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夕暮富士 (2022/09/10 訪問)

 織田信長の美濃攻略の拠点となったとされる城です。市営のレクリエーション施設「伊木の森」の入り口と登山道入り口の2カ所に案内板がありました。「心ぞう破りの道」を10分ほど登って行くと主郭である山頂に行くことができます。「心ぞう破りの道」は、ぴーかるさんの投稿にもありましたが、山城を散策している者にとってはさほどでもありません。道は整備されていて歩きやすかったです。山頂から熊野神社本宮跡まで行き、引き返して「キューピーの鼻」まで行き下山しました。「キューピーの鼻」からの眺望はすばらしく犬山城、鵜沼城、そして南に視線を移すと小牧山城を見ることができます。
 平成12年の発掘調査では石積みが見つかっているようですが、調査後埋め戻されたとのことです。「岐阜の山城ベスト50を歩く」には「曲輪や一部の石垣を観察することは可能である」の記載ありました。曲輪は把握できます。縄張り図を参考に石積みを探してみましたが夏場ということもあるのか見つけることはできませんでした。それらしい痕跡はありましたが、正確にはわかりません。
 ところで「キューピーの鼻」ってなんでしょうか。その下にキューピー岩というロッククライミングを楽しむ岩があるらしいのですが、なぜキューピーなのかわかりませんでした。

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侍ホリタン

「鬼日向」、水野勝成の居城を訪ねて (2022/09/10 訪問)

JR福山駅北口を出ると石垣、月見櫓が目の前に現れます。
令和の大普請後、初めて訪れました。天守閣北側壁面に再現された鉄板張り、4つの櫓、その他櫓跡多数有りで10万石とは思えないほど巨大で堅固な城郭であった事が偲ばれます。
天守閣内部では水野勝成、阿部正弘に関するビデオ、展示物があり福山城に関する歴史を学ぶ事ができます。また乗馬体験ゲーム、火縄銃体験ゲームなど子供も楽しめる内容になってました。ただ天守に入るには、当分の間Webでの事前予約が必要です。

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カズサン

三の丸から復元南櫓・現存天守の眺めは見所 (2005/03/21 訪問)

 松江城が国宝指定前、堀尾吉晴侯銅像が立つ前、二の丸上の段に木造南櫓・中櫓・太鼓櫓が平成13年(2001年)復元されて居り、その4年後に、母の見舞いがてら春分の日連休を挟んで帰省して居ましたので、17年前の平成17年3月下旬、所々開通してる山陰道9号線を西進、流れはスムーズ、鳥取・松江間早く成りました。

 車は大手門前、堀川遊覧乗船場前の駐車場を利用。

 カメラはフィルムカメラ主体撮影でしたので予備のコンパクトデジカメに残っていた数少ない写真の中から投稿します、二の丸の復元櫓の南櫓に登り、中櫓、太鼓櫓は平櫓なので上がり内部見学、本丸天守閣撮影、堀川遊覧乗船、戻ってから県庁の有る三の丸へ、三の丸内部庭園から、二の丸の高石垣上の復元南櫓・中櫓越しに天守閣が重なって良く観えます、中々のビュースポットで見所の一つでしょう。

 堀尾吉晴侯と松江城は、浜松繋がりも有り在住の私としては、浜松城近世城郭への改修は堀尾吉晴侯であり、天守台の構造も松江城に似て居ますので、60年経った復興模擬浜松城天守閣を立て直すのなら、是非掘尾侯が建てた天守は松江城天守を小振りにした木造四階建て複合天守閣にして欲しいものだと思ったりしたり、叶うかな?

