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赤い城

城攻めというより山登り (2022/05/15 訪問)

あたご天狗の森の駐車場からさらに奥に駐車場があります。そこからハイキングコースがあり、ハイカーさんも結構いらっしゃいました。
ハイキングコースを進んでいきますが幾つかの山を超える結構ハードな道のりです。
道中、案内板もあるので迷うことはなさそうです。
歩くことに2時間くらいで難台山頂に着きますが城はここではありません。
山頂から少し下ったところに案内板があり、下に降ります。
しばらく降りると城址内通路の案内板があります。
城址にはいくつかの曲輪があり、岩が転がっている程度。
古い時代のもので城のテイストは薄いです。
さらに降りていくと説明板も立っていて、そばには堀切が見られました。
他にも登城ルートがあるようですが急がば回れ、ハイキングコースからが良さそうです。
山頂へのハイキングコース上には岩の塊がゴロゴロ。
中でも花崗岩が垂直に切り立つ屏風岩は迫力があります。
この後久米城まで足を伸ばそうと思ってましたが体力の消耗激しく断念しました。
達成感は味わえる城かと思います。

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カズサン

知覧麓武家屋敷庭園廻り (2009/04/18 訪問)

 知覧城の認識も数拾年前からシラス台地を掘り刻んだ群郭式城郭と認識して居ましたが、出張などで鹿児島を訪れても、知覧航空隊基地、知覧武家屋敷群を見学するだけで知覧城に辿り着けませんでした。
 
 今回定年退職月に鹿児島工場、協力企業、特約店の挨拶回りに鹿児島出張、13年前の平成21年4月中旬時間の余裕も有り知覧城の攻城をレンタカーで試みましたが、良く分からず知覧航空隊基地と知覧役場を往復するだけ、今回も知覧麓の武家屋敷群、国の重要伝統的建物群保存地区に成って居ますので、屋敷群の雰囲気も良く名勝庭園を廻まり写真を撮りました。
 
 知覧麓ですが知覧城で投稿致します。又映画ホタルで有名に成った特攻の母、富屋食堂の建屋も写真に撮りましたので掲載します。

 尚、平成28年10月知覧城登城出来、令和2年1月に城びとに投稿させて頂きました。

 

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カズサン

ロープウェイで登城 (2009/04/23 訪問)

 定年退職月、挨拶回りで岐阜市の企業を訪ねた折、時間も有りロープウェイで登城、天守閣登閣し天守閣からの眺めを堪能しました、又発掘調査で居館跡が露わに成り一部整備保存されて居ますので見学探訪しました。
 13年前の平成21年4月下旬探訪で先ず麓で天守閣が輝く金華山を見上げて、織田信長騎馬像、居館跡冠木門、居館跡の虎口跡か?根石に巨石が使われている、見学できる所を見て回る、退職前記念の岐阜城探訪でした。

 

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トク

明智光秀「最期の30日」を辿る 【第2回】坂本城  (2022/05/07 訪問)

(第1回「安土城」からの続きです)

天正10年(1582年)5月17日、饗応役を解かれた光秀はその日のうちに坂本城へ戻り出陣の準備に取りかかります。そして丹波衆を中心とした軍勢に、明智秀満(左馬助)、斎藤利三、藤田行政(伝吾)の軍勢を加え、総勢を亀山城に集めるよう指示を出し、5月26日には自らも亀山城に向かいました。

今回は、坂本城跡公園(写真①)と実際に坂本城が建っていた場所を訪ねてきました。公園から北に150m行った海岸で本丸石垣の一部跡が見られる場所があるとの事で、そこは私有地の畑の中でしたが通れるようなので行ってみました。しかし、運悪く石垣は湖水に沈んでいて見えませんでした(😩写真②③)。

坂本城は安土城より先に日本で初めて石垣を使った三重の豪壮華麗な城であったとルイスフロイスの記録にあります。はたしてどんな城だったのでしょうか? こんな城だったよとのポスターが公園にあったので撮ってきました(写真⑥⑦)。また、焼け落ちる時に、光秀が大切にしていた脇差を秀吉に取られぬよう秀満がここに埋めたとされる明智塚が道路を挟んだ私有地にありました(写真④)。

