4年前の夏、日没間際、閉城時間ギリギリに駆け込んだ丸亀城。
下山後振り返った時に目にした夕闇に浮かぶ天守の美しさはきっと一生忘れません。
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2022/05/27 22:22
【究極の1枚】
4年前の夏、日没間際、閉城時間ギリギリに駆け込んだ丸亀城。
下山後振り返った時に目にした夕闇に浮かぶ天守の美しさはきっと一生忘れません。
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2022/05/27 22:12
前橋城今昔図 (2017/02/18 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/05/27 22:10
泉頭城復元見取図 (2017/08/05 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/05/27 22:08
石垣山城案内図 (2016/07/05 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/05/27 17:15
隠れた国の史跡 (2022/05/21 訪問)
比企城郭群の一つになりますが、杉山城や菅谷館の陰に隠れている山城である小倉城を訪問してみました(。
この城が築かれたのは後北条時代で、城主は上田氏か遠山氏と伝わっているようです。
築城当時、ときがわ地区は、地域にある山林を活用した木工細工(欄間等)がさかんであったようですので、その地域防衛のために、築かれたのであると思います。
この城は、埼玉県ときがわ町と嵐山町の境界近くに位置しており、駅は遠く(最寄り駅は八高線の明覚駅。ここの観光案内所で小倉城の御城印を取り扱っています)、バス路線からも離れていることから、公共交通機関でのアクセスは難しいと思います。
車で行く場合には、嵐山渓谷を先ず目標として、その奥に進んだ処にあります。
訪問者用の駐車場は、大福寺の近くに整備されており(訪問者用のバイオトイレがあり、城のパンフレットを入れた箱もあります)、20台近くは止められると思います。
登口から、先ずは郭3に向けて登山道を進みますが、この郭3には石垣の一部が残っています。
この城の石垣は板状に割れた比較的薄い石を積み上げたものであり、高さはそれほど高いものではありません(せいぜい3~5メートルくらい)。この郭3から郭1(本郭)に向かう道は二つに分かれており、左に進み切通にかかる木橋(今は通行止)、虎口を経由してアクセスする方法と、右に進んで枡形虎口を経由してアクセスする方法があります。
いずれの虎口も比較的状態は良く、郭1の周囲を形成する土塁とともに、良く遺構を残しています。
郭1と郭2の間には、クランクを伴う大堀切がありますが、今は枯木で埋もれており、少しわかりづらい状況です。
また、郭2にも虎口と土塁が残っていますが、ここから眼下に小川町の集落を望むことができます。
ここまで述べた郭1~郭3がこの城の見所の中心になります。
年長者とともにゆっくり見たので、攻城時間は約90分。戦国時代の関東では珍しい石垣の残る城で、整備が進んでいるところですので、訪問する価値はあるように思います。
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2022/05/27 13:43
【究極の1枚】 (2022/05/21 訪問)
自分ちの畑から見る楯岩城です。西側は平地からすっくと山が立ち上がり、山体の容積感も適度で、こどもの頃から、とても好きな景観です。花崗閃緑岩の山体を大津茂川が浸食して急斜面を作り、氾濫原が麓までの小さな平野を作っています。
小城小次郎さんの楯岩城投稿とかぶりました。整備ボランティアを募集する地元紙ではご指摘のように土塀跡とありました。
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2022/05/27 07:37
尼子詮久がここにいたかもしれないのだそうだ (2022/01/09 訪問)
以前は迷いやすいお城だったようだが近年登城路が整備され格段に行きやすくなっている。赤松氏一族の広岡氏の城だが尼子詮久が播磨侵攻時にここに入った可能性もあるとか。白い土塁はもしかしたら土塀だったのではなかろうか。
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2022/05/27 06:45
県内の城めぐり2022㉔ (2022/04/07 訪問)
山家城同様、9年ぶり2度目の攻城だというのにこれまた山家城と同様、獣よけフェンスのすぐ右手に伸びる登城路に気付かず、舗装された林道を延々と進んでしまいました。体力と時間を無駄に消耗してしまいましたが、林間に石積や大量の石を見つけることが出来て改めてこの城のすごさを実感することが出来ました。9年前、同時に初攻城したときは林小城、山家城より下の評価でしたが、今回は桐原城に最も魅力を感じました。ただ、同じゴールデンウイークの時期の攻城なのに葉がずいぶん茂ってしまっていて石垣の写真は前回のほうが撮影しやすかったかな。降雪を避けつつ冬枯れの時期の攻城をお勧めします。この城も山家城同様、小笠原氏城跡として長野県史跡に指定されていますが、国史跡に指定されるだけの価値はあると感じます。
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2022/05/27 00:01
明智光秀「最期の30日」を辿る 【第3回】丹波亀山城 (2022/05/08 訪問)
(第2回「坂本城」からの続きです)
天正10年(1582年)5月29日、亀山城にいる光秀の元に信長が安土から本能寺へ入ったとの知らせが密かに届きます。そして3日後の6月1日昼頃、光秀は亀山城数寄屋にて重臣4人(明智秀満(左馬助)、斎藤利三、藤田行政(伝吾)、明智光忠(次右衛門))を密かに集め謀反を打ち明けます。すると4人から返ってきた答えは「皆思いは同じでございます」。これにより光秀の意は決しました!