 鳥取への帰路、残雪を被った大山が良く観えました、静岡の富士山、鳥取の大山姿が見えると何となくゆったりとし和やかに成ります、ありがたいことです。
 
 

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赤い城

八田家書院 (2022/08/15 訪問)

周囲の道路は細いですが公園横に駐車場があります。
書院逸見入るには入場料が必要です。
この日は時間もあまり無かったので見学は外回りのみとしました。
綺麗に整備されていて周りは水堀が囲んでいます。
北側には土塁も見ることができました。
八田氏は戦国時代には武田氏の蔵前衆とのこと。
山梨県の県指定史跡となっています。

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チェブ

狩野派発祥の地で『先人びと』 (2022/08/14 訪問)

前回 投稿した「長浜城」から内陸に入り、狩野川沿いをドライブすると『狩野派発祥の地 狩野城』と大きな看板があります。
看板通りに→を進むと「狩野城」に到着しました。
「狩野城」は駐車場がある、整備された城址公園です。
説明板によると、平安時代末期に狩野氏が築城したようです。
狩野(工藤) 茂光さんは、源 頼朝さんの挙兵にも参加しています。
石橋山の戦いでは歩行困難になり自害しました。
歩行困難?ちょっと調べたら、太っていたらしく、、、、。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』にも体格の良い俳優さんが、工藤 茂光さんを演じてました。戦いの途中、
茂光『鎧が合わないから取り替えてくる 』
時宗『鎧ではなく太ったのではないか?』
簡単ですが、こんな会話がドラマ中にあり、その後2人は善児に殺害されてしまいます。

北条 早雲の時代には狩野氏は、前に投稿した「堀越御所」の茶々丸方に属し、敵対しました。
足利氏が滅亡し、北条傘下に。
因みに、狩野 正信さんが、8代将軍 足利 義政さんに富士山の絵を描いた事から、幕府御抱え絵師になったんだとか。すごい運命です。

説明板の横には『狩野氏』と『狩野派』の系図があります。
二枚の前に立つと、先人が好きな私は動かなくなります。『城びと』なのですが、『先人びと』です。
たくさんの興味を惹く方々の御名前ばかりです。
「狩野城」は遊歩道がありますが、前日に台風が上陸した為、前進しません。
今までのお城で、もう靴が、、、、。

この辺り「狩野城」の他にも『天城越え』『浄蓮の滝』等の看板があります。
狩野川沿いに、田んぼアートもあります。
『道の駅 伊豆 月ヶ瀬』では、イノシン型の最中の皮がトッピングされたソフトクリーム、おいしかったです。
温泉もありますし、旅館でのんびり過ごすのも良いな。
いつも急ぎ足で、お城攻めしてるので、1泊したいと切に思った「狩野城」です。

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加藤城乃助

久々の日帰り城巡り (2021/03/26 訪問)

コロナの影響であまり遠出も出来ない状況でしたが、少し落ち着いた感じでしたので、思い切って行ってきました。三島駅から東海バスに乗車。春休みで陽気も良く、バスも市内も程よい混雑。こんな感じは久々でした。
山中城は天気も良く、気持ち良く散策出来ました。遠くに駿河湾と、少し雲はかかっていましたが富士山も見えました。名物?の障子堀は、綺麗に芝生がはってありますが、往時は関東ローム層の滑り易い土だったそうで、それだととてもじゃないですけど、攻略出来ませんね。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ16日目:井上城 (2022/08/04 訪問)

小折城からの転戦です。小折城の生駒家墓碑前から徒歩15分ちょっとで、井上城址説明板前(35.299788、136.875674)に着きました。

応永年間(1394年-1428年)に有馬主殿正が築城&居城としたそうです。
下津城主で尾張守護代の織田郷広が尾張国の統一をするために従うよう命じたが、それを拒否しました。
1441年(嘉吉元年)には重松主水正が城主でしたが、尾張守護代であった下津城主・織田郷広によって攻められ落城し、そのまま廃城になったとされています。

五条川沿いに案内板が、そして築山を登ったところには城址碑があります。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=九之坪城を目指す為、電車で石仏駅から西春駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ16日目:小折城 (2022/08/04 訪問)

宮後城からの転戦です。布袋駅から徒歩4~5分で①移築中門前➡(徒歩20分弱)②生駒屋敷説明板前➡(徒歩2~3分)③吉乃御殿跡説明板前➡(徒歩2~3分)④久昌寺前➡(徒歩1分)⑤生駒家墓碑の順番に巡りました。
各所のGPS座標は以下の通りです。
①:移築中門前(35.319577、136.870717)御典医廣間家(現広間医院)
②:生駒屋敷説明板前(35.310273、136.875741)「生駒氏の邸址」の石碑、「生駒屋敷(小折城)」の説明板あり
③:吉乃御殿跡説明板前(35.309996、136.873751)道路を隔てた反対側の竜神社鳥居横に竜神社案内板があります
④:久昌寺前(35.308954、136.874988)久昌寺は生駒家菩提寺
⑤:生駒家墓碑(35.309506、136.874633)吉乃のお墓があります

