ごかしょじょう

五ヶ所城

三重県度会郡

別名 : 五箇所城、愛洲城
旧国名 : 伊勢

投稿する
主郭
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

ぴーかる

アイス氏の城 (2024/06/08 訪問)

【五ヶ所城】
<駐車場他>愛洲の館駐車場
<交通手段>車

<見所>2重横堀・井戸跡
<感想>日帰り伊勢志摩の平山城巡り旅8城目。主郭の説明板と愛洲の館の説明板によると城主の愛洲氏は清和源氏武田氏の流れをくみ、南北朝時代 康永年間(1342~1345年)以前には五ヶ所浦に土着し西方の一之瀬にも城を持っていた。南北朝時代には南朝方として活躍しました。室町時代には伊勢国司北畠氏のもと勢力を伸ばし、宝徳年間(1449~1452年)より前に本拠地を一之瀬城から五ヶ所城に移したようです。この頃一族で剣祖である愛洲移香斎久忠が生まれています。愛洲氏は天正4年(1576年)に織田信雄軍に攻められ滅ぼされ城もこの時廃城となったようです。
 まず愛洲の館にて御城印購入と入館しました。館内は愛洲移香斎の書状や五ヶ所城に関する物はジオラマ・出土品の青磁片・井戸の釣瓶桶底板等が展示されています。愛洲の館の裏から上がる急階段を登り主要部へ行きます。二郭と思われる曲輪は私有地のようで柵がしてあります。主郭手前に2重横堀が廻らされていて堀も深くなかなかの見応えがあります。主郭壁面に石垣跡があるようですが見落とし。次に南に下って居館跡、塔頭(愛洲氏墓地)、東に大きく回って井戸跡、八幡社(当時からあるという)と巡り愛洲の館に戻りました。

<満足度>◆◆◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

愛洲氏の里 (2024/05/04 訪問)

南北朝期に南朝方として活躍した愛洲氏が、北から西を五ヶ所川が流れる断崖上に築いた城で、室町中期には一之瀬城から五ヶ所城に居城を移しましたが、北畠信意(織田信雄)に攻められて愛洲氏は滅亡。五ヶ所城も廃城となりました。

西麓の愛洲の館の駐車場から登城開始。鍛錬の段と銘打った階段から主郭へ向かいましたが、比高30mの断崖を一気に登るため、急であるばかりか一段一段の奥行が狭く、足元に注意しつつ手すりを掴んで昇り降りするのが無難です。鍛錬の段を上り切ったところに主郭に南接する曲輪があり、南の曲輪を東に抜けて南側からの登城道に合流し、北に進むと主郭に至ります。

主郭は東辺から南辺にかけて横堀を二重にめぐらせ、それぞれ南辺は竹藪と化していますが、東辺は竹が刈られて見やすく整備されていました。主郭内には城趾碑と説明板に加えて、愛洲公顕彰碑、剣祖愛洲移香斎生誕之里の石碑が立てられています。主郭の南東辺や北辺には土塁がめぐり、北辺の土塁を越えて下りたところには堀切が北西方向への小尾根を断ち切っています。堀切の東側の主郭切岸には石積も見られました。

主郭に南接する曲輪は農地として改変されていて、西辺に土塁と堀らしきものが見られるくらいです。果樹園の中の登城道を南に下って行くと、西側に愛洲氏館と呼ばれる居館跡が広がっています。北辺から北西辺にかけて土塁をめぐらせ、南側に開口部があり、登城道から開口部へ続く道は堀切跡のようです。石積もあるようですが、草木が茂っていてよくわかりませんでした。愛洲氏館からさらに南に下って突き当りを東へ、そして案内表示に従って民家の間の路地を進むと塔頭と呼ばれる愛洲氏一族の墓所がありました。ひとつひとつは小さいものの20数基の五輪塔が建ち並ぶ様子には、この地に刻まれた愛洲氏の歴史を重みを感じました。そして最後に愛洲の館で五ヶ所城のジオラマや愛洲移香斎に関する展示を見学して…と思っていたんですが、閉館間際だったため断念…。最初に行っておくべきでした。

