みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

カズサン

台風15号被災は?心配で登城も問題無し。「石垣編」 (2022/09/28 訪問)

 台風15号の線状降水帯が6時間も掛かり台風豪雨水害被害では、二俣城の在る二俣町二俣川嘯月橋崩落、旧天竜市役所現天竜区役所裏の土砂崩れが報じられていましたので、二俣城の現状はどのように成ってるのかと心配で出掛けてみました。
 搦手側の駐車場に駐めて、搦手登城路問題無し、大堀切、同高土塁問題無し、本丸北門食違い虎口問題無し、北の丸問題無し、本丸問題無し、天守台も健在問題無し、本丸中仕切り門跡問題無し、二の丸内部問題無し、大手門跡も問題無し、南の丸Ⅰも問題無し、南の丸Ⅱと西の丸は昇り降りの高低差が有りパス、本丸東石垣塁も問題無し、大手登城路問題無し赤い彼岸花が咲き綺麗です。
 中枢部は豪雨被害無く安心しました、私より前に二組のご夫妻が探訪されており閑散とした城址で無くてまた安心。
 
 安心の言葉だけではいけませんので、先に「石垣編」として写真投稿します、後編で「土塁・堀編」の土の城部分を投稿します。
 ご安心してご登城下さい。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

侍ホリタン

伊予国守護、河野氏の居城を訪ねて (2022/09/23 訪問)

道後温泉近く道後公園内にあります。駐車場は公園北口(道後温泉近く)、公園西口(湯築城資料館近く)の有料駐車場が便利です。100名城スタンプ、御城印は湯築城資料館内にあります。湯築城資料館では数名のスタッフの方が親切丁寧にお城の説明をして下さるので、ここで説明を受けてから見学するのがおすすめのです。ここは元々石垣、天守は存在していませんでしたが、広大な敷地内には土塁、内堀、再建された武家屋敷等が点在しており見所多数、特に土塁展示室は迫力ありました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

土岐氏の城 (2022/09/29 訪問)

 源頼朝に仕えた土岐氏の祖、美濃守護土岐光衡によって築かれたとされていますが、諸説あるようです。戦国時代には武田と争っていた織田信長、信忠親子も立ち寄ったといわれています。千畳敷と呼ばれる主郭を中心に南東にのびる2つの尾根に東出丸、西出丸を設けて、その姿から鶴ヶ城といわれていました。ただ両出丸は昭和48年の中央自動車道の工事で多く削られてしまったとのことです。土塁や井戸が残っています。圧巻は主郭背後の大堀切で、西出丸から行くことができます。「久太郎の戦国城めぐり」さんのHPでは、縄張り図に別の尾根にもうひとつ堀切があることが描かれていました。崖っぷちに踏み跡のような道はありましたが、少し怖かったので行っていません。主郭から見えるかもと、見下ろすと尾根はわかりましたが堀切はわかりませんでした。
登城路は整備され歩きやすく登城口から主郭まで10分くらいでしょうか。
 この城の背後には天神山城、裏天神山城があるということは、ここに来て初めて知りました。機会があれば行ってみたいと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

侍ホリタン

木造復元天守の名城を訪ねて (2022/09/23 訪問)

車利用の場合、観光第一駐車場が便利です。無料で24時間開放されています。ここから天守まで徒歩10分弱です。4棟の櫓と下台所は現存のものになります。4つの櫓のうち三の丸南隅櫓、苧綿櫓(おわたやぐら)は天守と少し離れた場所にあります。天守内部は木造で美しく清潔感あふれるものでした。天守から高欄櫓の1階、2階を見学する事ができます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

モト

西方城の山嶺部 (2022/09/25 訪問)

栃木市にある西方城の山嶺部にある城びと未登録の城跡です。
西方城とセットで考えられている節もあるようです。
陣屋として使用されていたとの事で空堀や土塁に囲まれた本郭には石積が見れました。

