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ryu

古代山城基肄城探訪と丸幸ラーメン (2022/05/28 訪問)

JR基山駅から10分ちょっと歩いて続100名城スタンプが置いてある基山町民会館着。ここでスタンプを押して、さらに登山口の水門跡まではダラダラ登りのロード歩きで30分くらい。
水門跡を見学し、階段状に整備された急な登山道を山頂まで登る。山頂から戦国時代の山城に付随する4本の連続する堀切「いものがんぎ」~北峰~東北門跡~つつみ跡~米倉礎石群と基肄城の遺構を見ながら時計回りに周回し、水門跡に戻る。
帰りは、丸幸ラーメンセンターに立ち寄ってラーメンを食べ、JRけやき台駅まで歩く。

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脇坂氏の城 (2022/06/02 訪問)

本丸御殿、城門、模擬櫓などが 再建されています。市内の寺に移築門があるとのことでしたが、今回は行っていません。

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零汰

終活2:100城・続100、城郭巡りの記録:近畿・東海・四国 6日目

城郭巡りの人間は、100城・続100城を巡る事は義務なのか?そんな疑問を求めて巡る終活シリーズ2。

この日は朝から曇天、今にも振り出しそうだった。本来はパールラインを走りたかったが致し方無い、本日も終日城郭巡り。北畠氏館の裏側に霧山城があるとは知らなかった、時間を短縮出来たので100城・続100城の縛りを中断して登城。自分の好みの城郭だった、登城してよかった。

5月21日(6日目)
1.津城(三重)・・・・・・・計測無し
2.松坂城(三重)・・・・・・45分:1.5km
3.田丸城(三重)・・・・・・1時間:1.6km:累計高低差112m
4.北畠氏館・霧山城(三重)・2時間10分:3.1km:累計高低差327m
5.赤木城(三重)・・・・・・40分:0.7km:累計高低差73m
6.新宮城(和歌山)・・・・・30分:0.8km:累計高低差66m

霧山城以外は100城・続100城です。詳細は諸先輩方のレポートをご覧ください。

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刑部

ずっと来たかった城址 (2022/05/01 訪問)

私の好きな戦国武将の1人、立花宗茂の居城。1度は訪れようと思っていた城址です!予想通り遺構は余り残されていませんがここに来たということだけで胸がときめいてしまいます。知らずに微笑んだ顔して城址をウロウロ、もうここにいるだけで充分満喫してしまいました。

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トク

明智光秀「最期の30日」を辿る 【第5回】勝龍寺城  (2022/05/08 訪問)

(第4回「本能寺」からの続きです)

天正10年(1582年)6月2日、本能寺で信長を討った光秀は、同日いったん坂本城に入り瀬田唐橋の修理を待つ2日間に近江を平定、そして5日に安土城に入ります。7日には朝廷よりの勅使(吉田兼見)を迎え京の治安維持を要請されます。9日には京に入り朝廷と面会(返礼として銀500枚を渡す)。しかし翌10日には秀吉が毛利と和睦してこちらに向かって来ている(中国大返し)すでに尼崎付近まで到達しているとういう報が受け、その予想外の早さに戸惑いますが、山崎の地で秀吉を迎え討つ事に決めた光秀は6月12日に京を立ち勝龍寺城へ入りました。

勝龍寺城は、以前は細川藤孝が城主の時に信長の命で軍事的に改修された城で、藤孝の嫡男「忠興」と光秀の三女「玉(珠)」(後のガラシャ)が婚礼を上げた場所としても有名です。そして二人は丹後宮津へ移るまでの2年の間、仲良くここで新婚生活を送りました😊。城内には二人の銅像も立っていました(写真⑤⑥)。細川の旗(藤色に九曜紋)と明智の旗(青に桔梗紋)を背景に無数の鉄砲狭間が並ぶ光景は、何か身が引き締まるような緊張感を誘う城ですね(写真③④)。

