現地の石柱は「福本藩陣屋」。江戸時代の大半を交代寄合として過ごした福本池田家だが、始まりと終わりだけは確かに福本藩だったので福本藩陣屋の方が正しいのだろう。池泉回遊式の大きくて立派な庭園が残る。
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2022/06/19 13:09
福本陣屋か福本藩陣屋か (2022/01/10 訪問)
現地の石柱は「福本藩陣屋」。江戸時代の大半を交代寄合として過ごした福本池田家だが、始まりと終わりだけは確かに福本藩だったので福本藩陣屋の方が正しいのだろう。池泉回遊式の大きくて立派な庭園が残る。
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2022/06/19 09:45
騎西城に行ってきました (2022/05/04 訪問)
騎西(私市)城は1400年前後に太田氏が築いたとされる城です。
そして色々な戦国大名がここを中心に戦に臨みました。
《北条、上杉時代》
元々は足利氏の領土でしたが上杉氏、北条氏などが城主を務めました。
1560年に、小田助三郎が城主の時上杉謙信が関東征伐に来た時に、
一度は上杉方になりますが、兄の忍城主成田長泰が謙信に鶴岡八幡宮で、
辱められ(はずかしめられ)、北条側に離反し、助三郎も離反しました。
1563年(永禄6年)には、武田、北条連合軍に松山城を攻められ、
報復に騎西城を攻略しました。
さらに、1574年(天正2年)には北条氏照が関宿城を攻撃した際には、
騎西、古河、栗橋、舘林、菖蒲、岩付の埼玉、群馬、茨城三県の城を焼き払いました。
その後は主だった戦はありませんでしたが、1590年に豊臣氏による北条征伐が始まると、
落城しました。
《徳川時代》
その後は徳川領となり、松平康重が二万石を拝領しおさめました。
その松平康重が1599年(慶長四年)に亡くなると、大久保忠常が2万石をおさめましたが
祖父の大久保忠隣(ただちか)が改易になると、忠常も閉門に処せられてしまいました。
その忠常は1625年(寛永2年)に赦免されると元の通り2万石を拝領し
1632年(寛永9年)に美濃国加納城に転封するまで、城主を務めました。
転封後は廃城になり、代官所がおかれました。
《現在》
近くにある郷土資料展示室は、一見天守のように見えますが、
ここには天守が築かれておらず模擬天守であり場所も昔の堀の中です。
展示室には騎西城についての展示がありますが、滅多にあくことはありません。
入りたいのでしたら、事前に調べることをお勧めします。
唯一の遺構は天神曲輪あとの土塁しかなく、それ以外は何もありません。
【城情報】
・形式 ❙平城(沼城)
・築城年 ❙1400年前後
・廃城年 ❙1632年(寛永9年)
・築城者 ❙はっきりとしていない
・最後の城主 ❙大久保忠隣
・廃城理由 ❙大久保忠隣が美濃国加納城へ転封になったため
・主な城主 ❙足利氏→佐々木氏→小田氏→成田氏→小田氏→松平康重→大久保氏
❙ 北条氏 ❙ ❙ 徳川氏 ❙
・遺構 ❙土塁
・主な建築物 ❙郷土資料展示室
・説明看板、石碑 ❙両方有
・駐車場、トイレ ❙両方有 (トイレは資料展示室横の生涯学習センターで)
・天守 ❙模擬天守(郷土資料展示室)
・保存状態(自身判断)❙遺構が少なく、模擬天守と思われる展示室が堀の中にあるため
❙普通
・備考 ❙・沼を利用した城
❙・すべての曲輪が、何処なのかよくわからない
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2022/06/19 09:16
模擬天守があっても、、、。 (2022/04/30 訪問)
藤田氏が築いた「天神山城」です。
北条 氏邦さんが、100名城の「鉢形城」に移るまで「天神山城」に居城してました。
藤田氏を調べたら、北条 氏邦さんは藤田氏の娘婿にあたります。
藤田氏は居城を移します。
嫡男は、氏邦さんに毒殺されました。弟の信吉さんは北条家を離れます。
なんだか、自分も危ないと感じたのでしょうか?
