香川は( ・᷄ㅂ・᷅ )うどんだけじゃないぞー!
天守は可愛らしいが、圧巻の石垣の高低差で、下から見上げると要塞ですな
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2022/10/28 17:37
2022/10/28 14:54
出丸長郭先の急坂で撤退 (2022/10/23 訪問)
備前の山城で徳倉城には頂上に高石垣の本丸郭備わってる事で名を馳せています、以前より城郭放浪記さんの写真館で認識し、近々は「とある煩悩の登城目録さん」「ヒロケンさん」の城びと登城投稿も有り、今回の備前、播磨未踏の城廻りに入れました。
山城サミット恵那大会の中井さんの記念講演を拝聴後、高速を飛ばして岡山県吉備SAで車中泊、吉備SAはスマートICにも成って居り、SICを利用して北に約15~20km程地道、岡山空港のトンネルを潜り、県道61号線沿いに大手登城口、案内俯瞰図、路肩駐車エリアが有ります。
路肩駐車エリア:(34°46'41"N 133°53’51”E)、2台は可?。 徳倉城跡案内図俯瞰図資料箱:駐車エリアから西に100m程、資料箱には登城道案内図、俯瞰図と御津の山城パンフレット有り、俯瞰図地図は役に立ちます。 大手登城口:駐車エリアから橋の手前を川沿いを東へ10m程の所に指示看板有り。
大手登城口より指示看板に従って落ち葉で埋まってる様な細い道を登って行くが、倒木などが道を塞ぎ、潜ったり越えたり、沢の橋は傷み底を歩き、段々急に成り不安に成るが、出丸まで比高50m程と有り出丸の低い堀切へ、堀切から出丸跡へシダ類が茂り踏み込まず眺めるだけ、戻りもう少し行けそうなので、尾根筋を登って行くと出丸長郭跡細長い尾根郭、左右に矢竹の群生地を尾根道歩き、急峻な七曲の様な道、細く急で道幅も狭く、此処まで40分以上掛かって居り、足もがくがく不安に成り、本丸下の曲輪群下で断念し下城とした。
本丸の石垣群は皆さんの投稿写真で脳裏に収め良しとした。登城口まで戻り、それでもと北側に移動し徳倉城の山容全体を眺める、出丸当たり出丸から平場の様な尾根筋、そこから立ち上がる山頂本丸が全体を眺めると良く分かります。
丹波の黒井城は比高220m程で登城路の整備も良く登城出来ました、徳倉城は比高170m程ですので登城路の整備と途中の休憩ベンチ、場所を造って頂けたら大変ありがたい。私の体力、脚力では現状の徳倉城の登城は無理だったようです。
案内箱には案内図以外に「御津の山城」パンフレットが有り御津地区の山城28城の紹介と特に三城、金川城、徳倉城、虎倉城が説明文と案内図付で紹介、宇喜多直家と金川城・徳倉城・虎倉城の関りの解説が記載されて居ました。
案内パンフレットでは駐車場は案内板俯瞰図の有る所から西に約150m程の河内公民館(岡山市北区御津河内1717)前の広場を利用くださいと案内が有りました。
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2022/10/28 10:51
【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第6回)岡城合戦(その3)-鬼ヶ城② (2022/09/21 訪問)
「岡城合戦(その3)-鬼ヶ城①」からの続きです。
私は小高い山の「鬼ヶ城」まで登ってみました。しかし頂上の本丸があった場所には、城がここにあった事を示すものは何もなく、城跡には何やら墓?らしき荒れ果てた感じの石があるだけで回りはうっそうとした林の中、眺望すらありませんでした。せっかく登ったのに何もなかったので、がっくりして山を下っていたその時、ん?何やら小さな案内らしき看板が・・・立硝壕?(写真①②:何だろう・・これは?)
