門を通って本郭へ行くと神社が建っていました。
遺構はその周辺に残る土塁を確認しました。
他の方の投稿で神社の横に碑がある事を知ったのでそれは見たっかった、いや残念。
しかし、私としてはこの門がなんとも言えず良い。
なんか雰囲気ありません?
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検索結果・・・「」を含む投稿
2022/02/01 09:35
門の雰囲気が良い (2021/05/06 訪問)
門を通って本郭へ行くと神社が建っていました。
遺構はその周辺に残る土塁を確認しました。
他の方の投稿で神社の横に碑がある事を知ったのでそれは見たっかった、いや残念。
しかし、私としてはこの門がなんとも言えず良い。
なんか雰囲気ありません?
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2022/02/01 06:57
都城の隣 (2021/12/28 訪問)
志布志城に行く前に立ち寄りました。というよりはここは都城の隣といったような場所なので遠回りをした感じなのですが、都城志布志道路が利用できるので東九州自動車道で志布志にアクセスするより合理的だったかもしれません。運動公園の駐車場に車を駐め、中の丸、本丸へと脚を伸ばしました。1599年の庄内の乱の際に都城の12外城の中では最後に降伏した城とのこと。庄内の乱で戦死した富山石見の墓がありました。
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2022/01/31 16:11
本丸石垣土塁上からの眺め (2011/05/07 訪問)
亀居城、三原城を終えて三原から東方約150km程の赤穂城を目指す、高速山陽道三原久井ICから入り赤穂ICを出る。
車は歴史博物館駐車場を利用。
平成23年は7月15日登城し既に6編に分けて投稿して居ますので別の視点で眺めた写真を投稿致します。
平成23年5月7日の登城目的は二の丸庭園、大石頼母屋敷の完成状況の確認ともしかして見学が一部でも可能であれば見学したいとの思いで浜松帰路の途中に寄りました。
先ずは二の丸大石頼母屋敷へ白漆喰土塀、屋敷門は完成して居ましたが入場出来ず、高い所から覗けないかと本丸に入り本丸門枡形の櫓門への階段を登り西面城塁上を西北横矢枡形石垣へ至り、その辺りから二の丸庭園、大石頼母屋敷を覘き写真撮影、本丸櫓門横土塁上から本丸門桝形、本丸内部を眺めて撮影、本丸最大の櫓台南横矢桝形上より二の丸花見広場、二の丸庭園を覘く、同台から本丸内部、左右の城塁(表石垣で裏土塁)を眺める。(5月は土塁登り問題無かったのですが、7月の南横矢桝形へ土塁登り途中に足首ねん挫し土塁上からの写真は撮れませんでした、流石防御の土塁。)
二の丸外堀清水門、定番の大手門隅櫓、大手門、外堀、三の丸から中の元大石内蔵助屋敷長屋門、近藤家長屋門、片岡家長屋門、塩屋門跡周辺石垣を観察見学し終了としましたが17時半で約1時間半の探訪。
帰路は浜松まで約450km、高速SAでゆっくり夕食して深夜の帰宅でした。
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2022/01/31 14:57
「三田氏館」 (2019/04/06 訪問)
<オススメ>★☆☆☆☆
三田氏館は中世の方形館跡と伝わる。現在、遺構は消滅している。周囲は私有地となっており、見学の際は注意が必要である。
<アクセス>
Jr谷保駅 徒歩20分
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2022/01/31 12:44
陣城好物件 (2022/01/08 訪問)
戦国末期に岸和田城の後詰に入った三好実休が築いた陣城で、根来衆の支援のもと再起を図った畠山高政との久米田の戦いで三好実休は敗死し、貝吹山城も廃城となりました。
貝吹山古墳と呼ばれる古墳前期の前方後円墳を改修した陣城で、後円部を主郭とし、裾部に横堀と土塁をめぐらせていたことが発掘調査により明らかになっています。前方部も削平されて、後円部との間には堀切が設けられていました。古墳の東側、南側、西側は三つの周濠で囲まれ、周濠の間には土橋が通っていますが、この周濠と土橋は元々のものらしく、少し手を加えるだけで陣城として活用できる好物件です。現状は古墳のある公園になっており陣城の面影は感じられないものの、後円部に登ってみると、ほんの8mほどの高さの墳丘ながら思いのほか眺望が開けており、好立地であることを実感します。
貝吹山古墳は橘諸兄の墓と伝わりますが、東隣には橘諸兄にゆかりの深い久米田寺があります。久米田寺は行基の開創とされ、後詰に入った三好実休の本陣ともなりました。また、貝吹山城から西に徒歩10分ほど行ったあたりには三好実休戦没碑がある……はずですが、見落としてしまいました。
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2022/01/31 11:16
復興天守に春の訪れ (2022/01/30 訪問)
まだ1月というのに、復興天守の前では梅の花が咲き始めていました。熊本城には、もう春が訪れていました。(2022.01.30撮影)
天守が復興してから2回目の登城ですが、やはり何度見ても圧巻です。
復興に携われた方々には、本当に感謝と敬意を表します。
しかし、対照的に、宇土櫓はまだほとんど手付かずです。現存櫓(現存で最大の櫓)なので、何とか現存櫓と呼ばれる形のままで残してほしいものです。
奇跡の一本足で有名になった、飯田丸五階櫓は完全に解体されていました。これも何とか復元される事を祈ります。
本丸御殿の下、暗闇(くらがり)通路は復興していましたが、御殿内部はまだです。王昭君之間はいったいどうなっていくのか、こちらも気になります。
熊本城へのアクセス: JR熊本駅から路面電車(健軍方面)に乗り、市役所前下車、徒歩5分です。来週には、満開の梅の花が見られる事でしょう!
