豊臣秀吉が織田信長の後継として天下を手中に収めつつあった天正13年(1585)の国替えによって明石与四郎則実に代わって高山右近重友に明石郡が与えられました。重友は明石城(枝吉城)に入城し船上城の築城に取り掛かります。
重友は敬虔なキリシタンだったので秀吉により明石郡を追放され、加賀の前田家に茶道指南役として招かれ、金沢城の修築や富山城・高岡城の築城にも尽力したとのことです。その後、慶長19(1614)キリシタン追放の際マニラに追放され翌年63歳で死去したとのことです。
関ヶ原の合戦後に池田輝政が播磨に入り、輝政の八男で家老職の池田左近利政に船上城があずけられ、慶長13年(1608)からは輝政の甥で筆頭家老の池田出羽守由之に明石4万石とともに預けられました。元和元年(1615)大阪城が落城し支城としての役目を終え、その後の一国一城令で廃城となったようです。
船上城は周囲を宅地に囲まれた畑地らしき場所にありますが、本丸の跡に小さな社が祭られていて住宅の間の細い隙間から道がつづいています。
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