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朝田 辰兵衛

登城ルートは2つ。 (2022/10/22 訪問)

登城ルートは,東西2つあります。「小谷山城升型入口」とある東側ルートと,階段を数段登った先にパネルのある西側ルートです。
東側ルートの途中に堀切を確認でき,新・旧ルートの分岐にさしかかります。旧ルートのほうが遺構があるだろうと,旧ルートを選択。2段の虎口を経て,北郭にたどり着きました。2段の虎口の下のほうは,桝形を意識した形状になっていました。
私は,東側ルートで登り,西側ルートで下山しました。
標高:964m,比高:130m。比高があまりないせいか,これといって負担はありませんでした。
さすがに標高が高いので,紅葉は進んでいました。登城口付近から桧原湖を撮りましたが,天候がイマイチだったので全然映えてません…<泣>。

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赤い城

林道で熊さん?遭遇、気をつけて (2022/10/09 訪問)

前回の訪問では時間切れで登城口までしか行ってないので今回再訪。
案内板に沿って林道を進むと黒い動物がササッと。
足は長くないのでカモシカではない。
黒色なのでイノシシでもなさそう。
もちろん猿でもない。
ということは?やはり熊さん。
とりあえず登城口である駐車場へ、ここにも熊さん目撃情報の案内がありました。
せっかく来たので、と熊鈴装着で足早に見学しようと入口から進んで行きます。
堀切や巨石群など見どころ満載でとても足早に、とは行きません。
光秀の他妻、煕子の故郷となる城です。
くさび跡のある巨石も残っていて、熊さんの存在も忘れて散策してしまいました。
幸い遭遇せず一安心、と思ってたら帰りの林道でも・・・。
皆さん、気をつけてくださいね。

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T-Shionoya

筑波サーキットのついでに豊田城 (2005/05/05 訪問)

過去のお城巡りの振り返り第21弾は、茨城県石下町(現常総市)の豊田城。

現在の茨城県常総市周辺は嘗て下総国の豊田郡と呼ばれ、平安時代にその地を賜った常陸平氏の中の一族が豊田氏の始まりなのだとか。
そしてその豊田氏が、室町初期から1578年に多賀谷氏に滅ぼされるまで本拠としていたのが豊田城とのこと。

さて、訪問当時は主に天守のある城を巡っており、筑波サーキットへ行く途中に模擬天守の地域交流センターを撮影したのみ。
しかし本来の豊田城はそこから南東に約2kmの場所で、現在は石碑や案内板が建つ程度。

元々は小貝川西岸に沿う微高地に、屋敷や井楼矢倉を築いた城だったでしょうか。
「石下町史」によると、北側(現在の本豊田住宅地)に寺や城下町を配置し、堀切で分断されていた石碑の南側の農地部分が城の中核だったと推測される模様。

石下の町の大きな模擬天守は、嘗てこのエリアに豊田氏が存在していたことを今に伝えているのですね。

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恵美丸

信玄公祭りin甲府城 (2022/10/30 訪問)

3年振りの「信玄公祭り」♫今日はグレート家康公「葵」武将隊の演武を観た後に、賑わう甲府城を散策しました。至るところに「風林火山」の旗!普段は人が少なくゆったりと散策してるけど、賑わう甲府城もいいな〜と思いました(⁠◍⁠•⁠ᴗ⁠•⁠◍⁠)

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いんげん丸虫

天城城 長野県千曲市 (てしろ) (2022/10/16 訪問)

唐崎山城から尾根を東に行くと標高694mにあります。
主郭には古墳の石室が残っています。
規模は小さく、鞍骨城の支城のようですね。

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いんげん丸虫

唐崎山城 長野県千曲市 (2022/10/16 訪問)

天城山から伸びる尾根の先端、頂上478mにあります。
遺構のメリハリは薄れてしまってますね。
西の麓にある招魂社に案内板があり登城路が整備されてます。

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侍ホリタン

天守閣高さ日本一の名城を訪ねて (2022/04/09 訪問)

訪問した勝山城は平成4年に建てられた博物館で、実際の勝山城は別の場所にあり形も全く別物です。天守閣の高さは名古屋城を抜いて日本一で高さに圧倒されます。天守閣前に無料駐車場あります。

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すったかた

戦国時代の山城 (2022/10/22 訪問)

斎藤家のあとは森可成、森長可親子の居城、そして森蘭丸ゆかりのお城です。ゆっくり城めぐり、街めぐりをしたかったのですが、時間もなく駆け足で山城征伐、ひざガクガクになりました。

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カズサン

横堀と畝状竪堀群が見所です (2022/10/23 訪問)

 池田宗家?天城池田家、由之・良成父子の思いを偲び天城陣屋探訪を終えて、東へ約18km程に在る八浜城(両児山城)に向かう、ナビは八浜城山腹にある駐車場に合わせ、同駐車場を利用、8台位は駐車可能かな? トイレ有り 中腹まで車で行けて大変ありがたい。
 ガイドと情報は城郭放浪記さん、同縄張図、グーグルマップに依る。

