みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

todo94

城カード第3弾再建天守シリーズ (2021/12/11 訪問)

今回の愛媛ドライブ、続100名城のスタンプ、宇和島城の城カードゲットに加えて目的としたのが、大洲城の城カード。無事、手に入れることが出来ました。お殿様公園となっている三の丸南隅櫓にも脚を伸ばしてきました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

大宰府政庁跡 (2022/01/08 訪問)

【大宰府】
<駐車場他>大宰府政庁跡駐車場無料数十台分あり。
<交通手段>車

<見所>礎石
<感想>1泊2日国土防衛筑前国の旅1城目。新年の1城目にふさわしい。朝3:30に出発、予定より遅れ昼前に到着したので水城を後回しにして繰り上げ訪問した。大宰府について今更語る必要はないので割愛、政庁跡は礎石建物跡が沢山あります。恥ずかしながら太宰府って政庁を最東にし東西に朱雀大路、西に碁盤目状に町が広がっていたのが知らなかったので新鮮でした。東の背後に四王寺山の大野城が見え守ってるって感じがいいです。展示館には時間がなかったので寄らず。

<満足度>◆◆◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

2020年6月28日攻城時の松本城 (2020/06/28 訪問)

2020年6月28日の松本城です。
広大な松本盆地に築かれた平城、松本城
1590年に元々徳川家康の配下の武将だった石川数正によって、現在の松本城が築城されました。
しかしながら、松本城の前身のお城があったのですね。
その城は、1504年に築城されています。
かなり古いので、余り文献には残っていないのです。
唯一分かっていることは、室町時代の島立一族によって築城されていることです。
その後、風林火山で有名な武田信玄が甲府から信濃へ侵攻を始めます。
その際に拠点としたのがこの城なのです。
1550年、当時の城主であった小笠原長時を追い出して、武田信玄がこの城を治めました。
約32年間、この城を治めた武田信玄でしたが1582年に崩壊の時がやって来ました。
上杉謙信の後ろ盾で小笠原洞雪がこの城の城主になりました。
この頃からこの城は、松本城に名前が変わったとされております。
さて、質問1です。この城の名前を当てて下さい。

なんと、松本城は、石川数正以降6家23代が城主を務め、明治維新となりました。

松本城の最大の魅力は、何と言っても国宝の5重6階の5棟天守ではないでしょうか!
松本城の天守群は、大天守、乾小天守、渡櫓、辰巳附櫓、月見櫓と5つから構成されていますね。
松本城は、白い姫路城に対して真逆の黒い城なのです。
戦国時代のお城の様相を見せているのです。
豊臣秀吉時代(関ヶ原合戦以前)のお城ように皆さん感じますね。
松本城の大天守、乾小天守、渡櫓は、戦国時代の荒々しい特色が出ていますね。
しかしながら、辰巳附櫓と月見櫓の2棟は、戦う備えは殆ど持たず、朱塗りの回り縁や船底型の天井があり、月見櫓に至っては優美な雰囲気を醸し出す造りになっていますね。
即ち、松本城は戦国時代の荒々しさと平和の象徴を併せ持った城なのです。

さて、質問2です。
松本城の天守群の中で、大天守、乾小天守、渡櫓は築城者が分かっております。誰が築城者ですかお答え下さい。
辰巳附櫓と月見櫓は、築城者は分かりませんが築城時代は分かっております。その時代はいつでしょうかお答え下さい。
宜しくお願い致します。




+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

丹後宮津藩

久しぶり (2021/11/28 訪問)

久しぶりに名古屋を訪れ、お城登城とひつまぶしを食べました。

+ 続きを読む

加茂 真明

岩切城に異議あり

多賀城は賀美郡の城で多賀城碑出土地は多賀城跡ではありません。勿論、国府跡でもありません。
府中というのは国府の所在地。国府の所在地は信夫郡です。
岩切城は福島市大森城山です。金山跡で岩を削った跡と山頂部に岩切り空堀を作った遺構が残っています。
岩切城は吉良貞家が陣を置いた場所です。それゆえ、まず、岩切城の裏口(搦手)の警固をさせた後、大仏城を攻め畠山氏の陣がありました。畠山氏等は大仏城を脱出し岩切城近くの虚空蔵楯に陣をかまえました。そこを吉良勢に攻められ畠山国氏は自刃、留守三河守等は生け捕りにされたのです。
岩切城は伊達稙宗陸奥守護職以後から大森城と呼ばれたようです。大守の城ゆえ、大森(大守)城と呼称した。

