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チェブ

石垣マニアVS野鳥マニア。 (2022/05/04 訪問)

2回目の「岡崎城」です。
前回は10年位前の大晦日にお邪魔しました。お正月の準備で、お休み。
今回、100名城スタンプ目的で城攻めです。

1455年、西郷 頼嗣さんが、築城しました。家康さんの祖父にあたる松平 清康さんが整備します。
家康さんが、産まれました。家康さん、人質時代を経て桶狭間の戦いで 今川 義元さんが討たれると、ちゃっかり「岡崎城」に入城しました。
その後、嫡男 信康さんが「岡崎城」の城主になりました。
と、徳川家の歴史には必ず登場する「岡崎城」です。

『岡崎公園』の駐車場は満車でした。でも、近くにコインパーキングがたくさん あるので大丈夫です。
少し歩いて「岡崎城」攻めです。
入城して、『本多平八郎忠勝公銅像』が見えました。
蜻蛉切を携え格好いいです。
そして、家康さんの『しかみ像』、、、。
もちっと、風格ある家康さんの銅像にした方が良いのでは、、、?大敗した教訓だからいいのでしょうか?

と、歩いていると、いろんな時代の石垣が見えてきます。家康さんが産まれた頃は、石垣がなかったんだとか。
たくさんの経験から強固したんでしょうね。
因みに『清海掘』は築城した西郷 頼嗣さんの『清海入道』から名付けられたそうです。

掘から石垣に向かって、たくさんのカメラマンがいました。
もちろん私も、紛れ込みました。
この方々、野鳥を追いかけてシャッターチャンスを待ってました。(私を含む石垣好きチームは、ずっとシャッターチャンスです。)

水辺や木々があり、たくさんの鳥達の 憩いの場所にもなっている「岡崎城」でした。

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零汰

トレース:1 二辺塚城 熊本県阿蘇市 (2021/05/09 訪問)

城ひとに登録が無く、大御所(城郭放浪記・古城盛衰記)の情報を元にマイナーな城をトレースしながら訪問しています。石碑のみ・神社のみなど幾つも訪問していますが、特徴のある城跡や印象に残る城跡を思い付いた時に投稿します。

阿蘇カルデラ、外輪山に囲まれた阿蘇市の平野部にポツンと小山が3つ、そのうちの一番大きな小山が二辺塚城です。現在は樹木は全く無く草原の広がるとても爽やかな城跡です。こんな城跡に来てしまうと遺構を探すという事を放棄していまう私にとってはデンジャラスな城跡です。実際に遺構は残っていないと考えています。

当時は樹木があり平地の中の小山で、最後部が主郭でそれに伴う最低限の防備があったと思われます。阿蘇周辺は放牧の為に樹木を整備して牧草地に変えていったそうです。おそらく整備が行う際に遺構は破壊されていったのではないかと想像しています。

滞在時間25分:0.9km累計高低差70m

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小荷駄

花岡城跡 (2022/06/12 訪問)

城跡は公園として整備されていました。駐車場までの道が非常に狭くなおかつ急坂でした。それでも市道19号の路地(36.053943,138.045247)を入っていく道が一番広かったです。諏訪湖の眺望が非常に素晴らしかったです。曲輪、土塁、堀なども確認出来ました。主郭にて諏訪湖を眺めながらご当地名物の鰻弁当を食べて楽しめました。

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おっちゃん

国府山城跡平面図 (2016/11/06 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

御着城跡縄張推定図 (2016/11/06 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

鶏籠山龍野古城想像復元図、龍野城下絵図 (2022/03/13 訪問)

現地案内板より抜粋。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)対馬五島移動手段

6/5から6/11まで「対馬&五島&北部九州(熊本県がメイン)」のお城を巡ってきました。
一番の目的は、続100名城の金田城と福江城を攻城することでした。
今回、金田城と福江城を攻城したことで、続100名城制覇まで残り8城(スタンプ押印も含めた完全制覇まで残り10城)となりました。
スタンプ押印も含めた完全制覇までの残り10城は、今年の7/20~8/4の「四国&京都&北陸&東海遠征」で達成するつもりです。
金田城と福江城の続100名城スタンプ、今回遠征時に利用した飛行機&船の写真投稿します。
・6/6 0:05発/4:45着 フェリーちくし(博多港➡厳原港)
・6/6 15:25発/20:10着 フェリーきずな(厳原港➡博多港)
・6/6 23:45発/(6/7)8:15着 太古(博多港➡福江港)
・6/7 12:45発/13:25着 ANA4696(五島つばさ空港➡福岡空港)&五島つばき空港
船の乗船券を記念に保存したかったのですが、下船時に回収されてしまいました。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:三池陣屋(城びと未登録 福岡県大牟田市) (2022/06/07 訪問)