 八浜城の別称両児山城に有る様に、北と南に峰が有り遺構が有る、児島湾児島湖に面した独立丘陵で北と西は湾、湖に面して、東、南防御の構えに成って居る。
 駐車場から南側南城へ入口に神社跡鳥居が有り、舗装されて道が頂上へ主郭の様ですが左右に墓石が並んでいる、八千浜城跡の城名石碑裏に碑文が有る、南一段下がって東屋、公園と成って居る、南に降りると東西に堀切、堀切を先端に南側から東側に掛けて食違いや高低差のある横堀が続いている、縄張図に畝状竪堀が記されて居り良く観ると横堀土塁下に畝状竪堀の痕跡が見て取れる、笹や樹木が有り良くは分からないが目視では確認できるが写真を見ると分かりずらいですが、ここ一番の見所です。
 南城を降りて北へ、北側北城は入口に神社鳥居が有り階段と脇スロープ道が有る、スロープ道を登り東西に堀切、堀切上に現在は神社参拝階段が有り土橋階段の様、頂上には八幡宮、快神社が鎮座して居り北端からは児島湾児島湖の眺望が良く俯瞰できる、縄張図に北城東側にも畝状竪堀群が記されているが樹木深く良く観えない、深く観察して無いのかも?

 碑文によれば 八浜城、両児山城、児島地方は戦国時代の末頃、織田・毛利両軍の衝突地点であった、天正九年春(1581)毛利の大軍が麦飯山城を中心に陣を張った、時に岡山城では宇喜多基家が城主直家の死を秘して、自から親衛五百を率いて当城に入り毛利軍と対陣した、八月二十一日大崎の柳畑から八幡社付近で合戦し、城主興太郎基家は討死したが有名な七本槍の働きによって、さすがの毛利の大軍も引きあげ、翌十年豊臣・毛利の決戦、高松城水攻めへの前哨戦となった因縁の城跡である。(昭和41年12月建之)
 (一部読み取りにくい所も有り抜粋して居ます)
 
 この後、南西に約24km程のJR児島駅に向かい、JRで瀬戸大橋線を渡り高松城復元桜御門見学へと向かいました。
 

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ニコ・ロビン

躑躅( ・᷄ㅂ・᷅ )ヶ崎 (2018/03/14 訪問)

言わずと知れた( ・᷄ㅂ・᷅ )武田の居城
中世の城の傑作
なんか理屈じゃなく、ここに武田信玄がいたと思うだけで感動だよなぁ

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ニコ・ロビン

甲( ・᷄ㅂ・᷅ )府 (2018/03/14 訪問)

山梨はフルーツだけじゃないぞー( ・᷄ㅂ・᷅ )!
やってきました甲府城
見事な野面の石垣で出来た巨大な天守台
武田の後を継ぐ城としては充分な立派さ
南を向けば、富士山が見える(T ^ T)

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ニコ・ロビン

春日( ・᷄ㅂ・᷅ )山⛰ (2017/08/09 訪問)

新潟は米だけじゃないぞー( ・᷄ㅂ・᷅ )!
やってきました春日山!上杉謙信の居城
石垣も遺構もなく、あるのは神社だけのただの山⛰
思いを馳せ進めば、宿臣達の屋敷があり、城の鉄壁さが窺える。

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トク

【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第7回)鶴賀城① (2022/09/22 訪問)

「岡城合戦(その3)-鬼ヶ城②」からの続きです。

岡城のある「豊後竹田駅」からローカルなJR豊肥線に乗り、思わず「南こうせつ」の歌を口ずさみながら白滝川(→戸次川→大野川)沿いの景色を楽しみました。
 「汽車はゆくよ~♪ 煙はいて~♪ トンネル超えれば竹中だ~♬」
その歌詞に出てきた「竹中駅」で列車を降り、そこから「鶴賀城」を目指します。

北上する島津家久は、大友重臣の「利光宗魚」が籠る鶴賀城を包囲し攻めますが、秀吉から命を受け大友を救援しようとする「四国連合軍」と戸次川(へつぎがわ)のほとりで激戦が行われました。

私は、竹中駅から鶴賀城本丸の利光山山頂まで登ろうとしましたが、ちょっと距離がありそうなので、駅から途中までタクシーを使いました。「とある煩悩」さんの投稿で、二の丸までタクシーで直接行ける道があると書いてあったので、そこまで行ってもらおうとすると今では荒れ果てた道になっており、運転手さんから「これは無理通れない」と言われたので、成大寺からも登山道があるとの事なのでそちらに行ってもらい、そこから徒歩で登城する事にしました(成大寺から山頂本丸まで徒歩30分です)(写真①)。成大寺には城主の「利光宗魚」の墓もありました(写真②)。

登山道の途中には、のろし台跡(写真③)、穀物倉庫跡(写真④)、堀切や畝状竪堀(写真⑤)などが見られました。二の丸には鶴賀城跡の石碑が立っており(写真⑥⑦)、そして本丸まで登ると急に眺望が開け、戸次川の合戦場を一望する事が出来ました(写真⑨-高崎山や由布鶴見の山々まで遠望できとても気持ちよかったです。自然の栗が山ほど落ちていたので持って帰り食べたらおいしいだろうなと思いましたが、とげがあり・・・痛!これは無理(笑)(写真⑩))。

利光宗魚は戦の最中に流れ弾に当たり、ここで戦死します。そして死は敵味方にもばれぬよう、しばらく家臣から伏せられたようです。鏡山城まで来るも、そこからからなかなか動かぬ援軍(大友・四国連合軍)を、宗魚はどんな思いでここから見つめ、そして亡くなっていったのでしょうか?

