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平岡氏の方形居館 (2021/01/16 訪問)

松山市荏原町に河野氏の重臣、平岡氏の居館跡が残っている。
ほぼ、正方形の居館である。四方を水堀、その内側に高さ5mにはなろう土塁が巡っている。
南面に土橋があり、外と繋がっている。
館内(土塁の内側)は現在は畑になっているが、南北朝時代の居館跡が、ここまで残っているのは貴重なのではないだろうか…
館内の四方には櫓があったと考えられている。
西南隅には石積みが残っている。
ここから車で10分足らずの所に、新張城跡(遺構はほとんど残ってない)もある。時間があれば、セットで廻り、往時を馳せ偲ぶのも良いのでは…

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じゅんじん

夜の和歌山城 (2022/01/06 訪問)

15年ぶり3回目です。初のライトアップ。

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じゅんじん

水門 (2022/01/06 訪問)

水門と石垣が残っています。大部分は住宅地ですが公園内にはお社と説明板がありました。

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赤い城

江尻小学校 (2022/01/15 訪問)

本丸跡には江尻小学校が建ち遺構はなさそうです。
小学校の校門が本丸門となっているのが羨ましい。
この本丸門前の道は内堀跡のようです。
本丸門から少し南に説明板がありました。
さらに南には魚町稲荷神社が建ち、穴山梅雪が城の鎮護として建てたとされています。
少年サッカー発症の地とされているようです。
清水ですもんね。

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にのまる

凍ってた② (2022/01/16 訪問)

大手門と宿場の町並み散策のあと懐古園へ。
前回訪問時に雪の残る櫓台に上がって悲惨なことになった記憶があったので、このたびは二の丸跡以外は上がらずに園内を一周しました。
本丸跡の懐古神社の噴水は鋭意結氷中?もう少しでアート作品完成かな⁉︎という感じでした。

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にのまる

[松本城クイズ]

① 天守最上階の一周する廊下→写真①(撮影の場所取りで順番待ちになるところ('ω')ノ)
② 辰巳付櫓の花頭窓→写真②(辰巳付櫓は一瞬で通り過ぎてしまいがち)
③ 月見櫓の朱色の廻り縁→写真③(月見櫓といえば刎ね勾欄と舞良戸)
④ 深志城入りと大改修は信濃攻略における拠点とするのに何かと都合がよかったからというざっくりとした認識しか持ち合わせておりま せん。歴史的背景や断層から自分で考えるのはとてもレベルが高すぎてムリです(*_*)

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肉球

小塙陣屋(森田陣屋)・栃木県那須烏山市 (2021/12/12 訪問)

関ヶ原の戦いの後大田原藩主大田原綱清の次男増清によって築かれた陣屋跡です。
石高は千石から千五百石ではありますが領地替えもなく明治まで存続したようです。
目立った遺構はありませんが西側に土塁が残り
北側は切り立った崖となっており荒川が流れ天然の堀となっています。
場所はJR烏山線小塙駅から東へ200メートルほどのところ

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カズサン

萩博物館竣工公開される(H16/11) (2011/05/05 訪問)

 外堀に掛る北の総門探査見学を終えて萩博物館へ、平成16年11月に約2年を費やし萩開府400年行事の一環として旧毛利隠岐邸跡に萩博物館開設、同施設は三の丸伝統的重要建造物群の景観に合うようにと、白漆喰土塀、長屋、長屋門、二階建て隅矢倉、本館は平屋建て銀なめし瓦の甍が眩しい程マッチ、萩開府400年の行事には北の総門高麗門の復元整備も行われて居ます。

 博物館本館に入る前に二階隅矢倉の探訪見学、一階二階と見学し、長屋門を通りから内部から眺め内部見学、周囲の白漆喰土塀も廻り本館萩博物館を見学、萩城の立体模型が一番気を引きました、実に良く出来ています、指月山山頂の詰の丸櫓群、本丸天守閣、二の丸実に往時の実体験が出来た様でウキウキします。
 訪問した10年前の平成23年5月上旬、萩博物館の建物、周囲の写真を投稿致します。

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小城小次郎

よく気付く上司だったのだろう (2021/09/20 訪問)

大阪に古河藩?となるが藩には飛び地があるのは割と普通。飛び地の管理が必要と気付いた土井利厚は老中を務めた切れ者だが、いきなり陣屋を築けと言い出すようなよく気付く上司を持った部下はさぞ大変だったことだろう。

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やま

掛川三大城跡 (2022/01/17 訪問)

