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カズサン

秀吉馬印を奪った吉岡将監の城 (2009/03/21 訪問)

 防己尾城は日本で一番大きい池、湖山池の西側に東に突き出た岬に築かれて居ます、鳥取城鹿野街道から県道21号線を西進、吉岡温泉入口を過ぎて温泉宿泊施設レーク大樹方向、末恒伏野方向北進、ほどよく行くと突き出た岬、案内板がある、南北に尾根が有り中間の平地に駐車場完備。

 母の49日法要の為、帰省し法事が明けた翌日、レーク大樹に泊まって居ましたので、約1km程の所に在る防己尾城跡を久しぶりに訪ねました。
 中学の頃先生によく鳥取城合戦の話、鳥取城側の武将の話、特に吉岡将監が秀吉の馬印千生瓢箪を奪った話とか授業中に聞いており、久しぶりの懐かしい城郭です。

 現在は公園化されて居り散策路も付き歩き易い、北側の尾根が城郭域の様で頂上が削平整備されて本丸かな?城名石碑が立って居り、案内解説板も有ります、東先端は出丸か?現在展望台の様です、南側尾根は公園散策路が付き頂上は削平広場と成って居る、案内板に本丸・二の丸・三の丸・町屋と記載されて居ましたが、本丸以外よく分かりません、北側に船着場ともあり湖山池をよく移動して居たのでしょう。
 防己尾城は天正9年(1581年)の鳥取城合戦攻防で秀吉の馬印千生瓢箪を奪った時が花の時期で、鳥取城落城時に鳥取方亀井茲矩によって落城して居ます。
 朝露にやぶ椿が濡れて咲いて居ました、落ちた椿は絨毯の様、やぶ椿は群生ししっとりと綺麗です、早咲きの山桜は花を咲かせ始めの様で、桜と椿良い環境です。

 レーク大樹に戻り伝説湖山池長者の像が金ぴかで池端に立って居ましたので撮影、伝説では湖山池は昔田圃で湖山長者の田圃でした、一日で全部植えたいと思って居ましたが後少し陽が沈み出来ない処、長者は太陽を扇で迎え戻し田植えをし終えましたが、翌日起きると田圃は一面の池に成って居たとの話です。

 

 

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カズサン

出水麓武家屋敷保存地区 (2009/03/15 訪問)

 13年前の平成21年3月中旬、定年退職1ヶ月前の鹿児島工場出張の折、レンタカーで地道走行し未踏の城廻り、出水麓を訪ねました。
 麓は薩摩藩の鶴丸城を本城とし、領内各地に113(のちに102)の外城と呼ばれる行政区画、麓を設置し統治の中心としました。薩摩藩の麓で有名所は、ここ出水麓、入来麓、知覧麓の三ヶ所でしょうか、仮屋御門と武家屋敷が良く残り、伝統的建物群保存地区に成って居ります。

 出水麓の観光駐車場に車を駐めて、探訪散策を開始、一般公開されてる武家屋敷も在り建物内に入れます、丁度ひな祭り月で雛飾りが綺麗に飾って有りました、出水城(亀ヶ城)を背景に地頭仮屋が設けられ仮屋御門が残って居ます、現在は出水小学校、出水城へは城郭放浪記さんの情報で立入禁止と有りましたので麓から眺めるだけ、出水小学校の近くに五万石溝跡が在り見学、江戸中期に用水路として約20km掘削し通したとか、大変な労力だったそうです。
 武家屋敷の有る伝統的建物群保存地区は、玉石垣に生垣、武家屋敷門が揃って落ち着いてしっとりした風情を醸して折りゆっくり散策を楽しめます。
 

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イオ

雄島(福井県坂井市三国町安島) (2022/06/05 訪問)

東尋坊沖合いの雄島は越前海岸で最大の島(と言っても全周約2km)で、古来より神の島として崇められていますが、この日の麒麟がくる紀行(越前編)の下調べをする中で明智光秀ゆかりの史跡があることを知り、ちょっと寄り道してみました。

