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higekam

荒木村重が出世のきっかけとした城 (2022/05/23 訪問)

周囲を宅地化、本丸は公園化され城としての遺構は本丸を囲む堀、自然の崖くらい。
ただ、木造で作られた模擬櫓はそれなりの味わいがある。

この城を拠点にして、村重は近くを流れる猪名川を約5km下ったところにある伊丹氏の伊丹城を攻略。本城をそこに移し有岡城と改名した。これからそちらへ移動する。

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higekam

惣構を歩いて実感 (2022/05/23 訪問)

まるでブラタモリだが、惣構をぐるりと歩いて高低差を実感。
市街化されているため遺構はほとんど残されていないが、JR伊丹駅西隣の本丸をスタートし、、最南端の鵯塚砦から途中上臈塚砦を経由して北端の岸の砦を訪ねた。岸の砦の土塁跡は分かりやすい。
大坂城、小田原城ほどの規模ではないが信長が攻めあぐんだのも理解できた。

それにしてもこの惣構を作った荒木村重という男はいまだに理解できない。

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ぴーかる

家原城 (2022/04/30 訪問)

【家原城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>JR津久野駅から徒歩

<感想>2022年春のJR列車大阪ちょこ城巡りの旅5城目。家原城は現地説明板によると1566年には三好義継・三好三人衆と対立する松永久秀方の侍(泉州衆)らが立て籠もっていましたが、出撃して敗れました。1568年には三好義継の家臣が立て籠もっていましたが、京都奪還を目指す三好三人衆に攻められ落城します。
 城跡の遺構は消滅しているようで石碑と説明板があり冠木門の所は地区のお祭りなどで使う広場だそうです。

<満足度>◆◇◇

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チェブ

つまり、榊原 康政さん誕生地。 (2022/05/04 訪問)

「上野上村城」は県道239号沿いの『上郷区民会館』の横にありました。

鳥居があり、奥にお社が お祀りしてあります。
高い場所で、下は水田か畑だったと思います。
鳥居をくぐると異空間です。
虫達も歓迎してくれました、、、。

説明板によると、戸田 宗光さんが築いたようです。
「上野上村城」の城主は、目まぐるしく変わります。
その後、宗光さんの次男 家光さん。勢力拡大の為「田原城」に移ります。
その後、阿部 孫次郎さん。で、松平氏。で、酒井 忠直さん。
調べたら、今川家の「上野上村城」期間があったり、織田 信秀さんも攻めて来たりしてます。
でもって、三河一向一揆が勃発しました。
そうして最終的に家康さんの「上野上村城」になりました。お疲れ様です。

説明板には、たくさんの先人達のお名前が見られます。
でも、、、正直に言うと~『榊原 康政生誕之地』の石碑を見た時が、1番テンションが上がりました 。 ( *´艸`)

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宗春

若狭・越前攻略戦③敦賀城 (2022/05/05 訪問)

ゴールデンウィークに友人と福井県のお城を訪問しました。
百名城や御城印のあるお城を中心に攻めていますが、敦賀城は大谷吉継ゆかりの城という事で、友人の希望で立ち寄りました。遺構はほとんどないため、敦賀西小学校の説明碑と真願寺境内にある城址碑(&礎石)だけ確認しました。

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前ちゃん

朝駆け (2022/05/23 訪問)

大河「独眼竜政宗」では後藤久美子と桜田淳子が演じた「愛姫」(政宗の正室)の田村家の城

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前ちゃん

曇天の中 (2022/05/22 訪問)

久々の3連休で、東北へ遠征。会津鉄道・西会津駅からバスで東小松下車し、歩く。途中地震の速報(現地は震度3)。雨を気にしながらの登城。下山時に慌ててインフォセンター前に下るはずが、逆ほうこうへ。とんだ時間ロスをしたが、無事バスに乗り込み会津若松城へ。

登城口すぐのギャラリーに蘆名氏関連のパネル展示

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トク

明智光秀「最期の30日」を辿る 【第1回】安土城(信長の館)  (2022/05/07 訪問)