信長の遺体が見つかっていない事を逆手にとり、大坂で織田信孝と合流した秀吉は「まだ信長様は生きておられる」とデマを流し「信孝様とともに謀反者光秀を討つべし」と味方を募ります。これを信じた光秀与力の諸将(高山右近、中川清秀、池田恒興、(筒井順慶))が寝返り秀吉につくという誤算が起きてしまいます(順慶は動かず籠城)。また、北陸の柴田勝家のもしもの南下に備え、明智秀満の軍勢を安土に残さざるを得ないなどの状況も重なります。さらに最大の誤算は、最も頼りとしていた細川藤孝が剃髪して幽斎と名乗って仏門に入ってしまい、忠興とともに丹後から一歩も動かなかった事です(玉は幽閉される)。もう秀吉軍はすぐそこまで迫ってきています。光秀はこれらの報告をこの勝龍寺城で聞き、圧倒的な兵力差となってしまった事を悟り、もはや最期の戦になるかもしれぬ覚悟を決めざるを得なくなってしまいました。


私は勝龍寺城の天主があった場所に上がり、秀吉がやってくる天王山の方向を、眺めてみました(写真⑦)。 光秀はどんな思いでここにあった天主に立ち、同じようにここから天王山を眺め、明日には始まるであろう秀吉との戦(いくさ)に、どのようにして臨む決意を抱いていたのでしょうか?

(第6回「山崎の戦い」へ続きます)
 

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イオ

惣構めぐり (2022/05/21 訪問)

(続き)

城内を出て南に進み、外堀に設けられていた古世門跡(説明板あり)で東に折れると、かつての外堀沿いに古世親水公園が設けられ、外堀の痕跡を今に伝えています。さらに東に進んで亀山城惣構東端の京口へ。昌寿院(古世城跡)の裏手で年谷川から西に惣堀(の名残の水路)が分岐しているので、惣堀跡をたどってみました。

分岐からしばらくは住宅地が続きますが、坂部公園の奥に惣構の御土居がありベンチが設けられています。御土居の奥は惣堀です。坂部公園の西の聖隣寺には亀山城主・羽柴秀勝(織田信長の四男)が建てた信長の供養塔があるようですが、通常は非公開です。聖隣寺の西側から裏手に回ると惣堀に架かる小さな橋があり、橋の南詰に惣堀の説明板が建てられています。

聖隣寺の西の宗堅寺から嶺樹院にかけての墓地の奥に惣構の御土居が大規模に遺っています。高さも厚みもかなりのもので、おそらく往時の姿に一番近いんじゃないでしょうか。嶺樹院の御土居と惣堀は、西側に回ってスーパーマツモト裏手の駐車場からが見やすいと思います。また、スーパーマツモト西側の駐車場の奥にもブロック塀越しに御土居が見られます。

京町天満宮の児童公園の奥にも御土居が遺っています。正誓寺付近の惣堀に架かる小さな橋にも惣堀の説明板が建てられています。正誓寺西隣の宗福寺の裏手にはL字に折れのある御土居がある…はずですが、正誓寺方向から眺めただけで折れの箇所は見られませんでした
(グーグルマップの航空写真ではL字状の御土居がはっきりとわかります)。

下矢田交差点のあたりで惣堀は北に折れ、住宅地を抜けて穴太口からさらに北に続いています。穴太口の内側では秋葉神社の裏手に惣構の御土居が遺っていました。

…と、この辺で惣構をほぼひとめぐり。惣堀は埋められて名残の水路がある程度ですが、御土居はあちこちにしっかりと遺っていて、なかなか見応えがありました(続く)。
 

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おっちゃん

大胡城想像図 (2017/02/18 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

大垣城絵図・大垣城本丸城郭図 (2014/03/29 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

太尾山城跡概要図 (2017/12/29 訪問)

現地案内板より抜粋。

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朝田 辰兵衛

ヒロシマ・モナムール (2019/11/24 訪問)

G7サミット広島開催決定,おめでとうございます。人類の生存をおびやかしている世界情勢に憂いており,いち早く平和の連帯の強化を祈る昨今です。何かしら,平和宣言的なものが発せられることを願います。

BGMは…「ヒロシマ・モナムール/アルカトラス」でした。

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にのまる

山口城址通り (2022/05/04 訪問)

