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ぴーかる

高室山城 (2022/03/12 訪問)

【高室山城】
<駐車場他>佐目自然公園駐車場<35.205985, 136.340579>無料15台程度/駐車場(十二相神社・十兵衛屋敷跡)あり。
<交通手段>車

<見所>石垣・土塁
<注意>私の投稿時点の個人サイトの方々の高室山城の案内は全部南端の出曲輪辺りを主郭としていて間違っています。Googleマップで「高室山城」と打込むと石垣の載った正しい写真と位置(城びとポイントも正しい)が出ますので位置情報と照合しながら攻めましょう。

<感想>城びと初投稿いただきます。高室山城は築城年・築城者は定かではなく、麓の十二相神社前に十兵衛屋敷跡という場所があり、城びとの情報では明智氏?としている。
 高室山はハイキングコースになっており私が来城した時間には多くのハイカー達がちょうど下山していました。高室山登山口の矢印板の所から登ります。そこそこの急な尾根をまっすぐ15分程登ると最初のピークが見えます。削平地に出て中心辺りに浅い堀切があります。個人サイトの方々はここを主郭としているようですが小さすぎるのでここは離れた南端にある出曲輪のようなものかと思われます。
 出曲輪と思われる所から一旦下ってさらに先に進みます。出曲輪から20分程登ると巨石が多くなり山肌が拳大程の石で覆われた所(添付写真)に来ますのでもう少しです。つづら折れに少し登ると石垣が見え到着します。
 城跡は南北の細尾根を削平地にして両サイドは急な谷になっています。曲輪は大きく2つに分けて北の曲輪は岩場で出来ていて狭いです。下段の主郭とは巨石の岩で仕切っています。南側の石垣のある広めの削平地が主郭のようで南端の石垣は曲輪壁ではなく虎口か櫓台の石垣のように感じました。城跡の最北に岩場のピークがあり、ここは鬱蒼としており、そこから北は急に下がって谷の土橋になっていました。どうやらここまでが城跡のように見えたのでここから先の高室山頂の方には行きませんでした。城跡手前の拳大の石群は急に現れてくるので防御の為の石積壁か投石用の集めた石積みが崩れたものかもしれないと感じました。

<満足度>◆◆◇

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前ちゃん

五大山城 (2022/04/05 訪問)

18切符の旅のため、早く帰りたかったので朝駆け。
ルートインホテル七尾を7時にでて、お城そばの資料館に7時40分着そのまま登城。大手道に沿って歩き、分岐は安寧寺跡から三の丸、二の丸、桜馬場、本丸へ。朝飯(オニギリ)後、調度丸から下山。資料館でスタンプ押下後、七尾駅11時21分発で帰路。乗り継いで18時30分新大阪着

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前ちゃん

奥村助右衛門と佐々成政の攻防戦 (2022/04/04 訪問)

花の慶次ファンは立ち寄ってほしい
JR七尾線、宝達駅から歩き、国道沿いを北に歩くと看板(駐車場)が、登城後は、敷浪駅まで歩き七尾へ

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やなぎぶそん

日本最大級の城郭建造物 (2021/05/04 訪問)

これだけ規模が大きい城郭建造物は見たことがありません。
しかも1000年以上経っても残っているのはすごい。
一見の価値ありです。

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カズサン

【越前大仏】福井県勝山市 昭和62年落慶の大仏 (2010/05/15 訪問)

 越前勝山城博物館の探訪を終えて隣接の越前大仏を参拝しました。

 住所:福井県勝山市片瀬50-1-1  駐車場は大型の専用駐車場が併設

 ここも勝山城博物館を建てた勝山市出身の多田清氏の建立で昭和62年5月28日に落慶した清大寺、奈良の東大寺大仏より2m程高い大仏毘盧舎那如来で洛陽市郊外の龍門石窟にある龍門奉先寺坐像をモデルとの事、高さ17m、台座から28m、脇佛も10mの高さで左右に2体ずつ菩薩像と羅漢像の立像、大仏殿に納まって居ます、壁面には小さな仏像が一面に納められています。
 境内には大門左右に仁王像、中門、大仏殿、回廊が繋がり山手奥に五重塔の概略構成です。
 大仏様脇仏様壁面に納まった仏様(1m程は有ります)見事な造りです、建物も大仏殿中門大門回廊五重塔と壮大な造りです。

 現在宗教法人前の固定資産税滞納問題で観光客参拝者は少なく寂れた様子に成ってるそうです。しかし一見の価値はあると思うのですが?