私は実際に坂本城の本丸跡に立ち、そこから安土城があった方角を眺めてみました(写真⑤)。確かにここからは安土まで見渡す事ができます。光秀は出立までの9日間、ここ坂本城の天守から、当時あの場所にあった朱と金色に輝いていた安土城の天主を、どのような思いで見つめ、どのような葛藤を抱えていたのでしょうか?🤔

【余談】
この後光秀が、途中愛宕権現に参拝し三度おみくじを引いて三度とも凶を引き当てた話は有名なので、私も愛宕権現まで行ってみようかと思いましたが、大変な山の中のようなので、行けば時間が足りなくなってしまうと思い今回は断念しました。よって光秀に代わり一句、

「時(土岐)は今、雨(天)が下し(降)る 五月哉(かな)」😊

(第3回「丹波亀山城」へ続きます)
 

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ブルトーザー

(2022/04/27 訪問)

4月末に、弘前城~松前城~五稜郭を巡ってきました。3泊4日の行程で、内3日は晴天でお城とともに桜を満喫してきました。

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カズサン

二の丸東周探訪と天守群眺望 (2009/05/24 訪問)

 甦った松代城を十二分に探訪し、尼ヶ淵絶壁石垣上田城訪ね、戸倉上山田温泉に泊まった翌日、松本城を13年前の平成21年5月下旬、探訪しました、車は何時もの松本城北西に在る有料駐車場を利用。

 今回は探訪した約10年目に復元した太鼓門桝形、二の丸を東側外堀から眺め、北側外堀、広い本丸内濠越しに天守群を眺めて、黒門から本丸に入り天守群を眺める、天守には登らず。
 二の丸太鼓門桝形は平成11年の復元、二の丸北東角の丑寅櫓台も整備されて居ました、二の丸御殿の平面表示、北の木橋復元、北側の外堀も石垣が綺麗に残って居り、葉桜でしたが桜の頃はさぞ映える事でしょう。
 漆黒の松本城天守群は何処から見ても素晴らしい、長く大切にしていきたい国宝です。

 

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todo94

県内の城めぐり2022㉓ (2022/05/07 訪問)

9年前のゴールデンウイーク以来の攻城です。前回は山家城攻城の後、高崎に向かい中学の同窓会に参加したのですが、痛飲、泥酔、激しく嘔吐した苦い記憶が残っています。2度目の攻城にもかかわらず、獣よけフェンスの正面に伸びる足下がぬかるんだ沢を登りその後急斜面を直登する羽目になってしまいました。登城路は獣よけフェンスのすぐ右手に伸びています。高石垣が見られる郭は最も新しい郭だそうで「甲信越の名城を歩く」によると武田氏滅亡後に作られたのではないかとのこと。今回は五重堀切の先の秋葉神社が鎮座する郭、更に堀切を越えた最高所の郭まで脚を伸ばすことが出来て満足です。まだ、未踏の郭が残っているので今後の楽しみにとっておきます。現在でも小笠原氏城跡として長野県史跡に指定されていますが、遺構的には国史跡の価値が十分にあると感じています。

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前ちゃん

工事中 (2022/05/23 訪問)

JR三春から乗り継ぎ、二本松城へ行く予定が寝過ごしてしまい、そのまま北上して、白石城へ

三重櫓は工事中のため、すっぽりと囲まれた

隣の歴史探訪ミュージアムを見学し、墓参りして帰路につく

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朝田 辰兵衛

散策の動線は… (2022/05/21 訪問)

散策の動線は,地下鉄東山線高畑駅⇔荒子城⇔あおなみ線荒子駅で計画したほうが宜しいかと思います。荒子城⇔あおなみ線荒子駅間は,ほぼほぼナナメにアクセスできるので,とても効率がいいかと思いますので。
なんとか雨も上がり,日没にも間に合ったので,とても安堵しました。

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小城小次郎

言われてみればお寺っぽいお城ではある (2022/01/08 訪問)

へんてこな名前はもともと山上にあった「中道寺」から来ているらしい。赤松氏かその一族の孝橋氏によって中道寺は山麓に移されて現在の安楽寺になったそうだ。言われてみればどことなくお寺っぽいお城ではある。

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宗春

若狭・越前攻略戦④金ヶ崎城 (2022/05/05 訪問)