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2022/01/31 11:07
小西行長の無念が伝わる城 (2022/01/30 訪問)
宇土城は、かつては三重五階の天守がそびえる小西行長の居城でした。
熊本城の宇土櫓は、この天守が移築されたとこれまで言われてきましたが、近年の調査結果ではどうも違うらしいとの事です。
行長は、ここに緑川の水を引込んだ運河を作り、水堀や船着場、さらに城下には武家屋敷や商人町(町割り)などの、当時の博多に匹敵いやそれ以上の大きな総構えの城下町を形成しようとしていたのかもしれません。しかし、その志なかばで関ケ原の戦いに敗れ、京都四条河原で石田三成とともに斬首の刑となりその生涯を閉じてしまいます。勝って宇土の地に戻り、さぞかしその理想を完成させたかった事でしょう。行長の銅像を見ていると、その無念さが伝わってくるような気がしました。
今の宇土は小さな町ですが、もし西軍が勝っていたら、ここは九州で最も栄えた地になっていたかも?・・・ そんな事を、想像をしながら、この地を巡ってきました。
宇土城へのアクセス: JR鹿児島本線 宇土(うと)駅から産交バス松橋(まつばせ)行きに乗り、本町一丁目(宇土高校入口)で下車、徒歩10分程です(車では本丸下まで行けます)。
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2022/01/31 10:36
三原城天守台素晴らしい眺めです❣ (2011/05/07 訪問)
三原城は小早川隆景が新高山城を本拠とし水軍の拠点として三原浦に要害を築くが豊臣期改修に着手し石垣の海城を築く、船入りも備え水軍基地、瀬戸内海を抑える要にもなっていた、また西国街道を整備し東大手門から西大手門に掛けて西国街道を引き込む。
関ヶ原後戦功で福島正則が安芸備後50万石太守と成り支城群の一つとして三原城を大改修し現在の姿に、福島氏改易の後、紀伊より浅野氏が安芸備後に入封し三原城は筆頭家老三原浅野氏が城主を務め明治を迎える。
10年前の平成23年5月上旬、安芸亀居城を香川画伯の俯瞰図と共に探訪を充分に堪能した後、東方約100km先の三原城を高速山陽道経由目指しました。
車は天守台の東二の丸跡堀端のグーグルマップで駐車場が在る辺りを目的にしたが月極で時間貸しが無く喫茶店の駐車場に駐る、丁度昼過ぎでしたので喫茶店で昼食を取り、三原城廻りの旨を話し駐車させて頂きました。
探訪は三原駅構内から天守台に登り内部と周囲を探訪、今回は特に天守台周辺の対岸堀端の再開発でお店、住居が撤去され公園化整備の進捗を見たいとの希望も有りました、まだ1軒の建物が残って居り天守台の北、西は堀端の整備は余り進んで居ませんでした。
天守台を降りて堀端より東側北側西側と巡り大振りな天守台を眺める、いつ見ても素晴らしい眺めです、小早川隆景の座像を拝見して、新幹線高架の下に保存されてる石垣を西、東観察し、本丸中門跡の石垣と堀、近くの一番櫓台跡の観察、町中を通り抜けて舟入櫓跡を外周からと内部に入り観察、三原港に出て海の香りをかぐ、三原駅に戻り壁面にある大型レリーフの三原城絵画を見る、この絵画は広島藩士で画家の岡眠山による絵画で原画は三原浅野家菩提寺妙正寺所有で画の一部をレリーフにして駅頭を飾ってる。
三原城の投稿は令和元年6月新高山城、高山城登城の時点に三原に宿泊立ち寄った時点の投稿をさせて頂いています、その折も書きましたが三原城天守台の二階櫓多聞櫓の続いた復元が有る様なに聞き及んでいるのですが、あると良いなぁ~、情報が有ったら何方か投稿下さい、復元が楽しみです。
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2022/01/31 08:47
写真追加 (2022/01/08 訪問)
投稿し忘れていた写真を投稿します。
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2022/01/31 06:52
2022/01/30 21:31
フォロワー20人を超えました。皆さんありがとうございます。
ついに私の目標を達成しました。って言ってもまだ始めてから5ヶ月しか経っていないのに。
カルビンさん新しい投稿が見たいです。
T-Shiroyamaさん洲本城最高です。
他の人にもメッセージを書きたいですが、今日はこの辺で。
まだ冬ですが、そろそろ桜の時期もやってきます。早く桜とお城を一緒に見たいです。
