重清城からの転戦です。城址入口付近(34.073732、134.131645)に路駐しました。
築城年代は定かではないようですが、1267年(文永4年)三好郡領平右馬頭盛隆が叛乱したとき、阿波国守護小笠原長房はここに城を築いて盛隆を平定したといいます。
永禄年間(1558年〜1570年)には三好康長が岩倉城を築いて嫡子三好徳太郎康俊が城主となりました。
1578年(天正7年)康俊は脇城主武田信顕とともに長宗我部元親に降り、脇城外に三好方をおびき寄せ奇襲して勝利しました。
1582年(天正10年)三好方の説得に応じて再び三好氏に従ったが、同年阿波を攻略した長宗我部氏は脇城も攻略して岩倉城にも攻め寄せ、康俊は降伏開城して逃れたとも討死したとも云われています。
豊臣秀吉の四国征伐で再び豊臣秀次等によって攻められ落城しました。
1586年(天正14年)蜂須賀家政が阿波国に18万石で入国後は、脇城は阿波9城(一宮城・撫養城・西条城・川島城・大西城・海部城・牛岐城・脇城・仁宇城)の一つとなりました。
阿波9城も1615年(慶長20年)の一国一城令により、1638年(寛政15年)に破却され、廃城となりました。
本丸の北側(本丸と2郭間)に堀切があり、その北側は墓地になっています。
本丸の南側に説明板と城主の墓がありました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=脇城に向かいます。
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