(「前書き」からの続きです)

織田信長より安土城にて甲斐の武田勝頼を滅ぼした徳川家康を慰労すべく饗応役を任された光秀は、天正10年(1582年)5月15日からの3日間その役を務めます。そして3日目、もうすぐ無事に終わると思ったその時、魚の臭いに激怒した信長は光秀を折檻し、饗応役を解いてしまいました。そして同じ頃、備中高松で毛利と対峙している秀吉から援軍要請の文が届いたため、信長は光秀に自分の代わりに援軍として向かうよう指示します。この事への逆恨みから謀反の心が芽生えたとういうのが一般的な通説(江戸初期に書かれた「川角太閤記」から)ですが・・・

安土城の近くにある「信長の館」を訪れてきました。当時の安土城の5~6階部分が実寸大で展示されています。それはもう唖然としてしまう程の迫力ある豪華絢爛で見事なものでした😲~(写真⑤⑥)。何と宣教師が書いたという信長の肖像画もありました(写真⑦ 信長ってこんな顔だったの?)。そして何より見たかった、光秀が出したという膳のレプリカが展示されていました(写真①~④)。最高の食材をよく吟味し、そして一流の料理人が作っているので、いくら冷蔵庫がない時代とはいえ、出した魚が臭いなんて事は実際にはありえないと思うのですが・・・・(🤔~しいていえばこの魚かな?)

【補足】建造物自体は著作権で守られているので、写真⑤⑥は他の承認されたHPからの引用とさせて頂きました、御容赦下さい。
【アクセス】安土駅から安土城までの交通機関は全くないですが、駅前にレンタサイクルがあり安く回れて便利でした。オススメです(写真⑧⑨)。

【余談(あくまで私の推測で申し訳ないですが・・・)】
私としては、最後の3日目の最後の膳になって饗応役を解いても何の意味もないと思うので、饗応は3日間とも無事に終ったのではないかと思っています。そして、「明智軍記」によると、光秀は饗応の前にはすでに、「出雲・石見に出陣せよ、そして坂本に代わり切り取り次第、出雲・石見を領地として光秀に与える」、との信長からの命を受けていたので、予定通り饗応が終了したので出陣の準備に入ったのではないかと考えています。武田亡き後、信長の当時の最優先課題は、残る反信長の最大勢力である毛利を何とか屈服あわよくば滅亡させる事であり、秀吉と光秀で東と北から包囲し圧力をかけていく作戦ではなかったかと。「川角太閤記」自体は、後の江戸時代に入り田中吉政の家臣が又聞きやうわさをまとめたものなので信憑性となると? という感じです。
しいて本当に魚が臭いと言ったのであれば、信長の気持ちとしては、光秀が3日間あまりにも完璧な膳を用意し家康から気に入られてしまったので、嫉妬心から「ちょっと最後はいじめてやろう」というぐらいの気持ちと、家康と光秀があまりにも親しくなりすぎたので「今後の為にまずいかも」と思ったのか、魚が臭いなどと言いがかりをつけ、折檻のふりをして二人を試したのかもしれません。光秀も信長の性格は熟知しているので、こんな事でいちいち逆キレして謀反まで計画する程の単純な人物ではないはずです。謀反はむしろもっと大きな理由で決断したと思いますが・・・皆さんはこの辺をどう思われているのでしょうか? (永遠の謎ですね😊)

(第2回「坂本城」へ続きます)
 

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トク

明智光秀「最期の30日」を辿る 【前書き】

天正10年(1582年)5月15日(旧暦)に安土城にて徳川家康の饗応役を務めてから、6月13日深夜、小栗栖・醍醐の地にて死するまでの、明智光秀「最期の30日」の足跡を辿ってみる事にしました。しかし仕事の休みが3日しかとれず、30日分を3日で巡るというハードなスケジュールになってしまったため、写真などを含め内容が十分でなかったり、また一部誤りがあったりするかもしれませんが、その点は御容赦願いたいと思います。また、光秀については数えきれないほど多くの諸説がありますが、今回は通説とされている内容で追って行こうと思います。内容がちょっと多いので数回に分けての投稿になるかと思いますが、最後まで読んでいただけたら幸いに思います。よろしくお願いいたします😊。