今回はお礼に去年の3、4月頃に撮った桜の写真をお見せします。よかったらいいねお願いします。
これからフォロワーが何人か達成したらその時までに行った城のマイランキングを提示しようと思います。
では今回は20人を超えたのでランキングを記します。
1位 掛川城
2位 松本城
3位 犬山城
4位 岩村城
5位 伊賀上野城
6位 大垣城
7位 郡上八幡城
今私は福知山城と黒井城に行きたくてたまりません
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2022/01/30 21:13
2022/01/30 20:47
2022/01/30 20:31
2022/01/30 20:25
洲本の山の石垣遺構にワクワク (2021/11/24 訪問)
昨年11月の旅行で寄った城の1つ目。
淡路島の東部、洲本川河口の南に位置する標高133mの三熊山を城郭とした洲本城。
山の南側は、淡路島経由で都と四国各地を繋ぐ南海道の通り道。
室町後期に三好氏の重臣で熊野水軍の安宅氏が築城し、信長と秀吉の四国侵略時代には仙石秀久、脇阪安治が城主となり石垣の城に改修。江戸期に徳島藩の所領となると、蜂須賀氏の重臣稲田氏により麓の城(下の城)が築かれました。
現在は下の城が資料館や裁判所に。
上の城は東の端から西の端まで曲輪が石垣で補強されており、続100名城として整備が進められている様子。
天守台に立つ模擬天守は風変わりですが、本丸を始めとする石垣は予想以上に立派なものでした。
小天守台や残念石のある場所、東の武者溜などは眺望が良く、青い大阪湾の向こうに薄っすら高層ビル群。
かつては大坂城の天守が見えたのでしょうか。
私の城巡りの114城目。
洲本はドラクエを生み出した堀井雄二氏の出身地でもあり、ゲームの世界観にも影響しているかのようでした。
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2022/01/30 17:49
笑っちゃうよ。 (2022/01/03 訪問)
千葉県の「城城」、鎌倉時代に六崎氏が、築きました。
「城城」なんて名前だけは『King of 城』です。
住所も『佐倉市 城』。近くは『佐倉市 城内』
期待度、上がります。
、、、と、到着すると住宅地。
「城城」に関する遺構は、 ありません。住宅の裏手が遺構っぽいけど、入れません。
石碑や説明板もありません。
辺りの写真をパチッとして退陣です。
笑っちゃうくらい、なーんにも収穫なしです。
もしや、住所の『城』や『城内』は近くにある100名城の「佐倉城」からか、、、?
六崎氏もどんな方だったのか分かりません。
六崎氏の活躍より、なんで「城城」と名付けたのか?と、聞いてみたい「城城」攻めでした。
ヒロケンさん、大変でしたね。
私の会社や取引先などにも、コロナに感染した方がいます。
私はコロナ感染を、対岸の火事のように思っていたようで、急拡大に、あたふたしてる 情けない現状です。
ヒロケンさんの楽しい投稿を、ゆっくり待ってますね。
お大事にして下さい。
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2022/01/30 17:39
久しぶりに烏帽子形城を攻城して (2022/01/29 訪問)
昨日、烏帽子形城を訪問しました。
烏帽子形城は、標高180mの烏帽子形山の山頂部に位置して、北と西は断崖で下には石川、東側は河岸段丘が広がり天見川に落ち込んでいる。
よって、東西北の三方は川に囲まれ、南方のみを開けた構造で、外堀の役割を果たしている。
また、付近には京からの東高野街道、大阪の平野からの中高野街道、堺からの西高野街道の合流地点がある他、河内国から和泉国に抜ける河泉街道、紀伊国とを結ぶ九重道、
大和国へは大沢越えの道が分岐しており、交通の要衝でありました。
城郭の規模は、東西約180m、南北約150と比較的小規模な方である。
但し、多彩な構造物が施されており、瓢箪型の主郭とそれを取り囲む逆L字型の帯曲輪を中心に土塁と横堀が造られて、尾根に堀切、主郭の北側には切岸が設けられています。
周辺の諸城では、堀切が用いられるのが多いのに対して、烏帽子形城は、土塁と横堀の多くが効果的に配置された構造になっております。
現在の城郭は、織豊系城郭の三要素のうち、瓦の使用と礎石建物の構造が当てはまることから、中世の土塁を中心とした城郭から発展していく過渡期のものであると推定しています。