対岸の無料駐車場に車を駐めると眼前には雄島が横たわり、朱塗りの雄島橋がまっすぐにのびています。心地良い海風に吹かれながら橋を進んで行くと、雄島南岸に柱状節理の断崖が聳え立っているのが見えてきました。東尋坊の柱状節理はデイサイトですが雄島は流紋岩によるもので、一乗谷や福井城養浩館の庭石にもこの流紋岩が多用されているんだとか。

大鳥居をくぐり、参道の石段を登ると大湊神社に至ります。大湊神社には航海と漁業の神が祀られ、朝倉氏の祈願所となるも織田信長の朝倉攻めで社殿は焼失していましたが、江戸初期に福井藩二代・松平忠直が再建した本殿が現存しています。その本殿付近(向かって右奥と左手前)に、明智光秀が朝倉氏に仕えていた頃に雄島を訪れて詠んだとされる漢詩の石碑が建てられています。右奥が江戸後期に建てられたもの、左手前は右奥の詩碑が磨滅破損したために再建されたもののようで、正直、漢詩の意味はよくわかりませんが「源光秀」の文字は読み取れました。

遊歩道をさらに進んで島を一周すれば、流紋岩の板状節理や瓜破の水、磁石岩やヤブニッケイの自然林など見どころはいろいろあるようですが、時間の都合もありこの日はここまで。それでも、ちょっと寄り道程度のつもりが思いのほか楽しませてもらいました。
 

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おっちゃん

古城公園案内図、東条城復元図 (2018/05/26 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

東金城跡地形測量図、東金御殿古絵図 (2017/10/07 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

唐沢山城跡案内図 (2017/02/19 訪問)

現地案内板より抜粋。

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カズサン

返り咲いた立花宗茂 (2009/03/07 訪問)

 柳川城は九州征伐の軍功で13万2千石の領地を与えられ、本格的な城郭に築き直し、関ヶ原合戦で西軍に与したが家康に許されるも領地は没収され浪々の身に、関ヶ原の戦功で筑後32万5千石で田中吉政が入封し再整備、五重の天守もこの時建てられたと、しかし二代目忠政に子が無く亡くなり元和6年(1620年)に断絶、慶長8年(1603年)大名に復帰した立花宗茂は陸奥棚倉の赤館を居城とし3万5千石と加増され、元和6年故郷の柳川城主として11万9千石で返り咲き、以後11代明治まで継承治政した。
 関ヶ原合戦後西軍で復帰した大名は立花宗茂ただ一人、武勇人格を家康、秀忠に見込まれたのでしょう。

 13年前の平成21年、柳川城の探訪は先に柳川名物「ウナギのせいろ蒸し」を頂く、錦糸卵も載って柔らかく垂れが掛り美味しく頂きました、水郷水堀を巡る川下りに乗船、丁度ひな祭り時期で雛飾り吊るし雛飾りが堀端、お店の各所に飾られて居ました、川下りで堀、水門、堀端の田中吉政公像、立花家別邸お花の裏船着場、見学周り、終点は北原白秋生家のある船着場、北原白秋生家見学、雛飾りも、柳川城の連結式天守閣の模型が展示して有り、明治初年まで在った天守閣の姿を脳裏に叩き込む。
 立花家の別邸お花を見学、洋館と御殿、庭園松濤園も見学し、唯一残ってる本丸跡の石垣、曲輪を見学、現在本丸は柳城中学校、二の丸は柳川高校に成って居る、本丸の案内板に柳川城の古絵図が掲載されて居り五層の天守閣も描かれて居り廻縁高欄に唐破風入母屋破風が付き30万石太守に相応しい天守閣(田中吉政造)だったのでしょう、立派な天守閣を彷彿しました、幕末古写真を見ていたので再確認しました。
 