そして同日午後5時、ついに13,000の軍勢が亀山城を出立しました。しかし、軍勢は毛利のいる西の方角には向かいません。そして、光秀は軍配を東の方角に指しこう叫びます 「我が敵は本能寺にあり!」
しかし、この名台詞(セリフ)は、だいぶ後の江戸幕末の詩人である頼山陽(私と同じ空想が好きなおじさん)が1826年に書いた「日本外史」という本の中の一節にあるもので、実際は極秘の行動なのでそんな事は叫んでないようです。それどころか、途中でたまたま軍勢を見た農民20~30人を(密告されないよう)すべてその場で撫で切りにしたというのですから、もう光秀は残虐者の顔になっていた事がうかがえます(😱~)。
丹波亀山城は、もともとは光秀が丹波攻めのための軍事拠点として築城したもので、兵の収容能力は安土城より大きかったようです。また三重の堀に囲まれ、さらに有事の際には保津川を堰き止めれば巨大な水堀ができる強固な作りになっていました。
現在は宗教法人の敷地になっていますが、受付で申し込めば条件付きですが中を見学させてもらう事ができます。天守は、江戸初期に藤堂高虎が伊予から伊勢へ移封になった際、今治城の天守を解体して伊勢に持って行こうとした所、家康より天下普請に差し出すよう命じられ、この丹波亀山城に差し出した話は有名です。その時の城の再現図がありました(写真④)。明治までその天守は残っていたようです。また下段の石垣(打込接)には刻印があり天下普請で築かれた事を物語っています(写真⑤)。しかし、上段の天守台の石垣は野面積のため、これは光秀時代のものが今でも残っていると思われます(写真⑥⑦)。ということはもしかして🤔?・・・江戸時代には光秀が築いた天守台の上に高虎の天守が建っていたという事になるのでしょうか?😲
うっそうとした木立と苔蒸した石垣に囲まれ、異様な静寂さの中で、かすかに聞こえる(宗教法人の人々が唱える)経の声・・・。この独特な雰囲気の中で私は天守台の脇に立ち、この眼下にこれから本能寺へ向かう13,000の軍勢が整然と隊列を成してここに並んでいる姿がたぶんあったであろうと想像してみました(写真⑧の場所は、かつては広大な曲輪)。 すると何とも言えない急に足が震えてくるような緊張感が襲ってきました(😱~)。
(第4回「本能寺」へ続きます)
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2022/05/26 23:43
2022/05/26 23:35
みなさんと同様に… (2022/05/22 訪問)
みなさんと同様に,田幡公園,金城小学校をぐるりと廻って終了。
ここを訪れるということは,次の散策場所をほぼほぼ予告しているようなものですね…。
はい,金シャチ横丁経由で行きましたョ。
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2022/05/26 21:42
石碑の所はゴミ置き場に (2022/05/15 訪問)
別に行かなくても良いのに再訪。
難台山城で消耗した体力をスタミナラーメンで回復しましたが全く体力を使うことはありません。
竹隈市民センター周辺が城跡ですが遺構は全くありません。
すぐ近くを流れる桜川が天然の堀だったのでしょうか。
当時は水戸城の周辺から台地で繋がっていたそうです。
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2022/05/26 20:38
寺岡砦 (2022/04/30 訪問)
【寺岡砦】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>JR長居から徒歩
<感想>2022年春のJR列車大阪ちょこ城巡りの旅ラスト6城目。寺岡砦は現地説明板によると、当地付近は南北朝~戦国時代に合戦の舞台となった場所であり戦国時代には畠山・三好・細川・桃井の各氏間の合戦がこの付近で繰り広げれられ当地も度々陣所となり砦が築かれたといわれる。とあります。神須牟地神社あたりに砦があったらしいが石碑・説明書きは無い。説明板は眞光寺の山門横にあります。
<満足度>◆◇◇
<周辺観光>長居公園
行ったことが無く、陸上競技場の外観と博物館が見たかったので初めて行ってみました。博物館は植物園の中にあり、植物園のバラとシャクヤクがとても綺麗でした。
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2022/05/26 18:30
静原城縄張り図 (2017/11/24 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/05/26 18:28
清水山城跡測量図 (2016/12/30 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/05/26 18:24
勝龍寺城の縄張り図 (2016/02/21 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/05/26 17:52
中池見湿地方面に遺構 (2022/05/26 訪問)
金ヶ崎城より尾根道を歩いて登城しました。以前、金ヶ崎城には行ったことはあったのですが、手筒山には来ないで引き返してしまいました。直接手筒山に登るより楽かなと思って金ヶ崎城経由のコースを選択しました。帰りは山の神社方面へ下りましたので、比較すると楽だとは思いますが、ただ階段が多く閉口しました。
中池見方面に郭、切岸、堀切が残っているとの案内板があり見てきました。堀切は言われるとそうかなと思うくらいで、ほとんど埋まっていました。うっかりして切岸②を見逃してしまいました。
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2022/05/26 17:37
2022/05/26 17:28
愛発関 (2022/05/26 訪問)
JR新疋田駅より徒歩約10分で城址に行くことができます。
主郭と周辺に石垣や堀を見ることができますが、どこまで当時のものかは判断できません。
この付近は昔から交通の要衝で、古代には三関(他は鈴鹿関、不破関)のひとつ愛発関(あらちのせき)があったといわれています。(
正確な場所はわかっていなようです) 恵美押勝の乱では越前に逃げようとした押勝でしたが、愛発関が閉じられていたため引き返し討たれています。
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