何とここは「西郷隆盛」が西南戦争で陣を張った場所でもありました!(西郷どんファンの私も知りませんでした~)。田原坂の戦いに敗れ、今度は九州を東上した西郷はこの地まで来ていました。しかし、ここでも政府軍に敗れ撤退します。城跡にあった石は、その時に戦死した薩摩軍の犠牲者の墓でした(写真③)。そして看板横の穴は薩摩軍が隠れた(もしかして西郷隆盛も隠れた?)という洞窟であり、近くの鴻巣台公園には地元の人々で供養として造られた石碑もありました(写真④⑤)。
薩摩軍はこの地で、時代は変われど、二度も敗れたのですね~(ちょっと感動)。
さらに石碑から100mほど歩くと、そこには「広瀬武夫」中佐生誕の地がありました。広瀬武夫中佐とは、日露戦争での旅順港閉口作戦で戦死した方で、近くには祀られている広瀬神社もありました。(写真⑥⑦⑧:NHKドラマ「坂の上の雲」で有名になりましたよね!)。 どうやら、広瀬武夫は瀧廉太郎と並ぶ竹田の二大英雄のようです。
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2022/10/28 10:42
【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第5回)岡城合戦(その3)-鬼ヶ城① (2022/09/21 訪問)
「岡城合戦(その2)-滑瀬橋」からの続きです。
ついに戦いは第3戦までもつれてきました。
志賀親次はキリシタンであり「ドン・パウロ」という先洗名を持っていました。キリシタンは義のためなら自らの命をも惜しまない、島津軍にとっては予想外の難敵となりました。
義弘の命で片ケ瀬の陣に戻った歳久ですが、やはりこのままではどうしても川を渡る事ができません。そこで、ならば逆に誘い出そうと親次にこう話を持ち掛けます。「城に籠るは臆病者のする事。正々堂々と城から出て我と戦おうではないか!」 ならば親次も誘いに乗ったふりをしてこう返事をします。「そなたもこのままでは川を渡れぬであろう。ならば案内を出し少し上流の渡れる場所を教える故、そこから川を渡られるがよい。渡った場所にある鬼ヶ城で我は待っておるゆえ、そこで戦おうではないか!」 兄の義弘はかつて木崎原の戦いで伊東氏を破り、弟の家久は沖田畷の戦いで龍造寺氏を破りそれぞれ名声を上げていました。そんな義弘・家久に比べ、兄弟の中では華々しい手柄がまだない歳久、故にこれは好機とこの誘いにまんまと乗ってしまいます。そして案内に従い渡れる場所まで行き、歳久6,000の軍勢が川を渡りきったその時、またも隠れていた志賀軍の鉄砲隊が一斉に射撃! 歳久はそこでだまされた事に気づき、命からがら逃げようとします。そこを志賀軍の騎馬隊がさらに追撃、歳久軍は名だたる武将級370をも討ち取られるという大損害を出してしまいました(志賀軍の損害はわずか50)。この失態を知った義弘はまたも大激怒! 急ぎ片ケ瀬へ戻りますが、そこに豊臣軍12万が豊前小倉に上陸したとの知らせが届き、死傷兵も増えていたところに義久からの撤退命令も届きます。よって義弘は岡城攻撃を断念し撤退する事にしました。こうして志賀親次は、3度に渡り島津軍を撃退し勝利したのでした!
まず川の橋から鬼ヶ城を眺めて見ました。歳久はこの川を右から左に渡ったようです(写真①-前回説明したダムが今度はこのすぐ下流にあるため現在は水量がとても多いですが当時は渡れるというくらいなのでもっと少なかったはずです。地図写真③)。
また遊びでイラストを作ってみました(写真②)こんな感じの戦だったのではないでしょうか?
島津義弘・歳久はここで撤退しますが、義弘は最後にこうつぶやきました。
「志賀親次は楠木正成の再来である」
この間に、四男の島津家久は佐伯氏の籠る栂牟礼城も退け、順調に進軍していました。そして、いよいよ大友家臣「利光宗魚」が籠る「鶴賀城」の攻略を開始します。
私も鶴賀城へ行く前に、もう少しだけ鬼ヶ城を歩いてから行く事にします(鬼ヶ城②へ続きます)。
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2022/10/28 02:24
2022/10/28 02:03
2022/10/28 01:40
2022/10/28 00:58
2022/10/28 00:48
弘( ・᷄ㅂ・᷅ )前 (2014/11/11 訪問)
( ・᷄ㅂ・᷅ )春にも行きたいな
桜
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2022/10/27 20:31
浜田城 (2022/09/25 訪問)
【浜田城】
<駐車場他>タイムス鵜の森公園西(コインP)
<交通手段>車
<感想>浜田城は1470年この地を治める田原忠秀によって築城されました。田原元綱の代の時、1575年に滝川一益に攻められ落城し廃城となりました。現地は鵜の森公園となっていて鵜の森神社本殿辺りが一段高く土塁が残り主郭であったようです。西側の池が堀跡のようです。神事かお祭りがあるようで本殿の前で地元の方が準備をされていたので、邪魔にならないよう遠慮したので本殿はじっくり見れませんでした。
<満足度>◆◇◇
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2022/10/27 18:27
私の散策にミスがなければ… (2022/10/15 訪問)
