一辺が250mほどわの方形状の城というよりは城館。ぐるりと石垣でかこまれていたようだが、今は東側が一番よく残っている。敷地内には築山?、物見台のような小山がある。
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2022/07/22 15:46
島津義久が内城を離れ隠居した城 (2022/07/14 訪問)
一辺が250mほどわの方形状の城というよりは城館。ぐるりと石垣でかこまれていたようだが、今は東側が一番よく残っている。敷地内には築山?、物見台のような小山がある。
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2022/07/22 15:32
島津氏が三州制覇の起点とした城 (2022/07/14 訪問)
ということで訪問したが、山上公園と化しておりかろうじて山城の遺構を感じ取る程度だった。
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2022/07/22 14:55
空前絶後 (2022/07/14 訪問)
垂直の切岸で間口の狭い入口に実際に立って見れば圧倒される。
西ノ城、求聞寺城、物見ノ段は入口近くの案内板には記載されているが、現地では立入禁止の表示。まったくもって残念⤵
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2022/07/22 14:29
復興された御楼門を見に (2022/07/14 訪問)
前回は復興城門もない冬枯れの時に訪れた。今回は御楼門もあり堀の蓮も咲いていてまったく異なる印象。それにしても島津氏が歴史に残した存在感からみてやはり小さな城だと今回も感じた。
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2022/07/22 14:11
千四百年の時空を超えた石垣 (2022/07/12 訪問)
神々しさすら感じた。
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2022/07/22 11:46
平成20年淀城景観 (2008/07/19 訪問)
京阪電車を使って大阪出張の空き時間に寄りました、当時京阪淀駅は天守台東側の近くまで張り付き、持参のデジカメでは天守台全体が撮れず部分部分に成って居ます。現在は京阪電車の高架事業で約300m程北東に移動され高架駅と綺麗に整備再開発されて居ますので撮影はし易く成って来たのでしょうか?
現在の淀城跡は南東に天守台、本丸の南面と西面の高石垣が残り、石垣に沿って内濠が西面、南面が残って居ます、本丸の北に接して二の丸が本丸と同じくらいの広さであり公園化されて居ます、二の丸側に輿杼神社(ヨド)、本丸側に稲葉神社稲葉正成(春日局の夫)が祀られて居ます。本丸西枡形門跡は石垣が残り本丸の天守台東北側にも櫓台などの石垣が残って居ます、二の丸北側には低い石垣が残っている、三の丸、東馬出曲輪、西の丸は内堀、外堀共に市街化され残って居ません。
淀城跡は淀姫とは関係ありません、淀姫の淀城は淀古城跡に成ります。
淀城の築城は伏見城の廃城後幕府が総石垣の回式縄張で元和9年(1623年)築く、城主は久松松平氏、永井氏、石川氏、戸田松平氏、大給松平氏と続き、享保8年(1723年)稲葉正知が入り以後12代10万2千石の居城として明治を迎える。
淀城へは前々から訪ねたいと思って居り、ネットのCGでよみがえる日本の城、デジィタル大工制作の淀城復元図を良く眺めて居ましたので何時か何時かが14年前の平成20年7月中旬に叶い登城しました。
天守台穴蔵の公開はしていないようでした、デジタル画、古絵図の天守閣の様に連立式天守閣で二層櫓が四隅に多聞櫓か土塀で繋がってる姿を穴蔵後で想像してみたいものです。
また、公園内に淀城跡公園整備パネルが在り、「公園整備と市民のロマンである天守閣の復元を市民とともに推進します」京都市建設局緑政課、と記載されて居ました。 是非淀城の天守閣及び周辺建物群の復元整備を待ちたいものです。
コンパクトデジカメの性能で広角写真が撮れず部分部分の写真ですが投稿致します。
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2022/07/22 00:15
王舎城図、鹿野城下町鳥観図 (2018/09/02 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/07/22 00:12
丸山城跡発掘調査図 (2018/09/02 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/07/22 00:08
秋葉公園案内図 (2017/03/18 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/07/21 23:24
平成20年天守閣宇土櫓の眺め (2008/05/23 訪問)
平成28年の熊本大震災の前、平成20年5月下旬、熊本城築城400年祭を目途に復元された熊本城を訪ねました、本丸御殿、飯田丸五階櫓、西出丸建物群の復元整備に圧倒され感激しっぱなしでした。この頃フィルムカメラ主体での撮影で予備コンパクトデジカメに天守閣、宇土櫓、復元御殿外観など残ってましたので、熊本震災前の姿を見て頂けたらと投稿致します。
復旧復興作業はまだまだ20~30年の根気のいる整備作業で私が生きてる内には全体を観るのは無理でしょうが、熊本城の復興を祈り願って居ます。
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2022/07/21 22:53
西出丸平成19年順次復元整備成る (2008/05/23 訪問)
14年前の平成20年5月下旬、復元整備された熊本城を訪ねました、その当時まだまだフィルムカメラ主体でしたが予備カメラのコンパクトデジカメの写真データーが残って居ましたので、西出丸復元整備の写真を投稿致します。
西出丸は南大手門の平成14年復元が最初で、戌亥櫓、土塀、元太鼓櫓、西大手門、奉行丸土塀、未申櫓が平成19年までに木造復元され、熊本城築城400年祭に花を添えました。
(尚、平成19年には本丸御殿、平成17年には飯田丸五階櫓も木造復元しています)
平成28年の熊本大震災で被害大きく、戌亥櫓一本石垣の姿、土塀の崩壊など被害甚大で復旧復興は大天守閣小天守閣は復興し登閣出来る様になりましたが、西出丸が復元整備された平成19年の姿に帰るのは20~30年は係るのでしょうか?