+ 続きを読む

いち

さすが、現存天守 (2019/06/03 訪問)

 天守台から移されても、
狭間だらけのこの鉄壁な防御。
岩木山も綺麗やった。
桜のイメージが強いけど、初夏の弘前城も最高でした。

+ 続きを読む

イオ

高井城(大阪府貝塚市名越) (2021/12/16 訪問)

高井城(城びと未登録)は、織豊期に高井天神廃寺に根来衆が築いた城で、羽柴秀吉の紀州攻めでは行左京を守将として地元の百姓らが籠城しましたが、福島正則の攻撃により落城しました。

根来出城配置図によれば、高井城は近木川北岸の高井集落に築かれ、北隅の本丸を三重の堀で囲み、水間街道沿いに門を構えた平城で、対岸の千石堀城と対になって機能しました。宅地造成により遺構は消滅していますが、名越駅の西にある公園は周囲から一段高くなっていて城跡(の一部)とされ、説明板が建てられています。また、発掘調査では高井城の遺構や遺物は見つかっていないものの、独鈷杵文や三鈷杵文の鎌倉期の瓦が発掘されており、高井天神廃寺は密教寺院だったようです。

続いて対岸の千石堀城にも行くつもりでしたが、時間切れによりこの日はここまで。それにしても、この日に訪れた畠中城、積善寺城、高井城は下調べではあまり情報を得られなかったんですが、さすがに地元資料館の企画展となると様々な資料や情報が入手でき、遺構の無い城でも無いなりに楽しくめぐることができました。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

樺崎砲台 (2021/12/11 訪問)

今まで何度も宇和島に来ているのに樺崎砲台に脚を伸ばすことはありませんでしたが、こんなにきれいに整備されているとは知りませんでした。目から鱗です。隣接する宇和島市立歴史資料館は警察署の建物が移築されたものなので砲台とは関係ありませんが、無料で入場でき樺島砲台の印刷資料も戴けますのでお薦めです。砲台跡を俯瞰することも出来ますよ。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

まっちろ。 (2022/01/15 訪問)

 とても寒い日でガチガチになりながらだったので、途中にあった三の丸温泉跡の手水鉢の熱いお湯がありがたかったです(*´▽`*)
着いてみるとお堀が真っ白。見事に氷が張っていました。先に行った松本城は場所によってうっすら…だったので予期しておらずびっくりでした。
 天守から諏訪湖方面を見ていると行ってみたくなったので急ぎ足でしたが寄ってみました。大きくて、見ているだけでも気持ちよかったです。波しぶきかと思ったところも氷だった!

todo94さん、城カード現存天守シリーズコンプリートおめでとうございます!
好きなお城は何度行っても楽しめる、ということを日々教えていただいております。
それにしても宇和島城、通算7度目とは‼さらっと書いていらっしゃいますが、すごい( ゚Д゚)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

騙されてはいけない (2022/01/09 訪問)

城址公園ちなっていて二郭に建つ模擬天守風の展望台がある。
見晴らしも良いのだがこれで終わってはいけない城。
妙見台方面が立入禁止になっていて引き返そうとしたが、整備の作業をされている方に声かけたところ是非見て欲しいと言われたのが倉の台下の大堀切。
主郭の倉の台切岸はどうやって削ったのか分からないほどの高さがあります。
勧められた堀切は本当に凄かった。
山を削ってます。
近くには石積もありました。
何本かの尾根にも展開している城とのことでまた行きたい城になりました。
本当に整備に感謝です。
上総土岐氏の城で小田原平定により落城しました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イチ

冠山城 (2022/01/15 訪問)

備中七城(境目七城)の一つ。備中高松城の戦いの前哨戦となる。毛利方の奮戦虚しく、加藤清正の活躍により落城。
山城の規模はそれほどはないが、二の丸と主郭の高さは高く、3本の竪堀は健在。駐車スペースに難点ですが、綺麗に遺構が残っています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

城カード現存12天守シリーズコンプリート (2021/12/11 訪問)

2017年以来、4年ぶり通算7回目の登城です。無事、城カード現存12天守シリーズをゲットして、コンプリートと相成りました。それだけでも嬉しいのですが、久し振りの宇和島城は、きれいで新しい説明板がいくつも設置されていてとても吃驚しました。初めて訪れた2000年のその前の時代は、天守が非公開で内部の見学には市役所への申し込みが必要だったそうです。今でも入城料が200円に据え置きのままなのはとても良心的だと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

BUCHI38

天守を燃やしたのは明智光秀ではなかった!?

