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カズサン

伊勢未踏の城廻りⅡ 猿の出迎え? (2021/04/10 訪問)

 菰野城(菰野陣屋)を終えて北西約3kmほどの所に在る千種城を目指す、ナビは三重県三重郡菰野町千種851の城址辺りを目的し県道762号線を西走行してつもりが一本北の道を走り回り込む形で集落に入り込み城跡北の川沿いに千種城駐車場を見つけ駐車、砂利舗装で数台は可能。
 駐車場から城跡の北崖が見えて城跡らしさが漂う、車の通行可能な登り道を通り城跡へ立派な城名石碑が中央奥に建ってる、音がしたので注目すると西土塁八重桜の辺りに猿が二匹出迎えか?直ぐ去りましたが自然の領域に入ったようです、久しぶりの遭遇です。
 東に張り出した丘陵に造られて居り西に土塁(復元か?)北は崖で防御、南東?は出丸で間に土橋と両側空堀で護られてる、更に南東に階段が有り説明板と城名碑が立ってる。
 城址本丸は公園として整備保存されトイレ有り、車で本丸まで入れるが下の駐車場に停めて散策探訪が宜しいかと思います。

 歴史的には南北朝時代南朝方の千種顕経が築城、北伊勢に勢力を張ったが戦国時代信長、秀吉に攻められる、最後の城主千種顕理は大阪夏の陣で戦死し廃城と成った。(案内板抜粋)

 情報とガイドは城郭放浪記さん古城盛衰記さんに依ります。

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にのまる

ラス前 (2021/03/19 訪問)

 「お城を探す」の航空写真で見るとポツンと山城。どこから行けばいいのだろうかといろいろ検索していると、昨年オープンした「吉川英治記念館」のHPにたどりつきました。期間限定で辛垣城の御城印を配布している(3/28迄でしたが5/30まで延長が決定)とあり寄ってみることにしたのですが、サイト内のお知らせの頁に辛垣城への行き方が写真付きで載っていて、感激と感謝で行く前から制覇を確信しました。
 吉川英治記念館は二俣尾駅から多摩川を渡ります(辛垣城とは反対側)。多摩川もこのあたりまで来ると豊かな自然の中の清流です。身に沁みついた「雑」と「濁」を削ぎ落としつつ奥多摩橋を渡って左へ進むと桜が満開の愛宕神社。記念館はその少し先にありました。母屋もお庭も落ち着きがあって心地よく、記念館の展示(撮影不可)も興味深いものばかりでした。近くにセブンイレブンもあるので登城前の食料や飲料の調達にもよいです。

 辛垣城は二俣尾駅北口、海禅寺の先に登城口があり、30分ほどの山登りでした。まさかの駅近物件です。吉川英治記念館HPがほんとうに頼りになったのですが、荷物を減らそうとカメラもスマホの予備バッテリーも持って行かなかったので、1台のスマホで熊鈴代わりの嵐メドレー♪を大音量で鳴らしつつ写真を撮りつつHPを見つつフィールドアスレチックのような山道を登るという忙しすぎる状況になってしまいました。
 途中、立ち止まって悩んだ分かれ道が二か所ありました。登城口からわりとすぐの写真③のところは橋を渡らずに右へ。ずーっと進んだ写真⑤のところは階段ではなく左の脇道っぽい方へ行くのが正解です。ここを間違えると多分大変だったと思いますが、道標にマジックで辛垣山と書いてくださっていたので間違えずにすみました。
 ピンクテープやスプレーでマーキングされた正の字の道案内があったので、距離は長かったけれど不安はそれほどなかったです。(写真④の丸太は松本の井川城を思い出して試練でしたが。)山頂から先には進まずに下山しました。