信吉さんは、武田 勝頼さん→滝川 一益さん→上杉 景勝さん→徳川 家康さん→徳川 秀忠さん、と主君を代えました。どの家中でも重宝される人材です。
、、、脱線しました。
「天神山城」は白鳥神社の裏山を登ります。
車は、向かいの集会場に駐車しました。
写真⑥から出陣。ここが正解か分かりませんが、他に入口が見つかりません。
途中に小さな祠がお祀りしてました。
が、その先に続く山道が急です。
昭和の遺構の模擬天守が廃墟化してるとの情報に、楽に到着するのではと、楽観視してしまいました。
退陣です。
もし、模擬天守が観光スポットになっていたら、どこから入城させるつもりだったのかなぁ?
悩む「天神山城」です。
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2022/06/19 08:16
2022/06/19 07:31
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:古池城 (2022/06/10 訪問)
菊之城からの転戦です。浦田墓地石碑付近(32.951747、130.802209)に路駐しました。
築城年代は定かではないようです。菊池十八外城の一つとされ、出田氏累代の居城と伝えられています。出田氏は菊池氏三代経頼の孫経信から始まるそうです。
天文年間(1532年〜1555年)に城親賢、天正年間(1573年〜1592年)に城親冬が在城したとも伝えられています。
主郭の中心に古墳状の土壇と祠があるのみで、遺構はよくわかりません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=神尾城に向かいます。
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2022/06/19 07:25
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:菊之城 (2022/06/10 訪問)
戸崎城からの転戦です。道路脇(32.969539、130.806347)に路駐しました。田んぼの小高い所(32.970089、130.806635)に説明板と城碑があります。
築城年代は定かではないようです。延久年間(1069年〜1074年)に菊地則隆によって築かれたと伝わります。
十六代菊池武政のとき菊池城に居城を移した後は、菊池十八外城の一つとして利用されました。
田んぼの小高い所に石碑と案内板が建っています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=古池城に向かいます。
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2022/06/19 07:20
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:戸崎城 (2022/06/10 訪問)
城林城からの転戦です。林道入口(32.971560、130.820233)から進入し、200m先にある弁財天入口付近(32.972573、130.821530)に駐車しました。
築城年代は定かではないようです。菊池十八外城の一つとされ、鹿島氏累代の居城と伝えられています。
駐車した道路脇付近に城址碑があり、ここを東側に上がって行ったところが物見です。(攻城した時は、こちらが戸崎城と勘違いしていました)
駐車した場所から西側に上がっていったところに、弁財天が奉られている高土塁のような土台があります。
弁財天が物見だと勘違いして引き返してしまった為、主郭はみていません。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=菊之城に向かいます。
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2022/06/19 07:12
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:城林城 (2022/06/10 訪問)
隈府城からの転戦です。「木庭城址 この上」道標前(32.981409、130.829033)に駐車しました。そこから主郭まで100mくらいです。
築城年代は定かではないようです。菊池十八外城の一つとされ、城主は城武顕と伝えられています。城氏は菊地一族で山鹿郡城村発祥とのこと。
城林城は別名=木庭城と云います。
本丸近くまで車道が延びていますが、「木庭城址 この上」に至るまでの道はとにかく狭いです。
本丸の東側に堀があり、畑になっています。撮った写真はピンボケが多く、投稿写真が少なくてすみません。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=戸崎城に向かいます。
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2022/06/19 07:06
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:隈府城 (2022/06/10 訪問)