小折城は織田信長の側室となった吉乃の実家である生駒氏によって築かれた城です。
吉乃は3代・生駒家宗の娘で、嫡男・織田信忠、次男・織田信雄、長女・五徳を産んでいます。
1584年(天正12年)の「小牧・長久手の戦い」では最前線となり、城は大改修されましたが、信雄が追放されると家長は隠居したようです。
その後、息子の生駒利豊は豊臣秀吉、さらには徳川家康に仕えました。
生駒氏は江戸時代も尾張藩の家臣として仕え、一国一城令で廃城となりましたが、生駒氏下屋敷として規模を縮小しつつ存続を許されとそうです。

「生駒氏の邸址」の石碑、「生駒屋敷(小折城)」の説明板は、布袋東保育園前に設置されています。
攻城時間は45分くらいでした。(①から⑤までの移動時間も含みます)
布袋駅近くにはたくさんの布袋様の像があったので併せて投稿します。
⑤:生駒家墓碑前から徒歩で、次の攻城先=井上城に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ16日目:宮後城 (2022/08/04 訪問)

古渡城からの転戦です。江南駅から徒歩20分くらいで、城址柱付近(35.343113、136.884327)に着きました。

宮後城は蜂須賀正勝(蜂須賀小六)の嫡男である蜂須賀家政が生まれたとされる城です。城主は安井重幸の息子である安井重継でした。
重継の姉である安井御前は蜂須賀正利に嫁いでいましたが、蜂須賀城が織田信秀との対立により奪われてしまったため、長男の正勝とともにこの城に移っています。
その後、1584年(天正12年)に起きた「小牧長久手の戦い」では羽柴秀吉方の砦として修築されましたが、和睦後に破却されました。
現在城址は住宅地となっており遺構はほぼ消滅しています。

県道64号線沿いに城址柱があり、反対側に説明板があります。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=小折城を目指す為、電車で江南駅から布袋駅を目指します。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ16日目:古渡城 (2022/08/04 訪問)

金山駅から徒歩15分弱で、東別院にある古渡城址碑付近(35.151804、136.901135)に着きました。
東別院の立派な本堂と裏腹に城址碑と説明板がひっそりと建てられています。
東別院の石碑を確認して、堀跡と言われている下茶屋公園(35.151416、136.903154)の池に向かいました。

古渡城は1534年(天文3年)織田信長の父である織田信秀によって築かれたと言われている城です。
信秀は那古野城を信長に譲ったあと、この城を居城としています。
1548年(天文17年)に信秀は末森城を築いて移ったため、わずか14年で廃城となりました。信長が13歳で元服したのもこの城です。
1702年(元禄15年)城址に東本願寺別院が建てられており、敷地内に石碑と案内板があります。

東別院の立派な本堂、山門は素晴らしい。これだけでも見学の価値があります。
それにしても、織田家の城跡に本願寺があるというのは考え深いですね。
下茶屋公園の池も確認しましたが、公園ですね。
攻城時間は15分くらいでした。次の攻城先=宮後城を目指す為、電車で金山駅から江南駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ16日目:黒田城 (2022/08/04 訪問)

朝早く起きて、ホテルの朝食前に黒田城を攻城しました。
電車で尾張一宮駅から木曽川駅に向かい、木曽川駅から徒歩5分くらいで、公園の冠木門付近(35.345310、136.781301)に着きました。

黒田城は山内一豊の父、山内但馬守盛豊の居城で、一豊の生誕地と考えられている城です。
盛豊は岩倉城主・織田伊勢守信安の家老として仕えていましたが、1557年(弘治3年)に織田信長に攻められ落城しました。
その後は城主がたびたび替わり、1590年(天正18年)には小田原征伐の際に討死した一柳直末の弟で家督を継いだ一柳監物直盛が入り、30,000石で黒田藩を立藩しました。