 ここで福井城、復元舎人門、復元廊下橋、本丸巡り、北ノ庄城、一乗谷城朝倉義景館、勝山城博物館、越前大仏日帰り探訪は終了しました、北陸道米原経由名神東名で帰路へ、天気良く良い探訪でした。

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トク

九州の桜2022⑤(最終回)-平戸城 (2022/04/03 訪問)

桜も散り始めてきたので、最後はまた平戸城に行く事にしました。桜の写真と前回訪問時(2022.01.13投稿)に撮り忘れた、天守最上階よりの絶景を掲載します(2022.04.03撮影)。今回は平戸城の他に、松浦資料博物館・平戸オランダ商館なども見学しました(いずれも平戸城から徒歩圏内(15―20分程)ですので平戸城と一緒に見学される事をオススメします)。

全5回読んでいただき、ありがとうございました😊。
 

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イオ

一日とことん観音寺城(伝平井丸~伝池田丸) (2022/03/20 訪問)

(続き)

伝三の丸を抜けると右手に伝平井丸の石塁が見えてきます。石塁が一部崩れていたのでよく見てみると、埋門の上部が崩落して埋門の体を成さなくなっていました。下調べで見た写真ではかろうじて遺っていたんですが…近年に崩落したんでしょうか。埋門の先には巨石を駆使した立派な虎口があり、石段を登って伝平井丸内へ。曲輪内には石碑や墓石が建てられており、北西奥には上段に続く虎口がありました。また、西辺外周にも見事な石垣がめぐらされています。

伝平井丸から伝池田丸に向かう道沿いにも低い石垣が続き、石垣に設けられた虎口から曲輪内に入ってみると、周囲を土塁がめぐり、西辺の土塁外周には石垣が設けられていました。伝本丸や伝平井丸ならともかく、こんな名前もわからないような小さな曲輪でまで立派な石垣が見られるとは、観音寺城おそるべし…。

さらに南に進んで伝池田丸に到着。伝池田丸は西辺から南辺、南東辺にかけてぐるりと石塁で囲み、北西部に虎口が開口しています。南部には石組みの貯水施設も見られ、伝本丸、伝平井丸、伝池田丸の発掘調査で礎石建物跡や庭園跡、輸入陶磁器などが確認されていることからも、山上の曲輪群が生活空間であったことが窺えます。

続いては、伝池田丸の東下に広がる曲輪群と大石垣に向かいます(続く)。
 

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のり巻せんべい

帯曲輪 (2022/04/04 訪問)

明智城の大手道に防御する為の地形が少ないと感じていましたが、
大手道の中間位置付近の左側の切り岸の上方に帯曲輪が有ると
案内板が立ちました、左上方に人工的な平な所が100m位に渡り
大手道に沿って有る様に見受けられます。

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じゅんじん

永福寺 (2022/03/06 訪問)

茅葺の寺門がいいね。本堂奥のお墓が主郭とか。断崖絶壁でした。

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じゅんじん

諏訪神社 (2022/03/06 訪問)

遊具があり家族連れがあそんでました。二の曲輪が太陽光😢。道中は細いので注意してください。

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じゅんじん

吉田小学校 (2022/03/06 訪問)

日曜日だったので入らさせていただきました(無許可)ごめんなさい。

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北風の又三郎

坂本龍馬記念館に行っていたら城があった! 四国旅行3日目  (2022/04/04 訪問)

四国旅行3日目で、高知城に行った後のことです。

坂本龍馬について詳しく知るために、坂本龍馬記念館に行きました。そしたら城がありました😀時間がなかったのでそんなに見ていませんですが、
石垣が残っているのを確認しました。他の方の投稿を見ていると、堀切があったりするようです。そして、この城は四国で初めて天守閣が建てられた城だそうです。驚きました‼️長宗我部元親が10年間もいたそうです。こんなに綺麗な海を毎日見ながら暮らせるのはいいなあと思いました。
#高知 #坂本龍馬 #長宗我部元親 

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北風の又三郎

天守&本丸御殿が残っているのはここだけ! 四国旅行3日目 (2022/04/04 訪問)

四国旅行3日目です。

高知城は、歴史博物館に行ってから行くととてもわかりやすいです。石垣や、天守閣、本丸御殿や、櫓などが残っています。石垣はというと高知は、雨が多く降るため、野面積にしているようです。石垣の石は大きめに感じました。天守閣は、大火事で一度燃えてしまい、そのあと21年かけて造ったのが現在の天守です。
長宗我部元親が造りそのあと山内一豊が城を大きく変えました。
ちなみに、三菱のロゴは山内家の家紋と、創業者の岩崎弥太郎の岩崎家の家紋を合わせたロゴだそうです。勉強になりました😃