 説明板には「城跡にあたる山頂の平坦部は、大正末期まで行われた石灰岩の採掘により崩れ、当時の遺構ははっきりしないが、堀切や竪堀を留めている現状」とありましたが、これは昭和30年の市史跡指定当時の「現状」かもしれません。そうでないとしても私には周囲を見渡しても山頂の小さな平坦部以外は全くどこが何なのかわかりませんでした……ということを記憶にとどめ、今後の妄想の糧にしたいと思います。


 そして東京都内の城びと登録城址コンプリートまで残りあと1城となりました。 最後に残ったのは伊豆大島の武田信道屋敷です。
 武田贔屓としてはぜひ行ってみたく、その気になれば明日にでもジェット船で日帰りで行くことも可能ですが、 今はまだ行くべきではないと思いますので、いつかのお楽しみに取っておきます。

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昌官忠

南武線沿線10城巡り⑥:枡形城 (2021/04/12 訪問)

入会当初の2020/07/30に内容のない投稿(つぶやき)をしていました。今回、攻城したので再投稿します。
南武線沿線10城巡り6城目は枡形城です。
向ヶ丘遊園駅より徒歩15~16分くらいで展望台前(35.610973、139.560800)に着きました。

枡形城は小山田有重の子、稲毛三郎重成により建久年間に築かれた城です。
当初、重成は小沢城を本拠としていましたが、重政に所領を譲ったあと枡形城に移りました。
1504年(永正元年)9月には、山内上杉氏討伐のため扇谷上杉氏の援軍として出陣した、北条早雲(伊勢宗瑞)と今川氏親が入城し「立河原の戦い」へ向かっています。
戦国時代の1569年(永禄12年)には武田信玄の小田原攻め(三増峠の戦い)に際して、横山式部少輔弘成が土塁を築きましたが、その後は廃城となりました。
現在城址は生田緑地の中に公園として保存されており、枡形山展望台が作られています。

天然の地形を利用した要害だけあり枡形山展望台からの眺めは絶景で、東京タワーやスカイツリーが見えました。
この展望台、エレベーターがついてました。枡形門と書いてあったが冠木門ですよね。板塀も復元されてます。トイレもあります。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

南武線沿線10城巡り⑤:寺尾城 (2021/04/12 訪問)

南武線沿線10城巡り5城目は寺尾城です。
稲田堤駅より徒歩21~22分くらいで、寺尾台団地18号棟の西側登り口(35.623373、139.537349)に着きました。

寺尾城は室町時代に寺尾若狭守により築かれた城らしいです。
北条氏の家臣となって以降は諏訪氏を名乗ったようですが、それ以外については記録がなく詳細は不明のようです。
小沢城と枡形山城を結ぶ「伝えの城」であったという説もあります。現在城址には曲輪跡と見られる削平地のほか、竪堀の遺構が残っています。

寺尾台団地に上がる階段は結構急です。
遊歩道を散策すれど、竪堀らしきものはありましたが、横堀らしきものは見つけられませんでした。ちょっと悔しい。
攻城時間は20分くらいでした。

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カズサン

伊勢未踏の城廻りⅠ (2021/04/10 訪問)

 三重県伊勢の国伊賀の国の気に成っていた未踏の城廻りを土曜日曜天気の良い日を見定めて1泊2日で密集と接触を極力避けるように県境を越えますが出掛けて来ました17城踏破。菰野城は今回早朝最初の城に成ります。

 新名神菰野ICが出来て探訪がしやすく成りました菰野ICより約1km程、跡地は現在菰野小学校に成っています。
 駐車場は在りません。
 ナビは小学校南側でプールの東側の空きスペースをGoogleMapの航空写真で見つけ目的地にしました。しかし空きスペースは私有地停められず、小学校南道路でプールの横に路駐し同場所に在る案内板、石碑を撮影、小学校周囲を車で廻り確認、校庭に何やら在る(旗の掲揚台でした)ので北側校門を通り駐車場に一時停める朝早く断りも出来ず。駆け足探訪です。
 北西に復元整備された堀跡、土塁、こちら側にも案内板、西側は国道306号線で遮断されて遺跡もつぶされた様子ですが国道を越えた西側に一部復元堀が整備保存されてる。
 案内板に2階隅櫓の記載が有りましたが良く分かりませんでした、地図にはナビで目的にした所に史跡マークで角櫓跡と成って居ましたが跡の確認は出来ませんでした。