皆さんは安土城を燃やした人といえば明智光秀を思い出す方が多いと思います。しかし実は安土城を燃やした人は正確に誰だかわかっていません。ただ説として織田信雄が挙げられています。織田信雄は安土城が一時期明智のものになったという痕跡を消すために燃やしたと考えられています。
ただ僕は織田信雄は天下を取れなかった怒りで燃やしてしまったのではないかとも考えています。今後の疑問点となると思いますが最新情報が出るのを楽しみにしています。

+ 続きを読む

カズサン

高速道からよく見える天空の城 (2011/06/05 訪問)

 越中の国、能登の国の城廻り名所廻りの翌日、東海北陸道を上り途中の郡上八幡城に寄る、郡上八幡城は家内と城廻りで登城時40数年前に投稿時50数年前に初登城した思い出の有る城跡です、当時は鉄道を使い八幡城にはタクシーで乗り付けでした。
 今回、車は郡上八幡城天守北側の駐車場を利用。

 駐車場から南の登城門側に石垣城塁を観ながら移動し本丸、昭和8年完成した日本初の復元木造天守閣に登る、6月の梅雨時湿っぽい天候でしたので霞が掛かった様な状態で写真の写りま靄っとして居ます。
 白亜の天守閣、天守曲輪に隅櫓、天守門、土塀で囲み石垣と白い建物群が深緑もみじといい調和を醸しています、秋の紅葉時期は最高でしょう、また春の桜の時期もまたまた素晴らしい、四季夫々素晴らしい景観を楽しめます。
 東海北陸道が通って大変便利に成りました、また機会が在ったら家内と訪ねたいと思って居ります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

金沢城の謎の紐解き

2022年1月22日に絶対に行きたくなる名城金沢城が放送されます。
その番組で3つの謎が提起されております。
1つ目は、なぜ本丸より二の丸がお城の中心となったのか?
二の丸には、菱櫓、五十間長屋、橋爪門等がありますね。
これは、元々金沢城も本丸に三階櫓があり中心だったのですが、度重なる火災による焼失を経て、二の丸の拡張するなどの整備が行われ次第に二の丸が城の中心となっていった。
焼失した本丸の三階櫓は再建されませんでした。
2つ目は、なぜ金沢城は独特の白いデザインの城になったのか?
これは、お城は大別して黒い城と白い城に分けることが出来ます。
黒い城は、豊臣秀吉時代(関ヶ原合戦以前)に造られた城が多いのです。
白い城は、徳川家康時代(関ヶ原合戦以降)に造られた城が多いのです。
黒い城の利点は、戦国時代ならではのもので敵の目に隠れやすいということです。
白い城の利点は、城の優美さを強調出来る点と城を大きく見せてアピールすることが出来る点で有ります。
このような事から、金沢城は独特の鉛瓦を使って城の姿を壮美にしたかったので白い城の方が適していたからだと考えます。
3つ目は、なぜ特色のある石垣が造られたか?
色紙短冊積石垣は、非常に芸術的な石垣として有名ですね。
にのまるさんも見惚れていたようですね。
この石垣は、色紙のような四角な石と短冊のような縦長に積んだ石を上手く組み合わせて造られた芸術的要素を活かしたものたったということです。
様々な形や色味が混ざっていてステンドグラスのようですね。
このような石垣が造られた理由としては、前田家第5代当主前田綱紀によるものたったと思います。
前田綱紀は、潤沢なる前田家の富を文化芸術の為に惜しみなく出したされています。
文化芸術の価値を高めることを第一に考えていたのです。
だから、あの石垣も前田綱紀の命令で造られたものたったのです。
私は、正解かどうか来たる番組で確かめます。

+ 続きを読む

イオ

根来寺の出城 (2021/12/16 訪問)

戦国中期に根来衆が築いた城で、小牧長久手の戦いの際には岸和田城攻めの付城となり、羽柴秀吉の紀州攻めでは出原右京を守将として防衛ラインの中核を担いましたが、根来寺出身で秀吉とも親密な卜半斎了珍の仲介により開城し、破却され廃城となりました。