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2022/07/21 21:53
礼砲用の台場 (2022/07/03 訪問)
東神奈川駅から徒歩で10分ちょっとで台場公園。
説明板が立っています。
そこから少しのところの民家脇に石垣が一部露出しています。
ここには石碑が立っています。
ここから徒歩15分くらいの星野町公園にも石垣が残っていました。
ここはブラタモリでも紹介されていましたね。
幕末、開国の頃勝海舟が設計した台場です。
結局海外船の礼砲用の台場として使われていました。
ほとんどが地下に埋まっていますが一部でも石垣が見れるのは嬉しいですね。
工事もしていましたが復元されることは無いですかね。
ちょっと期待してしまいます。
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2022/07/21 21:38
木造氏の城 (2022/07/21 訪問)
田園地帯の中に石碑と案内板がありました。
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2022/07/21 21:34
2022/07/21 21:29
愛洲移香斎 (2022/07/21 訪問)
伊勢市駅より三重交通バスに乗り五カ所バス停下車、徒歩約10分で登城口のある愛洲の館へ行くことができます。そこから長い階段を上ると主郭近くへ行くことができますが、自分は川沿いの道を歩いて牛鬼の像、井戸のある所を経由して登城しました。途中、多数の地面に動くものがありびっくりしましたが沢蟹でした。見どころは二重掘りです。写真に撮るとわかりにくのですが、形状を確認することができます。それなりに道は整備されていて歩きやすかったです。石垣も所々ありますが、いつのものかはわかりません。主郭の側面にも石垣の痕跡らしい所がありました。帰りは愛洲氏居館跡を経由して降りてきました。
愛洲移香斎という人をこの城を調べていて初めて知りました。移香斎が起こした愛洲影流は、後に新陰流、柳生新陰流など剣術の源となり、江戸時代には多くの流派が生まれたといわれています。歩いていると「日本剣道のふる里」と書かれた剣士の看板が多く立っています。
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2022/07/21 21:10
竹神社 (2022/07/21 訪問)
近鉄斎宮駅から徒歩5分くらいの場所に竹神社があり、標柱と案内板があります。
斎宮駅の北側には斎宮跡があり、10分の1の模型がありました。
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2022/07/21 19:17
田原坂(熊本県熊本市) (2022/07/11 訪問)
田原坂は言わずと知れた,西南戦争最大の激戦地です。もともと,熊本城主であった加藤清正が,田原坂の両脇に土手を築いて攻撃しやすいように改変し,熊本城防衛の要としていました。
西郷隆盛率いる薩摩軍はこの地形を利用し,17日間にわたり官軍の猛攻を凌ぎ続けましたが,旧式の武器・火薬・砲弾・食料不足により敗北を喫してしまいました…。
雨は降る降る 人馬は濡れる 越すに超されぬ 田原坂
と,熊本の民謡にも歌われております。
私は田原坂を下って登りました。ぶっちゃけ比高差はたいしたことありません。田原坂西南戦争資料館のスタッフに伺うと,当時は赤土の土壌であり,フラットに整備されたものでもない。しかも雨続き…。「じゃあ,なぜ田原坂で西南戦争?」という疑問になりますが,大砲を大人数で運搬できるほどの道幅があったのは田原坂のみという回答でした。
にのまるさん,ありがとうございます!
まだスタンプ帳も手元にあり,送付していません。
書き込みは,ここまできたらマイペースでいこうかと思います。
リクエストがあれば,優先して書き込みしたいと思います。
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2022/07/21 17:38
真夏の唐沢山 (2022/07/02 訪問)
上杉謙信をもってしても落とすことが出来なかった唐沢山城を訪問しました。
今回は、車での訪問となり、登城途中ではかなり狭い処もありましたが、唐沢山神社参拝用兼城内見学用の駐車場は100台程度の駐車が可能と思われるほど広く、祭礼の時期などでなければ問題無いと思われました。(僕は佐野ICから行きましたが駐車場まで30分はかかりませんでした)
登城に望むと、先ずは食違い虎口があり、 四目堀、 大炊の井戸を見ながら、三の丸、二の丸方面へ進みます。
二の丸から本丸に上がる途中に唐沢山神社の社務所があり、そこで御朱印と御城印を入手できます。本丸の周囲には有名な高石垣が巡らされておりますが、これは上杉謙信の攻城の際には築かれておらず、その後に築かれたとのことです。
石垣には加工された石は使われておらず、野面積のように感じました。
現在本丸を巡る一部の石垣は修復作業が行われており、 南側の石垣にはアクセスできない状態となっておりました。
本丸の比高はそれほどではないように思いましたが、何分眼下には平野が広がっているため、天気さえ良ければ随分遠くまで眺望が開けているように思いました。
関東では、笠間城と並んで石垣が用いられた珍しい山城ですが、雰囲気も良く、遺構もキチンと整えられていることから、気軽に近世の山城の雰囲気を楽しむことができるように感じました。
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2022/07/21 15:06
本丸 続き (2022/07/17 訪問)
本丸を囲んだ石垣、これが一番美しいです。本丸の周りを回ると横矢掛けとなっているため不可能。石垣は野面積みにもかかわらず、比較的隙間がないので登りにくいです。おそらくこの石垣の上には土塀が建っていたのではないかと考えています。
赤木城は山が連なっているところにひっそりとある城なので見つけにくいです。
あとここには未来遺産である丸山千枚田があるのでそれも一緒に行くことをおすすめします。
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