 歴史:ひじかた雄氏は家康より関ヶ原の功績により菰野1万2千石を与えられ大名に列した、ひじかた氏この地で明治まで継承された。

 情報とガイドは城郭放浪記さん余湖図コレクションさんによる。

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ダイエティシャン

三刀屋城〜緑の桜【御衣黃 ぎょいこう】満開 (2021/04/14 訪問)

三刀屋城
馬舎跡の緑💚の桜、満開🌸
さくら餅もみどり

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ダイエティシャン

牛尾城Ⅶ〜竹林跡 (2021/04/14 訪問)

主郭(1枚目)迄、登城口から約25分
這って下山② あまりにも、急な下りざかの為。
途中、矢竹用に使われたとされる竹林跡も発見③

様々な方々の攻城記録のおかげで、やっとリベンジ攻城を果たしました。ありがとうございました。
投稿お読み頂きありがとうございました。

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ダイエティシャン

牛尾城Ⅵ〜七曲がり 大岩 主郭 土塁 (2021/04/14 訪問)

主郭(1枚目)迄、登城口から約25分
再び50℃位の七曲がり② 大岩③ 七曲がり④
やっと主郭、主郭内下の段北東に土塁が綺麗に残っています。⑤⑥ 主郭内上の段に木に寄り掛かる【本丸跡】の標柱⑦ 眺めは良く無いです⑧ 広さあり⑨ 主郭内上の段から下の段を見下ろす⑩

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ダイエティシャン

牛尾城Ⅴ〜登城道 大岩 七曲がり 主郭下の郭 (2021/04/14 訪問)

主郭(1枚目)迄、登城口から約25分
30℃位の平坦道②の後、再び50℃位の斜面の七曲がり③ その後、真ん中に大岩!④またまたしがみつき、よじ登ります。また七曲がり⑤倒木を跨ぎ、潜り⑥⑦すると、主郭下の郭に到着⑧⑨

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ダイエティシャン

牛尾城Ⅳ〜登城道 (2021/04/14 訪問)

主郭(1枚目)迄、登城口から約25分
鉄塔から上に続く道②を進軍すると、道が2手に③!左に進軍 ④ 30℃郭の平坦道⑤ 倒れた標柱⑥ 石垣?が道の左右に見えて、⑦〜⑨主郭間近?と思いましたが、まだまだ。

すみません、投稿もまだまだ続く

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ダイエティシャン

牛尾城Ⅲ〜鉄塔 登城道  (2021/04/14 訪問)

主郭(1枚目)迄、登城口から約25分
登城道の真ん中にも大岩出現! ②③岩を慎重によじ登ります。ロープも何もありません。更に進軍④ 矢竹⑤ 鉄塔に到着⑥⑦ 広さがあり、郭っぽい。北、南、東⑧⑨⑩。眺めは良く無い。

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ダイエティシャン

牛尾城(三笠城)Ⅱ〜登城道 七曲がり 鉄塔 (2021/04/14 訪問)

主郭(1枚目)迄、登城口から約25分
石垣?石も登城道の左側に見えます(2'3枚目)木の実?(4枚目)こういうので滑り易いので慎重に進軍。土質も滑り易い(5'6枚目)明るくなり、(7枚目)主郭?と思いきや、緩やかな道が(8枚目)続く。大岩もあり(9'10枚目)

3回目でやっと攻城出来たので、投稿はまだまだ続きます

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ダイエティシャン

牛尾城(三笠城)Ⅰ〜登城口 駐車スペース 七曲がり (2021/04/14 訪問)

