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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:猫尾城 (2022/06/10 訪問)

城村城からの転戦です。城山公園駐車場入口付近(33.216730、130.683080)を曲がらず直進すれば駐車場に着きます。

築城年代は諸説あるようですが、1167年(仁安2年)大蔵大輔源助能によって築かれた説が有力とされます。
助能は徳大寺家の請いによって瀬高荘を管理する為、大隅国根智目(根占)から筑後国上妻郡黒木郷に移り築城したそうです。
この末裔が黒木氏を称し大友氏に属していたが、家永の時に龍造寺氏に従った為、1584年(天正12年)大友宗鱗によって攻められ落城、黒木氏は滅ぼされました。
柳河城に田中吉政が入封すると家臣辻勘兵衛が城代となりますが、元和の一国一城令によって廃城となりました。

猫尾城は現在、城山公園として整備されています。
主郭は山頂にあり、東端に彦山神社が祀られていますが、東端と西側は石垣によって一段高い土壇となっています。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=福島城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:城村城 (2022/06/10 訪問)

山鹿城からの転戦です。入口付近の駐車スペース(33.045344、130.674281)に駐車しました。説明板があります。

築城年代は定かではないようです。 菊地氏の家臣城氏の居城といわれています。
1550年(天文19年)熊本古城の鹿子木寂心が菊地義武を助けて大友氏に叛いて没落すると、城親冬は城村城から熊本古城へ移り、一時廃城となっていました。
その後、隈部城に入った隈部親永の子親安が城村城に入ったと云われています。
豊臣秀吉の九州征伐の後、肥後国に入部した佐々成政は秀吉によって禁止されていた検地を実施すると、隈部城の隈部親永はそれに反発、佐々成政によって隈部城を攻められ落城し逃れました。
その後、隈部親安を中心とした国人一揆衆が城村城に籠城して佐々成政に対抗します。成政は付城を設けて城村城を包囲しますが、居城の熊本古城が国人一揆衆によって攻められ引き上げました。
秀吉は小早川秀秋や立花宗茂に成政救済を命じ、結局は城村城を明け渡す事で和議が成立しました。

台地の北東端を本丸とし、南に二の丸、三の丸などを配していたそうです。
本丸は公園で石碑と説明板が設置されており、南の二の丸との間にわずかに低くなった堀切跡が残っていましたが、城跡全体が草に覆われいました。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=猫尾城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:山鹿城 (2022/06/10 訪問)

正光寺からの転戦です。円頓寺参拝駐車場(33.012632、130.689979)に駐車し、清滝神社入口(33.012692、130.689611)に向かいました。

菊地家の祖・菊地則隆の次男西郷太郎政隆より出た山鹿氏代々の居城でした。
築城時期は不明ですが、1351年(正平6年)に懐良(かねなが)親王と敵対していた記録があり、南北朝時代には北朝に属していたようです。
1584年(天正12年)に島津氏に降伏したが、進駐の際に小ぜり合いが生じているようです。
1587年(天正15年)城主・山鹿彦次郎重安の時、伯父の菊池城主・隈部親永が所領検地のことで国主・佐々成政に一揆を起し、肥後国人(国衆)一揆に発展しました。
山鹿重安は息子の隈部親安と城村城に篭城し、成政の軍とは互角に戦ったが、その後豊臣秀吉の大軍に敗れ、1588年(天正16年)秀吉の命により小倉に於いて切腹させられ、廃城となりました。

城跡は上市の高台一帯を占め、南は清滝口、西は像成寺口、東は菊池口と三カ所の口があり清滝神社の辺りが本丸と云われています。
城跡には円頓寺、清滝神社、光専寺があり、民家が建ち、一部飲食街となっています。
円頓寺南の飲食街の路地を入った清滝神社境内に「山鹿城趾」碑と由来説明看板が建てられています。
南の急崖の下に大きな空堀・土塁があります。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=城村城に向かいます。