ゴールデンウィークに友人と福井県のお城を訪問しました。
百名城や御城印のあるお城を中心に攻めていますが、金ヶ崎城は「越前若狭五名城」御城印巡り企画に参加して限定御城印を頂こうという事で立ち寄りました。ただ、この日既に山城を二つ攻めていて疲れ切っていたので、途中まで行って引き返して来ました。

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higekam

荒木村重が出世のきっかけとした城 (2022/05/23 訪問)

周囲を宅地化、本丸は公園化され城としての遺構は本丸を囲む堀、自然の崖くらい。
ただ、木造で作られた模擬櫓はそれなりの味わいがある。

この城を拠点にして、村重は近くを流れる猪名川を約5km下ったところにある伊丹氏の伊丹城を攻略。本城をそこに移し有岡城と改名した。これからそちらへ移動する。

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higekam

惣構を歩いて実感 (2022/05/23 訪問)

まるでブラタモリだが、惣構をぐるりと歩いて高低差を実感。
市街化されているため遺構はほとんど残されていないが、JR伊丹駅西隣の本丸をスタートし、、最南端の鵯塚砦から途中上臈塚砦を経由して北端の岸の砦を訪ねた。岸の砦の土塁跡は分かりやすい。
大坂城、小田原城ほどの規模ではないが信長が攻めあぐんだのも理解できた。

それにしてもこの惣構を作った荒木村重という男はいまだに理解できない。

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ぴーかる

家原城 (2022/04/30 訪問)

【家原城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>JR津久野駅から徒歩

<感想>2022年春のJR列車大阪ちょこ城巡りの旅5城目。家原城は現地説明板によると1566年には三好義継・三好三人衆と対立する松永久秀方の侍(泉州衆)らが立て籠もっていましたが、出撃して敗れました。1568年には三好義継の家臣が立て籠もっていましたが、京都奪還を目指す三好三人衆に攻められ落城します。
 城跡の遺構は消滅しているようで石碑と説明板があり冠木門の所は地区のお祭りなどで使う広場だそうです。

<満足度>◆◇◇

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チェブ

つまり、榊原 康政さん誕生地。 (2022/05/04 訪問)

「上野上村城」は県道239号沿いの『上郷区民会館』の横にありました。

鳥居があり、奥にお社が お祀りしてあります。
高い場所で、下は水田か畑だったと思います。
鳥居をくぐると異空間です。
虫達も歓迎してくれました、、、。

説明板によると、戸田 宗光さんが築いたようです。
「上野上村城」の城主は、目まぐるしく変わります。
その後、宗光さんの次男 家光さん。勢力拡大の為「田原城」に移ります。
その後、阿部 孫次郎さん。で、松平氏。で、酒井 忠直さん。
調べたら、今川家の「上野上村城」期間があったり、織田 信秀さんも攻めて来たりしてます。
でもって、三河一向一揆が勃発しました。
そうして最終的に家康さんの「上野上村城」になりました。お疲れ様です。

説明板には、たくさんの先人達のお名前が見られます。
でも、、、正直に言うと~『榊原 康政生誕之地』の石碑を見た時が、1番テンションが上がりました 。 ( *´艸`)

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宗春

若狭・越前攻略戦③敦賀城 (2022/05/05 訪問)

ゴールデンウィークに友人と福井県のお城を訪問しました。
百名城や御城印のあるお城を中心に攻めていますが、敦賀城は大谷吉継ゆかりの城という事で、友人の希望で立ち寄りました。遺構はほとんどないため、敦賀西小学校の説明碑と真願寺境内にある城址碑(&礎石)だけ確認しました。

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前ちゃん

朝駆け (2022/05/23 訪問)

大河「独眼竜政宗」では後藤久美子と桜田淳子が演じた「愛姫」(政宗の正室)の田村家の城

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前ちゃん

曇天の中 (2022/05/22 訪問)

久々の3連休で、東北へ遠征。会津鉄道・西会津駅からバスで東小松下車し、歩く。途中地震の速報(現地は震度3)。雨を気にしながらの登城。下山時に慌ててインフォセンター前に下るはずが、逆ほうこうへ。とんだ時間ロスをしたが、無事バスに乗り込み会津若松城へ。

登城口すぐのギャラリーに蘆名氏関連のパネル展示

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トク

明智光秀「最期の30日」を辿る 【第1回】安土城(信長の館)  (2022/05/07 訪問)