大間城から徒歩20分ちょっとで、移築御殿屋根(33.045966、130.482656)に着きました。
そこから、陣屋井戸(33.046049、130.482433)➡石段前(33.045296、130.482309)➡眼鏡橋上(33.044850、130.482316)➡寿光寺移築城門(33.043323、130.480763)の順番で巡りました。

1587年(天正15年)高橋直次によって築かれました。
直次は関ヶ原合戦で兄の立花宗茂とともに西軍に属した為に改易となりましたが、1614年(慶長19年)常陸国柿岡で5,000石を与えられました。
その子の種次は1621年(元和7年)5,000石を加増されて10,000石で三池に移封となり陣屋を構えました。
1805年(文化2年)6代藩主の立花種周は老中松平定明らとの政争に敗れて失脚し、蟄居謹慎を命ぜられました。
わずか13歳で家督を継いだ7代種善は、1806年(文化3年)陸奥国下手渡に転封となりました。
1851年(嘉永4年)9代種恭のとき、下手渡の所領のうち3,000石余りを幕府に返上し、代わりに筑後国三池に5,000石を与えられました。

三池陣屋は現在の三池小学校の辺りに築かれていました。
小学校の西に三池郷土館という荒廃した建物があり、その東側に付いている尾根が移築御殿屋根の一部です。
その西側には陣屋井戸、南に進んでいくと三池藩居館跡の案内板や陣屋遺構である石段、さらに川には陣屋の大手口である眼鏡橋が残っています。
場所についてはGPS座標を参考にしてください。

攻城時間は20分くらいでした。電車の時間が迫っているので速攻で撤退です。
本日の城巡りは、ここがラストで明日からレンタカーを使用して、北部九州(佐賀&熊本&大分&福岡)の城を攻城する為、本日の宿泊先に向かいました。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:大間城 (2022/06/07 訪問)

鷹尾城からの転戦です。西鉄銀水駅から徒歩20分くらいで、説明板付近(33.048253、130.475352)大間神社付近に着きました。

1200年(正治2年)三池氏によって築かれました。
三池氏は源頼朝の家人であった藤原親能が三池郡の地頭職に任ぜられ、三池氏を称したことに始まるようです。
三池氏は中原氏の末裔を称しており、安芸木工助定時の末裔で、三池南郷の地頭職を得て下向し今福城を築きました。
三池師員(貞)の8代孫上野介鑑速と紀伊介親久兄弟は大友方に属しましたが、1567年(永禄10年)龍造寺隆信に攻められ、兄弟ともに戦死。
天正年間(1573~1592年)嫡子三池上総介鎮実は大友氏の支配下となり、1587年(天正15年)秀吉の九州征伐の後、三潴郡内において1,000石を賜り、1620年(元和6年)柳川城へ入った立花宗茂の家臣になったそうです。

大間神社周辺が城址で、周辺には空堀・土塁・水濠などの遺構が残されていると説明板には記述されていますが、周辺は住宅地で遺構はみあたりませんでした。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=三池陣屋(城びと未登録 福岡県大牟田市)に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:鷹尾城 (2022/06/07 訪問)

佐留垣城から徒歩30分くらいで、田尻親種墓碑説明板付近(33.129790、130.444677)に着きました。

1548年(天文17年)田尻親種によって築かれました。
親種は風水害により田尻城に不都合が生じた為、鷹尾城を築き本城を移したそうです。
1581年(天正9年)柳河城主蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、佐嘉に赴いた所を謀殺されます。
田尻氏は蒲池と同族でしたが、龍造寺氏に従い蒲池氏一族を滅亡に追いやりました。
しかし、1582年(天正10年)田尻氏は龍造寺氏に反旗を翻し、本城の鷹尾城を中心に江浦城・浜田城・津留城・堀切城の各支城を固めました。
龍造寺氏は直ちに軍を発し攻め寄せますが落とせず、一部の兵をもって支城を攻略させますが失敗し一年余りの籠城の末、有馬氏が島津氏と組み肥前侵攻する気配があった為、和議を結び引き上げました。
柳河城に立花氏が入封すると家臣立花織部介が城主となり、立花氏改易の後入封した田中氏の時には家臣宮川才兵衛門が城主となりますが、田中氏改易により廃城となりました。