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shiromi

岩国城 (2021/12/06 訪問)

ロープウェイで頂上まで。素敵な風景でした。

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おっちゃん

国史跡洲本城跡案内図 (2019/07/13 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

篠ノ丸城址立体地図(縄張図) (2016/11/06 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

志知城跡略図 (2019/07/13 訪問)

現地案内板より抜粋。

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赤い城

公民館に石碑 (2022/06/05 訪問)

埼玉高速鉄道の川口元郷駅から徒歩で10分。
住宅地の中、公民館に石碑と説明板があります。
もちろん遺構はありません。
少し歩いた近くには平柳蔵人菩提寺の正覚寺があります。
セットで訪れるのが良いと思います。
いずれにしてもこの辺りは住宅地でタワーマンションも何棟か。
都心にも近く良い立地ですね。
ただしこの路線、運賃が高いです。
わざわざ行くことも無いでしょうけど。

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すぎちやん

うまっ (2022/06/18 訪問)

おび天は是非とも食べるべし

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ぴーかる

小松城 (2022/05/21 訪問)

【小松城】
<駐車場他>専用駐車場はありません。小松市役所駐車場は「来庁者以外の駐車禁止」の看板、小松市図書館駐車場は一応そういう看板表記はありません。
<交通手段>車

<見所>芦城公園・石垣・天守台
<感想>1泊2日富山城の旅2城目。天守台が見たかった、夏場でも行けそうな行ってみたかった城としてリストアップしていた城です。小松城の前身は一向一揆の城として若林長門守が築城しました。柴田勝家によって落城します。江戸時代になり、1639年に加賀前田家3代当主前田利常の隠居城として再築(は名目でほとんど新城築城)されました。広大な水堀に浮かぶ浮き城だったようです。天守台には御三階櫓が建っていたそうです。前田利常死後は加賀前田家金沢城の支城として城番が置かれ明治維新を迎えます。
 天守台・本丸石垣の残る場所は小松高校グラウンド内の西隅にあり一応一般の方も入れます。天守台の石階段は木板が被せられ上まで登れるようになっていました。現在は本丸は高校グラウンド、二の丸は校舎、三の丸は芦城公園になっています。芦城公園の入口石垣(写真添付)には刻印があり土塀台のような形状になっているので遺構かなと思われます。芦城公園内には前田利常公像や樹齢150年を超える大松が沢山あり小松から大松になったのでしょう。北東にある来生寺の移築現存長屋門は痛恨の見落としました。

<満足度>◆◆◇

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零汰

広いです (2019/11/04 訪問)

男山展望台を目指して行くとトイレ付の駐車場が有ります。そこから城跡を目指しました。周辺はキャンプ場があり遊歩道もあるので歩き易いです。1179年の築城とありますので結構古いの城跡の様です。4つの城の名前の付く曲輪があるのですがお互いの距離が随分離れています。距離が離れているのは古い城跡の特徴なのでしょうか?

曲輪以外の遺構としては、石積・土塁、なだらかなカーブを描く土橋、そして自然地形かどうか悩んでしまう空堀を確認出来ました。本来はもっと遺構があるのかもしれませんが、城域が広く歩くのに夢中で気が付きませんでした。駐車場に戻る迄は1時間30分強だったかと思います。

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うさ

菅谷館 (2022/06/19 訪問)

杉山城から徒歩で向かったため、かなりきつかったです。
館とはいえ、かなり広大な遺構が残っています。ひとつひとつの郭が広く、立派な建物が建っていたのではないか、と想像できました。

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うさ

杉山城 (2022/06/19 訪問)

最寄駅武蔵嵐山駅にある観光案内所の方が丁寧に道案内をしてくださいました。ただ…徒歩でこれからの季節はかなりきついと思います。私自身きつかった…。
遺構は素晴らしく、見応えがありました。
マムシ注意の看板がたくさんあり、北の二つの郭へは行けませんでした。

