築城時期は1390年頃という伝承があるのだそうです。
16世紀初頭のものと思われる土塁や堀跡を見させていただきました。
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2022/01/26 19:43
里山 (2021/11/07 訪問)
築城時期は1390年頃という伝承があるのだそうです。
16世紀初頭のものと思われる土塁や堀跡を見させていただきました。
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2022/01/26 15:52
幕末石垣技術が残る勝山御殿 (2011/05/06 訪問)
10年前の平成23年5月上旬、櫛崎城、長府城下町探訪を終えて今回の初登城目的の一つである勝山御殿を目指す、長府城下町からは北方約4km程、本丸西側の整備真新しい駐車場を利用。
勝山御殿は外国船打ち払いによる四国艦隊との砲撃戦の対処で長府居館を一時覚苑寺に藩主避難するが三方を山に囲まれた田倉地区に文久3年(1863年)6月28日から築城を開始し翌年元治元年(1864年)2月1日には第13代長府藩主毛利元周が長府から移る。
約7ヶ月の短期決戦築城と成りました、本丸は二段で前段が本丸表、政務の中心、奥段が本丸奥、藩主、家族の住まい、本丸の南側に石垣、虎口階段、西側に南西虎口と北西虎口が構える。
南に二の丸、更に三の丸構えですが二の丸、三の丸には道路が通り遺構が破壊されたか維新までの時間が迫って居り充分な整備が出来なかったのか分かりませんが三の丸の虎口、階段、張出し防塁、南に城塁が残るのみ。
石垣は綺麗に積まれ切込接ぎの様ですが落し積(交互斜め積)が用いられています、整備は訪問時の前年平成22年(2010年)完成の様子、案内板、説明板が2010年と成って居ました。
勝山御殿の周りに山城3城紹介登城口案内板が有りましたが私の体力と興味関心点が少し合いませんので眺めるだけで終了。
長年探訪を願って居た事が叶い大満足でした。
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2022/01/26 13:12
鈴鹿の関の遺構もあります (2021/01/22 訪問)
東海道の鈴鹿峠を下り、大和街道との交点にあり、鈴鹿の関が置かれた場所です。
天正11年、北伊勢攻めの際に、関氏から秀吉軍が奪取し、三武将が駐屯したと。3つのピークをそれぞれ中心にして3つの郭群があります。一番北側の郭群の本郭南に竪土塁が残り、古代の鈴鹿の関の遺構と。竪土塁の上が散策路になっていて手摺の虎ロープが張られています。なんかもったいない感じ。
登城口は山崎製パンの駐車場奥にあります。斜め右手に進んでいくと低い石垣があり、その手前の道をピンクテープに導かれて登って行きました。郭群に至る直前は、かなりな急斜面でかつ道はウラジロをかき分けた痕。一方、尾根に上がってしまうと、草はなく、南に続く郭群に行くのは容易です。山の南側は、鈴鹿川に削られて急峻です。
街道を挟んで北側の山にも鈴鹿の関の築地跡が発見されています。鈴鹿の関は、街道が通るこの谷を端から端まで塞いだのでしょうから、とても規模が大きいです。
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2022/01/26 08:58
一城別郭の城 (2022/01/08 訪問)
南北朝期に楠木氏一族の橋本正高が築いたとされ、北朝方との攻防の舞台となりました。戦国期には根来衆の拠点となり、その後、一国一城令により廃城となりました。
粉河街道を見下ろす雨山の頂部に曲輪群を配した山城で、西尾根の先の土丸城との間にも城郭遺構が見られることから、一城別郭の城として土丸城と一体的に機能したと考えられ、土丸・雨山城跡として国史跡に指定されています。
阪和道の側道沿いに登城口があり、近くの駐車スペースに車を駐めて登城開始。阪和道の高架をくぐり、整備されたハイキングコースを20分ほど登ると伝馬場跡への分岐があったので、そちらに行ってみると曲輪っぽい平坦地が広がり、北西端には東屋が設けられて眺望が開けています。伝馬場跡から数分登ると鳥居があり、鳥居をくぐった先には浅い堀切と土橋がありました。さらに数分で山頂の主郭に到着。雨山はその名の通り雨乞いの山であり、山頂には雨山龍王社と樹齢200年を超えるヤマモモが祀られていました。主郭には遺構は見られませんが、説明板と休憩所が建てられており、休憩所裏手の一段下の曲輪からは泉南の平野部そして関西空港越しに淡路島を、北西に目を向けると大阪湾越しに六甲山を一望できます。主郭の東側には千畳敷と呼ばれる広い曲輪があり、千畳敷から北東にのびる尾根には小曲輪群がある…はずですが、シダに沈んでいました。また、千畳敷南東下の月見亭にはテーブルとベンチがあり、日根荘大木の農村景観を見渡すことができます。千畳敷南下(月見亭から西)にも階段状に小曲輪群が設けられており(こちらもシダの中)、小曲輪群下の井戸は現在も水をたたえています。