私の散策にミスがなければ,堀跡らしき低地は宅地造成工事により消滅しています。したがって,撮れ高もショボいのなんの…。
でも,ポチはポチということで,気を取り直すこととします。
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2022/10/27 18:02
2022/10/27 17:02
加太宿 (2022/10/27 訪問)
JR加太駅から西へ進み、日本陸軍関係の石碑、加太宿の標柱がある所から関西本線の線路を渡り、登城しました。神福寺からのルートは藪化されていて行きにくいと地元の方も言ってみえました。ルートを見つけていただいた諸先輩に感謝です。
登って行くと大きな岩があり、そこから尾根の道となりますが、堀切か見張り所かというような地形があります。道なりに進んでいくとこの城の見どころである石垣が見えてきます。入口は桝形状になっていました。土塁や櫓台があり、曲輪内には石組で周囲を固めてある井戸がありました。虎口の北側には堀切があります。城域は自分が思っていたものより広く予想以上に楽しく散策することができました。
加太宿は伊勢と伊賀を結ぶ交通の要衝で、鈴鹿峠が開通する前は東海道として機能していたようです。
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2022/10/27 12:36
2022/10/27 12:34
2022/10/27 12:11
松( ・᷄ㅂ・᷅ )江 (2022/10/05 訪問)
( ・᷄ㅂ・᷅ )最近行った
高石垣が凄い迫力
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2022/10/27 11:59
松( ・᷄ㅂ・᷅ )本 (2018/04/11 訪問)
( ・᷄ㅂ・᷅ )1日楽しめるね
2回目
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2022/10/27 11:54
現存12天守 Visit の大ラス ~その2~ (2022/10/26 訪問)
かつての惣堀跡と馬出跡ツァーを終えいざ本丸へ・・・ちょっとその前に市役所本庁舎の展望室に昇り松本城の全景を見ました(フォトスポットですのでお見逃しなく)市役所を出て外堀を渡った正面にある平成11年復元の太鼓門から二の丸御殿跡へ。二の丸御殿は明治になって焼失したそうですが幕末の慶應年間に建造された御金蔵が現存建築物。内堀沿いに進み黒門から本丸に入城し本丸御殿跡を見学しようやく天守閣に着きました。平日正午頃だったので待ち時間なく天守閣内を見学することができました。天守閣内の階段ごとに係の方がいらっしゃって安全にも行き届いた配慮がされています。 今まで何故かなかなか訪問するチャンスが無かった松本城でしたが、多くの方がおっしゃるように整備が行き届いていてたいへんフォトジェニックな名城であることを実感しました。(久保井朝美さんも一押しでしたよね!)
私の現存12天守制覇を祝い?ランチは「うなぎ割烹 桜家」さんで孤独のグルメしました。
桜家さんの「うなぎ笹蒸し」と和菓子の開運堂さんの「開運老松」「りんごの天使」を家で待っている妻へのお土産に帰京しました。
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2022/10/27 11:46
姫( ・᷄ㅂ・᷅ )路 (2015/11/17 訪問)
( ・᷄ㅂ・᷅ )4回目
見応えあるなー
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2022/10/27 11:10
現存12天守 Visit の大ラス ~その1~ (2022/10/26 訪問)
先週の青森(浪岡・弘前・堀越)から転戦し今週は松本城、私の現存天守登城最後のお城です。JR松本駅からはいきなり本丸を目指さず、先ずは現在は一部しか残っていないかつての惣堀跡を一回りするところからスタートしました。本町通を北に進み女鳥羽川にかかる千歳橋を渡ったあたりが大手門桝形の跡でいよいよ松本城に入城!案内板も設置されています。振り返って見てみると、道が「喰い違い」になっていることや、交番の正面あたりが桝形の中心であることが地図でも確認できます。大名町通りを北に進み松本城南の信号を右折してしばらく行くと「東門の井戸」があります。このあたりがかつて4か所(大手門桝形を含めると5か所)あった松本城馬出の中で最大だった東門・馬出の跡になります。左折して北に進むと唯一残っている惣堀が左手に見えてきます、堀沿いの松本市役所横のややこんもりした茂みはわかりにくいですが東惣堀土塁の痕跡のようです。堀沿いに端まで行ったら左折すると「北門大井戸」があり窪地になっているところが馬出の地形の名残で現在馬出の痕跡を確認できる唯一の場所です。道なりに西に進んだ松本神社のあたりが「北不明門・馬出」跡で案内板があります。松本神社前信号を更に西に進み松本城西の信号を左折南下します。現在松本税務署があるあたりがかつての「西不明門・馬出」跡と思われます。更に進むと「西惣堀土塁公園」がありかつての姿を見ることができます。
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