隈部氏館からの転戦です。菊池神社駐車場付近(32.987925、130.8164651)に駐車しました。
築城年代は定かではないようですが、正平年間(1346年〜1370年)に菊池氏によって築かれたと云われています。
菊池氏は太宰府官藤原政則の子孫とされ、藤原則隆のときに肥後に下向し菊の池城を築いたそうです。十六代菊池武政のとき、菊の池城から隈部城へと居城を移しました。
南北朝時代には、南朝の有として肥後国を中心に九州全土にその勢力をのばしましたが、北朝方の今川了俊が九州に下向してくるとその勢力は衰退しました。
兼朝の時、肥後国守護職を回復し戦国時代に続きますが、大友氏に破れ嫡流が途絶えました。
菊池氏が滅亡すると赤星氏の勢力下になりますが、隈部氏によって追い出され、隈部館から隈部氏が移り居城となりました。
隈部氏は北侵する島津氏に降伏しましたが、豊臣秀吉による九州征伐で秀吉に降伏し本領を安堵されました。
しかし、熊本に入封した佐々成政が検地を行うとこれに反発して挙兵し、成政が菊池城に押し寄せると城村城に籠もってこれに対抗しました。
これが、きっかけとなって肥後国衆一揆が広まり、成政は謹慎の後に切腹、隈部氏もまた嫡流は断絶しました。
菊池城は現在の菊池神社の境内に築かれていました。
菊池城の遺構の大半は消滅してしまっているようですが、神社の北側に巨大な空堀と高土塁が残されています。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=城林城に向かいます。
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2022/06/19 06:46
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:隈部氏館 (2022/06/10 訪問)
葛原城からの転戦です。隈部氏館跡駐車場(33.054801、130.796977)に駐車しました。
築城年代は定かではないようですが、隈部氏によって築かれました。
隈部氏は大和源氏宇野氏の末裔で、菊地氏に仕え隈部の名字を与えられたと云われています。
隈部氏は菊池家臣団において城氏や赤星氏らと並び重要な地位にありました。
菊池氏が没落すると大友氏や龍造寺らと結んで勢力を拡大し、1578年(天正6年)には赤星氏を隈府城から追放し、隈府城を本城として移りました。
隈部氏はその後、肥後に入封した佐々成政に従いましたが、隈部親永は成政の検地に反発して挙兵します。
これが肥後国人一揆の発端となりましたが、豊臣秀吉が派遣した援軍に降り、隈部氏は滅亡しました。
隈部館は隈部神社の境内となっています。
主郭は広く庭園跡や礎石建物跡が残っています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=隈府城に向かいます。
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2022/06/19 06:39
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:葛原城 (2022/06/10 訪問)
五社尾城からの転戦です。葛原城1.6Km道標がある付近(33.011977、130.822523)から林道に入り、入口付近の駐車スペース(33.027178、130.828258)に駐車しました。そこから主郭まで100mくらいです。
築城年代は定かではないようです。菊池十八外城の一つとされ、市野瀬氏累代の居城と伝えられています。
林道を進めば辿り着きます。そこからは案内標識に従って歩けば主郭はすぐです。
葛原城は現在、栗畑となっていて遺構はなく、説明板と石碑があるのみです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=隈部氏館に向かいます。
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2022/06/19 06:30
202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:五社尾城 (2022/06/10 訪問)
鷹取城からの転戦です。標識があるカーブミラー付近(33.019180、130.852359)に路駐しました。そこから主郭まで600mくらいだと思います。
築城年代は定かではないようです。菊池十八外城の一つとされ、城主は不詳ながら大和守大蔵久家とも伝えられています。
主郭の150m?くらい手前で蔦に阻まれ先に進めず、攻城を断念しました。
途中断念しましたが攻城時間は30分くらいでした。次の攻城先=葛原城に向かいます。
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2022/06/18 20:59
石積あります (2020/11/28 訪問)
整然としている石積は綺麗で芸術作品の様に思える時もあるが、破損している石積や不揃いの石積、無造作感のある石積は近世の石積に比べると出来損ない感があるが、実はこちらの方が好みだったりする。こちらは城域自体はさほど広く感じなっかたが、その割に多くの石積が点在している様に感じました。
