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朝田 辰兵衛

富士山眺望(2/2) (2022/01/09 訪問)

予告どおり,富士山眺望してきました。大月市観光協会HPに案内されている,畑倉登山口で登り,浅利登山口で下山するというルートです。
事前に「すべる」という情報は入っていたのですが,何がすべるのかわかりませんでした。実際に行ってみて,小砂利が原因なんだというのが身をもってわかった次第です。少し大げさかもしれませんが,パチンコ玉の上を歩いているカンジ。スパイク系のシューズでないと,足元が流されます。油断すると転びます。尻もちはつきませんでしたが,下山時に2度「ズルッ」と行きました。なので,個人的には岩場のほうが安心できました。
写真は,畑倉登山口で登り,浅利登山口で下山するというルートに沿って,2回に分けてアップします。

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朝田 辰兵衛

富士山眺望(1/2)~鬼の岩屋は凍ってた~ (2022/01/09 訪問)

予告どおり,富士山眺望してきました。大月市観光協会HPに案内されている,畑倉登山口で登り,浅利登山口で下山するというルートです。
事前に「すべる」という情報は入っていたのですが,何がすべるのかわかりませんでした。実際に行ってみて,小砂利が原因なんだというのが身をもってわかった次第です。少し大げさかもしれませんが,パチンコ玉の上を歩いているカンジ。スパイク系のシューズでないと,足元が流されます。油断すると転びます。尻もちはつきませんでしたが,下山時に2度「ズルッ」と行きました。なので,個人的には岩場のほうが安心できました。
写真は,畑倉登山口で登り,浅利登山口で下山するというルートに沿って,2回に分けてアップします。

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赤い城

見事な石垣が残る (2022/01/15 訪問)

小島藩の藩政の中心地で石垣が見事に残っています。
龍津寺に車を駐めさせて頂きましたが裏門付近の道路に路駐もできそうです。
正規の入口付近は道も狭いので車の場合は注意が必要。
陣屋には本格的な石垣が残っています。
三段の曲輪になっていてかなり本格的な防御構造が見られます。
登城時は石垣の一部が改修中でした。
小島氏は一万石の小大名であったにも関わらずこんなに凄い石垣。
何がこうさせたのでしょうか。
大手の虎口は枡形になっていてそこから大手門にも向かい素敵な石垣が残っていました。

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カズサン

復元天守台と現存松崎口南方西面長大高石垣が見所 (2011/05/06 訪問)

 ホテルの朝食を早々に済ませ本日初登城の櫛崎城を目指す、車は関見台公園駐車場を利用、復元天守台の北下に当たります。

 櫛崎城は関門を見張る海城です、中世大内氏の重臣内藤氏が築いたと言われ、関ヶ原後毛利秀元が長府藩5万石として櫛崎城を改修し今残る大石に由る長大な石垣を残してる、元和の一国一城令で櫛崎城は廃城と成り、麓に居館(現豊浦高校)を設けて長府藩の治政を行う。
 毛利秀元は関ヶ原前は長門17万石の太守で長門宰相とも呼ばれ秀吉にも可愛がられ関ヶ原では西軍毛利方の総大将を務めが吉川、福原氏の家康への内通にて動けず、戦後毛利方は長門、周防二ヶ国36万石に減封、秀元も5万石で支藩長府藩5万石と成りさぞ無念だった事でしょう、でも後年家光の御伽衆と成り江戸で72歳で終焉を迎える。(櫛崎城の案内石板の抜粋と一部追記)

 櫛崎城は現在周囲が埋め立てされてますが当時は半島状に瀬戸内海に突き出し軍船の船着場が三ヶ所在り、南側の岬頂部に本丸と天守台、天守閣が建ってた様にも伝わって居ますが?北に館屋敷群を二の丸と三の丸で分けてる様子、現地では中間地に石垣が残り二段に成ってる、三の丸北西角に松崎口虎口を石垣で囲み櫓門と二重櫓と平櫓で守ってる、本丸と二の丸の間から東の海岸に抜ける三軒屋虎口が有り浜は軍船の船着きが関門海峡が一望、北の半島上の突き出しは現在豊功神社で毛利秀元公を祀っているが当時は出城的活用、櫛崎城の西側には内堀が大きく設けられ軍船の船着場にもなって居た様子。
 情報は藤井尚夫氏の「復元ドキュメント・戦国の城」櫛崎城編、余湖図コレクションさんに依る。