遺構は残っていませんが、「黒田城趾」の石碑と、説明案内板、山内一豐公の銅像、日清、日露戦役紀念碑などが建てられています。 
攻城時間は5分(電車の時間がない為、速攻で撤退です)くらいでした。
次の攻城先=古渡城を目指す前に、一旦、電車で木曽川駅から尾張一宮駅に向かい、ホテルに戻って朝食を取ります。その後、電車で尾張一宮駅から金山駅に向かいます。

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天守閣 (2022/09/08 訪問)

 いろいろな角度から見た天守閣の写真を集めてみました。どこから見ても、いい感じに見えます。

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朝田 辰兵衛

山頂エリアのみです。 (2020/12/06 訪問)

JR基山駅から,徒歩約15分で基山町民会館到着。基山町民会館にて,スタンプペッタン。そして,情報収集。基山町民会館から,徒歩約60分で登城口到着。登城口からは,徒歩約10分で山頂エリア到着。登城口から山頂エリアまでのアクセスについては,雨天時を回避したほうがいいと思います。
なお,山頂エリア一帯は,眺望が広範囲で開けており,大宰府防衛拠点の位置づけに納得しました。
当時,水門跡は豪雨の被害を受けており,遠望しかできない状態でした。山頂エリアからのルートも通行止め。
水門跡へ行くには,基山町民会館付近まで下山してから,さらに徒歩約60分の登山となるため非効率。しかも,遠望のみということで,時間対効果を勘案して断念しました。みなさんの書き込みを見ると,今は水門跡へ行けるみたいですね。

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道標の距離数があ (2022/09/04 訪問)

城びと先達何人かが、鳥取城から山中を横移動して太閤ヶ平陣へ行ったとの投稿をされています。鳥取城山上の丸から、電波塔がある、太閤ヶ平陣が、歩くにはほどよい距離感で見えました。直線距離で、1.5kmと。包囲される身だと、とても緊迫感があったでしょう。
山上の丸を出たら、太閤ヶ平陣への道標が整備されているのだろうと思って歩き始めましたが、分岐があってもなかなか現れません。やっと太閤ヶ平陣への道標が現れたら、あと「5km」と。腰が抜けそうになりました。しばらく行くと、あと「1km」に急減。
城びと先達が投稿されてない写真を中心に掲載します。

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カズサン

二度目の特別公開番外写真 (2022/08/28 訪問)

 今回の特別公開見学し係員の方に今回を入れて2度目の乾小天守・東小天守・イ・ロ・ハ渡櫓特別公開だそうです。次回は何時に成るか分からないとの事、大変ラッキーは公開体験経験でした。
 
 大天守閣を直近に見るのは平成の大修理の特別見学の時(H25.05.13)以来で9年振りです、大天守を直近に見るのには現在連立の櫓群から眺めるしかありません、直近に見た大天守の圧巻的な迫力、高揚感を伝えたく、先に今回の特別公開を投稿しましたが、選外になった写真も捨てがたく、くどい様ですが投稿致しますのでご了承下さい。

 きっかけを与えてくれたヒロケンさんの投稿に感謝です。いい体験経験でした。
  
 

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イオ

意外に見どころあり (2022/07/23 訪問)

織田信長の命で一色氏を滅ぼした功により丹後国を与えられた細川藤孝が築いた城で、本能寺の変の後、藤孝が出家して田辺城に移ったことにより細川忠興の居城となりました。関ケ原の戦いの後は京極高知氏が入り、京極高広が近世城郭として完成させ、京極氏が改易されると譜代大名が再三入れ替わって、本庄松平氏が七代続き明治を迎えました。

大手川東岸に位置し、本丸、二の丸、三の丸からなる平城(海城)で、市街化により地表面に遺構はほとんど見られませんが、発掘調査では石垣や礎石建物などが確認されています。

大手川ふれあい広場の駐車場に車を駐めて登城開始。広場から見ると、外堀代わりの大手川沿いに復元された石垣と土塀が続いており、なかなか風情があります。広場には、カトリック宮津教会を背景に、細川忠興と共に宮津城で暮らしていた細川玉(後のガラシャ)の像が建てられており、柳縄手の武家屋敷の長屋門(大村邸跡)が遺っています。時季的に葉桜でしたが、細川藤孝にちなんだ「宮津の幽斎桜」も植えられていました。