岩盤むき出しの南側斜面を抜けて西に進むと土丸城へ続く道と北西尾根から山麓に続く尾根道の分岐があり、主郭の南西斜面から竪土塁状に続く土塁と、周囲の小曲輪群によって北西尾根からの侵攻に備えています。小曲輪群をひと通り見た後は、尾根沿いに土丸城に向かいました。
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2022/01/26 06:44
平家森(喜界島) (2021/12/26 訪問)
最初に喜界島行きを計画した時は、強風で欠航となってしまいました。この日も強風で鹿児島空港に引き返す可能性があるとアナウンスされていましたが、無事、喜界島に上陸することが出来ました。喜界島の北側を徒歩でぐるっと回り平家上陸之地を経て平家森に到達。砦の遺構のように感じられるスポットでした。上陸の地の近くには七城があるようですが、そちらはスルー。城としてはちょっと怪しい部分があるようですのでまあいいや。
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2022/01/25 22:35
仙年寺裏手の竪堀パラダイス (2022/01/15 訪問)
仙年寺の駐車場に車を駐めて登城。
山門にパンフレットがあるとのことでしたが在庫なし。
気を取り直して登城口から登って行くと右手に竪堀。
さらに登ると主郭東側の二重堀切からの竪堀なのがわかります。
まずは大手側に進むと東曲輪、大手曲輪と展開されています。
主郭方面に戻り西側に進むと途中竪堀が何条か。
西側にも二重堀切がありました。
ここからさらに進むと水の手口になるようです。
主郭下には畝状竪堀も見ることができます。
北条、今川、武田の列強に囲まれた葛山氏の居城。
戦国期には武田氏のものとなった城ですが武田氏滅亡とともに廃城となりました。
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2022/01/25 21:22
見どころは天守ではない (2021/10/09 訪問)
崩落寸前の天守に注目が集まりがちなお城なのだがこのお城の真価は「藤田系」とでも総称すべきその縄張にある。行くたびに地味に新しい発見があるお城でもあり、どうしても定点観測をやめられない。
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2022/01/25 21:03
2022/01/25 20:52
2022/01/25 20:28
櫛崎城城下長府散歩 (2011/05/06 訪問)
車を元長府藩家老格西運長邸/現長府庭園の駐車場に止めぶらぶらと散策し城下町に風情を楽しみ、七卿落ちの地、奇兵隊旗揚げの地で有り高杉晋作の挙兵、坂本龍馬の活躍など幕末維新の香りを確かめながら巡りました。
神功皇后の伝承も伝わる具川沿いの長府藩侍屋敷長屋、古江小路の菅家長屋門、土造りの練塀通り、横枕小路の練塀、土のたたき道と武家屋敷の景観風情が良く残って居り整備されています。
奇兵隊挙兵の寺、功山寺、高杉晋作騎馬像、七卿落ち公卿の居住地、長府毛利家墓所、長府博物館休館で入館できず、四国艦隊占領され長府藩主が一時避難した覚苑寺、覚苑寺には勝山御殿の御殿玄関部が移築されてます、乃木神社には乃木大将夫妻の像と愛馬の像が設置され、育った家も復元されて居ました、隣は長門二宮の忌宮神社で車を駐める長府庭園に戻る。
中々有意義な散策で楽しく堪能しましたが全ては見切れませんので本の少々で奥行きはまだまだ有ります。
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2022/01/25 18:33
大野城 (2022/01/08 訪問)
【百名城59城目】
<駐車場他>各所無料あり。
<交通手段>車
<見所>門跡・石塁・土塁・礎石建物群
<感想>1泊2日国土防衛筑前国の旅3城目。1日目のメイン、太宰府天満宮付近の渋滞により到着時間が計画より遅れての訪城となってしまった。巡順番は焼米ヶ原駐車場に駐車し→増長天礎石群→坂本口城門跡→水城口城門跡→けいさしの井戸→大石垣→大宰府口城門跡→尾花礎石群→移動し県民の森センターにてスタンプ押印→八ッ波礎石群→また移動して野外音楽堂の道路脇に駐車し徒歩にて→クロガネ岩城門跡→百間石垣(宇美口城門跡)→北石垣城門跡→小石垣城門跡→主城原礎石群→帰り道に船石を見て終了。百間石垣~北石垣までのルートは急斜面で険しいのでストック要です。やはり午後からの攻城では城門跡2つと礎石群をいくつか攻め落とせず終いとなり、しかし最後の主城原礎石群は城の主要部は必ず見るという信念のもと、山道を必死ダッシュに駆け登って到着は17:00となったがなんとか日が残り見ることができた。古代朝鮮式山城の圧倒的なスケールのでかさと沢山の遺構、堪能しました。まだまだ埋もれた遺構がありそう。
<満足度>★★★★★
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2022/01/25 18:26
信ずべき貴き山 (2021/09/20 訪問)