掛川城は何度か来たことがありましたが、天守や二ノ丸御殿の中には入ったことがなく、たまたま出張の合間に時間ができたので見学することができました。天守は復元ですが木造なので趣がありました。二ノ丸御殿は現存ということで、ここで実際に政務を執り行ったり、居住していたと思うと感慨深く、往時に思いを馳せることができました。また御殿内に展示されている武具への杉良太郎氏の寄贈された思いや、寄贈に至った経緯などを知り感動しました。掛川城は見どころが沢山ありますが、やはり俯瞰の眺めが一番美しいと感じました。

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todo94

登城路寸断 (2021/12/11 訪問)

内子の観光駐車場に駐車し、重要伝統的建造物群保存地区の観光を楽しんでから、攻城してみました。登城口に小さな石の表示がありますが、登城路は落石崩落でまともにつながっていませんでした。苦労して崖を直登して何とかかつて畑であったであろう朽ちた小屋のある山頂部にはたどり着くことが出来ましたが、松尾神社や大堀切にはたどり着けていません。残念。

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じゅんじん

神社裏山 (2022/01/06 訪問)

堀や土塁が見ごたえありました。曲輪も大きかった。

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カズサン

北の総門復元整備される(H23/3) (2011/05/05 訪問)

 萩城の外濠に架かる北の総門エリアが発掘調査の上、高麗門が平成16年に復元され外濠整備、外枡形、土橋、土橋土塀、船着場が平成23年3月に復元整備されましたので10年前の平成23年5月上旬に長門、周防、安芸、備後、播磨の整備復元建造物、未踏の城廻りに出掛けました。
 先ずは萩城外濠、北の総門エリアへ、車は次の探訪先の萩博物館の駐車場を利用。

 萩城へは今回の探訪時で40数年前に、今回の投稿時では50数年前に初登城して以来、家内との記念婚、仕事での出張期間、個別に詰の丸探査などなどで訪ねています。
 外濠は築城当初は約40mの幅が有ったそうですが現在は約8m程に縮小され町屋の増設、開発が進みました、外濠の総門は北の総門、殿さまが通る中の総門、平安古の総門と三ヶ所在ったそうです。(萩城下町絵図古地図による)
 北の総門だけ復元整備され真新しい大型の高麗門、脇潜り戸付き、大扉には車輪が付き、上は透かし扉に成ってる、外桝形エリア、左右に外枡形より食い違いが有りスロープで外濠の船着場へ降りている。
 左右の外濠土塁土手は遊歩道として散策しやすくなって居る。土手の草も刈られ植栽も手入れ良く草花も咲き大変綺麗に整備されて居り気持ち良く探訪出来ました。 中の総門跡は案内板のみで未整備の様です。情報を拾数年収集しながらやっと探訪観察する事が出来ました。

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じゅんじん

安宅氏本拠地 (2022/01/06 訪問)

熊野水軍の安宅氏本拠地になります。周囲に山城たくさん。国指定史跡となっています。

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イチ

銀山を守る山城 (2021/12/05 訪問)

石見銀山のそばにある山城。曲輪や畝状竪堀群が魅力であるが藪化で見ることが出来ませんでした。
しかし、主郭からの三瓶山は雄大でした。

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赤い城

富士山を望める (2022/01/15 訪問)

搦手側に駐車場があり、すぐに説明板が立っています。
説明板の背後には大空堀がありますがこの時季でも藪、でも何とか降りることはできました。
登城路に戻り少し登ると曲輪があり、石垣もありました。
どの時期に出来たのかは不明です。
善福寺曲輪は公園のようになっていて展望台や模擬逆茂木が設置してありました。
善福寺曲輪と主郭の間には大堀切、岩盤を削った感じです。
主郭には神社が建っていて善福寺曲輪越しに富士山を望むことができました。
やっぱり富士山には癒やされます。
主郭南西の藪を抜けたところに二の郭がありますがここも藪。
敢えて行くことも無いと思います。
北条氏に備える今川氏の前線基地でしたがその後北条氏、武田氏が領有しました。
富士山だけでなく駿河湾も綺麗に望むことができる良い城でした。

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イチ

毛利氏の海城 (2021/12/05 訪問)

沖泊港の北側に築かれた海城。尼子方の温泉氏が在城するも、毛利氏の支配下へ。主郭を目指すも藪化に阻まれ断念。荒波の日本海を感じられる場所です。

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2018年7月16日の浮城だった高島城 (2018/07/16 訪問)