尼子十旗の一つ
道標も階段もありません。登山靴必要!
主郭(1枚目)迄、登城口から約25分
看板の所に2台位の駐車スペースあり(2枚目)
真っ直ぐ(3枚目)進軍すると、2手に別れ道(4枚目)が。調べた結果、右に真っ直ぐ登ります(5枚目)水が湧き出ている?陥没?(6枚目)倒木もあり(7枚目)七曲がり開始の辺り(8枚目)30℃位の、片足しか通れないような狭い七曲がりを進軍(9、10枚目)


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ぴーかる

瓶割山城 (2021/03/20 訪問)

【長光寺城】
<駐車場他>駐車場はなし。日吉神社駐車場は鳥居入口が塞がれているので車両が入れなくなっています。私は登城口前<35.108769, 136.128632>の地点がギリ道路を逸れて駐車できます。
<交通手段>車

<見所>曲輪・竪掘・堀切・石垣・地蔵群
<感想>近江佐々木氏・佐々木六角氏の攻城3城目。長光寺城は現地説明板によると佐々木六角氏と対立した佐々木四郎政尭により1468年に築城されたとされる。1570年には柴田勝家が六角義賢と戦った時には城中の水瓶をすべて割って兵を奮い立たせ勝利したことから「瓶割り柴田」山は「瓶割山」と呼ばれるようになった。
 登城道はいくつかあるようだが私が駐車した所の大岩ルートがお勧めです。何故か現地縄張り図に記入されていないのですが、登城口に大岩、登り始めてすぐには添付写真の巨石と石垣のコラボ、岩の堡塁、大竪掘りがあります。主郭手前数百mから曲輪も数個あり三の郭に繋がります。大岩ルートは麓から主郭まですべて見所ある遺構が残されています。
 主郭北東部の下段には転落石の巨石が転がっており相当な石垣があったと思われます。地蔵、石仏も多数ありました。また「とある」さんの投稿通りここにちゃっかり井戸跡もありました。これほどの山城で水の手が無い訳ないのですよねぇ。主郭北東先に八角平という広い削平地があり、その先には旧三の郭があります。
 主郭南側と二の曲輪は堀切で仕切り、主郭南西面に添付写真1枚目の城内最大の石垣が残されています。二の郭南側にも僅かに石垣が見られます。二の郭とその南の郭もまた堀切で仕切りその郭には竪掘りが見られます。木が伐採され見易くなっています。
 下山は主郭と二の郭の堀切から入る不二滝ルートを下り、足利義晴の御所跡土塁を見て終了した。見所ある遺構が沢山残っている山城で見応えありました。お勧めです。

<満足度>◆◆◆

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イオ

河川堆積台地の城 (2021/03/27 訪問)

南北朝初期に赤松氏家臣・貴志義氏が築いた城で、戦国期には瓦林正頼が居城とし、越水城に居城を移した後は支城として機能したようです。戦国末期、三好氏家臣・篠原長房の攻撃を受けて落城。そのまま廃城となりました。

詳細は不明ながら日野神社が推定地とされ、参道には城址碑があり、由緒書にも瓦林城の記載があります。社殿奥の社叢林には堀っぽい地形があったり、東辺には土塁っぽい土盛りも見られますが、武庫川の氾濫による自然地形らしく、遺構ではないようです。瓦林城は河原林城とも記されますが、武庫川の氾濫による堆積台地の叢林に築かれた城だと考えると、元々は「河原林」だったのが転じて「瓦林」になったのかな、などと考えながらの散策でした。

ついでに、もうひとつの推定地であり、瓦林正頼の墓がある極楽寺も訪れてみましたが、こちらは住宅地の中のお寺で、城跡を感じさせるものは見当たりませんでした。強いて言えば、西隣が小学校というのがそれらしくもありますが…。
 

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昌官忠

南武線沿線10城巡り④:大丸城 (2021/04/12 訪問)