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2022/01/30 17:20
全てが見所 (2016/11/05 訪問)
戦国時代、大阪城の地には浄土真宗の石山本願寺があり、大阪御坊と呼ばれていました。大阪御坊では法主顕如を戴、11年にわたり織田信長公と死闘を繰り広げていましたが、天正8年に信長公と和睦し、紀州に退去。この時に、大阪御坊は焼失しています。
この後、信長公が本能寺の変で横死した後の天正11年豊臣秀吉公が、大阪城築城に取り掛かり、当時の日本の城の概念を一変させる大城郭を築いています。(この時の大阪城は徳川時代の大阪城の4倍の広さがあったとされています)
大阪冬の陣・夏の陣を経て、豊臣氏を滅亡に追い込んだ徳川氏は、西日本の大名を動員し、既に堀を埋め立てていた城を更に破壊し、埋め立て後に嵩上げを行い、巨石を大量に使用した石垣を築き築城、これが4分の1のスケールとなったが、現在の大阪城です。
現在は、国指定特別史跡、大阪城公園として復興天守があり、二の丸の1番櫓と6番櫓・西の丸の千貫櫓と乾櫓・大手門などが現存。また、巨石を使用した本丸・二の丸の高い石垣・深く広い堀が残り、城の全てが見所と云えると思います。
私事ではありますがこの度、コロナ感染症に感染し、入院・軽症者療養施設を経て、現在、自宅にて療養しています。暫くの間、城巡りを止めおとなしくして居ようと思っております。(職場内で感染したものですが、娘から諭されコロナが落ち着くまで外出禁止です。)
この大阪城も含め古いものになり、参考にはならないと思いますが投稿させて頂きたく、宜しくお願い致します。
入院・入所中は皆さんの投稿を拝見し、勇気づけられておりました。あさんの鹿伏兎城攻城で、感謝とのことでしたが、此方こそ参考にして頂き感謝です。
歴史的背景等間違いがあると思いますが、ご容赦お願い致します。
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2022/01/30 14:58
境目の城総石垣造り (2011/05/07 訪問)
亀居城は福島正則が関ヶ原後戦功で安芸、備後50万石の太守として国境の支城を整備しその一つ、長門、周防毛利氏との国境の直近、大竹市小方に総石垣で築城した。
しかし築城完成3年目に幕命で一国一城令前に破城され、幕府の総石垣の壮大城郭、福島正則に対する豊臣恩顧の大名への猜疑心も遇いまった事が重なったのでしょうか? 約400年土に埋もれたままに成ってしまいました。
10年前の平成23年5月上旬、長門、周防、安芸、備後、播磨2泊3日の城廻り3日目、前泊した防府から山陽道経由、大竹ICを降りて亀居城の裏側登城通路の途中に在る専用駐車場を目指し、同駐車場に駐る。
亀居城の認識は歴史読本の県別ベスト10、学研のよみがえる日本の城7(広島城福山城)で紹介が有り、圧巻は学研の戦国の堅城Ⅱの安芸亀居城、樋口隆晴氏解説、イラストは香川元太郎氏の推定復元亀居城俯瞰図、俯瞰図をしばらく眺めて是非訪ねたいと思い込んで約5年目の今回はの企画に入れ初登城が実現しました。
探訪ルートは駐車場から三の丸下登城口から、発掘復元石垣が直ぐに目に入って来ます、登城路も石垣で囲み、三の丸、二の丸、二の丸虎口も小型の枡形、内部には演舞台付きの建物、本丸、本丸虎口は小型桝形4連で凝り切ってる、内部に入って南側に大天守台、左に小天守台、右に石階段付き多聞櫓台、天守台多聞櫓台には登れません、北東角に隅櫓台、北西は連続虎口、本丸石垣をぐるっと回る、東の二の丸下に詰の丸、詰の丸下に破城時の残存石垣が多数散見されました、登城口三の丸下に戻り有の丸、松の丸、名古屋丸、捨の丸方向を散策探訪、石垣は破城時のままか土の剥き出し、切岸、土塁、残存石垣、復元石垣が見られます、イラスト復元図に在る、鐘の丸、妙見丸は探訪してません。
亀居公園としてよく整備されています、所々に詩歌の石碑が多数ありますが趣味違いで素通りさせて頂きました、又桜の時期は過ぎて葉桜でしたが桜の時期は天守閣本丸から眺める景観は亀居城が桜に浮かんだような素晴らしい絶景が見られる事でしょう。
大竹市、教育委員会の約400年過ぎた亀居城の発掘調査、石垣復元、公園整備の御尽力には大感謝です。
続々百名城の制定企画がもし有りましたら是非亀居城の選定をお願いしたい。
素晴らしい城です。
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