…ということで、周辺の史跡も含めてひとめぐりしたものの、愛洲の館だけでなく古井戸も見落とすなど、どうも要領の悪いルートでした。主郭だけしか行かないというのでなければ鍛錬の段なんぞ通らずに、愛洲の館(見学) → 塔頭 → 愛洲氏館 → 主郭 → 古井戸 → 愛洲の館とめぐったほうが良かったように思います。ともあれ、二重横堀や堀切などの遺構はなかなか見応えがありました。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

しんちゃん

南北朝の遺跡。小ぶりな城だが居館とセットで訪問。 (2023/03/21 訪問)

五ケ所城はこの地方の豪族、愛洲氏の城です。
愛洲氏は南北朝のころは南朝側として戦いました。
天正4年(1576)この地方に勢力を伸ばしてきた織田信長の次男
織田(北畠)信雄に攻められ愛洲氏は滅亡します。
戦国の悲哀をかんじさせるエピソードですが、
城跡は城跡周辺が愛洲の里公園となっており
主郭の北西に見張り台が突き出ており、周囲を堀で囲みます。
どうやら主郭のまわりには一部石垣のようなものが残っているようです。
南側にはいくつか大小の郭を配し、小規模ながらも城郭としての形態をとどめています。
さらに南側にいくと居館跡があり、南側に今でも一部堀跡が残ります。
さらに南に道沿いに進み、道標に従っていくと塔頭が並んでいる、小高い場所に到達します。
これがまたいっぱいあるんですね。二十数基はあるようです。
いまでも地元の方が初盆に霊の供養に先立ち念仏をされているようです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

伊勢未踏の城廻Ⅴ 本丸二重横堀が見所 (2023/03/19 訪問)

 一之瀬城東の城西の城を終えてナビで五ヶ所城を目指すが近いからと県道721号線を選び大変な思いをしてしまう、狭く曲がりくねって離合不可の峠道、轍は有るので通行はしてる様子、対向車が来たらどうしようとの不安の約6㎞、国道260号線に出てほっとし全行程約20㎞で五ヶ所城へ、愛洲の館駐車場に到着。

 駐車場:愛洲の館の駐車場を利用(34°21'18"N 136°42'07"E) 愛洲館の南側で広い駐車場

 登城ルート:東に鍛錬の段、高くて急な石段を登る、これがきつい、登ると公園で緊急の津波の避難場所に成っている、愛洲剣士の案内板で北に本丸へ、竹林、樹木で鬱蒼としてる、本丸は二段の横堀が囲み見所?、深くて広い、本丸には案内板と五ヶ所城址の石碑、愛洲公顕彰碑が立ている、本丸から周囲の横堀を眺める。
 降りて愛洲氏居館跡を訪ねる、愛洲氏の墓所である塔頭を訪ねるが不案内でたどり着けず、元に戻って鍛錬の段の急な石段から駐車場へ、愛洲の館によって資料を頂く。
 こじんまりとして本丸を二重に横堀が取り囲んでる所が見所でしょうか、堪能しました。

 歴史は一之瀬城でも書きました愛洲氏の居城、愛洲氏は南朝方として活躍、後に北畠氏の配下として長くこの地で勢力を振るった、戦国期織田信長の伊勢侵攻で北畠氏、愛洲氏も滅んだ。
 また愛洲氏の中から愛洲移香齋久忠が誕生して、各地で修業し九州鵜戸の岩屋に籠り剣の奥義を悟って、愛洲影流を開き天下に広めた、影流は上泉伊勢守信綱に新陰流として継承され、柳生石舟斎の柳生新陰流はじめ二百余りの流派が誕生したと伝わる。
 影流の開祖である愛洲移香齋は剣術の始祖、「剣祖」として剣術家の尊敬を集めている。(案内板より)
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 愛洲氏
築城年 興国年間〔南朝〕/康永年間〔北朝〕(1342〜1345)
主な城主 愛洲氏
廃城年 天正4年(1576)
遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(空堀)
指定文化財 県史跡(五ヶ所城 附 愛州氏居館跡及墳墓)
再建造物 石碑、説明板
住所 三重県度会郡南伊勢町五ヶ所浦字城山
問い合わせ先 三重県教育委員会事務局社会教育・文化財保護課
問い合わせ先電話番号 059-224-2999