明智長山城は土岐氏の一族、明智氏の城で天文21年(1552)もしくは
弘治2年(1556)に斎藤氏に攻められ落城、一族は離散したとされています。
大手門入り口近くに駐車場があり、そこから石畳が続いています。大手門は
老朽化のため取り除かれていますが、再設置を予定しているようです。
大手道の突き当りが馬場跡で七ツ塚や馬防柵が設置されています。馬場の北側に
本丸があり東に二の丸曲輪、中ノ曲輪、東出丸曲輪がありますが、今回は割愛
します。西手に西出丸曲輪があり、本丸の北側から十兵衛坂が続いていて、台所曲輪
、水の手曲輪、乾曲輪を周回しながら大手門駐車場方向に降りてきます。
水の手曲輪周辺では発掘調査で複数の竪堀が発見されており、2020年2月16日に
小和田教授が現地確認をされ、本物の竪堀であると確認されています。乾曲輪の
周辺には遺構が残り、堀切が下山道に遮断され道と一体化しているようです。曲輪の
西側のヘリは急峻な切岸になっていて人工のもののようです。曲輪の先にある
六親眷属幽魂塔は明智一族の供養塔とされ、さらにその先は物見台になっていて
行き止まりになっているので下山道に戻って、そのまま帰途につきました。
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