 復元天守台からの眺望は素晴らしく絶景です、遠くに関門海峡大橋、門司側の門司城の山容も確認できます、松崎口の大石を用いた長大な石垣は西側に南方方向約100m以上は有り、途中に折れが横矢掛り樹木に隠れてる二の丸本丸方向にも土塁、石垣が確認され見事な造りが残って居り、見所の一つです。

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イオ

東峰 ~山岳寺院の城郭化 (2022/01/08 訪問)

戦国中期に和泉国守護代の松浦守が築いた城で、当初は野田山城と呼ばれていましたが、根来寺の支配下となった際に根福寺城に改称されました。羽柴秀吉の紀州攻めの史料には根福寺城は登場せず、それ以前に廃城となったものと思われます。

秬谷川と大川に三方を囲まれた山上に位置し、東峰・西峰と呼ばれる東西二つのピークを中心に連郭式に曲輪群を配した一城別郭の城で、南側を通る水間街道を掌握して根来寺の泉南進出の拠点として機能したと考えられます。規模において摂津国の芥川山城や河内国の飯盛山城に匹敵する和泉国最大の山城です。

大川バス停から南に入る道の広くなったあたりに駐車して登城開始。登城口の少し西には説明板が建てられており、駐車場所近くの墓地の入口にある五輪塔を浮き彫りにした墓石は殿の墓と呼ばれ、築城主である松浦守の墓とされます。
さて、登城口から登って行くと、先人の投稿にある通行困難な状態は解消されていますが、道案内の標識などはないため分岐を見落としてしまい、引き返したり山中を直登したりしつつ何とか二重堀切に到着。東峰から東にのびる尾根筋を断ち切る二条の堀切が状態良く遺っていました。二重堀切から段曲輪を三段ほど上ると東峰の最高所に狭い主郭があります。主郭から北にのびる尾根にも階段状に曲輪が連続しており、ところどころに石が散乱していました。また、北尾根の西側斜面の曲輪群には二段の石積みがあったり、古瓦片も多数見つかっていることから、東峰は山岳寺院(根福寺)を城郭化したものと考えられます。東峰は総じて灌木や藪が茂っていて、北尾根の北端には堀切と竪堀、土塁もあるようなんですが、シダに沈んでいて確認できませんでした…。
主郭から西に段曲輪を三段ほど下りて行くと、大門と呼ばれる東峰と西峰の鞍部に至ります。大門には石積みが遺り、根福寺城の大手門だったようです。続いて、大門から西峰に向かいます(続く)。
 

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todo94

滝山城に向かう途中 (2021/12/18 訪問)

八王子駅から徒歩で滝山城に向かうという結構無謀な計画で、その途次に立ち寄りました。八幡八雲神社の中にある横山神社に説明板がありました。

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小城小次郎

神須牟地神社(よめなかった) (2021/09/20 訪問)

南北朝期からちょいちょい登場し、最後は大坂の陣で徳川方の砦として使用されたのだとか。当然何もないが砦跡に建つ神須牟地神社は周囲より若干高いところにある。にわかには読めない神社だが「かみすむじ」と読むそうだ。

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じゅんじん

雑賀孫市 (2022/01/07 訪問)

伝説の武将 雑賀孫市のお城です。特に見どころはありませんでした。

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じゅんじん

海防 (2022/01/07 訪問)

紀州藩の台場です。和歌山城も見えました。

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じゅんじん

和歌山城 (2022/01/07 訪問)

人少なめでした

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ダイエティシャン

城主に昇格させてあげたい (2022/01/23 訪問)