ひろめ市場でカツオやマグロを買ったら、とても美味しかったです。ぜひ食べてください。

高知もいい街でした。
#高知 #現存天守 #本丸御殿 #櫓 #資料館 #平山城 #山内一豊 #長宗我部元親 #日本100名城

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ryu

安土城再訪 (2017/12/02 訪問)

2007年以来、10年ぶりに再訪。
今回も安土駅前でレンタサイクルを借りて、観音寺城を探訪後、一路安土山へ。
この時は、観音寺城をじっくり時間をかけて探訪したため、宿泊地の彦根に向かう列車の時間に間に合わせるため、大手道から山上へ駆け上がった。
大手道~黒金門跡~本丸跡~天守跡~摠見寺本堂跡~三重塔~仁王門~伝羽柴秀吉邸跡と急ぎ足で見て回る。

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ryu

安土城(2007年) (2007/08/05 訪問)

伊吹山登山後、訪城。
まず、駅裏の城郭資料館で天守閣復元模型を見て、駅前からレンタサイクルで信長の館(安土城天守閣5,6階部分原寸大復元)、安土城考古博物館を見学後、城跡へ。暑い中、400段の石段(標高差約110m)を登る。
大手道の両脇に秀吉をはじめ各武将の邸跡。天守閣址に残る石垣から天守の大きさが分かる。

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ryu

大垣城再訪(2007年) (2007/08/04 訪問)

1977年以来二度目の訪城。伊吹山登山とあわせての訪城で、大垣市内は水都まつりの日だった。
お城は市の中心部にあり、公園側からは櫓を従えた天守閣が絵になるが、正面入り口の東門(柳口門)側は、民家が迫っている。

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新ろくべえ

逆井城に行ってきました! (2022/04/02 訪問)

 逆井城に行ってきました!
この城は、1450年(宝徳2年)に小山常宗が逆井に城を構えたのが始まりです。
その後小山常宗は逆井尾張守を名乗りました。
 さて、逆井城は、北側に飯沼、西側には入江の蓮沼に接する、天然の要害でした。
先ほど説明した逆井氏はその後、1560年頃に築田氏の知行地となりました。
そして北条氏康が関東に進出し、1567年、築田氏は北条氏康と盟約を結びました。
しかし1572年に北条氏康は、結城氏、佐竹氏と結び(策略とみられる)、
築田晴助の関宿城を攻め、進んで佐竹氏と戦いました。
ですが、1573年に再び関宿城を北条氏照が攻め、包囲しました。
そして1574年に北条氏政はまたもや関宿城を攻め、関宿城は陥落しました。
これにより、逆井城は北条氏の傘下になりました。
なので、逆井は芳春院松峰昌寿の知行地となりました。
 その後は目立った逆井城に関係する戦はありませんでしたが、
1577年に、結城、山川、佐竹、宇都宮、那須が反北条連合を結び
逆井城を本陣とし、連日、結城、山川間で戦が続きました。
 そして北条氏繁が逆井城より多賀谷領佐竹領に忍者などもって攻撃しました。
その後、逆井城主北条氏繁が飯沼城を築城しました。
ですが北条氏繁は逆井城にて死亡し、逆井城代は北条氏舜となりましたが、
 その一年後に北条氏勝に変わりました。
氏勝は1589年に山中城修築を氏直に任されました。
そして秀吉の北条征伐が始まり、
氏勝は山中城を守っていたが豊臣軍の総攻撃で落城し敗走。
さらに逃げ帰った玉縄城も開城し、このころに逆井城も開城しました。
 そしてついに小田原城も落城し、逆井城は廃城になりました。

【城情報】
・築城年      ❙1450年
・廃城年      ❙1590年(天正18年)
・築城者      ❙小山常宗(逆井尾張守)
・最後の城主    ❙北条氏勝
・廃城理由     ❙後北条氏が滅亡し、存続理由がなくなったため
・主な城主     ❙逆井氏→築田氏→松峰昌寿→後北条氏
・遺構       ❙鐘堀池、掘、土塁、関宿城薬師門
・主な建築物    ❙二階櫓、塀、橋、大手門、井楼櫓、主殿、関宿城薬師門、庭園、門
・説明看板、石碑  ❙両方有
・駐車場、トイレ  ❙両方有
・天守       ❙二階櫓?
・保存状態(自身判断)❙遺構の保存状態がよく、復元建造物も存分にあるため予想しやすく
          ❙ おすすめ
・備考       ❙・二階櫓の瓦には北条家紋が記されている。
          ・わたしがいった時は、二階櫓の二階には登れなかった。
           土、日、祝日は登れない?