 定年退職の花向けに福岡城久留米城柳川城を堪能し柳川名物ウナギのせいろ蒸、雛飾り、川下り観光も端のしました、福岡の同僚仲間に感謝です、13年経ちました。
 

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ダイエティシャン

米子城5️⃣ 御船手郭と番外編 (2022/07/05 訪問)

長々とお読み頂きありがとうございました。最後です。

米子城跡方面に戻り、御船手郭(深浦郭)①を目指すと、猫諸将達が、番人をしていました。

住民の方が、猫の撫で方を教えて下さいました。
コロナ禍で殺伐とした中、心が温まる出来事でした。

郭から、城下の港山公園⑦に戻ると、ここでも、猫諸将達が城下を守っていました。

地域猫活動中の方が餌を下さり、猫と戯れました。

この日の目的は、猫カフェだったのですが、コロナ禍で、名前、連絡先記入の為、断念しました。


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ダイエティシャン

米子城4️⃣ 飯山城跡~横断歩道の向こうに城巡りびとあり (2022/07/05 訪問)

飯山城跡から、米子城跡をのぞむ。飯山城が、米子城の出城であったことを伺い知る事が出来ます。①

飯山城は、米子城の東砦の役割を果たしたようです。かつては、お家騒動の舞台にもなったそう。

この時期は、草も覆い繁り、まむしも心配です。

階段からは、米子の街も見渡す事がも出来ます。⑦⑧

飯山城跡に行くには、米子城跡から、横断歩道を渡る必要あり。
【横断歩道の先に、お城あり。】
【横断歩道の先に、城巡りびとあり】で、愛馬(愛車)で、城攻め中の方は、是非、横断歩道の手前で減速して、横断者の確認をして頂きたいです。

この時は、10台通り過ぎました。
我が国(県)でも、横断中の事故が絶えませんので、何卒宜しくお願いいたします。

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ダイエティシャン

米子城3️⃣ 中海展望台(出山?) (2022/07/05 訪問)

中海展望台に至る迄は、中海を見ることが出来ますが、①~③展望台自体では、羨望は良くないです④⑤市の資料に由ると、出山と思われます。

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ダイエティシャン

米子城2️⃣ 天守跡 中海展望台 (2022/07/05 訪問)

天守の石垣、所々色の変わった物が。補修跡?①~④
⑤~⑧は、天守跡からの、眺め

内膳丸との分岐点に戻り、中海展望台を目指します。⑨~⑩

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ダイエティシャン

米子城1️⃣ 枡形虎口 内膳丸 (2022/07/05 訪問)

カズさんの投稿を見て、発掘が進む米子城に攻城

2枚目の石垣、ハートが横たわっているように見えませんか?
三の丸駐車場からの、二の丸の石垣③
調査が進み出、公開中④~⑦
地震でずれたと言われる石垣⑧
草が多い繁る内膳丸⑨~⑩

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ダイエティシャン

大松山城跡、天神の丸跡 大池 ダイジェスト~ 本格的な山城跡の為、装備が必要、 (2022/07/11 訪問)

小松山城(一般に備中松山城と言われている城)とは、比較にならない程の、本格的な山城です。登山靴、コンパス、天候チェック、熊鈴等の準備が必要。

備中松山城本丸から、裏手から、大松山城跡を目指す事が出来ます。そこに至るまでの道に、【相畑跡】と言う陣所、戦場跡②③があります。
更に進軍し、天神の丸跡、天神社跡④⑤
分岐点に戻り、更に進軍し、大松山城跡⑥⑦ 大松山城跡の井戸⑧
分岐点に戻り、更に進軍し、大池跡⑨⑩は、発掘調査中

今回は、コロナ軍と、雷雨等の攻撃の為、予定を大幅に変更して、【猫城主 さんじゅーろー】様①に、暑中見舞いに伺いました。


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福満寺 (2020/09/05 訪問)

