たきやまじょう

滝山城

兵庫県神戸市

別名 : 多芸山城、多喜山城、布引城
旧国名 : 摂津

投稿する
①堀
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)13日目:滝山城 (2024/10/04 訪問)

新神戸駅から徒歩5分くらいで、登り口付近(34.707138、135.195960)に着きました。ここから1.2Kmの遊歩道を歩きます。

築城年代は定かではないようですが、1333年(正慶2年)赤松円心が布引の城に籠もったことが『正慶乱離志』に記されており、滝山城の初見とされ、南北朝時代には摩耶山城などとともに争われたそうです。
1381年(永徳元年)に赤松光範が死去すると、文明年間には赤松氏の家臣であった井上成陰が城主になっていたようですが、詳細は不明で、一旦廃城になっていた可能性もあるそうです。
戦国時代には三好長慶の家臣松永久秀が滝山城主となっており、このときに現在の状態に改修されたようです。
1564年(永禄7年)長慶が没すると三好三人衆と争うこととなり、久秀が堺で戦っている間に三好方の淡路十人衆らの攻撃によって水ノ手を押さえられ、1566年(永禄9年)に落城しました。
その後は篠原長房の持ち城となっていましたが、織田信長の侵攻により有岡城主の荒木村重の持ち城となりました。
1578年(天正6年)荒木村重が信長に叛くと、信長は有岡城の支城である花隈城攻めの際に滝山城を攻め落とし、花隈城攻めの付城の一つとしたそうです。

最初、道を間違え北野異人館方面に歩きだしてしまいました。10分くらい歩いて間違いに気づき慌てて戻りました。なんでこんなミスをするのか情けない次第です。
遊歩道が整備されていますが、登りは結構きついです。(自分は登り40分、下り30分かかりました)主郭最高所に城址碑が建てられ西側に降ると2重堀切が残っています。
郭最高所に城址碑が建てられ西側に降ると2重堀切(写真を撮りましたがピンボケで投稿できません)が残っています。
攻城時間は80分くらいでした。次の攻城先=摩耶山城を目指す為、新神戸駅から神戸市営地下鉄で三ノ宮駅に向かい、みなと観光バス➡摩耶ケーブルを利用して虹の駅(ケーブル)に向かいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

神戸港を見下ろす山城 (2024/06/08 訪問)

詳細は不明ながら、南北朝期までに赤松則村が六甲山系の崖端部に築いた城で、戦国後期には三好長慶の命により松永久秀が城主となって現在見られる姿に改修しましたが、長慶の死後、久秀と三好三人衆が対立すると、滝山城は安宅信康らの攻撃を受け、水の手を切られて落城。その後、篠原長房が城主となりましたが、織田信長の摂津攻めにより長房が阿波国に撤退すると、荒木村重が築いた花隈城の支城となって池田泰長が入りました。荒木村重の謀反の際には花隈城攻めの付城として機能し、花隈城の落城により廃城となったようです。

(続き)

さて、猿のかずら橋を渡ってポートアイランドや六甲アイランドの眺望を楽しみつつ登って行くと、登城道沿いにいくつかの小曲輪群が連なり、猿のかずら橋から10数分で新神戸駅(大手道)への分岐に到着。分岐から東曲輪群の北麓を西に進み、幾条かの竪堀を越えたところに中央曲輪群への虎口があります。虎口脇の土塁には石垣の痕跡も見られました。虎口を抜けると東曲輪群と中央曲輪群が大堀切によって隔てられていて、堀底に滝山城跡の説明パネルが設けられています。東曲輪群に上る道はなさそうなので直登してみましたが、東西に細長い曲輪群が続くくらいで目立った遺構は見られませんでした(竪堀らしきものはありますが…)。

中央曲輪群には東曲輪群よりも広い曲輪が階段状に連なり、ところどころに崩れた石垣も見られます。北側、南側には竪堀も落ちています。中央曲輪群頂部の本丸は城内最大の曲輪で東屋が設けられ、北西隅の櫓台には瀧山城阯石碑が建てられています。南東に派生する支尾根には小曲輪群があり、土塁や堀切もある…にはありましたが、時季的に草木が茂っていて今ひとつでした。中央曲輪群と西曲輪群の間は二重堀切で遮断され、ずいぶん浅くなってはいるものの、二重の堀がはっきりとわかります。西曲輪群は本丸よりも高所にありますが、ほぼ自然地形の曲輪がいくつかあるだけで、南西端の堀切までが城域のようです。

来た道を引き返して新神戸駅への分岐から大手道を下って行くと、尾根沿いに小曲輪群が続いてはいるものの、こちらも時季的に草木が茂っていてあまり面白味がありません。大手道の見どころといえば、途中に開けたところから神戸港が見渡せたことくらいでしょうか。