(「前書き」からの続きです)

織田信長より安土城にて甲斐の武田勝頼を滅ぼした徳川家康を慰労すべく饗応役を任された光秀は、天正10年(1582年)5月15日からの3日間その役を務めます。そして3日目、もうすぐ無事に終わると思ったその時、魚の臭いに激怒した信長は光秀を折檻し、饗応役を解いてしまいました。そして同じ頃、備中高松で毛利と対峙している秀吉から援軍要請の文が届いたため、信長は光秀に自分の代わりに援軍として向かうよう指示します。この事への逆恨みから謀反の心が芽生えたとういうのが一般的な通説(江戸初期に書かれた「川角太閤記」から)ですが・・・

安土城の近くにある「信長の館」を訪れてきました。当時の安土城の5~6階部分が実寸大で展示されています。それはもう唖然としてしまう程の迫力ある豪華絢爛で見事なものでした😲~(写真⑤⑥)。何と宣教師が書いたという信長の肖像画もありました(写真⑦ 信長ってこんな顔だったの?)。そして何より見たかった、光秀が出したという膳のレプリカが展示されていました(写真①~④)。最高の食材をよく吟味し、そして一流の料理人が作っているので、いくら冷蔵庫がない時代とはいえ、出した魚が臭いなんて事は実際にはありえないと思うのですが・・・・(🤔~しいていえばこの魚かな?)

【補足】建造物自体は著作権で守られているので、写真⑤⑥は他の承認されたHPからの引用とさせて頂きました、御容赦下さい。
【アクセス】安土駅から安土城までの交通機関は全くないですが、駅前にレンタサイクルがあり安く回れて便利でした。オススメです(写真⑧⑨)。

【余談(あくまで私の推測で申し訳ないですが・・・)】
私としては、最後の3日目の最後の膳になって饗応役を解いても何の意味もないと思うので、饗応は3日間とも無事に終ったのではないかと思っています。そして、「明智軍記」によると、光秀は饗応の前にはすでに、「出雲・石見に出陣せよ、そして坂本に代わり切り取り次第、出雲・石見を領地として光秀に与える」、との信長からの命を受けていたので、予定通り饗応が終了したので出陣の準備に入ったのではないかと考えています。武田亡き後、信長の当時の最優先課題は、残る反信長の最大勢力である毛利を何とか屈服あわよくば滅亡させる事であり、秀吉と光秀で東と北から包囲し圧力をかけていく作戦ではなかったかと。「川角太閤記」自体は、後の江戸時代に入り田中吉政の家臣が又聞きやうわさをまとめたものなので信憑性となると? という感じです。
しいて本当に魚が臭いと言ったのであれば、信長の気持ちとしては、光秀が3日間あまりにも完璧な膳を用意し家康から気に入られてしまったので、嫉妬心から「ちょっと最後はいじめてやろう」というぐらいの気持ちと、家康と光秀があまりにも親しくなりすぎたので「今後の為にまずいかも」と思ったのか、魚が臭いなどと言いがかりをつけ、折檻のふりをして二人を試したのかもしれません。光秀も信長の性格は熟知しているので、こんな事でいちいち逆キレして謀反まで計画する程の単純な人物ではないはずです。謀反はむしろもっと大きな理由で決断したと思いますが・・・皆さんはこの辺をどう思われているのでしょうか? (永遠の謎ですね😊)

(第2回「坂本城」へ続きます)
 

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トク

明智光秀「最期の30日」を辿る 【前書き】

天正10年(1582年)5月15日(旧暦)に安土城にて徳川家康の饗応役を務めてから、6月13日深夜、小栗栖・醍醐の地にて死するまでの、明智光秀「最期の30日」の足跡を辿ってみる事にしました。しかし仕事の休みが3日しかとれず、30日分を3日で巡るというハードなスケジュールになってしまったため、写真などを含め内容が十分でなかったり、また一部誤りがあったりするかもしれませんが、その点は御容赦願いたいと思います。また、光秀については数えきれないほど多くの諸説がありますが、今回は通説とされている内容で追って行こうと思います。内容がちょっと多いので数回に分けての投稿になるかと思いますが、最後まで読んでいただけたら幸いに思います。よろしくお願いいたします😊。

では第1回「安土城」から始めます。
 

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