水戸インターからほど近く。
妙徳寺が館跡になります。
山門脇に石碑が立ち、その前の水路は堀の跡と思われます。
お寺の裏手、第二駐車場の縁に土塁が残り、その先に空堀も残っていました。
妙徳寺には加倉井氏の墓もあります。
江戸氏家臣の波木井実正が築いたとされ、後に加倉井氏を名乗ったそうです。
この前に登った難台山城の疲れもあり、楽して遺構を見ることができる城を選択。
遺構は僅かながらここに残っているのが素敵でした。
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2022/05/25 21:16
妙徳寺 (2022/05/15 訪問)
水戸インターからほど近く。
妙徳寺が館跡になります。
山門脇に石碑が立ち、その前の水路は堀の跡と思われます。
お寺の裏手、第二駐車場の縁に土塁が残り、その先に空堀も残っていました。
妙徳寺には加倉井氏の墓もあります。
江戸氏家臣の波木井実正が築いたとされ、後に加倉井氏を名乗ったそうです。
この前に登った難台山城の疲れもあり、楽して遺構を見ることができる城を選択。
遺構は僅かながらここに残っているのが素敵でした。
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2022/05/25 19:56
愛が試されるとき (2022/05/03 訪問)
誇大広告か、言葉の綾かーー。「名城」が乱立する昨今、ややミスリードな推し文句が流布しやすいのも事実。地元愛、大いに結構。と同時に、それに感化されすぎず、現場で見極める「城愛」もまた肝要かと。
葛折を上ること240m超。唐沢山城(栃木県佐野市)は、山頂に本丸を中心とした主郭部を築き、全山に曲輪を配置した堅城。城主・佐野氏は上杉謙信の侵攻を何度も受けながら、最後まで生き残りました。
まれに謙信が「10回攻めても落ちなかった」という記述を見かけますが、これは明らかに誇張で、実際は複数回攻め落とし、残りの数回は積雪で自ら引いたといいます。降伏・開城・裏切りを繰り返す佐野氏側を許し続けた謙信の、当時としては一風変わった人柄が見え隠れするエピソードかもしれません。
遺構の保存状態は良好。過度な宣伝文句に頼らずとも、城好き・歴史好きを十分満足させることができそうです。中でも見所は本丸南西の高石垣。南局の西側に約40m続いており、高さは8mを超えます。
もちろん、この石垣のために謙信が攻めあぐねた、と早合点しないように。実際に佐野氏が築いたのは豊臣秀吉の小田原攻めに協力した後のこと。おもに西日本で導入された技術を用いたため、土造りが主流だった関東では極めて珍しい遺構となっています。時期的な要素を考慮すると、この石垣は実戦に備えたものというよりは、太閤との近しさを領民や近隣大名に見せるための示威行為に近いものではないでしょうか。実に興味深い。
城跡へのアクセスは、路線バスがないため、タクシーやマイカーなどで(駐車場完備)。脚で攻めるなら東武鉄道田沼駅から徒歩約40分(試しに帰りは駆け下りてみましたが、20分程度)。現在、本丸跡には唐沢山神社本殿があり、城跡とは知らずに訪れる家族連れも多いようです。夏場も安心して行ける山城遺構です。
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2022/05/25 19:34
小六ランド建設予定地? (2022/05/04 訪問)
「宮後城」の築城時期は不明です。もともと安井氏の居城でした。
安井 重継さんの時代に重継さんのお姉さんと、蜂須賀 正利さんが結婚。
2人は「蜂須賀城」に居城しました。小六さんも誕生します。
が、織田 信秀さんと対立し、「蜂須賀城」を奪われました。
で、「宮後城」に移ります。
つまり、小六さんは母方の叔父さんに、助けてもらったんですね。
「宮後城」は広い敷地の道路沿いに、碑が立ってます。
ぐるーっと反対側に説明板がありました。
敷地には入ってはいけない雰囲気です。更地です。
これから、整備するのでしょうか?
蜂須賀 小六 正勝さんの野武士時代の武勇伝とか、墨俣一夜城大作戦の話とかを伝える『小六ランド』が出来たら再来したいと思います。
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2022/05/25 19:24
楡沢山城 長野県塩尻市 (2022/05/07 訪問)
全城跡で最も高所にある山城です。標高1754m。
木曽義仲の隠れ城という別名もあります。
「長野県町村誌」には木曽氏砦の其一とあり単なる
伝承だけではなさそうですね。
木曽義仲をかくまうために造られたものであり、物
見を置いたのでしょうか。
全体的に腰の高さまでの熊笹に覆われていて、地形
はわかりにくいのですが、山頂の平場、50mx5mの
土塁状の地形、窪地、大きな横堀などがあります。
この高所での横堀の意味など疑問点も多く、この地
特有の断層、自然地形を活かしているのかな?