西武狭山線・下山口駅近くの衣料品店サンキ横に土塁が保存・展示されていました。交差点の一隅、線路や道路、建物が迫るなかで踏ん張る小さな土塁、健気です。
城の推定範囲はかなり広かったようで、山口小へ向かう上り坂は柳瀬川を背にした平山城の記憶を留めているようです。説明板の写真や図がたいへん頼りになりました。
サンキの斜向かいのマクドナルドも城域で、店舗建設時の発掘調査で堀跡や井戸跡の遺構確認、また遺物の発見があったそうです。入口に説明板がありました。
近くにある山口民俗資料館は開館日がひと月のうち4日間で、この日は開いておらず見学は叶いませんでした。
最後の写真、大きなコインランドリーの看板の下にすっぽり収まっている説明板と城址碑もまた、健気です。

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刑部

素敵な城址 (2022/05/03 訪問)

ここの城址は私の中では無知でした、豊臣秀吉の親戚関係にある木下家の城。細川忠興の義兄弟でもあるそうです。石垣は私の好きな野面積みで見事です、天守台から別府湾が一望できます。こんな城址の近くに住んでいたら毎日散歩来る事間違いなし!
案内所では食事や売店などがあり休憩出来ます。

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カズサン

安倍貞任築城伝承のある浮牛城 (2022/05/28 訪問)

 長年探し求めていた陸奥不動堂城がぎりょうさん投稿の鶴頭城が不動堂城であり西館とも呼称されてる事を知り、昨年より今春の城廻りに岩手宮城を当て込んで居ましたが、武漢コロナウイルス新株7波の広がり、連休初めと当て込んで居ましたがカーナビの内臓電池の膨らみ故障で断念、カーナビが入手出来ましたので早速先週末から3泊4日で、浮牛城、不動堂城、桑折城、大衡城、大窪城を目指して高速道北上約800km程、前沢SAで車中泊し北上釣子ICを降り浮牛城を目指し初登城しました。
 登城触発はぎりょうさん投稿に由ります、車は古城盛衰記さん情報の駐車エリヤを利用、登城探訪は余湖図コレクションさんの情報縄張図による。
 
 駐車したエリアが大手門跡桝形の内部でした、そこから丘陵が控え、切岸、本丸が殿と構え一気に胸キュンです、本丸、広い帯曲輪の下が二の丸跡本丸を南、東、北が囲ってる、畑、あぐり夢くちないの施設に成って居る、本丸、帯曲輪は公園と成って居る、しかし夏草が茂り踏み込むには躊躇する、遊歩道らしき所は草刈りされて居り、梵字池、浮牛城解説板、石碑、標柱は望遠を使い撮影、搦手道も草刈りされて居て北側の帯曲輪に降りる、帯曲輪の北が北からの山稜を堀込んだ空堀跡草木が茂り良く分からいが凹みが有りうすうす分かる、北側二の丸が公園広場、あぐり夢くちない施設に繋がっている、駐車可能の様子。
 戻って口内川の橋が大橋跡の標柱、南から東に水堀が残っているが葦類で茂っている、土曜日日曜日晴れの予想で高速を飛ばして訪ねたのですが40分探訪した頃にわか雨で撤収。
 帰りに気が付きましたが入り込む角の在る口内郵便局の南前に六区?公民館が有り駐車可能かも?

 800km程飛ばしてきた甲斐が有りました、本丸切岸、広い帯曲輪切岸が素晴らしい残りです、安倍貞任の伝承にも興奮ものです、大堀切空堀は草木ではっきりとは確認出来ませんが秋枯れの年末か春先の草が茂る前が見応えの在る時期かと思います。
 夏草と安倍貞任で芭蕉の句「夏草や 兵どもが 夢の跡」を安倍貞任にも捧げても良いのではと思ってしまう。

 歴史的な面は「ぎりょうさん」の投稿を見て頂ければ深い知識で十分に書き込まれています。
 ぎりょうさん有難うございました、今後も期待して拝見させて頂きます。

 この後宮城県不動堂城(鶴頭城・西館・鶴館)を目指し約100km程南下します。

 