案内板近くの水路が堀跡か不明です。 田尻親種の墓碑が残されています。
鷹尾城の説明板は安房神社(33.128922、130.442962)にあります。
また、白峯神社付近(33.127906、130.442111)に菊池氏一字一石塔があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=大間城を目指す為、電車で西鉄中島駅から西鉄銀水駅に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:佐留垣城 (2022/06/07 訪問)

慶長本土居跡(城びと未登録 福岡県柳川市)から徒歩5分くらいで、説明板付近(33.124313、130.424315)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、柳河城主蒲池氏の支城でした。
1581年(天正9年)蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、佐嘉に赴いた所を謀殺されと、龍造寺氏の柳川侵攻により蒲池統春の守備する佐留垣城も落城しました。

戒音寺周辺が城跡といわれ、寺の周囲は内堀(33.124089、130.423508)と思える水路が残されています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=鷹尾城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:慶長本土居跡(城びと未登録 福岡県柳川市) (2022/06/07 訪問)

中島城(城びと未登録 福岡県柳川市)から徒歩15分くらいで、江越八幡海岸灯台公園(33.122762、130.425940)に着きました。

城跡ではありませんが、佐留垣城に行く途中で見つけた慶長本土居跡について投稿します。
筑後藩主田中吉政(たなかよしまさ)は、大川新田(大川市)から柳川~渡瀬(わたぜ/三池郡高田町)までの有明海沿岸32キロメートルに及ぶ慶長本土居を築きました。
このうち大川新田から鷹尾までの25キロメートルは、山門(やまと)・三潴(みづま)・下妻(しもづま)3郡の領民を総動員して、慶長7年(1602年)8月6日から8日までのわずか3日間で完成させました。
吉政は佃町(つくだまち)新田の潮止め口の完成後、慶長12年(1607年)に本土居上に新田龍神の石の祠(ほこら)をつくり、田33アールを寄進しました。
つまり、有明海沿岸に堤防を構築して海潮の侵入を防ぎ、湿地・干潟地を農地に開発したという歴史的な土木施設のようです。

隣には江越八幡海岸灯台の説明板があります。
これは、この土地の漁師たちが、船着場の目標にしていたと云われる常夜灯(灯台)であったそうです。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=佐留垣城に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:中島城(城びと未登録 福岡県柳川市) (2022/06/07 訪問)

塩塚城からの転戦です。西鉄中島駅から徒歩5分ちょっとで、説明板付近(33.120458、130.436114)に着きました。

鷹尾城に付随する支城の一つで、立花宗茂が柳河城主のとき、その重臣立花(米多比)鎮久を鷹尾城に置き、中島城の勤番も兼ねさせました。
柳河城に田中吉政が封ぜられたときには、鷹尾城に入った宮川才兵衛に中島城も与えられました。

遺構はありませんが、案内板とその隣には小さな祠が祀られていました。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=慶長本土居跡(城びと未登録 福岡県柳川市)に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:塩塚城 (2022/06/07 訪問)

辰ノ口城(城びと未登録 長崎県五島市)から飛行機(五島福江空港➡福岡空港)と電車を使い塩塚駅に着きました。
塩塚駅から徒歩10分弱で、模擬模型&石碑付近(33.142129、130.426642)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、柳河城主蒲池氏の支城です。 1581年(天正9年)蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、佐嘉に赴いた所を謀殺されました。
これを機に柳川に侵攻した龍造寺氏は、まず柳河城を攻め落とし、その勢いをもって塩塚城に攻め寄せました。塩塚城には柳河城を脱した蒲池鎮漣の夫人・子供等がいましたが尽く討ち果たされました。

遺構はありませんが、工場脇の道路の石碑と模型の模擬天守があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=中島城(城びと未登録 福岡県柳川市)を目指す為、電車で塩塚駅から西鉄中島駅に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:辰ノ口城(城びと未登録 長崎県五島市) (2022/06/07 訪問)