では第1回「安土城」から始めます。
 

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朝田 辰兵衛

ゴルフコースへと改変! (2022/05/21 訪問)

かつての五福小学校跡地は,富山市シルバー人材センター管理のゴルフコースへと改変されていました。土塁内部へは富山市シルバー人材センターの駐車場から中に入ることができました。とくに立入禁止とも表示されてなく…。ただ,土塁の周囲を2周したのですが,パネルを見つけることが出来ませんでした…<泣>。
名古屋に向かう高速バスの乗り継ぎの合間に立ち寄ったので,ここで散策を打ち切りとしました。

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宗春

若狭・越前攻略戦②国吉城 (2022/05/05 訪問)

ゴールデンウィークに友人と福井県のお城を訪問しました。
初戦の玄蕃尾城に続き、2戦連続山城という計画だったため、かなりしんどい城攻めでした。500mの階段&山道は息が切れました。衰えを感じる。

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赤い城

小田原攻め、家康の陣 (2022/05/08 訪問)

小田原駅から徒歩で20分くらい。
東照宮が建っていますが明確な遺構はありません。
周辺は住宅地と畑になっています。
東照宮が建つ部分はやや高くなっていて土塁の跡かも。
また側の畑っぽい部分は一段低くなっていて堀の跡のようにも見えます。
背後に酒匂川を背負い家康が小田原攻めの際に陣を置いた地。
石垣山城から見える小田原城とは大分風景も違いますね。
鳴くまで待とう、というのが解った気がします。

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モト

蛇も出てくる季節ですね (2022/05/10 訪問)

城跡の一部に小学校が建っています。
小学校の周りに陣屋跡や、隣接する公園の奥に土塁がありました。

さて、暖かくなってきましたが、公園の薮で蛇と遭遇です。
うわ!  
1人で声出して驚いてしまいました。
いきなりは勘弁してくれと言った感じです。
もうそんな季節になりましたね。

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T-Shionoya

岩殿城ハイキング (2022/04/30 訪問)

巨岩がシンボルの岐阜県苗木城と群馬県岩櫃城。
この種の城に興味が湧き、ゴールデンウィークの最初は比較的近くにある山梨県大月市の岩殿城へ。

このエリアは南(桂川)西(笹子川)北(葛野川)の3方向からの川が合流し、東の相模へ流れていくポイント。
川沿いに四方から物資や情報が流通したことでしょうか。
比高250m以上の岩殿山は古くから円通寺の修行場だった岩山で、1500年代初期に武田氏が対相模の拠点として城郭化したという説が今は有力とのこと。
甲陽軍鑑では関東三名城にあげられる岩壁と深い渓流に守られた要害ですが、歴史的には武田氏の滅亡にも関与した城でした。

現在は山の南側中腹に丸山公園が整備され、櫓を模した岩殿山ふれあい館は小さな歴史館。
山頂の城郭部へは複数のルートがあるものの、岩の崩落により通行止めが多く、大きな迂回が必要な状況。

訪問時は丸山公園へ寄った後、北側の畑倉ルートで山頂へ。
前日が雨だったため鬼の岩屋が神秘的な滝となっていましたが、それ以外はただひたすら山城らしい急斜面を登山。
登り切ると、本丸、蔵屋敷、馬場の平場が階段状に構成されており、富士山は雲に隠れてしまったものの南物見台は大月市街を一望できるビュースポット。
休憩後、揚城戸跡を抜け、浅利ルートで大手口だという築坂峠まで歩き、来た道を引き返して帰ることに。

ルート閉鎖で巨岩信仰は感じにくかったものの、計5時間半のハイキングが、私の城巡りの123城目となりました。

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ふゆづき

富士見城(城びと未掲載) (2022/04/29 訪問)

