もりやまじょう

守山城

富山県高岡市

別名 : 森山城、二上城、二上要害、海老坂城、獅子頭城
旧国名 : 越中

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しんちゃん

夜景がキレイ (2015/02/23 訪問)

ギックリ腰の朝田さん。たしかにそんな変態は貴方ぐらいでしょう。なぜそのような過酷な試練を自らに‥ (守山城の投稿を参照)
私も30代のころは変態と呼ばれていました。「しんちゃんは鉄人を通り越して変態だね」と呼ばれていましたね。(遠い眼)そんな私も40の声を聴いて両膝変形性関節症‥これジーさんがかかる病例でしょうに。最初は歩くのもヒーヒーでしたが、それから城めぐりを始め山城を600ほど歩いて、富士山も登って体力も回復してきました、ありがたや‥。今何とか歩けるのも山城のおかげです。
私もいずれ真の「変態」に帰り咲きたいと思っています。(今は別の意味で変態ですが)

守山城の投稿でした。ここは夜景がすごくきれいです。アベックがいっぱいいましたね。長崎や横浜なんて目じゃなかったですよ。夜景で重要なのは距離感ですね。目の前が夜景の光でいっぱいになりました。今は知らんですけど。

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朝田 辰兵衛

二上山万葉ラインを東から西へ… (2023/10/07 訪問)

改変されて見どころの少なくなった守山城を,徒歩で「二上山万葉ラインを東から西へ…」などというルートで散策する変態は私ぐらいかと思います。
古国府城から西へ300mほど進むと,二上山万葉ラインに入ります。そして,最初のピークが「平和の鐘」。自由に鐘をつくことができます。自動販売機,トイレも設置されており,休憩場所としてチョイスしました。
「平和の鐘」から先は谷となります。守山城から見れば,天然の東側防御施設になっていると思います。そしてまた登りが続き,みなさんがアップされている「大伴家持像」にたどり着きます。さらに先が守山城。眺望はバッチリなんですが…。
結局,そのまま西へと。国道160号線に出て,二上山万葉ラインを歩き切りました。200mほど南下して,新守山バス停から高岡市内中心部へと向かいました。

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ぴーかる

守山城 (2023/04/02 訪問)

【守山城】
<駐車場他>城山駐車場20台程可能
<交通手段>車

<見所>石垣跡・眺望
<感想>1泊2日北陸山城攻めの旅2日目ラスト10城目。越中三大山城の1つでこれにて制覇しました。現地説明板によると守山城は築城年・築城主は定かではないが、南北朝時代末期にはその時の越中国守護斯波氏と南党の守護大名桃井氏と城の奪い合いの抗争を繰り返していたそうです。守護職が畠山氏になると守護代の神保氏がこの城を支配します。16世紀後半から神保氏張が城主となり織田家⇒上杉氏⇒織田家と臣従を乗換えますが、佐々成政が越中国に赴任すると一門衆となります。佐々成政の秀吉への反乱時にはそれに従ったために前田利家軍に攻められ守山城は落城します。落城後に秀吉は前田利家の嫡子利長に守山城を与えますが家督を相続し金沢に移ります。城代に前田長種を置きますが城下の寺院や商工業者は急速に富山に引き上げ寂れていったそうです。
 現地は公園化して改変されているようですが、主郭や並行する南側下段の曲輪、主郭の南側に2段ある舌状連郭などは曲輪の形状のまま残されているように見受けられました。主郭の帯曲輪から西側に回り込むと主郭西側曲輪壁に僅かに石垣が残っており、帯曲輪に多く転落石があります。主郭南側曲輪壁は草がボウボウでよく分かりませんが所々金網が張ってるのでもしかしたら草の奥に当時の石垣があるのかも。また主郭南側の舌状連郭の法面にも石垣跡があります。高岡市教育委員会の「守山城跡詳細調査概報」によると舌状連郭の2段目の東屋のある曲輪が二の丸、森化していますがその南西側を三の丸としています。二上山万葉ラインの西側はほぼ大手道を拡張改変したようで森化していますが侍屋敷や曲輪群が麓まで広がっていたようで城域は広大だったようです。
 前述の行政の調査が平成25年に初めて本格的に行われており、それまでに公園化されてしまっていることから主要部のいい遺構はもはや無くなっているか土中に内包しているか、後者を期待したい城跡でした。
 これにてこの旅終了。1日目に予定していた森寺城は道路工事中のため通行止め登城不可などありましたが充実した山城巡りができました。走行距離864㎞無事走破。

<満足度>◆◆◇

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昌官忠

2022夏の青春18キップ12日目:守山城 (2022/07/31 訪問)

古国府城からの転戦です。二上山中継局前駐車場(36.788171、137.010508)に駐車し、公園に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に桃井直常によって築かれたと云われています。
室町時代には守護畠山氏の守護代神保氏の居城放生津城の詰城としての役割があり、1519年(永正16年)越後の長尾為景が越中に侵攻した際に、神保慶宗はこの城に籠って対抗しました。
神保氏は天正年間(1573年〜1592年)に神保氏張が上杉謙信に降り、1578年(天正6年)謙信没後に織田氏が越中に侵攻すると佐々成政に従いました。
1585年(天正13年)富山の役で前田軍が攻め落とし、秀吉から賞賜されて前田利長の居城となりました。
1597年(慶長2年)前田利長が富山城に居城を移すまで在城しました。
以後、前田対馬守長種が守りましたが、城下の寺院や商工業者は富山に移り、城下町は急速に寂れていき、その後廃城となったと考えられます。

現在は万葉ラインや山頂の公園化、駐車場となり城址は破壊されているようです。
電波塔横に竪堀はあるようですが、わかりませんでした。
本丸には観音像が建てられ、説明板があります。
松倉城(魚津市)、増山城(砺波市)と並び越中三大山城と称されたそうです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=飯久保城に向かいます。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 桃井氏?
築城年 南北朝時代
主な城主 斯波氏、神保氏、上杉氏、前田氏
遺構 曲輪、竪堀
指定文化財 市史跡(守山城跡(本丸跡))
再建造物 石碑、説明板
住所 富山県高岡市東海老坂
問い合わせ先 富山県埋蔵文化財センター
問い合わせ先電話番号 076-434-2814