福江城から徒歩15分ちょっとで、住吉神社参道入口(32.684827、128.846970)に着きました。石碑は参道入口の道路反対側にあります。

築城年代は定かではないようですが、1388年(元中5年)宇久勝が岐宿城より辰ノ口城へ移ってきたのが始まりとされます。
九代宇久勝の後も代々続きますが、1507年(永正4年)十六代囲のときに玉之浦納の反乱によって辰ノ口城は落城、宇久囲は城を脱しますが黒島で自刃しました。
このとき囲の嫡子三郎は平戸の松浦氏を頼って落ちました。1521年(永正18年)三郎は宇久盛定と名乗り、松浦氏の援助を受けて福江に上陸し玉之浦納を打ち破って宇久家を再興を果たしました。
辰ノ口城は住吉神社の参道入口付近の畑地の辺りに築かれていたそうです。
遺構はありませんが、参道入口の向かいに石碑があり、宇久氏ゆかりの石祠が祀られています。

辰ノ口城(城びと未登録 長崎県五島市)に行く途中、岩川井戸がありましたので、こちらも写真を投稿します。
攻城時間は5分くらいでした。辰ノ口城(城びと未登録 長崎県五島市)から五島福江空港までは徒歩30分くらいかかりました。
次の攻城先=塩塚城(福岡県柳川市)に向かう為、五島福江空港から福岡空港へ飛び、そこから塩塚駅を目指します。

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歴史案内活動【令和4年6月18日(土)9:30~12:30】 (2022/06/18 訪問)

こんにちは、躑躅ヶ崎歴史案内隊のEこと上田絵馬之助です。

躑躅ヶ崎館跡の歴史案内活動を行います。
関東甲信越は梅雨入りし、雨模様の今日このごろですが
武田神社では6月30日に半年分の祓いをして夏に備える神事「夏越祓(なごしのはらえ)」が行われ、
境内には大きな茅の輪(ちのわ)が設けられ、参拝客が茅の輪くぐりができるようになっています。

日時:令和4年6月18日(土) 9:30頃~12:30頃
  (雨天の場合、25日(土)または26日(日)に延期します。)
参加ガイド:局長・大塚與左衛門、民部少輔(弥三郎)景政、上田絵馬之助

◆武田神社境内に今日も残る数々の城郭の痕跡を、個性豊かな甲冑ガイドがわかりやすく楽しく案内します。
◆案内時間は10分~30分、ご都合に応じて調整できます。
◆ガイドは無料です。
◆バスツアーなどの自由時間にあわせた案内も可能です。
◆雨天等により中止の場合があります。
◆案内に先立ち検温等のCOVID-19感染対策を行っていただきます。
◆また、感染防止のため甲冑ガイドと一緒に写る記念撮影はご遠慮いただいてます。
 甲冑ガイド単独の撮影は可能ですので、撮影者間の距離を保って撮影ください。
◆案内活動は武田神社様の承認のもとに行ってますが、当隊そのものは武田神社様とは無関係の有志団体なので
 活動に関する武田神社へのお問い合わせはご遠慮ください。
 問い合わせ、連絡は当隊公式ツイッター(https://twitter.com/KoufuSamurais)へお願いします。(E)

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:福江城 (2022/06/07 訪問)

江川城(城びと未登録 長崎県五島市)から徒歩5分ちょっとで、五島観光歴史資料館(32.694023、128.846890)に着きました。
まずは続100名城スタンプを押印してから攻城です。