雨の中の松江城も、趣がありました

三の丸を探索中に、気配がして、忍び寄ると、いました。雨の中、猫2ひきが、身を寄せ合って、木の中に忍んでいました。同盟を結ぼうと近づきましたが、槍や火縄銃よりも怖い、【シャー】攻撃を受け、退散しました。国宝の猫の守りは固かったですか。じっくり攻めて行きたいです。

この猫達、城主に昇格したら、本丸御殿でも建てて貰え、優雅に暮らせるのに、、。とかわいそうに思ってきました。

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赤い城

新東名とミカン畑 (2022/01/15 訪問)

周囲に駐車場は無く清水ナショナルトレーニングセンターに駐めさせてもらいました。
そこから徒歩で10分くらいのところに城跡を示す場所があります。
しかし新東名の建設によって遺構はほぼなさそう。
主郭であろう山頂部はミカン畑になっていてこの時季侵入するのも微妙。
美味しそうなミカンが生ってました。
庵原氏が守る今川氏の支城でしたが武田氏に奪われました。
その後朝比奈信置が改修したとされますが今ではさらにNEXCO中日本によって改変どころか破壊されてしまったようです。

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チェブ

また、ひたすら反対側を歩く。 (2022/01/03 訪問)

昨日、投稿した「木出城」から「岩富城」へ転戦し、またしても、迷いました。
安心して下さい。皆さんは大丈夫、迷いません。

原 景広さんが築きました。
その、ずっと後、秀吉さんの北条征伐で原氏は滅びました。
北条 氏勝さんが「玉縄城」から入城しました。
???。同じ、北条氏なのに?
と、いう疑問から調べてみたら、氏勝さんは北条征伐時、100名城の「山中城」で籠城。脱出して「玉縄城」で籠城。
家康さんに説得され降伏しました。その後、北条方のお城に開城するよう説得に奔走しました。
氏勝さん、辛い お立場です。
そして、家康さんの家臣になりました。
なるほど。
北条氏も歴史がある分、御一人御一人に沢山のドラマがあります。

さて「岩富城」、皆さんの情報同様セブンイレブンに駐車して歩いて向かいました。
写真③~⑦が歩いた順番です。写真③の奥が「岩富城」だと確信しロックオン。
セブンイレブンを背に左手に進みました。
怪しい茂みに登城口を探しましたが、ありません。
もしくは、皆さんの投稿写真にある、浅間神社の鳥居が、見えてくるかとウロウロしましたが、見つけられません。
茂みを見上げ、10分以上は迷っているので、セブンイレブンに戻りました。
これ以上、駐車できないので、右手から出庫し坂の途中に、鳥居を発見しました。
ありゃ〰️!こっちかぁ!
と、自分のバカさ加減に嫌気がさし、路駐して、説明板と浅間神社の鳥居を写真を写し退陣しました。

北条 氏勝さんの「岩富城」、素晴らしい高低差のみ確認できました。

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駿府匠宿から (2022/01/23 訪問)

 丸子城へ久しぶりに行って来ました。
山城の遺構がよく残って見所が多く、しかも交通の利便性もよい城址です。堀切や三日月堀など魅力的な遺構が多いですが、何といっても本丸の北西にある馬出と竪堀がいいですね。ただ、前に来た時よりシダ類が多く生えているような気がしました。竹や倒木もあり遺構が確認しにくい所もあります。それを差し引いても多くの遺構を堪能できる城址です。
JR静岡駅よりバスに乗り約30分、吐月峰駿府匠宿入口バス停にて下車、徒歩5分で登城口に着きます。そこから約10分も登れば城域に到達することができます。道は概ね整備されています。

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昨年1月31日冬に攻城した備中松山城 (2021/01/31 訪問)

