しんちじょう

新地城

福島県相馬郡

別名 : 簑首城、新地要害、谷地小屋城
旧国名 : 陸奥

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チューリップガーデン (2022/09/23 訪問)

 チューリップガーデンとなっています。この時期はチューリップは咲いていないので訪問者は自分ひとりでした。主郭周囲に空堀や土塁が残っています。縄張り図を見るとさらに外に空堀があります。散策しようとしましたが、すごい藪で蜘蛛の巣も多く見られたため断念しました。

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ぎりょう

堀も曲輪もチューリップ満開!!春を待つ城 (2022/02/19 訪問)

谷地小屋要害跡地から新地城を目指す。新地駅前から西へ、国道6号線への交差点を右折して間も無く左に「新地城跡」の案内看板が有り大きく左折、すぐ右折して西へ1km程で右側に大きな案内看板が。駅から2km(6分ほど)城の最高所本丸・東館まで車で登ることができる。仙臺古城記(仙臺叢書第4巻)には宇多郡谷地小屋村の項に「山 一 谷地小屋城 東西五十間 南北五十間 城主杉目八郎左衛門 義胤家来 没落之後。大町三河 被差置 天正年中迄居住。後略」と有り、永禄9年(1566)頃に相馬盛胤・義胤により築城された。最初門馬雅楽助を、後に泉田甲斐を城代に、西館には杉目三河を置く。天正17年5月に伊達政宗の攻撃により落城すると政宗から亘理重宗に与えられ坂本三河が城代だったが慶長初期には大町三河が城代となった。
城は標高50mの丘陵上最高所の本丸を中心に、東館・北屋形・西館を配し、南側は3段の帯曲輪で囲む中世山城。本丸の北側から西側は堀跡の遺構がしっかり残る。本丸西虎口から西館側に続く土橋は後世に作業用に作られたものではなかろうか。伊達・相馬攻防の歴史を今に物語る貴重な城館跡である。
城跡は公園化され、春には曲輪跡や堀跡にチューリップが咲き乱れ、地元の皆さんの目を楽しませているとのこと。

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カズサン

もう一つの「みの首城」 (2021/11/15 訪問)

 坂本城別名みの首城を終えて国道6号線を南下約4km程、宮城県との県境に新地城別名蓑首城(ミノクビジョウ)が有ります、近くなので城探訪迷いそうですね!

 情報ガイド:余湖図コレクションさん、古城盛衰記さんに由る。

 案内看板は国道6号線西側に一つ、西入りして直線道路を約1km程の舘前集落入口に大きく有る、後はそれに従って且つ要所要所に案内指示板が出て居り、細い集落の舗装路が本丸東の駐車エリア(37°52'56"N 140°54'20"E)に繫がってる、眼前に新地城址会看板のしめ縄を飾った建物が有る。

 車を建物前に駐車、車から出ると畑に鋤き込んだのか牛ふんの異様な臭いが鼻につき大急ぎの探訪と成る、本丸西土塁に案内解説板、本丸虎口から入り内部を観察、遊技器具が設置され公園と成ってる、周囲は土塁の囲まれてる三角形に近い本丸、西虎口から出て本丸西、北の堀を見るとかなり大きい空堀、余湖図コレクションさんでは水堀、西館曲輪、西館曲輪と北館曲輪間の土橋、その隘路に枡形とと有るが草木が茂り分からない、西館は草原、何か植わってた痕は有るが?北館は耕した直後で植栽前かよく臭う、北虎口から東館に入る、駐車エリアに入る、臭いがきつく、本丸、西館、北館、東館の奥の空堀、帯曲輪など探訪観察する気欲が無く退散、降り掛けに本丸南下に在る曲輪と本丸崖切岸を見る事が出来た、余湖図コレクションさんの俯瞰図では南に3段の段曲輪が集落の下まで描かれて居りかなり大きく堅固な城郭だったようです。
 訪れるのは春桜の頃が良いようです。

 歴史:この城は永禄9年(1566年)頃、相馬氏によって築かれ海道の境の城として、伊達・相馬氏の抗争に重要な役割を果たした。
 天正17年5月伊達政宗は相馬義胤が田村に転戦してる留守を突き、新地・駒ヶ嶺を攻め落とした。政宗は新地城を亘理重宗に与え、坂本三河を城代として置いた。慶長5年に坂元への引き上げが命ぜられた記録が残っており、その頃廃城と成った。(新地城(蓑首城)跡案内板を抜粋)

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しげさん

本丸跡虎口と案内板 (2021/02/27 訪問)

本丸跡の虎口と案内板です。土塁や空堀が残っており素晴らしいお城です。

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城郭情報

分類・構造 丘城
築城主 相馬氏
築城年 永禄年間(1558〜1570)
主な城主 相馬氏
遺構 曲輪、土塁、横堀(空堀)、土橋
再建造物 碑、説明板
住所 福島県相馬郡新地町谷地小屋字館前
問い合わせ先 新地町教育総務課
問い合わせ先電話番号 0244-62-4477