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チェブ

渡辺食品株式会社。 (2022/04/02 訪問)

茨城県常総市の「古間木城」、迷いました。

いつ頃、築城したのかは不明です。渡辺氏の居城です。
1488年の戦で古河公方から恩賞を賜った記録があるそうなので室町時代には「古間木城」は存在しているようです。
その後、多賀谷氏に攻めれ渡辺氏は、多賀谷氏の配下になりました。
以前「豊田城」の投稿でも書いたように、多賀谷氏は、関ケ原の戦で家康さんの出陣要請に応じず、夜襲を仕掛ける強者です。
で、改易されちゃいました。
配下の渡辺氏は、帰農したんだとか。

「古間木城」は住所を調べると『渡辺食品株式会社』です。
んんっ!わ・た・な・べ~!
末裔の方のようです。帰農しても、名前が生きているのは先人の渡辺氏も、誉れな事です。
ただ、『渡辺食品株式会社』にたどり着くまでに、看板があるのですが、なかなか着きませんでした。
道が工事中で、ナビやグーグルが案内する道が通れません。
やっと見つけた『渡辺食品株式会社』。向かって入口右手に石碑があります。
石碑には『土塁 濠跡』と刻まれ『←』が社内に向いてます。
土曜日ですが、お仕事中のようです。
入口奥には土塁がありますが、社内の写真は控えました。

石碑に刻まれた「古間木城」の歴史は、躍動感があり渡辺氏の想いを受け取れます。

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小荷駄

亀山城 (2022/04/02 訪問)

道の駅作手の第二駐車場に車を停めました。トイレは城跡にはありませんでした。道の駅の隣がお城なのでお手軽でなおかつ整備もしっかりとしていただいてあり遺構も見やすくありがたいです。

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イオ

一日とことん観音寺城(表参道~観音正寺~伝本丸) (2022/03/20 訪問)

南北朝期に北朝方の六角氏頼が布陣したのが始まりとされますが、応仁の乱での攻防を経て、戦国前期に近江守護・六角氏の居城として本格的に築城されたと考えられます。足利義昭を奉じた織田信長の上洛に敵対するも、支城の箕作城が落城すると六角氏は観音寺城を放棄して甲賀に逃れ、そのまま戻ることなく廃城となったようです。

繖山の山頂から南東と南西に八の字形にのびる尾根とその間の南斜面に多数の曲輪群を配した巨大山城で、日本五大山城のひとつに数えられます。山岳寺院の観音寺(現在の観音正寺)をベースに築かれたと考えられますが、僧坊か曲輪か、寺院か城郭かの線引きは明らかではないようです。山上からは東山道に睨みをきかせ、南麓には御屋形跡(居館跡)や石寺(城下町)が広がっています。

まん防も解除になったので、念願の観音寺城へ。裏参道から登城するつもりでしたが、崩落の復旧工事で通行止めのため表参道から。料金ゲートが開くのは8時半からですが、少し前(8時17分)に通してもらえたので一番乗りかも!? と思いきや10台前後の駐車場はほぼ満車…。何とか最後の1台分に駐めて登城開始です。

表参道駐車場からは約400段の石段が続き、10分ほど登ると観音正寺です。観音正寺は聖徳太子と人魚の伝承のある西国三十三所の札所で、江戸初期に現在の位置に再興され、明治には彦根城の欅御殿が本堂として移築されましたが、平成5年の火災で焼失したため現在も諸堂の再建事業が続けられています。山門代わりの仁王像の近くにある観音寺城の説明板を読み、受付で入山料500円を支払い、休憩所で100名城スタンプを押し、本堂で手を合わせ、境内をひと巡りするといよいよ観音寺城に向かいます。

縄張図によれば、観音正寺から伝本丸までの散策路沿いにも多くの曲輪があるようですが、藪に沈んでいてよくわかりません。案内表示に従って進み、10分ほどで伝本丸に到着。伝本丸は北東部と北部に虎口が開口し、北東部は平虎口ですが、北部の搦手口は石塁を追加して喰違い状に改修されています。伝本丸は北部の虎口から西辺にかけてを石塁で囲み、石組みの貯水施設も見られます。また、伝本丸から東下には北辺に石組みの排水溝を備えた大石段が続き、安土城の大手道を彷彿とさせますが、発掘調査でば下方から大石段につながるルートは確認できず、大石段の用途は今なお不明のようです。

さて、大石段から伝三の丸(奥に石垣が遺っています)を抜けて、伝平井丸に向かいます(続く)。
 

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