木原城からの転戦です。幼稚園付近の空スペース(32.711017、130.727130)に路駐、100m離れた城の鼻公園入口(32.710616、130.727514)に向かいました。
築城年代は定かではないようですが、南北朝時代に築かれたと云われています。
1534年(天文3年)肥後国守護菊地義宗は、兄の豊後国大友義鑑に反旗を翻し兵を挙げました。
この時、隈庄城には菊地氏を支援する相良氏の兵が入城していましたが、大友方の名和氏が豊福城から攻め寄せました。この戦いは菊地義宗が相良氏を頼って落ち延び終焉します。
その後、甲斐敦昌が城主となっていましたが、敦昌が亡くなると目方能登守に乗っ取られました。
この目方能登守については定かではないようですが、隈庄城を入手した後は相良氏と結び大友氏に対抗したが、1543年(天文12年)阿蘇惟豊と名和氏が結んで隈庄城を攻め落としました。
1543年(天文12年)には甲斐敦昌の子甲斐親昌が城主となりますが、この隈庄甲斐氏と御船城主となっていた甲斐親直(宗運)は、その後一族同士で幾度となく争いました。
天正8年(1580年)隈庄城主甲斐守昌は阿蘇氏に反旗を翻したので、阿蘇氏は御船城主甲斐宗運に隈庄城を攻めさせました。
この守昌は宗運の娘を娶っていたそうです。守昌は名和氏の援軍を得て対抗しましたが落城しました。
現在城の鼻公園として残された部分が本丸跡、南側にある墓地付近が二の丸跡(行ってません)。
明確な遺構は残っていないようです。路駐していた為、時間が気になり、石碑と説明板を捜さずに撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=河尻城に向かいます。
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