中橋を渡って宮津小学校へ。小学校の敷地はかつての藩校の跡地にあたり、宮津城の太鼓門が正門として移築されています。大手川沿いの東岸には白壁の土塀が続き、「しらかべのみち」として整備されています。駅前通りを東に進むと南側に一色稲荷社があり、一色義清自刃之処の石碑が建てられていました。細川忠興に謀殺された一色氏の怨念を恐れる思いが、城内に社を存続させたと考えられるんだとか。宮津武田病院北西隅の国道沿いには、宮津城の説明板と本丸くろがね門の袖石垣、大手橋の橋脚礎石、波止場の船つなぎ石が設置されています。国道を東に進むとたもの木が立っています。二の丸の北東隅に位置する樹齢300年超の古木で、国道整備や下水道整備の際にも、関係者の尽力により歩道や水路を迂回させて存続し、往時の姿を今に伝えています。

周辺では、宮津城から西南西に約11kmの後野愛宕神社には、本丸御殿の玄関が拝殿として移築されています。200段を超える石段を登った先に、古びてはいるものの立派な唐破風と京極氏の平四 つ目結紋を備えた拝殿が建っていました。また、宮津城から南南西に約3.5kmの盛林寺には、細川玉のもとに届けられた明智光秀の首級を葬ったと伝わる光秀の首塚があり、その隣には一色氏累代の供養塔も建てられていました(近年に建て替えられたのか新しい感じでしたが)。

宮津城の次は細川幽斎の隠居城、田辺城に行くつもりでしたが、瑞林寺に大きく寄り道したり、味土野への往復が思いのほか大変だったりで時間がなくなり、この日はここまでにしました。
 

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:深溝城 (2022/08/03 訪問)

形原城からの転戦です。
現在深溝城址は、株式会社三協幸田工場の敷地となっており、正門脇の道路沿いに石碑と案内板があります。
また幸田町六栗本郷の民家に深溝陣屋門が移築されているほか、陣屋絵図の写しが幸田町郷土資料館に収蔵されてるそうです。
以上の情報より、まずは三ヶ根駅より15分くらい歩き、説明板前(34.839375、137.176970)に向かいました。
幸田町郷土資料館は夜遅くなって閉まっている為、本光寺山門(34.837231、137.181530)に向かいました。

深溝城は十八松平のひとつ、深溝松平氏の居城でした。
松平忠定から4代・松平家忠まで在城しましたが、徳川家康の関東移封に伴い、忍城へ移りました。
家忠は「関ケ原の戦い」の前哨戦となった「伏見城の戦い」で鳥居元忠とともに討死し、その功もあり5代忠利は旧領に戻り三河深溝藩を立藩しましたが、1612年(慶長17年)に吉田城に移ったことにともない廃藩となりました。
その後、板倉氏が深溝陣屋をかまえました。

深溝松平家墓所の本光寺もなかなか良かったです。
攻城時間は、移動時間も含め20分くらいでした。
本日の城巡りは、ここがラストで本日の宿泊先に向かう為、電車で三ヶ根駅から尾張一宮駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:形原城 (2022/08/03 訪問)

本證寺からの転戦です。西浦駅より10分ちょっと歩き、三協樹脂㈱城山工場手前の形原城跡標識(34.790787、137.185141)に到着しました。
標識に従い進むと、「古城稲荷社」の鳥居があり、その先に二郭があり「お妙塚」が祀られています。
付近に稲荷社のある東古城、北古城、南古城などの地名が残り、その城域は広範囲のようです。