築城年代は、1617年(元和3年)、1638年(寛永15年)など諸説あるそうですが、 いずれにしても唐津藩主寺沢広高の設計で福江藩二代藩主五島盛利によって築かれました。
五島氏の出自は詳らかではないが、松浦党の宇久氏を祖とします。宇久氏は宇久覚の頃に福江島まで勢力を拡げ岐宿城に入り、宇久勝の頃には辰ノ口城を居城として五島列島の大半を勢力下に収めました。
1507年(永正4年)宇久覚の家督を継いだ宇久囲でしたが、妹婿である玉之浦城主玉之浦納の反乱によって討たれました。
宇久覚と平戸松浦弘定の娘との間に三歳になった三郎がいましたが、辛うじて祖父の平戸松浦弘定を頼って落ちていきました。
1521年(大永元年)元服して宇久次郎三郎盛定と称した三郎は、松浦弘定の援助を受けて玉浦納の館を急襲しました。
不意を突かれた納は嵯峨島へ逃れていきましたが、追手に追い詰められると自刃して果てました。
1526年(大永6年)宇久盛定は江川城を築き、以後宇久氏の居城となりました。
1600年(慶長5年)関ヶ原合戦では宇久玄雅は軍勢を率いて赤間の関(下関)まで行きましたが、玖島城主大村喜前の意見もあって東軍となり所領を安堵されました。
福江藩(五島藩とも)は15,530石で江川城を居城として始まりました。
1614年(慶長19年)に居城であった江川城が焼失したことから石田陣屋が築かれ、幕末までこれを居城としました。
1661年(寛文元年)五島盛利の三男五島盛清が3,000石を分与され、翌年富江陣屋を構えて交代寄合となり、福江藩は12,000石余りとなりました。
1806年(文化3年)に異国船防御を理由に幕府に築城を願いますが許可されず、1849年(嘉永2年)五島盛成のとき、幕府から築城許可がおり、1863年(文久3年)に石田城が完成しました。
この石田城はそれまでの石田陣屋を改修したものでした。

石田城はもともと福江港に面した城で、現在本丸は五島高校の敷地となっています。
五島高校の本丸を囲む内濠、外濠公園や五島邸の付近に外濠が残されています。
二の丸にある五島邸は五島氏庭園として国指定名勝にもなっていますが、訪問日は休館日(火水曜日)でした。月曜日が休館日だとかってに誤解していました。
攻城時間は40分くらいでした。次の攻城先=辰ノ口城(城びと未登録 長崎県五島市)に向かいます。

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昌官忠

202206遠征(対馬&五島&北部九州)3日目:江川城(城びと未登録 長崎県五島市) (2022/06/07 訪問)

博多港を前日の23:45出航の野母商船/太古に乗船して、福江港に8:15分に着きました。
船中泊で移動したので、博多港を出航する前に博多埠頭第2ターミナル近くにある「みなと温泉 波葉の湯(9:00~25:00)」で入浴しました。
目標の福江城五島氏庭園が9:00開園なので、その前に城びと未登録ですが、江川城を攻略します。
福江港から徒歩10分ちょっとで、明人堂前(32.698532、128.842740)に着き、そこから徒歩5分圏内に、六角井戸入口(32.697305、128.843287)とホテル入口にある石碑付近(32.697117、128.844779)に着きました。

1521年(大永元年)宇久盛定によって築かれたと云われています。
宇久盛定は宇久氏十七代当主ですが、父の囲は1507年(永正4年)に玉之浦納の反乱によって自刃に追い込まれ、盛定は幼少のときに平戸の松浦氏を頼って落ちていました。
1521年(大永元年)元服した盛定は松浦氏の援軍を得て玉之浦納を討ち宇久氏を再興しました。
宇久氏は盛定より江川城を居城として代々続いていますが、1614年(慶長19年)火災によって焼失、その後は石田陣屋を築いて移っています。

遺構はありませんが、五島第一ホテルの脇の石碑、明人堂や六角井などの史跡がわずかに残っています。
明人堂は福江に来航して通商を求めた明人王直に対して、貿易を許可し居館として与えられた地の一角に祖先を祀る廟を建てたのが始まりと云われ、六角井は飲用水を得るために掘られたものだそうです。
攻城時間は移動時間を含めて20分くらいでした。次の攻城先=福江城へ向かいます。

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小城小次郎

さながらひとつの都市のようだ (2022/01/10 訪問)

赤松氏中興の祖である赤松政則が応仁年間に築いた巨大城郭はあたかもひとつの大きな都市のようだ。言い換えれば主郭への求心力が低い群郭式とも見え、戦国大名化が図れなかった赤松氏の立ち位置を表象しているのかもしれない。

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赤い城

武蔵と上野の境目 (2022/06/04 訪問)

神保原駅から徒歩で25分くらい。
金窪城址公園周辺が城跡です。
公園の前に石碑と説明板が立っています。
これが土塁のようにも見えますが遺構なのかは?
公園の北側に忍保川が流れています。
周辺を歩いてみましたが明確な遺構は分かりませんでした。
築城は新田義貞と云われていますが戦国時代には神流川の戦いで滝川一益が北条氏と戦った城です。
結果大敗し、落城してしまいました。
今はお年寄りがグラウンドゴルフを楽しむ憩いの場となっていました。

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