かめやまじょう

亀山城

愛知県新城市

別名 : 作手城
旧国名 : 三河

投稿する
主郭
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

ぴーかる

奥平氏・武田方・徳川方 (2020/03/01 訪問)

【亀山城】
<駐車場他>城跡の東側専用P・城跡南側登城口前
<交通手段>車

<見所>曲輪・横堀
<感想>日帰り新城市攻城の旅1城目。愛知県新城市にあるお城には御城印が多く頒布されているので、購入目的と2018年に古宮城を攻めた時に攻めそこねた亀山城に攻めに来た。
 山城表記となっているが、比高はそんなになくて丘城といった感じ。典型的な中世の山の形状に沿った曲輪の配置で南北に縦長な感じで広がっている。国道から見える城跡看板のある所が主郭で主に南北と主郭の東側に広めの曲輪が多くあります。東側の駐車場もかつては曲輪だったようで、横堀跡と石垣の崩れた遺構があります。笹が多く生えているので曲輪の輪郭がちょっと見ずらいところはあります。

 私の勝手な憶測の推察は奥平氏が武田氏側についたのが1570年頃、古宮城の築城が1571年?で味方になった後から築城していたとしたら奥平氏にとっては人質も捕られ、裏切ったらすぐに攻めてこられる相当な圧力(それは古宮城がどうしても徳川攻略の亀山城の後ろ竪の城には見えない武田流堅固な城である)で、さらにもしかしたらその古宮城の物資も供給していたかもしれない。結果的に1573年に再び徳川方についたのがそのような理由かもしれないかもと思った。
城の規模からしたら断然亀山城の方が大きいし、作手地方の領主なので奥平氏が城を放棄するまで武田方も攻めとれなかったのであろう。やっぱり2城見比べてよかった、この地域は色々思いをめぐらせる楽しい場所です。

<満足度>◆◆◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

まーやん

奥平五代+松平忠明の居城 (2019/02/17 訪問)

国道301号を作出民族資料館に向かい北上する途中、二つの城が目についた。その内の一つが亀山城址だ。古宮城の1km程南に位置している。

1424年以来、奥平氏が居城としていたが、1573年に武田の攻撃を受け、城を捨て家康に従い転戦する。
1575年に長篠城主となったが同年に武田の猛攻を受けながらも籠城戦を耐え生き抜いた。武田は長篠・設楽ヶ原の戦で大敗した。

戦の後、奥平貞昌(後に信昌と改名)は家康の長女亀姫と結婚。四男松平忠明は作出藩亀山城主となり八年間当地を治めた後、伊勢亀山藩へ転封となる。なんと亀に縁のある一族か。

車で行くときは国道の反対側にまわり駐車場から登城できる。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

今のところ「尾張クラスター」の影響ナシ。 (2020/02/23 訪問)

まだ安心できませんが,約8日を過ぎて発症しておりません。ウズウズしてきましたが,もう少しおとなしくしていたいと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

武田から徳川に寝返った奥平氏築城の城 (2020/02/01 訪問)

今の群馬県高崎市、上野国から出てきた奥平貞俊が築城した城。
まず奥平氏は今の作手中学東側に1424年頃川尻城を築城した。今は公園となってしまっている川尻城だが、本曲輪の南には、冠木門があり雰囲気を残している。築城してすぐに川尻城が手狭になり川尻城から二キロ南に行ったところに亀山城を築城し、川尻城は支城にして移ってきた。1570年〜1573年は武田信玄に仕えていた。その間、信玄は馬場信春に命じて1571年に亀山城の1キロ北側に奥平氏を見張るためと言われているが、古宮城を築いている。1573年に信玄が亡くなると徳川に寝返って、古宮城を落とした後は、亀山城から長篠城主になり、1575年の長篠の戦いで武田の猛攻を凌いで活躍し、出世していったヤリ手一族だ。
城の構造は、低丘稜に土塁で囲まれた楕円形の本曲輪を中心に、曲輪が段々と整然と配置されている。圧倒的迫力の古宮城と比べると、落ち着いた雰囲気すら感じた。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

分類・構造 山城
築城主 奥平貞俊
築城年 応永31年(1424)
主な城主 奥平氏
廃城年 慶長15年(1610)
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 市史跡(亀山城跡)
再建造物 石碑、説明板
住所 愛知県新城市作手清岳字城山
問い合わせ先 新城市教育委員会文化課
問い合わせ先電話番号 0536-23-7655