根来出城配置図によれば、近木川南岸に位置し旧熊野街道沿いの橋本集落を二重、三重の堀で囲み、中央部に観音堂(本丸)、四方に矢倉を配した平城で、安楽寺または明教寺が本丸推定地とされますが(城びとの位置情報は安楽寺)、発掘調査で堀跡が確認されたのみで地表面には遺構は見られず、集落内の細く入り組んだ道と外堀として活用された南東部の寺池、長屋門や土蔵が建ち並ぶ旧熊野街道に往時の雰囲気を感じられるくらいです。また、旧熊野街道沿いに近木川を渡ったところに説明板が建てられています。

なお、積善寺城から西に徒歩12分の丸山古墳は、積善寺城攻めの際に秀吉が本陣を置いたと伝わります。現在では周囲を住宅に囲まれ、積善寺城は見渡せませんが、直線距離では600mほどしか離れておらず、往時の緊迫感を感じます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー48城目 (2021/12/11 訪問)

宇和島城の城カードゲットを目的に企図した愛媛ドライブ、前日の夕食後に家を出て淡路SAで車中泊し、朝一番で河後森城に駆けつけるという強行軍でした。早朝の河後森城は淡く朝霧に包まれていて趣のある佇まいでした。西第10郭にてスタンプを捺印し、西郭群から本郭を経て東郭群、古城、新城という定番のルートで楽しんできました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

京都新城発掘調査講演会を聴いて見て

聚楽第の破却によって、豊臣秀吉は洛中における新たな居城を築く必要があった。
豊臣秀吉は、慶長2年9月26日に豊臣秀頼と徳川家康を伴って入城しています。
慶長4年には、豊臣秀吉の正室北政所の居所となるが、慶長5年の関ヶ原合戦直前の8月28日から9月13日にかけて、城内の矢倉、塀、石垣等が破却されております。
しかしながら、その後も北政所が亡くなる寛永元年まで使用されたと
見られます。
調査では、仙洞御所の造成土の下層から石垣と堀の一部が出できた。
石垣は、南西方向に約8mを検出し、南北共に調査区外へと続く。堀の西肩を成す石垣です。
石垣は、自然石を積み上げた野面積みでありました。
3〜4段の石が残り、高さは1.0〜1.6mである。
但し、石垣の上半部は崩されていることから、本来の高さは約2.4m、石垣は5〜6段積まれていたと考えられます。
石垣は、大きな自然石を用いながらも面や並びのラインがよく整えられており、丁寧に構築されています。
石垣の年代は、安土桃山時代のもとと分かった。
堀は、南北方向に8mを検出した。堀の幅は3m以上で、西端が石垣で東端が調査区外になる。
堀の深さは約2.4mである。堀の底には厚さ40cm以上の粘土が貼られています。
また、堀の中からは桐文と菊文の金箔瓦が出土している。
なお、堀の幅については表面波探査によって幅約20mと推定されています。
京都新城は、東西約400m、南北約800mの320.000㎡の広大な敷地だったことが分かった。
この石垣の発見によって、京都新城の実施解明に向けて定点を得た事になり、豊臣秀吉の晩年の政権構想の再評価にも繋がる可能性があります。
なお、消化設備は建設場所を変更し、石垣と堀は保存される事が決定しています。

+ 続きを読む

小城小次郎

地図で見るとなるほど、と思う (2021/09/20 訪問)

石山本願寺が信長襲来に備えて設けた50か所を超える出城の中のひとつなのだが正確な場所はわからないしもちろん痕跡も何もない。ただ地図で見ると大坂城への補給路(大川)をしっかり押さえる場所にあって「なるほど」とは思う。

+ 続きを読む

赤い城

正木氏初期の拠点 (2022/01/09 訪問)

白滝不動尊から登城。
不動尊裏手に浅間方面の案内板があり、そこから登りました。
結構急な細い道を登ると途中小さな鳥居があります。
さらに七曲状の道を登ると祠があり、この辺りから城域になる感じ。
この少し先に土橋状の尾根道があり、門のように石が両脇に置いてありました。
その背後に物見のような櫓台があり、土塁が続いていました。
土塁沿いの道を進んで案内板がある所の右手を直登。
曲輪や土塁が見られますが倒木が多くあるきにくい。
正木氏初期の城であまり手の込んだ城ではなさそうです。
正月で鈍った体にはちと堪えました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ859