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おっちゃん

池田城跡公園案内図 (2016/03/21 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

沢良宜城跡図 (2017/09/18 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

滝川氏城跡縄張り図 (2017/12/30 訪問)

現地案内板より抜粋。

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カズサン

伯耆未踏の城廻りⅡ (2022/06/21 訪問)

 鳥取県西部伯耆の国に城びと登録未踏の城が5城有りましたので今回の郷里鹿野慶讃法要の後に廻る事に、前日法勝寺城は草の茂りが深く登城口まで、小波城は古城盛衰記さんのガイド案内でグーグルマップを良く確認して、カーナビに鳥取県米子市淀江町小波161-2に合わせ走行、9号線中間交差点信号を南下1km程中間集落に入り東進、山陰道ガード下手前の池の前辺りが目的地。
 車は目的地入口から手前に約200m程の三角コーナーに路駐(35°26'17"N 133°24'45"E)

 案内板、道路指示板は有りません、古城盛衰記さんの写真でここかな?と分かるくらい、東に向かった丘陵先端に築かれて居る、現在虎口は軽四轍が有り進んで行くと開けた平作地、中へは鎖が掛かり進入禁止、そこで内部の写真を撮り撤収、周りは竹ササで覆われ茂っている、東は池を挟んで山陰道が走ってる、西は丘陵続きで畑と成って居る、城域に境に樹木が茂り堀切らしさを感じるが良く分からない。

 歴史は古城盛衰記さんに依ると。
 元弘3年(1333年)名和長年は後醍醐天皇の隠岐島脱出を助け、船上山に立てこもった、隠岐国守護の佐々木清高は追撃の為小波城(小浪城)に入り、出雲国、伯耆国、因幡国の軍勢をまとめ、天皇方のこもる船上山を攻めた。
 しかし、船上山を落すことはできず、清高は再び小波城に入った。天皇方は小波城を攻め、夜半になり名和長年らは、小波城の四方八方から松明を投げ入れ、佐々木清高らを追い落とした。
 清高父子は、航路、隠岐国に逃れ、出雲国から若狭国、越前国へ落ち伸びたという。

 

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カズサン

伯耆未踏の城廻りⅠ (2022/06/20 訪問)

 郷里鹿野慶讃法要を1日半終了の後、山陰道(無料区間)浜村鹿野ICから米子西ICを降り国道180号線を南下、鳥取県も高速が出来東西の交通が大変便利に成りました、南部町に在る法勝寺城へはスムーズに進行しましたが、180号線1本西の町中道から法勝寺川を渡る手前の道が軽四がやっとの広さ、困り果てて近くの方に聞き小型車だとキズつけるかも?と言われ代わりの法勝寺川土手の道を教わる、ここも離合不能、対向車が来たらアウト、目的の橋を渡って山沿い麓に砂利舗装の専用駐車場が在る、拾数台は可能。

 法勝寺城は初訪問、草の茂りが深く、マダニの新聞報道を聞くと藪漕ぎもしづらく登城は断念、近くに居た方に他の登城道を聞くがここの道との事で、林業関係の方が草刈りするのですがまだの様ですねと。

 麓の案内板、城名石碑、山中鹿之助に攻められ自刃したと言われる毛利本紹と主従の墓がある。案内板石碑の裏が大堀切の様である。
 歴史は投稿写真の案内板、案内石碑をお読みください。

 登城は草が刈られた時期、晩秋、桜の頃が宜しいのではと思います。

 案内ガイドは古城盛衰記さん余湖図コレクションさんを参考にしました。

 

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にのまる

三浦一族終焉の地 (2022/05/29 訪問)

「道寸祭り」に合わせて午前10時~正午の2時間限定で実施された東京大学臨海実験所内の城址一般公開に行ってきました。
先に海岸に向かい、途中、外からロープ越しに堀跡を確認。道寸祭りの会場で「鎌倉殿」のパンフレットなどを大量にいただきました。
その後一般公開会場に向かうと既に長蛇の列。主催者の予想も超えていたようです。石神井城(東京都)の一般公開のように城址を自由に見られるのかと思っていたのですがそうではなくて、10人ずつのグループで10分程度、解説付きの見学でした。外から見た空堀を内側から見せていただき、立ち入り禁止の理由やそのメリット、今後の展望などのお話を伺いました。そのほかの遺構についてはギリギリのラインから覗き込むにとどまりましたが研究会の方のお話を実際に聞きつつ質問させていただく機会を得られ、貴重な体験となりました。秘蔵の肖像画も見せていただけました。
その後、マリンパーク駐車場奥の城址碑、三浦義意公、道寸公の供養墓に行き、天然の要害感のある海岸におりてみました。
日差しの強い日ではありましたが、久々の青い海に青い空、気持ちよかったです。

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モト

祠と城址の碑 (2022/06/20 訪問)

全国にいくつかある小谷城ですが、ココは「こや」と読みます。
城跡には祠と碑が建ってました。
案内板もあります。
案内板だけでもあると大まかな概要もわかるのと城跡に来たんだなと思えて幸せです。
特別な遺構は残っていないようです。

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赤い城

天神曲輪に天満宮が建つ (2022/06/12 訪問)

羽生駅から徒歩で20分。
古城天満宮に石碑と説明板が立っています。
この日は車だったのですが天満宮前に短時間ならば駐車は問題ありません。
この天満宮は古城天満宮と呼ばれ、天神曲輪があった跡地です。
主郭部などはここから西に広がりますが住宅地や企業の敷地で遺構はありません。
この辺り、もともとは沼沢に囲まれた要害だったようです。
古河公方家臣の広田氏が築いたとのこと。
上杉氏と北条氏の間で争奪戦が繰り返された城です。
雰囲気を感じるのも難しいですね。

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カズサン

亀井玆矩公墓所は砦の様 (2022/06/20 訪問)

 亀井玆矩公の墓所は鹿野城の北西約2.8km程の小山武蔵山の明星ヶ鼻に在り鹿野城を望める砦の様な所です。
 鹿野城、檀家寺、宿泊の山紫苑によく訪ねながら一度も参拝して居ませんでした、今回の檀家寺で慶讃法要が有り宿泊先の山紫苑の行き帰りに亀井玆矩公墓所の白い標柱がやけに目につき、夏は明けるのが早く5時前には明るい、食事前の6時から7時に参拝探訪しました。
 これまでの行き帰りに目にはしてるのでしょうが、今回が探訪の縁と成りました。

 住所:鳥取県鳥取市気高町山宮字田仲 駐車場は特に在りませんが田仲集落の西の入口三角コーナーに駐車可能数台(35.475342E 134.043207N)

 田仲集落の中程に石垣と鳥居が構え、亀井玆矩公墓所の標柱、亀井武蔵守玆矩と解説板が石垣沿いに有ります、鳥居を潜って九十九道を登って行き、道は整備されています、石垣と石段、急な所を登りますので砦かなと思う造りです。墓前は広く、石垣基壇に角柱墓が立って居ますが墓標に刻んだ名は良く分かりませんネットの情報で「中山道月大居士」と刻んであるそうです、唐風に琉球の別称刻んだようです。
 参拝して墓前の広場から鹿野城方向を眺める、朝の6時過ぎ朝靄で鹿野城の城山は微かに見えるほど、登りお降り朝でも汗びっしょり。

 参拝終って鹿野城址を訪ねました、何時ものショットを取って終了約1時間程でした。

 亀井玆矩公は山中鹿之助と尼子氏復興を願って毛利氏と戦い、秀吉の第二次鳥取城攻防戦で鹿野城を良く護り貢献する、鹿野城を与えられ関ヶ原では東軍に立ち43000石と成り因幡気多郡高草郡を治め、朱印船貿易での潤いで治水新田開発殖産などに勤めて領民に大いに敬われ、津和野移封に成って以降も現在も「亀井さん」と慕われています。

 

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小城小次郎

下津井城がくっきり見える (2022/01/24 訪問)

丸亀城の本丸から瀬戸大橋と鷲羽山ハイランドが見える・・ってことはその手前にある下津井城もくっきり見えたはずだが丸亀城の大改築は下津井城の廃城後のことだったので両城が並び立つことはなかったのか。

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赤い城

あやめ園。 (2022/06/12 訪問)

菖蒲城址あやめ園が城跡で道路の向かい側に駐車場があります。
この日は時折晴れ間も見える曇り空だったのですがここに着いた途端に土砂降り。
それでも栢間陣屋の門をくぐり園内に。
今年は休耕地が多く、あやめも寂しい感じでした。
これも畑を長持ちさせるための方法だそうです。
園内に立派な石碑が立っていますが遺構はありません。
来年は畑いっぱいの花が咲くのを期待します。

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朝田 辰兵衛

龍野古城,その先には八幡宮跡が… (2022/06/12 訪問)

龍野古城本丸跡までは,他の登城グループと一緒になりました。ところが,本丸跡のすぐ先にある八幡宮跡へは行かれずに下山されたようでした。個人的感想を言えば,八幡宮跡のほうが魅力的でした。みなさんは,見落としのないように。

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にのまる

二之丸丑寅櫓と屏風折れ土塀 (2022/05/21 訪問)

二之丸丑寅櫓再建の情報を得たのが2019年2月の訪問時で、本丸と二之丸、二つの丑寅櫓を見るのを楽しみにしていました。この日のメインです。
一昨年完成の新しい丑寅櫓は望楼型下見板張りの二層三階で高さは8.3メートル。外側にあたる北面と東面には各階に窓がありますが(東面二階は石落としつきの出窓)、攻撃する必要のない西面と南面の一・二階には窓はありません。建築基準法の規定により入室は制限されており内部見学はできませんでしたので解説と写真でエア入室してきました。(写真⑤)
丑寅櫓~土塀~天守台の眺めは、多聞櫓を備えた天守と一体化した姿や、土塀が鍮石門まで繋がっている姿の想像へと繋がります。外に突き出した屏風折れの土塀は珍しいそうですが、こちらもエア攻撃体験を楽しみました。(土塁には上がれません。)正保城絵図には天守台両サイドに屏風折れ土塀が描かれており、守備機能のポイントだったのだろうと感じました。二之丸に天守が建てられた経緯など知りたいことはありますが、またいつかの出会いに期待します。
平成19年まで体育館が建っていたという二の丸広場から旧近衛邸へ。邸内には入りませんでしたが、戦国時代の堀跡と丸馬出を再現した白砂の庭園がすてきでした。
本丸へ移動すると、門跡の石垣や土塁、水堀など一気に懐かしさあふれる景色が広がります。櫓台の破壊を免れた本丸丑寅櫓。前回は外でカメラを落としてキャップを壊してしまったのですが、今回は傘を忘れました^^;(取りに戻りました。)
史料館の展示と姫丸辰巳櫓跡をみて見学終了。尚古荘は前回行ったので今回は寄りませんでした。最近も発掘調査の結果を知る機会がありました。また行きたくなりそうな予感がします。

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T-Shionoya

武田最後の城 新府城 (2022/05/06 訪問)

ゴールデンウィークの最後に訪問した城が、山梨県韮崎市の新府城。

高さ40m以上の崖の上、細長い七里岩台地は釜無川と塩川がつくり出した天然の要害。
その台地から更に盛り上がった小山に築かれた新府城。
南東には甲府盆地、北西には八ヶ岳が望め、駿河・諏訪・佐久からの交通と情報を掌握できたことでしょう。

信長の甲斐侵攻に備え、1581年に武田勝頼が躑躅ヶ崎館から本拠を移転。
しかし翌年3月に自ら火を放って退去し、勝頼は自刃。
武田滅亡後は、家康が北条との争いで本陣としたとのこと。

現在は本丸が藤武神社となっている城郭遺構。
訪問時は駐車場から時計回りに巡回。
きれいに整備された大手は桝形虎口の前に丸馬出と三日月堀が配備され、その立体構造にビックリ。
二の丸の馬出付近は原形不明。
本丸南の虎口は、二の丸側からの進入を左に曲げて側面攻撃する仕組みで、「蔀の構」と呼ぶらしい。
搦手は桝形虎口の城内側が深い堀で独立した曲輪となっており、東側は木橋が架かっていたとのこと。
ただ草木が茂っていて確認し難いのが残念。

予想より城域が広く、訪問時間は約2時間半。
なぜ勝頼が岩殿へ移ろうとしたのか不思議に感じた、私の城巡りの126城目でした。

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ぎりょう

二度目の地震で被害が拡大、修復が待たれる片倉氏の居城 (2022/06/26 訪問)

所用で白石市を訪れた。白石城跡は今年2月20日に本欄に投稿したとおり、昨年2月13日の福島県沖地震で御三階櫓や本丸ニノ門が被災し、修復工事が始まっていた。その後今年3月16日に再度地震が発生し、宮城・福島両県内に被害が拡大している。宮城県内では仙台城跡の石垣や藩祖伊達政宗公騎馬像が被災しており大きく報道されている。白石城も前年被害の修復工事スタートから間も無く、櫓や門の漆喰壁の亀裂や剝落、瓦の落下など被害があったと聞いていた。今後の成り行きが気になり登城、本丸に隣接する歴史探訪ミュージアムのご担当に質問したところ、前年二百数十ヵ所を数えた修復部に新たに百数十ヶ所が加わったが、修復完了までのスケジュールは今のところ変更はなく、10月1日(土)開催予定の「鬼小十郎まつり」に間に合わせるべく本年9月末完成で進めているそうだ。
鬼小十郎は白石片倉氏二代重長のこと。祭りでは慶長20年(1615)の大阪夏ノ陣における「道明寺の戦い」での片倉隊と真田隊の戦が再現されるなど人気を集めている。
現在城址は画像のとおりであるが、10月には修復がかなった御三階櫓の下で祭りを楽しみたいものである。

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赤い城

セブンイレブンの隣に。 (2022/06/12 訪問)