城びと未掲載の富士見城を訪問しました。
この城は小諸城の支城として築かれたとのことであり、小諸城の城名を借りました。
徳川、上杉、北条が争った時には、徳川家臣の柴田康忠が城主を務めたこともあるようです。
写真をご覧頂ければおわかりのとおり、主郭を中心に初期の石垣が築かれており、高石垣の技術が未発達であったため、複数の段差をつけた形で築かれています。

この城の場所は飯綱山高原の一角(歴史地区)にあり(小諸高原美術館の裏手にあたります)、小高い丘の上にあります。
遺構としては、上記の石垣の外に、堀切や土塁などが確認でき、野戦築城としては十分な供えができているように思います。
アクセスは、小諸インターから車で5分程度であり、小諸高原美術館の駐車場等が利用できます。
これほどまでに遺構が残っているのに、あまり知られることがなかったことが不思議な感じがします。

なお、訪問したのは4月末でしたが、城は小諸八重紅枝垂桜に囲まれており、本当に美しい風景でした。
皆様も是非訪問して下さい。

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カズサン

尼ヶ淵から眺める城塁と南櫓・西櫓は感動❣ (2009/05/23 訪問)

 復元整備で甦った松代城を建物、土塁、石垣、年代物石垣、真田邸、旧文武学校、武家屋敷、城下町を充分に堪能して、南東直線に約20km上田城を目指し、よく整備された尼ヶ淵専用駐車場に駐める。
 着いた駐車場からもうドキドキの興奮状態、尼ヶ淵の絶壁、城塁、石垣、石垣台に建つ南櫓と西櫓、ここだけで十分な城郭景観です、初登城は10代の終わり頃、登城した13年前の平成21年5月下旬で40数年は経ていました。

 尼ヶ淵駐車場で十分観察眺望して旧電車道の堀底道から二の丸橋を渡り二の丸へ博物館も見学し、復元成った本丸東虎口櫓門、真田石も眺め櫓門に入る、南櫓、北櫓も同じく、本丸、本丸土塁、西櫓、本丸西虎口、二の丸西から北へ復元された北虎口石垣を眺め、有名な石樋、百間掘跡のグランドを眺めて戻る、約1時間半探訪。
 
 泊りは戸倉上山田温泉旅館、朝浜松を6時出発でしたので温泉にゆっくり浸かり美味しい地酒と料理を堪能、旅館の方にスナックを紹介してもらい歌も2時間程披露。
 

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おっちゃん

正保城絵図・二之丸居所之図 (2018/05/26 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

水戸城郭図 (2013/07/14 訪問)

現地案内板より抜粋。

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POYO58

菅沼氏の居城 (2022/05/22 訪問)

1470年菅沼定信が築城、田峰菅沼5代目の菅沼定忠が長篠合戦で武田勝頼に味方し、兵を挙げたが、会えなく敗退。その後知らせてを聞いた菅沼定直(定忠の叔父)が謀反を持ちかけ、田峰城への入城をすることができず、勝頼とともに武節城へ逃れ、1576年、田峰城に夜襲をかけ、一族96人を殺害。その後は徳川家康に属し、城主は定利が務めた。

複数の曲輪が置かれ、梯郭式城郭みなっています。遺構は大手門跡にある空堀と土塁のみ。本丸には復元された御殿と物見台があります。御殿は入ることができますが、有料です。また、大手門跡の所には馬防柵らしきものも復元されています。復元されたのは大手門、御殿、物見台の他、厩も復元されています。遺構が少ししかないのは残念ですが、建物の復元により、戦国時代の様子が想像しやすくていいです。御城印は御殿に売っていますが、道の駅のしたらにも売ってます。少し前までは御城印のガチャがあったのですが、今は無くなっています。また僕は行っていませんが、この城びとでは未登録である、津具城、寺脇城など、遺構が残る貴重な城も周辺に存在します。(ただ少し遠いです)そこも是非行ってみては?

評価
遺構:2
建物:3
行きやすさ:2
全体:2

攻城時間
30分くらい

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おっちゃん

鹿背山城跡配置図 (2017/02/26 訪問)

現地案内板より抜粋。

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