”道の駅木曽ならかわ”に駐車して稲荷社のある山の
麓からそのまま城跡のある尾根まで直登しました。
かなりの急斜面でしたが、なにより山頂付近からの
横移動が背丈ほどの熊笹が密集していて凄かったで
す。熊笹の中に潜り平泳ぎのように、、まさに藪漕
ぎでした。麓から3時間の格闘で到着しました。
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2022/05/25 16:34
2022/05/25 16:24
2022/05/25 16:13
2022/05/25 13:38
山家なれども (2022/05/22 訪問)
何度かの美作城廻りで、10mk南西の岩屋城、10km南東の院庄城まで行っていましたが、山地に入り込む葛下城は、いずれも日没で断念。津山近傍で一つ未登城(城びと登録内で)として残ってました。そして城びとでもこの付近で唯一未投稿で残された城でした。
山深いところでしたが、北〜東麓を流れる吉井川は津山を経て瀬戸内海までの重要航路であり、山麓の湯指の川湊は栄えたと。また、出雲裏街道も城の北麓を走ります。重要拠点で経済力もあったのでしょう、最終的には、毛利による改修を受けて、葛下城は、東西1100m、南北300mと大規模です。岩屋城では家臣の屋敷群は大手に至る開けた谷に並んでますが、葛下城は山麓に平地はなく、山腹を平削してたくさんの家臣屋敷地が確保されています。ちなみに、葛下城主の中村頼宗は、岩屋城を攻略し、岩屋城主になりました。
山続きになる西側の尾根に岩を穿って深い堀切が作られています。他にも見ごたえ箇所たくさんあり。
城域は個人所有(南の谷を入っていく三叉路に葛下城の標識棒があり、裏面に所有者の名前が書いてあります)のためか、写真を掲載した説明板は、川を挟んだ集落の道沿いに立っています。城域は草刈や標識設置がされていますが、手が回りにくくなってそう。それよりも、登城口までであった林道を凄い勢いで延長されてます。下調べでは林道の突き当たりが登城口とあったので、おかしいなと思いつつだいぶ行きすぎました。
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2022/05/25 12:33
天空の城 (2022/04/30 訪問)
大野城は亀山と呼ばれる独立丘陵に本丸を築き、二の丸、三の丸を配した平山城として築かれたとのことです。現在は亀山公園として整備されており、麓から天守のある城跡までは階段が整備されていました。駐車場も無料で準備されており、とても便利でした。遺構としては、山頂の本丸跡に素晴らしい石垣が現存しています。建造物としては、櫓門であった鳩門の門部分が光明寺山門として移築現存しています。また、7代利忠の隠居所が無料休憩所「藩主隠居所」として移築現存していました。本丸跡には模擬天守と城門が建てられており、天守内部は資料が展示されています。町を上げて芝桜の栽培がおこなわれていて、お城とのコラボレーションが絶妙でした。また車で数分のところに朝倉義景公、鳥居景近、高橋景倍のお墓もありました。
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2022/05/25 09:03
2022/05/24 22:26
城攻めというより山登り (2022/05/15 訪問)
あたご天狗の森の駐車場からさらに奥に駐車場があります。そこからハイキングコースがあり、ハイカーさんも結構いらっしゃいました。
ハイキングコースを進んでいきますが幾つかの山を超える結構ハードな道のりです。
道中、案内板もあるので迷うことはなさそうです。
歩くことに2時間くらいで難台山頂に着きますが城はここではありません。
山頂から少し下ったところに案内板があり、下に降ります。
しばらく降りると城址内通路の案内板があります。
城址にはいくつかの曲輪があり、岩が転がっている程度。
古い時代のもので城のテイストは薄いです。
さらに降りていくと説明板も立っていて、そばには堀切が見られました。
他にも登城ルートがあるようですが急がば回れ、ハイキングコースからが良さそうです。
山頂へのハイキングコース上には岩の塊がゴロゴロ。
中でも花崗岩が垂直に切り立つ屏風岩は迫力があります。
この後久米城まで足を伸ばそうと思ってましたが体力の消耗激しく断念しました。
達成感は味わえる城かと思います。
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2022/05/24 21:54
知覧麓武家屋敷庭園廻り (2009/04/18 訪問)
知覧城の認識も数拾年前からシラス台地を掘り刻んだ群郭式城郭と認識して居ましたが、出張などで鹿児島を訪れても、知覧航空隊基地、知覧武家屋敷群を見学するだけで知覧城に辿り着けませんでした。
今回定年退職月に鹿児島工場、協力企業、特約店の挨拶回りに鹿児島出張、13年前の平成21年4月中旬時間の余裕も有り知覧城の攻城をレンタカーで試みましたが、良く分からず知覧航空隊基地と知覧役場を往復するだけ、今回も知覧麓の武家屋敷群、国の重要伝統的建物群保存地区に成って居ますので、屋敷群の雰囲気も良く名勝庭園を廻まり写真を撮りました。
知覧麓ですが知覧城で投稿致します。又映画ホタルで有名に成った特攻の母、富屋食堂の建屋も写真に撮りましたので掲載します。
尚、平成28年10月知覧城登城出来、令和2年1月に城びとに投稿させて頂きました。