次は、鶴賀城(利光山)から山を下り「戸次川合戦の地」を歩きます。
 

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ニコ・ロビン

新発( ・᷄ㅂ・᷅ )田 (2017/08/09 訪問)

鯱( ・᷄ㅂ・᷅ )3つ三階櫓
隣が自衛隊で簡単には立ち入れないが、駐車場からの見栄えが1番いいな
打ち込み接ぎの石垣も綺麗だな

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赤い城

信長の子孫が築いた陣屋 (2022/10/01 訪問)

楽山園が隣接していて駐車場があります。
入場料300円を支払い門をくぐると石垣に囲まれた桝形虎口があります。
空堀や土塁が整備されていて建物があった跡も示されています。
日本庭園の楽山園が隣接、10年かけて復元整備されたそうです。
北側の裏門にも空堀などが復元されています。
信長の子孫である小幡織田氏が築いた藩邸です。

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肉球

作業中 (2022/10/20 訪問)

前回訪れたのが2015年その時は内堀が埋められ作業スペースが設けられ
石垣に鉄骨が組まれ天守閣の引っ越し準備がされ始めた時でした。
あれから7年石垣は積み直し作業に入っていますが完了するにはあと6年の予定。
多くの人が通る追手門と二の丸南門も耐震化と屋根の葺き替え工事でシートに覆われています。
こちら二門は今年いっぱいで工事終了予定です。

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肉球

引っ越し中の天守閣 (2022/10/20 訪問)

みなさんご存知の引っ越し中の弘前城天守閣。
お堀に面している部分は今しか近寄れないと思いマジマジと見学できました。
本丸には移動した天守閣と岩木山がツーショットが写せるように展望デッキが用意されています。
その横には長らく天守閣を支えてきた隅石2つが展示され
その1つはイカのような形をしていることから『イカすみ石』と命名されています。
引っ越した天守閣内には太い鉄骨が貫通してあり手厚く保護されています。

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侍ホリタン

2022年春、桜の名城を訪ねて⑥ (2022/04/10 訪問)

桜本数1000本、桜満開時に訪れるのが一番絵になるお城です。

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ヒロケン

飛騨の小京都 (2022/08/14 訪問)

高山城は「飛騨の小京都」と呼ばれる高山市街地の東南部にある標高686.6mの城山に築城された平山城で、曲輪・堀・石垣・土塁などの遺構が残っています。
模型で見る天守は、望楼型2重3階の御殿風天守を持つ古い城郭形式で、織田信長公が築城した安土城の影響を受けたものと見られています。現在は、城山公園として岐阜県指定史跡に指定され高山市民の憩いの場所となっています。

戦国時代、飛騨国では高山周辺の領主であった三木自綱が敵対する江間氏を滅ぼして、飛騨を平定し松倉城を築城しています。三木自綱は越中の佐々成政と同盟し、豊臣秀吉公に対抗したことから、1585年秀吉公の命を受けた金森長近公より攻められ、これにより三木自綱は降伏しています。この功により金森長近公が飛騨国3万3千石の領主となり、当初鍋山城を居城としましたが1588年に高山城を築城し、高山城を居城としました。1600年までに本丸・二の丸を完成させ、その後、三の丸、城下町、高台に家臣屋敷などが整備されています。
1600年の関ヶ原の戦いでも長近公は徳川方に味方し、郡上八幡城攻めの功で2万石が加増され初代高山藩主となっています。飛騨国は、石高は低いものの木材や金銀の鉱山があり、資源が豊富である利点があります。

この城の見所は、本丸の再建された石垣や本丸周辺に点在する石垣・城山全体の曲輪、また、飛騨高山まちの博物館(入館料無料)にある高山城本丸の模型などの展示物(*^▽^*)が見所といえます。(私見)
6度目の訪問となりますが、城山公園駐車場(無料)に駐車し、高山城を訪問後、飛騨の小京都高山市街に足を延ばし、高山市街を散策しています。

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武居城公園 (2022/10/29 訪問)

 洗馬荘を支配した三村氏の城として伝わっています。コンパクトですが、見ごたえのある城址です。武居城公園から10分弱で城址に行くことができました。登城路はよく整備されていて、城域も手入れが行き届いていると思われ遺構がとても見やすかった。畝状竪堀は畝が大きいいのが印象的でした。明知城で見た畝状竪堀に似ていると思いました。2重の堀切が2カ所あり、どちらも形状をある程度残していていい感じです。ただ写真にするとわかりにくく迫力が伝わらないのが残念ですね。堀切も見事なものが残っていました。山城を比較的容易に堪能できる城址です。
 武居城の奥には重ね城という城址があるのですが、時間の都合等もあり行っていません。

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