台(うてな)城は台台地の鼻先に築かれていました。打越城と向かい合い、間に馬渡・正光寺・増永の三城があり、連携して玉名・熊本方面の敵に備えたようです。城主は決まっておらす、城番制であったようです。
1374年、12歳で菊池家を継いだ武朝(加賀丸)は1375年、九州探題今川了俊率いる大軍をこの地で迎え撃ち、数万の軍勢を2千騎で撃破したとされています(水島の戦い)。激戦のあまり、自軍の矢が尽きた後、敵の放った矢を取って放ったということから、台地の下の内田川一帯には「矢取」の名が残っています。
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