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2022/05/24 20:30
ロープウェイで登城 (2009/04/23 訪問)
定年退職月、挨拶回りで岐阜市の企業を訪ねた折、時間も有りロープウェイで登城、天守閣登閣し天守閣からの眺めを堪能しました、又発掘調査で居館跡が露わに成り一部整備保存されて居ますので見学探訪しました。
13年前の平成21年4月下旬探訪で先ず麓で天守閣が輝く金華山を見上げて、織田信長騎馬像、居館跡冠木門、居館跡の虎口跡か?根石に巨石が使われている、見学できる所を見て回る、退職前記念の岐阜城探訪でした。
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2022/05/24 13:28
明智光秀「最期の30日」を辿る 【第2回】坂本城 (2022/05/07 訪問)
(第1回「安土城」からの続きです)
天正10年(1582年)5月17日、饗応役を解かれた光秀はその日のうちに坂本城へ戻り出陣の準備に取りかかります。そして丹波衆を中心とした軍勢に、明智秀満(左馬助)、斎藤利三、藤田行政(伝吾)の軍勢を加え、総勢を亀山城に集めるよう指示を出し、5月26日には自らも亀山城に向かいました。
今回は、坂本城跡公園(写真①)と実際に坂本城が建っていた場所を訪ねてきました。公園から北に150m行った海岸で本丸石垣の一部跡が見られる場所があるとの事で、そこは私有地の畑の中でしたが通れるようなので行ってみました。しかし、運悪く石垣は湖水に沈んでいて見えませんでした(😩写真②③)。
坂本城は安土城より先に日本で初めて石垣を使った三重の豪壮華麗な城であったとルイスフロイスの記録にあります。はたしてどんな城だったのでしょうか? こんな城だったよとのポスターが公園にあったので撮ってきました(写真⑥⑦)。また、焼け落ちる時に、光秀が大切にしていた脇差を秀吉に取られぬよう秀満がここに埋めたとされる明智塚が道路を挟んだ私有地にありました(写真④)。
私は実際に坂本城の本丸跡に立ち、そこから安土城があった方角を眺めてみました(写真⑤)。確かにここからは安土まで見渡す事ができます。光秀は出立までの9日間、ここ坂本城の天守から、当時あの場所にあった朱と金色に輝いていた安土城の天主を、どのような思いで見つめ、どのような葛藤を抱えていたのでしょうか?🤔
【余談】
この後光秀が、途中愛宕権現に参拝し三度おみくじを引いて三度とも凶を引き当てた話は有名なので、私も愛宕権現まで行ってみようかと思いましたが、大変な山の中のようなので、行けば時間が足りなくなってしまうと思い今回は断念しました。よって光秀に代わり一句、
「時(土岐)は今、雨(天)が下し(降)る 五月哉(かな)」😊
(第3回「丹波亀山城」へ続きます)
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2022/05/24 13:22
桜 (2022/04/27 訪問)
4月末に、弘前城~松前城~五稜郭を巡ってきました。3泊4日の行程で、内3日は晴天でお城とともに桜を満喫してきました。
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2022/05/24 10:01
二の丸東周探訪と天守群眺望 (2009/05/24 訪問)
甦った松代城を十二分に探訪し、尼ヶ淵絶壁石垣上田城訪ね、戸倉上山田温泉に泊まった翌日、松本城を13年前の平成21年5月下旬、探訪しました、車は何時もの松本城北西に在る有料駐車場を利用。
今回は探訪した約10年目に復元した太鼓門桝形、二の丸を東側外堀から眺め、北側外堀、広い本丸内濠越しに天守群を眺めて、黒門から本丸に入り天守群を眺める、天守には登らず。
二の丸太鼓門桝形は平成11年の復元、二の丸北東角の丑寅櫓台も整備されて居ました、二の丸御殿の平面表示、北の木橋復元、北側の外堀も石垣が綺麗に残って居り、葉桜でしたが桜の頃はさぞ映える事でしょう。
漆黒の松本城天守群は何処から見ても素晴らしい、長く大切にしていきたい国宝です。
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2022/05/24 06:55
県内の城めぐり2022㉓ (2022/05/07 訪問)
9年前のゴールデンウイーク以来の攻城です。前回は山家城攻城の後、高崎に向かい中学の同窓会に参加したのですが、痛飲、泥酔、激しく嘔吐した苦い記憶が残っています。2度目の攻城にもかかわらず、獣よけフェンスの正面に伸びる足下がぬかるんだ沢を登りその後急斜面を直登する羽目になってしまいました。登城路は獣よけフェンスのすぐ右手に伸びています。高石垣が見られる郭は最も新しい郭だそうで「甲信越の名城を歩く」によると武田氏滅亡後に作られたのではないかとのこと。今回は五重堀切の先の秋葉神社が鎮座する郭、更に堀切を越えた最高所の郭まで脚を伸ばすことが出来て満足です。まだ、未踏の郭が残っているので今後の楽しみにとっておきます。現在でも小笠原氏城跡として長野県史跡に指定されていますが、遺構的には国史跡の価値が十分にあると感じています。
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2022/05/24 04:56
2022/05/23 23:38
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