駐車場から二の丸に達するまでには一部急な坂道を登ります。いくつかの自然石の間を抜けると石積で補強している二の丸の虎口にたどり着きます。ほぼ全周に土塁があり石塁も見受けられます。樹木の関係もありますが本丸よりもが眺望が良かったです。
本丸にも大手と搦手以外の全周に渡り土塁が施され、各所に石積が点在しています。搦手から北側に向かうと案内図の位置に横堀などの遺構を見ることが出来ます。
所要時間1時間10分:1.8km:累計高低差216m
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2022/06/18 20:51
畝堀・障子堀 (2022/06/11 訪問)
山中城は、戦国時代末期小田原に本城を置いた後北条氏が築城した山城です。標高580m・城の範囲は東西500m・南北1000mにも及び、武田氏・今川氏との国境の境で、北条方西方の最前線の要の城として重要視されました。
その後、豊臣秀吉公と不仲になり秀吉公の小田原攻めに備え、急ごしらえで堀や岱先出丸等増築しましたが、増築が未完成のまま豊臣軍の総攻撃を受けました。北条方4千・豊臣方4万10倍近い圧倒的兵力の前に半日で落城したといわれています。
現在の山中城は、国指定史跡・日本百名城として土塁に囲まれた各曲輪・堀・北条の城の象徴である畝堀・障子堀が400年前の遺構がそのまま復元されています。駐車場・トイレも完備されており、各曲輪に説明板が設けられ、散策しやすい城跡です。
4度目の訪問で、此処から見る富士が自分は一番好きなのですが、この日は生憎の曇り空で富士を拝むことが出来ませんでした(>_<)
石を使わない土だけの山城ですが、見所満載の城跡です。(*^▽^*)
5月、八木城跡を訪問した際、登城口に城山登山者アンケートがBOXに入っており、回答したところ、「まんが八木城と内藤ジョアン」の小冊子が八木城観光協会から届きました(*^▽^*)ちょっと得した気分です。ありがとうございます。
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2022/06/18 17:06
銀閣寺の裏山 (2022/06/18 訪問)
銀閣寺の裏山が城址で、三好長慶に追われた足利義晴、義輝親子が京都奪還の足がかかりとして築いたとされています。土塁や浅くなってはいますが、堀切を見ることができます。水の手はどこだろうと思っていましたが、下山したときに大文字送り火の看板をよく見ると「道の途中の名水は中尾城跡の本丸より流れている水です」と書かれていました。どこに流れているのかわかりませんでした。予想していたより急峻な山で、足場も少し悪いところがありますが、登山道は概ね整備されています。大山出城を散策後、中尾城に行きました。城址を過ぎれば大文字山まで行くことができ、この日も多くの方が登山を楽しんでみえました。自分は城址から大文字山には行かず下山しています。
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2022/06/18 16:53
残っていれば (2022/06/18 訪問)
遺構は移築門等以外はないと思っていますが、3カ所石碑を見つけました。
新型コロナウィルスも落ち着きつつあり政府も方針を変えたこともあり京都には人が戻ってきていますね。修学旅行と思われる学生さんたちを多く見かけるようになりました。
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2022/06/18 12:49
2022/06/18 12:45
9/12城目 (2022/05/20 訪問)
善照寺砦から坂を下り、扇川を目指します。住宅が立ち並ぶ舗装道路で感じる山城(砦)感。関東平野や江戸の埋め立て地ではなかなか味わえないおもしろさがありました。所有者様のご好意により見学させていただける城碑。ありがたかったです。
中島砦の見学を終えた時点で15時50分。早朝5時台に東京の自宅を出立してから休憩なしで10時間以上経過しましたが、日没までまだ2時間余りあるのでそのまま鷲津砦・丸根砦・大高城に向かいました(=゚ω゚)ノ
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2022/06/18 12:43
8/12城目 (2022/05/20 訪問)
丹下砦から徒歩20分くらい。長い坂を上ったところの砦公園は山頂を削平したそのままが広場になっているように見え、ほかの児童公園では感じたことのない曲輪感がありました。周辺の段や眺望によるものも大きいです。信長がここから義元本陣を睨んでいたのだと思うと感慨深く、それだけで充分満足、目的を果たせました。
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2022/06/18 12:41
7/12城目 (2022/05/20 訪問)
鳴海城から徒歩15分くらい。目指すは住宅地の中の1枚の説明板。見つけられるかドキドキしながら下って曲がって上って彷徨いました。きっとそのあたり全て砦跡です。説明板の場所を提供してくださっている方に感謝です。
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