西方シンポジウムに参加前に西方城と合わせて登城しましたが、詳細を知って歴史的にもなかなか面白い城跡であると確認いたしました。
藤田能登守信吉によって築かれた城。
元々は上杉景勝に仕えていた武将で関ヶ原後に親交のあった徳川家に仕えて西方領をもらったとの事。
徳川家へ行く時は直江兼続に相当追い討ちをかけられて数名の残りになりながら命懸けの逃避行をしたとか。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ダイエティシャン

八王子城ダイジェスト (2022/08/30 訪問)

22年度前半戦の総仕上げに
都内の八王子城へ。江戸城も検討しましたが、コロナ軍の攻撃がまだ収まらないので、諦めました。

22年後半戦は、近場になりそうです(前半戦で、予算を使ってしまった為と、仔猫の子育て【⑩枚目】の為)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

高野山奥之院(中の橋~弘法大師御廟) (2022/08/27 訪問)

(続き)

中の橋を渡ってすぐ左手の汗かき地蔵の隣にある姿見の井戸には、井戸を覗き込んで自分の姿が映らなければ三年以内に亡くなるという言い伝えがありますが……とりあえず三年は大丈夫のようでした。覚鑁坂を上って行くと右手奥に密厳堂があり、高野山から移って根来寺の開山となった覚鑁上人が祀られています。だから覚鑁坂なんですね。

覚鑁坂の先も参道沿いには多くの大名家の墓所が建ち並んでいますが、少し変わったところでは、高麗陣敵味方戦死者供養碑があります。島津義弘・忠恒父子が文禄・慶長の役での戦死者を敵味方を問わず供養するために建てたもので、まさに高野山に相応しい墓所です。

中の橋駐車場への分岐を過ぎたあたりで左手の脇道を上って行くと、崇源院(浅井三姉妹の江)の墓所があります。崇源院から寵愛されていた駿河大納言忠長が母の供養のために建立したもので、奥之院で最大の五輪塔のため一番石と呼ばれています。その隣は本多家(播磨姫路)の墓所で、崇源院と本多家の間には崇源院の娘であり本多忠刻の正室となった天樹院(千姫)の供養塔が建てられています。

参道に戻って少し行くと、加賀前田家二代利長の墓所があり、巨大な五輪塔は三番石と呼ばれています。さすがは加賀百万石ですね。参道の向かい側には利長夫人の墓所もあり、調べてみると正室の玉泉院(永姫)は織田信長の娘で、二人の間に子はなかったものの、夫婦仲は良好だったようで、400年を経た今も向かい合って並ぶ二つの墓所に何やら微笑ましい気持ちになりました。

さらに進んだ先の安芸浅野家墓所の五輪塔は二番石。42万石超の大藩というだけでなく、紀州徳川家の前の紀州藩主だった関係もあるでしょうか。浅野家墓所の裏手には尾張徳川家の墓所がありましたが、水戸徳川家の墓所はありません(または見つけられません)でした。また、浅野家墓所の斜め向かいには松平秀康及び同母霊屋があり、上杉謙信や井伊掃部頭の霊屋は木造でしたが、この霊屋は石造になっています。

松平秀康石廟の先で参道は左右に分岐します(御廟橋の手前で合流)。左側へ進み脇道を上って行くと豊臣家墓所に至り、秀吉をはじめ、大政所、秀長ら一族の五輪塔が建ち並んでいますが、敷地は広いものの五輪塔の大きさはそれほどでもありません。御廟橋の手前で左側の脇道に入ったところには織田信長の墓所がある……にはあるんですが、正直拍子抜けする大きさの五輪塔で、何故か筒井順慶と隣り合っています。考えてみれば、本能寺の変がなければ高野山を焼き払っていたであろう信長であっても、分け隔てなく供養されているのは凄いことなのかもしれません。また、分岐の右側参道沿いには浅野内匠頭と四十七士の墓所や、秀吉との交渉で高野山攻めを防ぎ、その後の興隆に努めた興山応其上人廟などがあります。

