ふくつかじょう

福束城

岐阜県安八郡


旧国名 : 美濃

投稿する
福満寺
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

ぴーかる

福束城 (2023/05/03 訪問)

【福束城】
<駐車場他>駐車場はなし。白髭神社前駐車できそうです。
<交通手段>車

<感想>日帰り木曾三川ちょこ城南下の旅3城目。福束城は1414年に土岐氏の家臣福束蔵人十郎益行が築城しました。その後は丸毛氏が城主となり戦国時代まで続きます。豊臣秀吉時代の城主丸毛兼利2万石を領していましたが、関ヶ原合戦の時に西軍に付いたために東軍に攻められ丸毛軍は敗走し城は打ち捨てられたようです。戦後丸毛兼利は前田利常に2千石で仕えます。
 現在遺構は消滅していて揖斐川の流れが変わってしまって城跡の場所も定かではないようです。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)10日目:福束城 (2023/04/27 訪問)

曽根城からの転戦です。福満寺入口前(35.298612、136.623624)に路駐しました。

築城年代は定かではないようですが、1600年(慶長5年)関ヶ原合戦の頃は20,000石を領した丸毛兼利の居城だったそうです。
兼利は西軍に味方したため、東軍に属した松の木城主徳永寿昌や今尾城主市橋長勝らに攻められ福束城は落城し兼利は大垣城へ逃れました。戦後は前田利常に仕えたそうです。

福束城は福満寺の北側一帯に築かれていたそうですが、現在は河川改修によって遺構は消滅しているようです。
福満寺の境内に福束城の説明板が設置されています。
攻城時間は5分くらいでした。次の攻城先=津屋城に向かいます。

+ 続きを読む

イオ

丸毛兼利推し (2023/02/04 訪問)

室町中期に土岐氏家臣の福束益行が築き、その後は丸毛氏代々の居城となりましたが、関ケ原の戦いでは丸毛兼利が西軍についたことで松ノ木城の徳永寿昌や今尾城の市橋長勝ら東軍の攻撃を受け(福束城の戦い)、大垣城に逃れ、戦後に廃城となりました。

揖斐川に複数の支流(水門川、牧田川、相川)が合流する舟運の要衝に築かれた平城でしたが、木曽三川分流工事により遺構は消滅しており、福束城に隣接していたとされる福満寺(分流工事により現在地に移転)に「丸毛兼利と関ケ原の戦い」の説明板が立てられているくらいです。また、福満寺から東に約3.7kmには、福束城の戦いでの両軍の死者を埋葬した北塚(と説明板)があります。

…と、見るべきものは限られているものの、輪之内町では大いに福束城と丸毛兼利推しで、町立図書館内の歴史資料館には福束城のコーナーが設けられ、パネルやジオラマ、福満寺に伝わる福束城跡が描かれた版木(複製)が展示されています。さらには丸毛兼利を主人公とするアニメ「丸毛戦記」制作に、先日開催された第3回丸毛サミットも盛況だったようで、かなりの力の入れようです。かく言う私も、丸毛サミットにあわせて輪中の城めぐりをするつもりだったのが、当日に別用が入ったためにわざわざ半月繰り上げて訪れるなど、輪之内町にうまく乗せられている気もします(笑)
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

まーやん

福束輪中の城 (2023/02/19 訪問)

この日は午後から輪之内町の施設で第三回丸毛(兼利)サミットというイベントがあり、午前中に諸々輪中の史跡を回った。もちろん、丸毛兼利なんて武将は知らなかった。
最後に福束城跡を回ったが現在はほぼ遺構がなく、跡地の一部に浄土真宗東本願寺派の寺院が建っている。
これまで2日間に渡り見てきた城跡は関ヶ原の戦いに関わる場所ばかり。福束城は兵糧の運び入れに利があり東西両陣営から誘いを受けたが西側に付き、夜襲で挟撃されたと勘違いした丸毛が大垣城に撤退、あっけなく落城したと説明があった。大垣城が膠着した状態で残ったことから関ヶ原の戦況に諸々影響を及ぼしていく、と理解した。大河ドラマでやるかなー?

+ 続きを読む

城郭情報

分類・構造 平城
築城主 福束益行
築城年 応永21年(1414)
主な城主 福束氏(土岐氏家臣)、丸毛氏
廃城年 慶長5年(1600)
遺構 消滅
指定文化財 町史跡(福束城跡)
再建造物 説明板
住所 岐阜県安八郡輪之内町福束
問い合わせ先 輪之内町産業課地域の魅力発信室
問い合わせ先電話番号 0584-69-3111