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うさ

本佐倉城 (2022/06/18 訪問)

ガイドの方がとても親切、そして丁寧な説明をして下さり、楽しい思い出ができました。

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りあそーる

道路 (2022/06/17 訪問)

ダンプカーとかも走っているので駐車場所注意です!
下の円城寺の裏からも登れますが暑かったので断念しました。主郭でカモシカ親子に会いました。草刈りもされてて見やすいです。
見晴らしも良い。

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りあそーる

管理人さん (2022/06/17 訪問)

草刈りしているところを中断して案内していただきました。この話がすごい面白い!
復元した建物のこだわりポイントや庭園の修復過程、そして「国史跡でお弁当が食べれる」ところと「月見台から眺める景色は往時の江馬氏の殿さまが見たものと近いかも」というお話がグッときました。
いただける資料も詳細で良いですね。今度はお弁当持って伺います!

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りあそーる

三木氏だと思う。 (2022/06/16 訪問)

飛騨の里に車置かせてもらって登りましたが、大失敗!
松倉城の看板の横の細い道で「シンボル広場」まで行けますし、車停めれます。対向車に注意!!
お城自体はコンパクトですが、こんな山のてっぺんに石垣!
時間の都合で尾根上の他の曲輪は見ませんでしたが、石垣と景色だけで行く価値あり!
「飛騨三木氏一族」や「飛騨の中世」を読んでから行った感じでは縄張りがどーとか石垣の作りとかは僕はわかりませんが、三木氏はかなり早期に高山盆地まで侵入していたみたいですし、上杉氏との接近や姉小路氏の名跡の継承、国内の鉱山も豊富だったようで金森氏の時代の石垣と考えるより三木氏時代の石垣と考えるとなんかロマンがありますよね(笑)

※熊よけの鈴は持っていきましょう!!地元の人や飛騨の里の人に熊出るよ言われました!!!

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:正光寺 (2022/06/10 訪問)

馬渡城からの転戦です。水門/石碑/説明板前(32.969619、130.750311)に路駐しました。

築城年代は定かではないようです。菊池十八外城の一つとされ、城主は菊池氏八代菊池能隆の子加恵隆時と伝えられています。

石碑や五輪塔などが道路脇の一角にありました。
正光寺の攻城で、菊池十八外城を全て廻りました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=山鹿城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:馬渡城 (2022/06/10 訪問)

打越城からの転戦です。七城温泉駐車場(32.961189、130.749623)に駐車し、そこから130mくらい先の標柱のある馬渡城入口(32.960893、130.750686)に向かいました。

築城年代は定かではないようです。菊池十八外城の一つとされ、城主は蛇塚九郎定家で蛇塚氏累代の居城と伝えられています。定家は打越城主林原与三隆益の孫だそうです。

馬渡城は菊池川南岸、七城温泉ドームの東側一帯に築かれていたそうです。
現在は、民家の庭先に蛇塚古墳という小高い土壇があり、この上に石碑と案内板が設置されているようですが、私有地なので、遠くから眺めました。
七城温泉ドームは天守風の建造物を持つ温泉施設です。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=正光寺に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)6日目:打越城 (2022/06/10 訪問)

亀尾城からの転戦です。峠付近の空スペース(32.961123、130.740372)に駐車し、そこから70mくらい先の石段入口(32.960506、130.740135)に向かいました。石段入口から主郭まで100mくらいです。

築城年代は定かではないようです。菊池十八外城の一つとされ、城主は林原与三隆益で林原氏累代の居城と云われています。
1379年(康暦元年)今川了俊との板井原合戦の舞台となり、今川軍によって攻め落とされました。
菊池氏が滅亡した後は怒留場飛騨守が城主となったと云われています。

石段入口に城跡標柱があり、遊歩道になっています。
遊歩道を進むと石碑と案内板はありますが、遺構はないです。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=馬渡城に向かいます。

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