その他、中の橋から御廟橋までの間では、岡部家(泉州岸和田)、加藤家(伊予大洲)、里見家(羽州最上)、鳥居家(信州高遠)、小出家(丹波園部)、真田家(信州)、最上義光(羽州山形)、中川家(豊後岡)、浅野家(安芸)、根来家(泉州熊取)、毛利家(長州)、阿部対馬守、土井家(下総古河)、石川家(伊勢亀山)、戸沢家(羽州新庄)、水野家(備後福山)、堀家(越後村上)、亀田大隅守、松平(久松)家(伊予松山)、本多家(三河岡崎)、黒田家(筑前)、南部家(奥州)、松平忠政(美濃加納)、向井家(相模三浦)、稲葉家(豊後臼杵)、酒井家(羽前庄内)、松平家(肥前島原)、青山幸成(摂津尼崎)、脇坂家(播磨龍野)、西尾家(安房)、松平家(下総佐倉)、松平家(丹波篠山)などの墓所を確認しています。

御廟橋の先にも春日局の供養塔などいくつかの墓所がありますが、弘法大師のおわす聖域中の聖域のため写真撮影はできず、見て回るだけです。そして御廟でお大師さん(地元では親しみを込めてこう呼びます)に手を合わせて、奥之院を後にしました。

…ということで、いくつか見落としはあるものの、都合5時間で主なところはひと通り見ることができましたが、リーフレットに載っておらず現地に案内のない墓所でも、五輪塔に刻まれた文字を読んでみると(意外に読めます)まだまだ大名家の墓所はあるようで、とことんめぐり尽くそうと思ったら、本当にきりがなさそうです。何も5時間もかける必要はありませんが、行ったことのある城や馴染みのある大名家の名前に次々と遭遇できるのはなかなか面白い経験だと思いますので、これからの紅葉シーズンか、夏場に避暑を兼ねてぜひご訪問下さい。杉並木の参道沿いに苔むした墓碑が林立する光景は一見の価値ありです。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

舟戸城 栃木県芳賀町 (2022/08/28 訪問)

宇都宮霊園が城跡です。
この霊園、やや荒れ気味の感じはします。
案内板に沿って細い道を登ると霊園の駐車スペースがあります。
墓地の方向へ進むと堀切が両脇にありました。
墓地の奥の方も曲輪の跡のようで空堀も残ります。
ほとんどが墓地となり改変されていますが飛山城から近いので(車の場合)合わせて行くのが良いと思います。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

大原城 (2022/09/11 訪問)

【大原城】
<駐車場他>登城口前<34.901334, 135.216094>古紙回収BOXの所に駐車可能
<交通手段>車

<見所>堀切・土塁
<感想>日帰り西摂津東播磨ちょこ城巡りの旅3城目。大原城の築城年・築城者は定かではない。大原氏が城主の時に荒木村重の摂津進攻の際に落城しました。
 城の立地は東側からの山の扇状地の先端部分に築かれた丘城で駐車場所から主郭まで3分で行けます。城跡は現在、主郭と思われる曲輪に姫山神社の社殿があり東側に堀切を挟んで副郭があります。副郭内部は竹藪になっていて、副郭のさらに東側は切岸になっておりその下に畑やら民家があります。この辺りも曲輪だったように思います。主郭の周りに帯曲輪があり、主郭内部は東側堀切手前に大土塁があり、当時からのものと思いたい小さな五輪塔や石仏が集められています。曲輪内部に、これまた礎石または城で使用されたと思いたい巨石が残されています。

<満足度>◆◆◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

朝田 辰兵衛

現在も旧江戸川は水運利用されてんぢゃね❔ (2022/09/23 訪問)

遺構は消滅ということで,想像を膨らませながら散策。東京メトロ東西線の葛西駅から浦安駅まで歩きました。
途中,浦安橋を渡って,東京都から千葉県へ。旧江戸川の分流部分は(本流よりも流れが穏やかに見え)船の係留にも適しているのでは…と思いました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城とマスク

