ふなげじょう

船上城

兵庫県明石市

別名 : 明石城、明石古城、林ノ城
旧国名 : 播磨

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北西からの進入路?畦道微高地本丸跡田圃
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しんしんちゃん

高山右近ゆかりの城 (2023/12/30 訪問)

豊臣秀吉が織田信長の後継として天下を手中に収めつつあった天正13年(1585)の国替えによって明石与四郎則実に代わって高山右近重友に明石郡が与えられました。重友は明石城(枝吉城)に入城し船上城の築城に取り掛かります。
重友は敬虔なキリシタンだったので秀吉により明石郡を追放され、加賀の前田家に茶道指南役として招かれ、金沢城の修築や富山城・高岡城の築城にも尽力したとのことです。その後、慶長19(1614)キリシタン追放の際マニラに追放され翌年63歳で死去したとのことです。
関ヶ原の合戦後に池田輝政が播磨に入り、輝政の八男で家老職の池田左近利政に船上城があずけられ、慶長13年(1608)からは輝政の甥で筆頭家老の池田出羽守由之に明石4万石とともに預けられました。元和元年(1615)大阪城が落城し支城としての役目を終え、その後の一国一城令で廃城となったようです。
船上城は周囲を宅地に囲まれた畑地らしき場所にありますが、本丸の跡に小さな社が祭られていて住宅の間の細い隙間から道がつづいています。

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カズサン

田圃の中にポツンと本丸跡踏込躊躇! (2023/11/27 訪問)

 明石藩舞子台場を小雨に降られて駆け足探訪後、山陽電鉄舞子公園駅から明石駅の西一つ目の山陽電鉄西新町駅下車し船上城を初登城。

 最寄駅:山陽電鉄西新町駅、徒歩約600m程。
 参考資料:古城盛衰記さん、グーグルマップ、城びと投稿記事、船上西公園の船上城跡解説板。

 山陽電鉄西新町駅から徒歩で約600m程、駅より南下し県道718号線を西へ明石警察署の1本西の通りを南下し、船上西公園へ至る、公園に船上城跡解説絵図が在る、現在と往時の対比で解説されている。西を覗くと水路が堀の如く流れてる、城びと投稿者の写真で見る、松が聳えてる本丸跡が見えるが進入する道が見つからない、周囲の住宅街を公道沿いに廻り、見通しの良い所、進入路は?と廻ると西に2ヶ所あり、見通しのみの所、人一人通れるコンクリ壁に挟まれた畦道、畦道から進入できそうなのですが、山城廻りの長靴安全靴で無く町歩き用の靴で、畦道、続く微高地の人踏道もハッキリせず進入を諦めました。
 「あ」さん直近の投稿写真は早苗の頃で田圃に水が入りさも水堀の様です、当日は田圃は耕されて土がむき出し、微高地は島のようで本丸跡で字古城の地番字だそうです。
 西の道を北へ、県道718号線に出て東へ、本丸への進入路、撮影地を探査するが適当なところは無く、西の北の畦道が唯一の進入路かも?
 西新町駅より明石駅に移動し、船上城移築長屋門が明石城外堀西に織田家長屋門として現存し探訪撮影する。

 歴史は絵図入り船上城跡解説板によると、三木城の別所氏一族の林ノ城が始まりで、天正13年(1585年)秀吉の国替えで高山右近が6万石で入封し整備拡大し船上城を築く、天正15年(1587年)秀吉のバテレン追放令で領地没収のうえ明石船上城を追放され、明石船上城は秀吉の直轄領へ、関ケ原の戦い後、播磨は池田輝政領に明石船上城は一族の池田由之の治める所と成り、元和元年の一国一城令により、城構えから櫓や堀などの無い屋敷構えに改造され、元和3年(1617年)信濃国松本の小笠原忠政が入封し、秀忠より明石に新城の築城を命ぜられ元和6年(1620年)明石新城の完成により船上城は廃城と成った。
 

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水田に守られた本丸 (2023/06/11 訪問)

田植え後の船上城本丸の微高地は、全周、水田で囲まれています。更に、その北側〜北東側は、かつても堀であった古城川が守り、それ以外の方面は、田んぼ脇まで住宅が立ち並んで容易に人を寄せ付けません。
北西隅に田んぼに降りる通路が二ヶ所あり、畦道に行けます。靴の幅より少し広い畦道が微高地とを結びます。
城下に船着き場があったと。かつてより海岸は沖側に後退しているのでしょうが、今でも海岸まで歩いてそれほどかからなかったです。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ遠征1日目:船上城 (2022/07/20 訪問)

舞子台場からの転戦です。西新町駅から徒歩6~7分くらいで、船上西公園(34.647993、134.975544)に着きました。
城址の稲荷を確認しようと稲荷入口(34.647531、134.975352)付近まで行きましたが、私有地で立ち入り禁止で断念しました。
その後、17~18分くらい歩いて、明石城に移築された織田家長屋門(34.650229、134.988611)を確認しました。
織田家長屋門から明石駅に戻る途中、ライトアップされた明石城を確認。なかなか幻想的ですね。
明石城の攻城は2回目(1回目は2018/12/2)になります。

船上城は豊臣秀吉の命により、高山右近が築いたとされる城です(それ以前に別所吉親による築城説もあります)。
しかし、1587年(天正15年)に発令されたバテレン追放令によって右近は追放されることとなり、その後は秀吉の直轄領となって城番が置かれました。
「関ケ原の戦い」後は池田輝政が姫路城の支城として、八男・利政を城主としました。
「一国一城令」後には城としての機能はほぼ失われており、1619年(元和5年)に明石城が築かれると廃城となりました。

船上西公園と古城大明神の祠本丸跡の間の古城川は堀の役目をしていたような感じです。
明石城外堀沿いに移築現存された織田家長屋門も忘れずに。また、明石城の巽櫓は船上城の天守か櫓を移築したものと伝わっています。
攻城時間は移動時間も含めて35分くらいでした。本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先がある西明石駅に向かいました。明日から四国遠征です。

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城郭情報

分類・構造 平城、海城
天守構造 望楼型?[3重?/築年不明/破却(廃城)]
築城主 別所吉親
築城年 永禄年間(1558〜1570)?
主な改修者 高山右近
主な城主 蜂須賀氏、高山氏、池田氏、小笠原氏
廃城年 元和6年(1620)
遺構 曲輪、土塁、横堀(水堀)、移築長屋門
指定文化財 市文化財(長屋門)
再建造物 説明板
住所 兵庫県明石市林崎町、林、田町、船上町他
問い合わせ先 明石市教育委員会事務局地域連携課
問い合わせ先電話番号 078-918-5057