 福満寺近郊にあったようですが、河川工事により遺構は失われています。福満寺に案内板があります。

 以前に投稿しましたが、違うところに投稿してしまったようです。前の投稿を削除して投稿しなおしました。多くの方から「いいね」をいただいていたのに申し訳ありません。

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本慶寺 (2020/09/05 訪問)

 養老線美濃津屋駅より徒歩5分の所に本慶寺があり、そこが城址です。城址碑と案内板があります。
境内の南から西にかけて空堀があり、土塁などもあるようですが、藪でよくわかりません。夏場でありスズメバチの注意喚起を促す看板もあり藪等への侵入は断念しました。

 
 以前に投稿しましたが、違うところに投稿してしまったようです。前の投稿を削除して投稿しなおしました。多くの方から「いいね」をいただいていたのに申し訳ありません。

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城山小学校 (2020/09/05 訪問)

海津市立城山小学校が城址です。
南門を入ると案内板があります。体育館奥に土塁があるとのことでしたが、休日で誰もいなかったので見学は断念しました。


 以前に投稿しましたが、違うところに投稿してしまったようです。前の投稿を削除して投稿しなおしました。多くの方から「いいね」をいただいていたのに申し訳ありません。

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カズサン

本丸高石垣が素晴らしい (2009/03/07 訪問)

 久留米城は筑後川中流に宝満川が合流する丘陵に築かれて居り、九州新幹線、JR鹿児島本線車窓より眺める事が出来ます。
 歴史は秀吉九州征伐後、毛利秀包が入封し本格的な城郭久留米城を築城開始、関ヶ原後戦功で岡崎城より田中吉政が32万5千石で築後に入るが本城は柳川城、久留米城は支城、田中吉政の跡を忠政が継ぐが嫡男なく、元和6年(1620年)の死去によりお家断絶、丹波福知山城より有馬豊氏が21万6千石で入封し、大改築近世城郭へと整備し直した、以後有馬氏が明治まで継承治政した。

 久留米城登城は2度目の13年前定年退職で福岡の仲間が送別の夕食会を開いて貰った翌日、同僚が車を出してくれて、浜松はウナギが名物ですが、柳川にも浜松に劣らぬウナギ「ウナギせいろ」が有ると、昼食に「ウナギせいろ」を食べようと企画して呉れて、私に城廻り久留米城、柳川城も入れて出掛けた次第。

 久留米城は現在本丸が残り、周囲を高石垣が守って居り、大変見応えの有る城塁です、同僚も居るのでさらっと高石垣を西、南、東眺めて本丸大手虎口より入り、筑後川西方を眺める。
 古写真を見てましたので本丸高石垣に二重の多聞櫓が取り巻き各櫓台には三層櫓が並び七つも有ったとか、三層ですが巽櫓が天守閣の代わりをしていた模様、頭の中で二重多聞櫓三層櫓を想像して往時の姿を想像。
 現在本丸は有馬氏を祀った篠山神社が鎮座して居ます。

 

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ぴーかる

武隈屋敷跡(小菅沼城跡) (2022/05/22 訪問)

【武隈屋敷跡】富山県魚津市小菅沼
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>車

<見所>石垣
<感想>1泊2日富山城の旅11城目。城びと未登録。現地説明板によると「武隈屋敷跡は小菅沼城とも呼ばれる城館跡で周囲が高い石垣で囲まれ、出入り口には枡形の門跡が残る。室町時代の松倉城主椎名氏の家老と伝えられる武隈氏は椎名氏滅亡後もこの地に居住していたが✕✕期(消されている)に他県に転居している。」とあります。城館跡は大きく上下2段の広い曲輪になっており、下段に現代の家屋が残っているので奥までは行っていません。上段の曲輪の虎口に立派な石垣が残っています。家屋の法面にも高石垣が残っています。現代まで居住されていたそうなので大部分が積み直しであろうと思われますがなかなか見ごたえあります。

<満足度>◆◆◇

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イオ

番田と下番(と中番) (2022/06/05 訪問)