…ということで、神戸の中心街近くにありながら、堀切に竪堀に石垣にと見応えのある山城ですが、大手道は長く歩くわりに見るところが少ないので、新神戸駅から登城する場合は滝見物しながら登って行ける布引の滝ルートをおすすめします。ついでにちょっと足を延ばして布引五本松堰堤もどうぞ!
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

布引五本松堰堤 (2024/06/08 訪問)

新神戸駅から滝山城への登城ルートには、尾根沿いの曲輪群をたどる大手道ルートと、布引の滝から布引貯水池に至るハイキングコース途中の猿のかずら橋から向かうルートがありますが、どうせならブラタモリで観た布引貯水池にも行ってみたいので、布引の滝ルートから登城しました。

新神戸駅のガード下を抜けると六甲地域の案内図があり、登り始めてすぐに大手道ルートへの分岐がありますが、そのまま直進して、分岐から約3分で布引の滝の雌滝に到着です。布引の滝は那智の滝、華厳の滝とともに日本三大神滝に数えられ、雌滝、鼓ヶ滝、夫婦滝、雄滝の4つの滝で構成されています。名前くらいは聞いたことがありましたが、岩盤の上から流れ落ちる雄滝はなかなか見応えがありました。

布引の滝からさらに登って行くと、滝山城へと分岐する猿のかずら橋が架かっていますが、素通りしてまずは布引貯水池へ。谷川橋を越えて、布引五本松堰堤の放水路としてできた五本松かくれ滝(この日は流れていました)を過ぎると、目の前に聳える巨大な石垣…。これが布引五本松堰堤!? 神戸水道のために建造された日本最古の重力式コンクリートダムとのことですが、想像よりはるかに大きく、堤高33mを超える布積の石垣(型枠用の石積をそのまま残したもの)は大坂城の石垣よりも高く、圧倒的な迫力でした。こうして貯えられた水が国際貿易港・神戸を支えていたんだなぁ……などとブラタモリを思い返しながら布引貯水池の畔を歩いていると、布引断層の露頭も見られました。つくづくブラタモリ的な興味の尽きない場所ですね。

思いがけず布引五本松堰堤だけでも満足してしまいましたが、猿のかずら橋まで戻って、本題の滝山城に向かいます(続く)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

滝山城 (2022/10/30 訪問)

【滝山城】
<駐車場他>神戸箕谷線<34.706206, 135.182741>の駐車スペースに駐車しました。
<交通手段>車

<見所>曲輪・土塁
<感想>城跡に至るルートは2つくらいはあるようで、上記の駐車スペース(城跡西側)からハイキングコースで城の搦手から入るルートと東側の布引から瀧山ハイキングコースを通るルートとあるようです。私の行った西からのルートは比較的なだらかですよ。
 滝山城の築城年は定かではないが築城者は赤松円心によるもので、1333年鎌倉幕府倒幕で挙兵した円心が摩耶山城を築いて京都近辺まで進撃しますが六波羅探題軍に押し返されて「生田布引の城にこもる」(瀧山城)と文献にあるそうです。戦国時代には松永久秀の持城となり現在の遺構に見られる大改修を行います。その後三好三人衆との権力抗争で淡路の安宅水軍に攻められて落城します。
 私の行った西側からのルートは堀切・二重堀切を超えたあと主郭櫓台の裏側搦手側から城跡に入ります。主郭から放射状に広がる段曲輪にはあちこちに石垣の転落石が転がっており少しだけ石垣跡も見られる箇所もあります。主要部の南にある大竪堀とその周辺は山城観のある見応え、現地説明板・縄張り図のある主要部の虎口には巨石がありここも見ごたえあります。主要部から南に連なる曲輪を見て終了しました。城跡内で夢中で石垣を探しをしました。円心が築城して松永久秀が改修している山城でこんだけ遺構が残っている城跡ってあまりないような気がします。なかなかいい城跡でした。

<満足度>◆◆◇ 
 本当にこれにて城びと登録のある赤松氏の山城コンプリート出来ました。自分好みの石垣・石垣跡の多く残る巨大山城が沢山ありました。またそれらを巡り山城遺構を見る目が出来て大変勉強になりました。また再訪したいです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

分類・構造 連郭式山城
築城主 赤松則村
築城年 南北朝時代?
主な改修者 松永久秀
主な城主 赤松氏、松永久秀、池田泰長
廃城年 天正8年(1580)
遺構 曲輪、石垣、土塁、堀切
再建造物 石碑
住所 兵庫県神戸市中央区神戸港地方、葺合町、加納町1
問い合わせ先 神戸市西区役所
問い合わせ先電話番号 078-929-0001