入会当初の2020/07/30に内容のない投稿(つぶやき)をしていました。今回、攻城したので再投稿します。
南武線沿線10城巡り4城目は大丸城です。
南多摩駅より徒歩3~4分くらいで案内板前(35.647329、139.4894)に着きました。

大丸城の詳細は不明ですが、多摩川の渡河地点である「是政の渡し」を押さえる拠点として築かれたと推定されています。
新田義貞が城主だったという伝承も残っているようですが、こちらも定かではありません。
城址は多摩ニュータウン造成により遺構も消滅していますが、このときにおこなわれた発掘調査により14世紀~16世紀頃に使われていたことが明らかとなりました。
住宅街に詳細な説明板が建てられています。なお近くにある「城山公園」は城址の位置ではないようです。

住宅街に説明板があるだけでした。説明板の写真を撮って速攻撤収です。
攻城時間は1~2分でした。

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昌官忠

南武線沿線10城巡り③:高安寺城 (2021/04/12 訪問)

入会当初の2020/07/30に内容のない投稿(つぶやき)をしていました。今回、攻城したので再投稿します。
南武線沿線10城巡り3城目は高安寺城です。
分倍河原駅より徒歩6~7分くらいで高安寺総門付近(35.669815、139.473167)に着きました。

高安寺城は平安時代に藤原秀郷が武蔵国府近郊に置いた居館を市川山見性寺に改めたのが始まりとされるようです。
平家滅亡後に鎌倉入りを許されなかった源義経もこの寺に立ち寄って武蔵坊弁慶が大般若経を書き写したと言われています。
南北朝時代には、新田義貞が北条泰家率いる鎌倉幕府軍を撃破した「分倍河原の合戦」で本陣を置いた城ですが、これら一連の戦乱によって寺が炎上するなどして見性寺は荒廃してしまいます。
そこで暦応年間(北朝、1340年前後)に入ると、足利尊氏が建長寺の大徹禅師を開山として招き臨済宗の禅寺に改めて再興しました。
この際、尊氏が進めていた安国寺の一つとしてこの寺を位置づけ、名称も尊氏の旧名(高氏)から龍門山高安護国禅寺と命名されました。
要衝にあったため、室町時代には鎌倉公方・足利氏の支城として使われ、さらに戦国時代には上杉氏や北条氏など関東における中心勢力が拠点として利用しています。
現在の本堂は1624年(寛永元年)に火災に遭い消失したものを1803年(享和3年)に再建したもので、本堂正面には「等持院」の扁額があり、これは開基となった足利尊氏の法嗣名のようです。
1872年(明治5年)に建てられ左右に仁王像を配する山門、1856年(安政3年)に建てられた鐘楼と共に東京都選定歴史的建造物に選定されているようです。(鐘楼の写真撮り忘れました)
現在城址には高安寺の境内となっており、遺構は残っていません。

境内を散策しました。お寺ですね、山門はかなり立派です。
攻城時間は10分くらいでした。

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赤い城

古民家裏に堀と土塁が。 (2021/04/10 訪問)

熊谷駅から徒歩で40分。
田園地帯の中にあります。
郭内に平山家住宅が建ち、これは重要文化財に指定されています。
生活感もあるので完全な私有地、公開頂けていることに感謝です。
が、目的は住宅ではなく遺構。
古民家の裏側に回ると良好に残る堀と土塁が。
こんな中で暮らして見たいです。

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あんどれ

三の丸までよ。 (2021/04/13 訪問)

記念すべき第1回目の利神城ガイドツアーに参加。三の丸までしか入れませんが、今後の整備に期待!!

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小城小次郎

これはもはや芸術品だと思う (2021/01/25 訪問)

20年前と今とではお城の印象がまるで違う。それだけ整備が進んだのか、かつての私の目がフシアナだったのか・・・。切岸、土塁、連続堀切等が織りなす土の造形美は、もはや芸術品の域にあると思う。

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