えのもとじょう

榎本城

栃木県栃木市


旧国名 : 下野

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榎本城跡石碑、グーグルマップの史跡マーク
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カズサン

広大な城郭も農地水田改良 (2024/06/07 訪問)

 藤岡城を終えて北東に約12km程、栃木市小山市未踏の城廻り3城目榎本城へ初登城。

 駐車場:無し、榎本城跡石碑前辺りに路駐、他の地点も路駐。
 参考資料:城郭放浪記さん余湖図コレクションさんグーグルマップに依る。

 狭い集落の道に路駐し、城びととグーグルマップの史跡マーク地点に石碑と解説板、裏の堀と土塁を撮影、車の往来が有ったのですぐ退散、余湖図コレクションさんの城郭マーク、城郭放浪記さんの城郭マークを車で移動し確認するが現在は水田の中、田植えが終わって早苗の水田風景、景色は最高。
 
 解説板には。
 城郭の規模は東西613m、南北396mという複郭で広大、西は永野川、東は巴波川、杣行川が南流する要害の地であった。
 小山氏は祇園城の出城として築いたと伝わる、小田原北条氏へ備えるが北条氏に従い、上杉氏に占領され、北条氏に再占領、と上杉氏北条氏の覇権争いに翻弄される。秀吉の小田原征伐後は結城領、その後廃城に成ったが、慶長10年(1605年)10月本多忠純が28000石の城主として復活。しかし本多氏も寛永16年(1639年)断絶し、榎本城はついに廃城と成った。
 北西約5km程の大中寺に本多忠純の墓があるそうです。

 広大な城域も耕地整理農地整理で水田と成り、法宣寺辺りから北の石碑の有る辺りが城域の北辺のようで土塁と堀が点在残って居る様子。
 石碑と解説板が重なり合ってるのは頂けない、読みづらく写真を撮り難い。
 

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チェブ

ほんとだ、位置関係おかしいぞ。 (2023/10/04 訪問)

以前、赤い城さんが【城と看板】に投稿されていた、「榎本城」で笑いました。

1185年 小山 宗長さんが築城しました。
侵略され、北条家→上杉家→北条家と翻ろうされたようです。
秀吉さんの北条討伐時の「榎本城」の城主は、近藤 綱秀さん。北条 氏照さんの家臣です。
「八王子城」で綱秀さんは討死しました。
綱秀さんの留守の間に「榎本城」は結城氏に攻められます。

「榎本城」に到着し、一言。
『ほんとだ、位置関係おかしい。』でした。
後ろの説明板は斜めから読み、反対側に移動し読み、と、内容が入ってきません (;´A`)

石碑と説明板の向こうに土塁がありますが、草木が元気で高さが分かりません。
空堀の草木も、深さを教えてくれません。

石碑と説明板を、長時間眺めていただけなのに、笑顔で「榎本城」を後にしたのでありました。

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赤い城

【城と看板】

どう見てもこの位置関係はおかしい。

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赤い城

説明板の立ち位置がおかしい (2021/05/22 訪問)

東武大平下駅から徒歩で30分。
民家の脇に石碑と説明板がありました。
が、説明板の真ん前に石碑という。
説明読むのにも微妙な感じです。
石碑の側から空堀があり、奥には土塁も残っています。
ほとんどが宅地と農耕地になっていて歩き回るのには気が引けました。
小山宗長が築城、小山城の支城とされています。
戦国期には皆川氏、佐野氏、北条氏、結城氏の拠点となりました。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 小山宗長
築城年 文治元年(1185)
主な城主 小山氏、北条氏、結城氏、本多氏
廃城年 寛永17年(1640)
遺構 土塁、堀
再建造物 石碑、説明板
住所 栃木県栃木市大平町大字真弓