立城から桶狭間に向かった』と話しかけてきました。
と、このての話 大好物なので長居してしまいました。
帰って来て調べても、「沓掛城」の前日には「知立城」に本陣を置いた位しか解りません。
今後、この『沓掛城からではなく知立城から、桶狭間に向かった』説が通説になったら、知っていた。と、自慢しようと思います( ´∀`)
東海道の池鯉鮒宿がこの辺りです。
交通の要所だったようなので、今川 義元さん以外、メジャーな武将たちも、この地を通って行ったのではないでしょうか?
なんでもない児童公園が、桶狭間の合戦前の、勝利を信じる今川軍 が賑やかに軍義している様子、伝わってきます。
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2022/05/22 07:19
歴史を動かした合戦の場 (2022/05/17 訪問)
千早城へ登城というより千早神社へ参拝したといった方が正しいかもしれない。
ただ、鎌倉幕府軍10万に対し約100日城を守り抜いた急峻な地形は当時のままに違いない。
また、神社本殿の裏山(神域につき立入禁止)を下から見上げると当時の山城を感じた。本殿の右手一段下にある金剛山登山道を回り込むように進むと休憩所があって、そのあたりの登山道から見ることができる風景だ。
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2022/05/21 22:31
越前市市役所 (2022/05/21 訪問)
越前市市役所前に石垣が積みなおされていました。正覚寺に移築門があります。
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2022/05/21 22:24
不破光治 (2022/05/21 訪問)
府中三人衆のひとり、不破光治の城です。龍門寺の山門前に石碑と案内板があります。
南部の墓地が堀跡だとありましたが、写真は撮りましたが墓石がたくさん写っていましたので投稿はしていません。龍門寺の案内板には土塁が残っていると書かれていました。どこにあるのかわかりませんでした。近くにある卍が辻も関連の施設であった可能性があることが書かれていました。
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2022/05/21 22:20
2022/05/21 22:13
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