築城年代は定かではないようですが、平安時代末期に新羅三郎義光の孫、清光の弟である方原下司次郎師光が本城を築いたのが始まりとされています。
その後、松平信光の四男與副(ともすけ)が宝飯郡形原に居して形原松平氏の祖となりました。形原松平氏は與副の後、貞福・親忠・家広・家忠・康信と続きます。
四代・家広のときには今川氏に属していましたが、桶狭間合戦の後に家康に仕えたようです。
しかし、これに怒った今川氏当主・今川氏真によって人質であった妻子をみせしめに形原城から見下ろせる稲生の浜で串刺しにして処刑されたそうです。
天正9年(1581年)北条方の間者に13才の又七郎(後の六代家信)が暗殺されようとしたとき、乳母のお妙が身をもってこれを救った。亡骸は塚に手厚く「お妙塚」に葬られました。
天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に従い、六代松平家信は上総国五井に5,000石を領して移りました。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の後、旧領の形原へ移され旗本になりました。元和4年(1618年)には10,000石を与えられて大名に列し、その所領は形原藩15,000石となりました。
さらに翌年には摂津国高槻へ20,000石で加増転封となったそうです。これにともない形原城も廃城となりました。

稲荷神社って、赤い鳥居がズラっと並んでいるイメージを持つのは自分だけでしょうか?
城跡は住宅化によりほぼ壊滅状態ということのようです。ただ、主郭と二郭だけが辛うじて残っており、二郭の石段下横には説明板がありました。
石段を登った所が主郭です。神社の社殿と説明板、城址碑があります。
三河湾、渥美半島を望むことが出来ます。
攻城時間は20分くらいでした。次の攻城先=深溝城を目指す為、電車で西浦駅から三ヶ根駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:本證寺 (2022/08/03 訪問)

桜井城からの転戦です。南桜井駅より徒歩15分くらいで、本證寺門前(34.899890、137.086071)に着きました。

1206年(建永元年)頃に築かれた寺院です。
三河国三か寺の一つとされ、1563年(永禄6年)に起きた三河一向一揆では本證寺の空誓(蓮如の孫)が門徒に激をとばしてその中心となりました。
この一揆では一向宗の門徒ばかりでなく多くの国人・土豪が終結して松平氏の兵力を上回っていましたが、1564年(永禄7年)空誓率いる本證寺の一揆軍が家康に敗れ、寺内不入の確認などを条件として和議となりました。
しかし、家康は一向宗を禁止するとともに寺を焼き払い空誓は足助に逃れました。1585年(天正13年)空誓は、許されて本證寺に戻り寺地を安堵されました。

境内を取り囲むように巡らされた水堀が印象に残りました。
遺構の鐘楼は石垣修復中で近づけませんでしたが、海鼠壁を用いた経堂、隅櫓のような鼓楼は確認しました。
薬医門形式の裏門は見落としました。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=形原城を目指す為、電車で南桜井駅から西浦駅に向かいます。

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昌官忠

2022夏の青春18キップ15日目:桜井城 (2022/08/03 訪問)

安祥古城からの転戦です。桜井駅より徒歩10分くらいで、城山公園入口(34.920872、137.092436)に着きました。

築城年代は定かではないようですが、小浦喜平次忠重によって築かれました。
忠重は伊豆国から地頭としてこの地に移り住んでいましたが、文明年間(1469年〜1487年)に松平信光が安祥城を落とし居城としたことで、その家臣となりました。
松平親忠(松平信光の三男)は、はじめ四男の親房を城主としましたが、親房に子がいなかったため、松平長親の三男信定が養子となり、桜井松平氏の祖となりました。
1530年(享禄3年)宇利城攻めに参陣した信定は、兄福釜松平親盛とともに大手より攻撃したが、親盛を救援せず親盛が討死したことで清康の怒りをかったそうです。
信定はこれを恨み清康が尾張国守山へ進軍したときも、上野城より動かず、信定の子清定の妻が織田信秀の妹ということもあって、織田方へ内通したとの噂がたちました。
清康が尾張国守山で家臣に殺されると、信定は松平宗家の乗っ取りを企て、清康の子広忠は一時岡崎を離れて流浪しました。
1590年(天正18年)徳川家康の関東移封にともない、桜井松平氏は武蔵国松山へ10,000石で移封となり廃城となりました。

現在は城山公園として、一部残存している土塁の上に石碑が建っています。
攻城時間は10分くらいでした。次の攻城先=本證寺を目指す為、電車で桜井駅から南桜井駅に向かいます。

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