 

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零汰

終活2:100城・続100、城郭巡りの記録:近畿・東海・四国 5日目

城郭巡りの人間は、100城・続100城を巡る事は義務なのか?そんな疑問を求めて巡る終活シリーズ2。

予習をしないで城郭巡りをしているので遺構を見ても理解出来ない時が稀にある、そんな時は大半謎のままにしておく。なぜなら時間が経つと似たような遺構に遭遇して以前の謎が解決する、とても不思議だ。

馬出しは九州では見た事が無い、書籍など見てもどうもしっくりとこない。終活1で新府城と名胡桃城で馬出しを見た、やっぱりピンと来ない。諏訪原城で馬出しを見た、スッキリした。また謎をひとつ現地で解決。

5月20日 5日目
1.駿府城(静岡)・・・・計測忘れ
2.諏訪原城(静岡)・・・1時間10分:2km:累計高低差140m
3.掛川城(静岡)・・・・40分:1km
4.高天神城(静岡)・・・1時間15分:2km:累計高低差167m
5.浜松城(静岡)・・・・計測忘れ
豊橋市~静岡市~鈴鹿市:走行距離389km

5城共に100城・続100城です。詳細は諸先輩方のレポートをご覧ください。

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ぴーかる

来島城 (2022/05/03 訪問)

【来島城】
<駐車場他>波止浜港<34.109867, 132.968899>無料駐車場あり。
<交通手段>車→就航船

<見所>曲輪・石垣・岩礁ピット
<感想>日帰り伊予海賊海城攻めの旅3城目。来島城の築城は城びと情報では1419年、村上義顕の三男吉房が来島に分家した際に築いたものである。以降来島氏・久留島氏を名乗る。秀吉の中国攻めの際には来島氏は因島氏と共に河野氏を裏切り信長方についたため、毛利氏、河野氏や能島氏による攻撃を受け、来島通総は羽柴秀吉の下に逃走した。本能寺の変後四国征伐に来島通総が先鋒として伊予を攻め、通総は秀吉から伊予風早郡1万4千石を与えられた。関ヶ原では来島氏は西軍についたため所領を没収され廃城となった。
 波止浜観光休憩所に券売機がありますので往復チケット320円購入し乗船時間約5分で到着します。14:00の便に乗り、戻りの便が14:35、これを逃すと16:15まで無いので滞在30分程の超強行軍の城攻めとなった。時間によって戻りの便がまちまちなので滞在時間を考慮して渡船したほうがいいと思います。城跡は随所に石垣が見られるので土止めの為だろうと思われる。能島城では近くまでは行けないが、岩礁ピットも海岸岩場に無数にあり、また触ることができ満足できた。

<満足度>◆◆◇

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トク

明智光秀「最期の30日」を辿る 【第4回】本能寺  (2022/05/08 訪問)

(第3回「丹波亀山城」からの続きです)

天正10年(1582年)6月1日午後5時、亀山城を出立した13,000の軍勢は、翌朝2日午前4時に本能寺へ到着し本能寺を取り囲みます。そして、明智秀満の隊を先頭に突入! 信長も最初は家臣の喧嘩か? いやまさか子の信忠の謀反か? と思ったそうですが、森蘭丸の「青に桔梗の旗印は明智の軍勢」の言葉に「是非に及ばず」と答えた話は有名です。信長は弓や槍で応戦しますが、傷を負ったため「もはやこれまで」と殿中奥に入り「敦盛」を舞った後に火をかけ自害します。午前8時頃に戦闘は終わりますが、この時、信長の遺体が見つからなかった事が、後の山崎の戦いに大きな影響を及ぼします。

当時の本能寺のあった場所には、今はひっそりと石碑が立ちここに本能寺があった事を伝えるのみで、大部分が老人介護施設になっていました(写真①②③)。こんな歴史的な場所が😩・・・もうちょっと何とかならぬものかと残念な光景で複雑な気持ちになりました。この後、秀吉が建てたという場所にある現在の本能寺にも行ってみました(写真⑤)。境内には織田信孝が建てたという信長の墓もありました(写真⑥⑦)。


本能寺があった場所のすぐ西側、おそらくここに光秀が立っていたであろうと思われる場所に私も同じく立ってみました(写真④)。謀反を起こし主君を討ってしまった光秀は、どんな思いで燃え落ちていく本能寺をここから見つめていたのでしょうか? そして見つからぬ信長の遺体をどんな思いでここに立ち待ち続けていたのでしょうか?

