出張視察で桂浜を訪問、空き時間を利用して城跡を探訪する。
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2024/06/16 12:40
2023/12/24 09:18
2023/11/09 00:39
2023/06/30 10:10
50【関ケ原の26人】 (20) 山内一豊 (山内一豊と浦戸城) (2023/06/09 訪問)
(20人目)は「山内一豊」です。
関ケ原当時の居城は掛川城ですが、関ケ原後に入った「浦戸城」を訪れてきました。高知駅前から桂浜行のバスに乗り30分程です。
関ケ原の恩賞で、掛川5万石から土佐24万石へ加増となった一豊は、長宗我部盛親の居城であった「浦戸城」へ入ります。しかし手狭であったため、新たに高知城を築城する事を決意し、完成するまでの3年の間ここ浦戸を居城としました。現在の浦戸城は天守跡を残すのみで、大部分は「坂本龍馬記念館」になっていました(写真①②③④⑤)。
一豊の功績は関ケ原ではなく小山での出来事でした。1600年7月24日 会津征伐(上杉景勝討伐)へ向かう途中、小山に差し掛かった所で石田三成挙兵の報が入り、家康は諸将を集め軍議を開きます。世に言う「小山評定」です。このまま会津へ進むべきか、あるいは反転して三成を討つべきか? 彼らはほとんどは豊臣恩顧の大名で、妻子が大坂に人質にとられています。よって家康は強制ではなく彼ら自身に判断をゆだねました。
この時、真っ先に声を上げたのが福島正則です「憎き三成を討つべし!」と。しかし反応はイマイチ? 皆まだ迷っています。そこで一豊が、「私は掛川城を家康様に明け渡してまでもお味方いたします。城の兵糧も全て家康様に差し出しますので、どうぞお使い下さい!」この一言が皆の心を動かし、三成討伐のため西へ向かう事に決しました。やはり皆、このまま長引く戦になれば、兵糧がもつかどうか? 兵糧がなければ兵の士気が下がる事を気にしていたのです。この後、駿府の中村、浜松の堀尾、吉田の池田らも次々と差し出す事を決意し、これで何不自由なく東海道を西上する事ができ、東軍は一枚岩になれました。
一豊は関ケ原では桃配山の家康をそばで護衛し、池田輝政と共に背後にいる毛利秀元・吉川広家を監視していました。しかし、彼らが動かなかったため、戦闘に参加する事はほとんどありませんでした。
家康は小山での一豊の一言を「最大の功名なり」と大変高く評価し、掛川5万石から土佐24万石へ大幅加増の恩賞を与えられました。
私は、浦戸城跡(坂本龍馬記念館)から眼下に見える海を眺め考えてみました(写真⑦⑧⑨)。土佐に入った一豊は、どのような思いでこの浦戸城から桂浜や太平洋の荒波を眺めていたのでしょうか? まだ土佐には長宗我部の残党が隠れており、一豊は常に命を狙われていました。 土佐で自分にはこれからどのような人生が待ち受けているのだろうか? 大大名となり期待に夢膨らませ土佐へ入国してはみたものの・・・、本当は恐怖と不安が入り交じり、夜も眠れなかったのではないでしょうか?・・・
次は(高知城)に続きます。
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分類・構造 | 平山城 |
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天守構造 | 型式不明[3重/1591年頃築/破却(廃城)] |
築城主 | 長宗我部元親 |
築城年 | 天正19年(1591) |
主な城主 | 長宗我部氏、山内氏 |
廃城年 | 慶長8年(1603) |
遺構 | 曲輪、石垣、天守台跡、土塁、堀切 |
指定文化財 | 市史跡(浦戸城天守跡附詰東部及び東南部石垣・石塁) |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 高知県高知市浦戸 |
問い合わせ先 | 高知市民権・文化財課 |
問い合わせ先電話番号 | 088-832-7277 |