セブンイレブン蓮田江ヶ崎店の隣に案内板があり、奥に地蔵堂が建っています。
隣の民家の庭先には立派な石碑もおいてあります。
案内板にはここから北に200m先のみずほ団地が城跡と記されています。
せっかくなのでしばし散策しましたが住宅地で遺構らしきものは見当たりません。
わざわざ行くことも無いと思いますがここのコンビニに寄った際に確認する感じですね。

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ぴーかる

富山城 (2022/05/21 訪問)

【続百名城53城目】
<駐車場他>富山市営城址公園駐車場有料
<交通手段>車

<見所>千歳御門・鏡石・石垣
<感想>1泊2日富山城の旅6城目。本日のメイン。上記地下の駐車場に駐車して、千歳御門をまず見てから観光案内所にてスタンプ押印、御城印の購入をし本丸跡内郭を1周したあと内堀の外側を1周しました。富山城の魅力はやはり石垣にあり。搦手門跡内側の石垣は大玉石を積んだものや南の内堀東側の石垣は大玉石を2つに割った切口を表に見せる積み方をしていてとても面白い。5つもある鉄御門枡形の鏡石は一つ一つが大きく見応えあり。南側土橋前のベンチにて暫し石垣と模擬天守を堪能、模擬天守とはいえなかなか溶け込んでいて美しい眺め、閉館中で中に入れなかったのが残念。

<満足度>★★☆
<グルメ>富山駅にある「白えび亭」にて白えび天丼とほたるいかの醤油漬けを食べました。

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POYO58

修学旅行 姫路城へ (2022/05/31 訪問)

5月31日〜6月2日に修学旅行に行きました。本当は沖縄県へ行く予定でしたが、コロナにより急遽変更。兵庫、岡山、広島となりました。原爆ドームに行く際に広島城は目の前まで行きましたが、スルーとなりました😭
姫路城は初日でした。新幹線で姫路駅に着く前に中から姫路城を探してたらとても大きい白いものが見えてびっくりしました。そこから学校のバスで姫路城へ行き、自由行動に。友達のカメラで写真を撮ってもらいました。まず天守を回りましたが、武具掛けに武器好きの友達が興奮していました。その後、西の丸の化粧櫓をめぐり、最後に黒田官兵衛の石垣を見て終わりました。
とにかくよく残ったなと思いました。授業で今探求活動というものをやっているのですが、僕はテーマを「姫路城はなぜ残ったのか」にしました。
特に気になるのが空襲からなぜ免れたのか。調べてみたら面白いことがわかりました。当時のレーダーは水と地面を見分けるものだったので、姫路城の水堀を池と認識し、そこを通りすがったことで消滅を防がれたと言います。良かった。
今回は自分で撮っていませんが、気に入ってもらえたらいいねお願いします。

評価
遺構:5
建物:5
行きやすさ:3
全体:5

攻城時間
1時間半

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チェブ

古い石碑。 (2022/05/05 訪問)

愛知県岩倉市の「岩倉城」、織田 敏広さんが築城しました。まだ尾張が、岩倉派と清洲派でバチバチしてる時代です。
その後、尾張統一を目指す信長さんに攻められ落城しました。

県道166号沿いに「岩倉城」の石碑、説明板、不動明王像がありました。道を挟んで向こうに『城跡休憩所』があります。
1560年頃、廃城してるのに 今も『城跡』と大切にされてます。
石碑を見た時、誰かの古いお墓かな?という、たたずまい。なんと石碑は、安政の頃1860年に建てられたそうです。立派です。
余談ですが、1854年に四国から名古屋辺りを数回、大地震が襲いました。復興中か復興後、「岩倉城」も忘れないように石碑を建てたんだと思います。違う意味で、立派です。

到着した時、「岩倉城」の石段に父子が座って話しをしてました。お父さんが息子に、何かを教わってます。
スマホを覗き込む2人。一生懸命に説明する息子さん。
信長さんの時代には考えられない光景です。
石碑を建てた安政の頃、信長さんは どのように語り継がれていたんでしょう?
古い石碑と、今どきの父子を見て 信長さんも、描かれる時代にあった人物像になっている気がした「岩倉城」攻めでした。

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コバトン

能登畠山氏の威光を示す巨大山城 (2022/06/12 訪問)

七尾駅から麓の資料館までバスで15分。そこから本丸まで60分くらい。尾根伝いに登っていくと頂上付近で開けた曲輪に出る。それぞれの曲輪が深い堀切で区切られているほが、重臣の屋敷跡も石垣造となっている。二の丸には大きなシカが休んでいた。本丸は何段にも連なる壮大な石垣造となっており圧巻の一言。織豊大名以外でこの規模の石垣を築くのは珍しく、能登畠山氏の威光がよく分かる。地形も相まって要害な造りとなっており、上杉謙信の猛攻にも一年近く耐えた。五大山城の名に恥じない名城。

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