恵解山古墳(いげのやまこふん・城びと未登録)は古墳中期に築かれた乙訓地域最大の前方後円墳で、山崎の戦いにおいて明智光秀が本陣として改修したとされ、発掘調査により西側の数か所で堀が検出し、西側くびれ部分からは火縄銃の銃弾が出土していますが、戦国後期に勝龍寺城に籠った松永久秀方を三好三人衆方が攻囲した際のものなどとも考えられるようです。
恵解山古墳の後円部は墓地となっていて墓参者以外の立ち入りが制限されていますが、前方部と周濠は公園として綺麗に整備され、前方部には葺石が、墳丘平坦面や西造り出しには埴輪列が復元されています。陣城としての遺構は(地表面には)見られませんが、三段の墳丘を周濠で囲んだ地域最大の古墳は陣城として好適地でしょうし、墳丘頂部には山崎の戦いの陣が置かれた可能性について記載された説明板が建てられています。
なお、恵解山古墳から南に徒歩8分、サントリー京都ビール工場南東隣の境野一号墳も光秀の本陣とされ、石碑と説明板が建てられています。恵解山古墳のようにわかりやすく整備はされていませんが、説明板によれば境野一号墳も古墳前期の前方後円墳で、発掘調査では堀と火縄銃の銃弾が発見されており、地形的にも本陣にうってつけの地と考えられるとのことで、どちらが光秀の本陣かはともかくも、いずれも山崎の戦いで陣城として活用されたものと思われます。
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