「信ずべき貴き山」に建つ「朝廷に安穏を与え国土を守護し子孫を長久せしむ」朝護孫子寺を見下ろすお城は、その立地からも木沢直政と松永久秀の個性や意図が透けて見えるようだ。なお決して爆破により消滅してはいない。
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2022/01/25 17:36
登山のようなものです (2021/06/05 訪問)
JR高尾駅からバスで訪問。
先にガイダンス施設に行くとイメージ湧きやすいです。
よく写真に出ている曳橋は復元ではなく、当時はもっと簡素な橋が架けられていたと考えられると説明板にありました。
御主殿付近の石垣は立派です。あまり北条らしからぬ。
本丸跡方面は普通に登山です。
管理棟から本丸までは60分もかからないため本格的に登山する方から見れば大したことないかもしれませんが、素人からすると立派な登山です。
しっかりした靴、飲み物や食べ物の準備をして向かいましょう。
自分はサクサク登った分、帰り道に足がガクガクになりました。。。
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2022/01/25 16:27
2022/01/25 16:17
学校の中の城址の碑 (2022/01/03 訪問)
門からお邪魔させていただき石碑を撮影出来ました、ありがとうございます。いつもなら遺構を探してウロウロするのですが今回は控えました。
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2022/01/25 16:12
2022/01/25 16:00
2022/01/25 14:46
【長門・長府毛利邸】山口県下関市長府 枡形門構え圧巻 (2011/05/06 訪問)
櫛崎城城下町長府庭園「長府藩家老格西運長屋敷跡」現長府庭園を終えてぶらぶらと城下町散策しながら長府毛利邸を訪ねました。 門前が左右石垣囲みで枡形を造ってる明治期の建物ですが武家屋敷の佇まいが残ってます。
明治31年起工し明治36年に完成、14代当主の毛利元敏氏が東京から帰住しこの地に建てた本邸、明治天皇が行在所として使用し現在展示見学出来ます。
邸内の日本式庭園も見応え有り楓の新緑、深緑、紅葉が季節により映える事でしょう。当時の入場料は大人200円。
10年前の平成23年5月上旬、探訪見学時の写真を投稿致します。
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2022/01/25 14:00
【長門・長府藩家老格西運長邸】山口県下関市長府 (2011/05/06 訪問)
長府藩家老格西運長屋敷跡は現在長府庭園と成って一般公開されています約10万坪の敷地に回遊式庭園、旧屋敷、書院、蔵などが残っています、10年前の平成23年5月上旬、櫛崎城、赤間神宮探訪を終えて櫛崎城の西、国道9号線を越えて約200m程の所に在る長府庭園の駐車場を利用して園内見学しました。
園内はつつじが盛りで綺麗に咲いていました回遊式庭園、本屋敷、静寂でゆっくりできる庭園です元屋敷を立派に活用して整備抜群です、ここの駐車場に車と置き長府城下を探訪堪能しました。
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2022/01/25 11:24
【長門・赤間神宮】山口県下関市 朱の竜宮造水天門が鮮やか (2011/05/06 訪問)
10年前の平成23年5月上旬、何度目かの萩城を訪ね長府泊り夜の長府を楽しみ、翌朝櫛崎城を堪能し、以前から参拝見学したかった下関市唐戸エリアに在る赤間神宮を訪ね参拝する。 車は近くの駐車場を利用。
赤間神宮は関門海峡の眼前に有り門司は海峡を越えて直ぐ傍、関門海峡大橋のすぐ下の名勝です。壇ノ浦の戦いに敗れ入水した安徳天皇を祀っています。隣には安徳天皇陵が有ります。
朱の水天門が竜宮造りで鮮やかで特に目を引きます、唐戸エリアは唐戸市場が有り直ぐフグを思いつきますが今回は食してませんがゆっくりして味わってみたいものです。直ぐ近くにはフグ料理を世に広めた春帆楼が有り側に日清講和条約を締結した日清講和記念館が有り見学しました。
長府に向かう途中みもすそ川公園に壇ノ浦の戦いモニュメント八艘飛びの源義経像と碇を抱えた平知盛像が相対して設置され古戦場で在る事を知らしめています。 また同場所は幕末四国艦隊を砲撃した壇ノ浦砲台跡、レプリカの大砲長州砲が据え付けて有りお金を入れると砲撃音と煙が出る仕掛けに成っています。この場所は壇ノ浦の戦いで武士の世を開き、幕末四国艦隊砲撃で武士の世を終わらせるきっかけを衝くった所で感慨深いものが有ります。
公園の反対側山手に関門海峡トンネル人道エレベーターも有り門司と行き来が出来ますが体験はしてません。さらに長府櫛崎城側に進むと道上に前田砲台跡も有ります、櫛崎城投稿で書きませんでしたが四国艦隊砲撃の時には櫛崎城にも砲台が有って大砲は戦利品として四国艦隊側に持って行かれたそうです。
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