高島城は、諏訪の浮城と言われておりますね。
城郭形式は、連郭式平城で有ります。
かつては、諏訪湖に突き出した水城で「諏訪の浮城」とよばれていたが、江戸時代の初めに諏訪湖の開拓が行われ、水城の面影は失われた。
かつての天守は、独立式望楼型3重5階で、明治初期の古写真でその姿をうかがっています。
しかしながら、現在の復興天守は窓の大きさや位置などの細部に異なり、屋根には銅板が葺かれており、内部は資料館になっております。
高島城主の諏訪頼忠は、徳川家康に敵対していたが降伏して諏訪郡の本領を安堵された。
その後、1590年に、諏訪頼忠は豊臣秀吉の命により
関東転封になった徳川家康に従って、武蔵国に移った。
代わりに豊臣秀吉の家臣、日根野織部正高吉が諏訪領主となり、1598年に現在の位置に城を完成させた。 
1601年に、関ヶ原の戦いで徳川軍に属した諏訪頼水は徳川家康の恩恵により、旧領の諏訪に帰り藩主になりました。
以降、10代藩主の諏訪忠礼至るまでの270年間、諏訪氏ととに高島城は諏訪湖を見続けて来ました。

にのまるさん、松本城クイズは2問とも正解でした。

天守群に登られたと思いますが、次の事に答えて下さい。

① 大天守の最上階にぐるーと一周する狭い廊下があったと思うのですが、確認されましたか?
それが回り縁の痕跡で有ります。

② 辰巳附櫓には花頭窓があるのですが、確認されましたか?

③ 月見櫓には朱色の回り縁がありますが見られましたか?

長野の善光寺に将軍家光公が公式参拝されるとき、
松本城に寄る事を当時の藩主松平直政に伝えました。
そこで、急遽月見櫓を造ってもてなしに使おうとしたのです。
しかし、将軍家光公は予定が変更になり松本城には寄ることはなかったのでした。
だから、月見櫓は松平直政が造ったと考えられますね。

最後に、もう1問だけ松本城に関わる問題を出しときます。
それは、深志城の頃のお話です。
武田信玄が何故甲府から深志城を目指したのですか?

ヒントは、当時の歴史的背景と断層に関わっております!

また、考えて下さいね。

私は、現存天守の中で松本城が一番好きですね。



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備中の覇者三村氏所縁の城を巡る (2021/01/09 訪問)

備中松山城から高梁川を遡ること30kmあまり、もう少し行くと鳥取県に至る位置にあります。三村氏の同盟であった児島の常山城から楪城まで、備中の国全体を勢力下にし、まさに備中の覇者と言えるでしょう。
楪城は、新見市の平野部から、高梁川沿いに少し山あいに入ります。180号線沿いに道案内板があったので、城の南から西側に回り込む道を行きました。細道に恐れず道標に沿って最後まで行くと、登城口前の駐車場に着きます。ここから登ると本丸の北側に至ります。大手道は、180号線をもう少し進み、城の東側から登る道です。
楪城は、本丸、二ノ丸、三ノ丸からなりますが、それぞれの間は開いており、特に二ノ丸と三ノ丸の間は距離があるとともに、間の尾根に大手道がとりついています。従って、二ノ丸の大手側、三ノ丸の大手側に、大きな堀切が設けられています。三ノ丸は、三村氏が新設しました。本丸、二ノ丸からは、新見方面は眺望できませんが、尾根先の三ノ丸からは、新見を望むことができると。
楪城の斜面は急ですが、特に高梁川側は、とても急峻で、崖かと見えるほどです。そんな要害ですが、三村氏が毛利氏に滅ぼされた備中兵乱では、二ノ丸、三ノ丸の守将が、寝返り、本丸だけの戦いをしいられました。二ノ丸と本丸の間は平坦でかつ比較的広幅(11m)の80mの帯郭で繋がっており、長期に耐えられるものではありません。
三ノ丸には井戸跡があります。吉備高原は、準平原を河川が激しく浸食した地形ですので、山並みの頂上が揃っています。サイホン効果で比較的高い場所にも水が湧くのだと思います。

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いち

タクシー利用と軽ハイキング (2017/02/07 訪問)

 初の、山城来訪。岩盤の上に石垣すごいです。
駅からはタクシーを利用しました。ロータリーは小さいですが、平日なら1.2台は停まってるようでした。
 地方のタクシーのドライバーさんも気さくな方も多いです。蘊蓄を色々教えてもらいました。
山城でしたが、山道は舗装されている感じなので、スニーカーでも大丈夫でした。

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