昨年の今頃に備中松山城に訪問致しました。
備中松山城は、日本3大山城のうちの1つで有ります。
別名は、高梁城と言います。
現存天守12城のひとつでもあり、この中で唯一の山城で有ります。
小松山に本丸、二の丸、三の丸が階段状に配され、大松山、天神の丸、前山にも遺構が有ります。
この城は、戦いに備えて築城された「詰め城」で有ります。
江戸期の備中松山藩時代は山城で不便な為、山麓の城下町に「御根小屋」と呼ばれる藩主の御殿と家来の武家屋敷群を構え、そこで藩の政務を行った。
備中松山藩の石高は、6万石ぐらいあった。
1240年、秋庭三郎重信が大松山に最初の城を築いた。
1331年頃に、高橋宗康が小松山まで城を拡張しました。
戦国時代、三村元親の時代には大松山、小松山を範囲とする一大城塞となった。
その後、三村氏と毛利氏の争いが続き、城は毛利方の小早川隆景により落とされ、三村元親は自害しました。
お城は毛利氏の領有となった。
1600年、関ヶ原の戦いで毛利氏が西軍につき敗退後に、江戸幕府が城番を置いた。
1617年、池田長幸が入城し、6万3000石で立藩するが、直ぐに御家断絶になった。
その後、水野氏が城番として入ったのち、水谷氏、浅野氏、安藤氏、石川氏、板倉氏とめまぐるしく代わった。
板倉氏が8代続いて明治維新を迎えた。
現存する天守は、複合式望楼型2重2階で西面に半地下のようにして附櫓が附属されています。
天空の城としても有名であります。

にのまるさん、
会津若松城の問題ですが、質問1と質問3が正解です。

質問1の補足説明ですが、舌状台地の上に築かれた本丸とその東の二の丸、三の丸とを深いお堀で仕切られていました。
今は駐車場になっている三の丸には武家屋敷が立ち並んでおりました。
三の丸には、今はお堀はありませんがお堀の痕跡は残っております。
本丸から東に向かって城郭が拡張されていったのですね。
本当に大きな城郭を成していたのです。
東からの敵の侵入をそれぞれのお堀で食い止めようとしたのですね。
特に本丸は、石垣で固めておりました。
台地のへりの高低差を利用した防御システムだったのです。
また、平地に西出丸や北出丸などの大軍を駐屯させることの出来る広大な馬出し曲輪も設けていました。
兵が潜んでいた伏兵郭もありました。
即ち、20mの高石垣を造ることで鉄壁の守りを実現させたかったと言う事でした。
質問2の補足説明は、会津若松城の周辺には続100名城の向羽黒山城が有ります。
これは、蘆名氏が築城したのですがにのまるさんは行かれたでしょうか?
非常に巨大な山城ですね。
即ち、会津は軍事的に重要な所だったので、巨大な城で守る必要があったのです。
もう一つ、会津には巨大な城郭を築く筈であった幻の城があったのです。
それは、上杉景勝が直江兼続に命じて築かせようしていた神指城がありました。
今は、土塁と堀のみしか残っておりません。
会津盆地は穀倉地帯ですね。
上杉景勝は、経済の中心にしたかったのです。
保科正之は、会津藩主として街道の整備をしていったのですね。
特に旧下野街道は、大名の参勤交代等に使われ、日光街道から江戸まで通じていました。
色んな武将が経済的軍事的拠点にしたかった会津
即ち、経済的にも軍事的にも重要な所だったので、その為に巨大な天守を必要としたのですね。
質問3の補足説明は、天守の瓦が赤いのは何故か?
天守の瓦は、発掘調査によって見つかったのですね。
赤い瓦だけでなく黒い瓦も見つかったのです。
初めは、黒瓦だったのですが瓦が割れると言うことから段々に、赤瓦に代わっていったのですね。
最後は、全て赤瓦になったのです。
蒲生氏郷が連れてきた様々な職人の技術が赤瓦に代えさせていったのですね。
鉄釉薬を使ったこの技術が陶磁器だけでなく、瓦にも応用されていたのです。
黒瓦の時は、釉薬を使ってなかった。
素焼きなので水が通しやすかったのですね。
赤瓦には鉄を多く含んだ釉薬が使われていた事が判明しています。
だから、瓦が赤くなったのです。
会津は非常に寒い地域なので、雪が解けて凍ったとき瓦が割れてしまうのです。
即ち、寒さに強い瓦にする為に、天守の瓦が赤くなったのです。
最後の問題は、什の掟はどんな掟か?
それは、7つありました。
➀ 年長者の言ふことに背いてはなりませぬ。