室町中期に堀江景經が築いた城館で、戦国期には朝倉氏に従って加賀一向一揆に対しました。戦国末期には堀江氏が一向一揆と結ぶとの風聞を信じた朝倉義景の命により魚住景固と山崎吉家に攻められ、落城こそしなかったものの、和議により堀江氏は堀江館を離れて能登国に退去しました。

堀江館は当初は番田(城びとの位置情報あたり)に築かれ、後に加賀一向一揆に備えて下番に移されています。番田堀江館は周囲に土塁と堀をめぐらせた方形居館だったようですが、圃場整備により遺構は消滅しており、信号脇の水路沿いに案内の標柱があり、その100m南に堀江公番田館跡の石碑と説明板、小さな祠が建てられているくらいです。

下番堀江館(福井県あわら市下番)は主郭を土塁と堀で囲み、周囲に複数の曲輪を配して竹田川を外堀とした縄張で、現在では本荘小学校敷地になっていて遺構は消滅していますが、プールの西側に堀江館を偲ぶ歌碑と堀江氏のものと思しき笏谷石の五輪塔が建てられています。なお、小学校の東隣の本荘春日神社は、下番からさらに移転した中番堀江館跡とも云われます。また、本荘春日神社の東隣の龍雲寺は堀江氏が創建した菩提寺で、山門は立派な鐘楼門でした。
 

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トク

【博多祇園山笠】櫛田神社と太閤町割 (2022/07/13 訪問)

「櫛田神社」は、「平清盛」が日宗貿易の拠点とした博多の街に、佐賀の神埼にある「櫛田宮」の分社として誘致したのが始まりで、「豊臣秀吉」が1587年九州征伐後、豊後大友氏と薩摩島津氏との戦いで荒廃した博多の街を「黒田官兵衛」に命じて復興(太閤町割)した時に、現在の場所に社殿が建てられたそうです。そしてこの時の「町割」の単位が現在の「流れ」という単位になりました(当時の太閤町割図(流れ)と現在の山笠コースとを合わせてみた図⑩を作ってみましたので参考として下さい)。

鎌倉時代の1241年3代執権「北条泰時」(現在の大河ドラマ「北条義時」の子(金剛))の時に、宋の商人「謝国明」が九州探題「少弐資頼」の許しを得て、櫛田神社の近くに「承天寺」(写真⑥⑦)を建立し日宋貿易の橋渡しを行っていました。(そういえば確か昔の2001年の大河ドラマ8代執権「北条時宗」の中で、元寇の直前ですが、この承天寺の前が外国の商人たちで賑わっていたシーンがあったのをふと思い出しました)。 「博多祇園山笠」は、その承天寺の住職「聖一国師」が博多に疫病が流行した時、台に乗り町民に棒で担がせ水をまきながら、町中に疫病退散を祈祷して回ったのが発祥とされています。

それから江戸時代に入り、今度は京都の祇園祭りのように、台に飾りをつけ飾山の優美さを競うようにして回るように変わっていったそうですが、1687年に「土居流れ」が東長寺(写真⑧⑨)で休憩中に「恵比寿流れ」に追い越されるという事件が起こり、この時のカッとなった両者の抜きつ抜かれつのマッチレースが民衆に大受けしたことから、現在のように各流れがスピードとタイムを競う「追い山」に変わったそうです。

今年はコロナで中止になっていた博多祇園山笠が3年ぶりに復活されました。櫛田神社をスタートし、承天寺の千年門を折り返して、東長寺の前を通り、奈良屋町をゴールとする全長5kmのコースで行われています。12日に「追い山ならし」があり、私は13日の「集団山見せ」を見に行ってきました(写真①②③)。「オイサ!」「オイサ!」の掛け声とともに、ふんどし姿の男たちが担ぐ勇壮な山が博多の街を駆け抜け、見物人もとても多かったです。いよいよ15日早朝の本番「追い山」に向け、博多の街はいま1年で最も熱く盛り上がっています😊!
 

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