(第5回「勝龍寺城」へ続きます)
 

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イオ

丹波支配の拠点 (2022/05/21 訪問)

明智光秀が丹波攻略の拠点として築いた城で、本能寺の変にも亀山城から出陣しています。光秀が羽柴秀吉に敗死した後は、羽柴秀勝(織田信長の四男)、豊臣秀勝(於江の夫)、羽柴秀俊(小早川秀秋)ら秀吉一門や五奉行の前田玄以が城主となりましたが、江戸初期に徳川譜代の岡部長盛が入封すると藤堂高虎の縄張により天下普請で大改修し、今治城からの移築とされる五重五階の層塔型天守が建てられました。その後、城主は目まぐるしく入れ替わりましたが、江戸中期に形原松平氏が入封し、明治まで八代続きました。明治に廃城となったまま荒れ果てていた亀山城を新宗教の大本が買い取り、戦前に政府から弾圧を受けながらも神域として整備して現在に至ります。

みろく会館で受付をして登城開始。万祥池はかつての内堀跡で、堀沿いの石垣は復元されたものです。ちょうどカキツバタが綺麗に咲いていました。万祥池の先にも積み直された石垣が続いており、天下普請の刻印や矢穴が残る石垣が見られます(説明板が建てられているあたり)。万祥殿の脇から奥に進むと本丸の入口にあたる一ノ門があり、その先には亀山城の写真でよく目にする本丸の石垣が聳え立っていました。弾圧時に破壊された石垣を復元したものですが、下から3分の1ほどは築城当時のまま遺っているようです。天守台の西には明智光秀の手植えと伝わる大イチョウ(江戸中期に台風で倒れた際に若木を植え直した二代目)が立っていますが、神域のため立入禁止です。石垣を眺めながら奥に進み、本丸に上ってみましたが、天守台周辺も神域のため探索はここまで。引き返す途中、本丸の南部にある石組みの井戸跡を見ようと順路を外れると、本丸南側の内堀はなかなかの深さがありました。

本丸北下の上中島内曲輪は花明山植物園(入場無料)になっていて、北端の外堀(南郷池)の中の島には土塁が遺っているらしいので、ちょっと寄り道を。植物園は日本の野生植物が中心で華やかさには欠けますが、よく整備され様々な種類が植えられています。中の島への橋を渡って少し進むと北辺に土塁が続いているのが見えてきます。土塁はいったん途切れた後、さらに高く分厚くなって西端まで続き、土塁上は遊歩道になっていました。江戸期には中の島西部には焔硝蔵が建てられていたようですが、この土塁なら少々の爆風ではびくともしなさそうです。

さて、城内を後にすると、続いては車に積んできた折りたたみ自転車で城下町めぐりです(続く)。
 

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todo94

県内の城めぐり2022㉕ (2022/05/07 訪問)

此処も9年ぶり2度目の攻城ですが、ともに国史跡に指定された林大城と同じ日に攻城したのは今回が初めてです。初攻城の時は林大城より素晴らしい城に感じたものでしたが、今回はさほどのことはありませんでした。原因は日差しにより石垣の写真が満足に撮れなかったことにありそうです。曇天の攻城がお薦めです。登城口へと誘う案内表示に乏しく、駐車場にも難渋する状況ですが、遺構の破壊を防ぐ目的もあるような気がしています。

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響ちゃん

鹿沼城跡 (2022/05/28 訪問)

駐車場が使えず西側の上都賀庁舎に停めて探索してきたっぽい。

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のぶ

【城と生き物】 (2021/09/24 訪問)

敵を威嚇する姿は城の守り神のよう

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