一升桝遺跡の投稿より続きます…
法論対決で敗北を喫した極楽寺良観房忍性は,矛先を日蓮信者へとシフトします。
鎌倉幕府の作事奉行で武蔵国の千束の大池(洗足池)のほとりに住んでいた池上康光は,極楽寺良観房忍性の熱心な信者でした。
しかし,長男の宗仲,次男の宗長は,日蓮の弟子の日昭の甥という関係性から,日蓮信者になりました。
ここで,極楽寺良観房忍性が池上康光を焚き付け,日蓮信者の引き離しに動きます。
池上康光は長男の宗仲,次男の宗長に日蓮の信仰を捨てるよう迫り,長男の宗仲を勘当しました。当時の勘当は,家督相続権の剝奪となります。経済的基盤や身分を失うため,社会的抹殺に等しいと言えます。次男の宗長にしてみれば,日蓮の信仰を捨てるなら家督相続権が転がり込んでくることとなります。かなり動揺していたと伝わります。
日蓮は「兄弟抄」をしたため,兄弟らが団結して難を乗り越えるよう激励。
兄弟は粘り強く父に極楽寺良観房忍性の誤りを指摘し続けました。
そして,ついに池上康光は日蓮信者となりました。その翌年に逝去。
兄の宗仲が家督相続し,作事奉行も引き継ぎました。
日蓮は常陸国に湯治に向かう途中,兄の宗仲の居住する池上邸に立ち寄りました。近隣の門下が集う中,鎌倉幕府に最初に提出した「立正安国論」の講義…。
その翌日の,弘安5(1282)年10月13日に入滅。
現在の池上本門寺には,「此経難持坂」に加藤清正が寄進した96段の石段があります。此経難持は,此(こ)の経を持(たも)つことは難しいと読み下します。池上宗仲と宗長の兄弟を讃えるものと推察します。
また,昭和58(1983)年,入滅から700年を経て建立された日蓮像があり,台座には「開目抄」の主師親の三徳をあらわす一節が刻まれていました。
これにて,東京都の城びと登録城をコンプリートしました。
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