② 年長者にはお辞儀をしなければなりませぬ。

③ 嘘言を言ふことはなりませぬ。

④ 卑怯な振舞をしてはなりませぬ。

➄ 弱い者をいぢめてはなりませぬ。

➅ 戸外で物を食べてはなりませぬ。

⑦ 戸外で婦人(おんな)と言葉を交へてはなりませぬ。

ならぬことはならぬものです。

多少、集まりによっては違っていたが大体上の通りだったのですね。

それでは、山城クイズです。
これは簡単です。

備中松山城は日本3大山城の1つですが、あとの2つの山城を答えて下さい。

岐阜3大山城は、何処の山城か答えて下さい。

日本5大山城と日本5大山岳城をそれぞれ答えて下さい。


今年の山城サミットは、恵那市で10月に開催されます。

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いち

重文の大手門 (2019/07/08 訪問)

 派手さこそありませんが、カッコいい大手門です。
懐古園からの景色を見れば、守りの固さがわかります。
上田まで電車あるので、あわせて上田城も来訪できます。

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カズサン

三の丸武家屋敷、伝統的建築物群保存地区 (2011/05/05 訪問)

 萩城探訪で車を萩博物館駐車場利用し、本丸、二の丸間を往復しましたのでその間の三の丸上級武家屋敷堀内の重要伝統的建築物群保存地区で目に付いた建物、白漆喰土塀、漆喰が剝がれた土塀、土塀が壊れて石積塀、土塀と土塀の間の通り、夏ミカンを静けさの中でしっとりとした景観風情を気のまま撮りました10年前の平成23年5月上旬の写真を投稿致します。

 北の総門、萩博物館、本丸二の丸三の丸探訪を終えて17時前で約4時間の歩きっぱなし、翌日の下関市長府探訪で今夜は長府泊り。

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備中の覇者 三村氏所縁の城を巡る 国吉城 (2021/01/09 訪問)

国吉城は、高梁川の支流 成羽川沿いにあり、備中松山城の前に三村氏の本拠であった、鶴首城の上流に位置します。谷の街道を進むと、南方の猿掛城に至ります。備中兵乱で、猿掛城を落とした毛利軍は、次に国吉城を目指しました。
成羽川から、少し北へ谷を入って行くと、国吉城が見えてきます。頂上が平らで斜面が切り立っており、山城に最適な山容です(写真1枚目)。
山頂近くまで車道があります。車道は、城跡のためでなく、高所にある、民家や畑作地のためのようです。北側の大手以外は、急峻な斜面に囲まれており、200mに亘って郭が並びます。城主であった三村政親らの供養碑がある郭までは草刈がされています。手前の切岸の竹藪を突破してください。
国吉城大手に至るすぐ近くで同じくらいの標高に、民家や畑作地があります。やや遠くにも緩やかな谷を挟んで同じくらいの標高に民家が見えました。吉備高原は準平原を河川が激しく浸食した地形なので、河川がある谷底は平地が少なく、山の上の比較的平なところも耕作されています。

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todo94

飛鳥山城 (2021/12/18 訪問)

最終日の前週に駆け込みで渋沢×北区 青天を衝け大河ドラマ館に行ってきました。ちょっと内容が少なすぎると感じてしまいました。正直、青天を衝けの大河ドラマ館は諦めていたので、感染状況がここまで落ち着いてくれたのはラッキーでしたけれども。渋沢記念館は閉まっていたのでいつか再訪したいと思いますが、いつになることやら。そんでもってこの地はかつての飛鳥山城だったんですよね。ということで投稿させて頂いた次第です。

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にのまる

ちょっと凍ってた。 (2022/01/16 訪問)

王城公園となっている王城から石並城の方にまわってみるとものすごい断崖が現れました。目の前には湯川が流れ、異世界に入り込んでしまった感覚です。(←楽しい)
堀跡の道路を挟んで王城の向かい側の黒岩城は個人様の敷地なので入ってはいけませんが、3つ並んだお城をイメージできました。

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