たはらじょう

田原城

愛知県田原市

別名 : 巴江城、今宮城
旧国名 : 三河

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桜門
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T-Shionoya

意外と中世な田原城 (2025/02/22 訪問)

愛知県田原市の田原城。数年前から度々近くを訪れてきた地で、今回はついに城跡へ。

渥美半島付け根の北側、田原湾および汐川西岸の標高約15mの台地の舌状部に築かれた城。
東側は江戸初期まで存在した干潟に守られていたとのこと。

1480年頃に戸田宗光が築城し、渥美半島とその周辺を領有した戸田氏5代の拠点。
1500年代後半は今川(朝比奈)や徳川(本多)、池田(伊木)の配下へと移り変わり、池田時代に近世化が進んだ模様。
関ケ原の翌年からは戸田氏3代、1664年から幕末までは三宅氏12代が城主となります。

現在は桜門と二ノ丸櫓が復元され、本丸・二ノ丸・三ノ丸・出曲輪に神社や博物館などが建つ城跡。
藤田曲輪は宅地化のため1990年代前半に削られました。

訪問時は、惣門跡から入口も出口もクランク形状の大手通りで城郭主要部へ。
桜門や石垣を擁した水堀から近世城郭をイメージしていたが、本丸手前に深い土の空堀が構えられ、よく見ると本丸西側に長い土塁が残存。出曲輪の西にも巨大な土塁が残り、意外と中世的な印象。

二ノ丸櫓1階が無料の小さな田原城博物館となっていた、私の城郭巡りの198城目でした。

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渡辺崋山 (2024/07/20 訪問)

 田原城周辺の街を散策していると藩校跡の石碑や渡辺崋山に関連した史跡などがありました。自分としても田原藩というと城主であった戸田氏や三宅氏よりも渡辺崋山を思い浮かべます。城内にあった田原市博物館でも渡辺崋山の展示は多かったと思います。

 この日は暑かったのでゆっくり散策というわけにはいかず早々に退散しました。

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戸田宗光 (2024/07/20 訪問)

 久しぶりの登城です。明治時代の廃城後に多くは取り壊されましたが、曲輪、石垣、堀などが一部ですが残っています。再建された桜門や二の丸櫓がいい雰囲気を醸し出しています。城址から南へ行くと惣門跡や大手通りなどがありました。

 豊橋鉄道渥美線三河田原駅から徒歩約15分で城址にある田原市博物館まで行くことができます。

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カズサン

惣門跡から大手道 (2024/02/24 訪問)

 「出曲輪・崋山神社」のつづきです。

 田原城惣門は桜門の南西約300m程の所に惣門跡石垣と現在の報民倉である田原市報民倉(防災倉庫、防災資材庫)が建てられています、その道程は田原中部小学校が有り白土塀で囲まれていて往時の雰囲気を醸しています、道中には平山邸跡のパネルが有り渡辺崋山の祖父、父の生家との事、小学校の道路脇には藩校成章館の石碑が有り、袖池の南民家の通り沿い前に報民倉跡のパネルがあり歴史を知らしめています。
 惣門は絵図によると櫓門で威厳のある大きさに見受けられました、幕末家老職の渡辺崋山が造った報民倉は天保の飢饉で藩内の餓死者を出さなかったことで幕府に唯一田原藩のみお褒めに与った事で有名であります。素晴らしい成果で今もって市民に慕われている渡辺崋山で有りました、南画だけではなかったのですね。
 
 長く6編に渡ってご覧いただきありがとうございました。
 

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城郭情報

分類・構造 梯郭式平城
築城主 戸田宗光
築城年 文明12年(1480)頃
主な改修者 池田輝政
主な城主 戸田氏、伊木氏、三宅氏
廃城年 明治4年(1871)
遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀・水堀)、井戸
再建造物 模擬櫓、模擬門、石碑、説明板
住所 愛知県田原市田原町巴江
問い合わせ先 田原市博物館
問い合わせ先電話番号 0531-22-1720