沖縄のお城(グスク)を見学 (2022/09/28 訪問)

初めて沖縄県のお城を見学しました、石垣の形が本島のお城とは違う独特な形でした。マスクはニュータイプマスクを使用しました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

POYO58

長野旅行PART3 小諸城 三の門、二の丸 (2022/08/18 訪問)

上田城の後、小諸城と龍岡城に行く予定でしたが、あいにく雨が降ってきました。また時間ももう4時を超えていたので龍岡城は諦めました。小諸城は武田信玄が築いた後、仙台久秀が石垣の城へと改築しました。また徳川家康はこの城に寄って、上田城攻めの作戦を考えていたようです。

小諸城はお城ですが、動物園や遊園地もあるので城好きでない人も楽しめると思います。
小諸城で見るべきものは三の門と大手門だと思います。どちらも重要文化財に指定され、今のなお現存しています。大手門は後程投稿します。三の門は一度洪水による流水によって壊れたものの1726年に再建され現存しています。三の門には懐古園と書かれていますが、この字は徳川家達が書いた大変貴重なものです。ちなみにスタンプと御城印はそのすぐ近くにある微古館にあります。
さて入場料を払って進むと石垣が続き、二の門跡が見えてきました。石垣の喰い違い虎口となっていて、そこを通ると二の丸跡がありました。石垣は復元されている所があるようですが、どこまで現存でどこまで復元なのかわかりませんでした。

ではこのまま本丸へと進んでいきます。続く

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

はたけ

大政奉還 (2022/09/23 訪問)

歴史的な場所が、見れて良かった

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

栃木西方城

西方城跡シンポジウムを開催いたしました!

令和4年9月25日(日)に『西方城跡シンポジウム~ここまでわかった西方城~』を開催しました。
心配していた天候にも恵まれ、おかげさまで約400名の方々に参加していただきました!
当日は3名の発表者が、①発掘調査の成果 ②文献資料からみた西方氏と西方城 ③西方城の構造と変遷 と題した成果報告をしました。その後、専門者会議メンバーによる討論会「西方城跡の調査からわかったこと」を行いました。参加者の皆さまも終始、熱心に耳を傾けてくださいました。今回のシンポジウムで、西方城についてより知って頂けたら嬉しいです!
ロビーでは城館関連書籍の販売や、栃木図書館による郷土史関係資料の展示のほか、チラシコーナーも設け、会場は大変賑わいました。

城びとの皆さま、城びとの情報を見て足を運んでくださった皆さまに、改めて感謝いたします。本当にありがとうございましたm( * _ _)m
ぜひ、現地の西方城にも訪れてみてください!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

りあそーる

三津浜 (2022/09/17 訪問)

から公園まで船に乗ります。舟渡の船頭さんも気さくで港山城登山をお勧めされます。三津浜で鯛めしか三津浜焼きを食べ、レトロな三津浜商店街も散策できます。お城自体は遠景では要害ですが、整備されていて登りやすい。本郭からの眺めは絶景。河野家の内紛や河野水軍の中心になった往時がしのばれます。

+ 続きを読む

りあそーる

卯之町 (2022/09/15 訪問)

近くの街並み保存区域の卯之町と歴史博物館は行った方がよい!博物館の中世の邸宅の展示や昭和初期の街並みは圧巻!
黒瀬城は運動公園の駐車場から登ります。フィールドも往時は城内だったようで公園全体と山々で黒瀬城なんでしょうなあ。
西園寺の勢力がよくわかる城跡です。井戸が多い。隣に岡城もあります。車がある人は足を延ばして法華津峠がおすすめです。絶景!!

+ 続きを読む

イオ

高野山奥之院(一の橋~中の橋) (2022/08/27 訪問)

奥之院は壇上伽藍と並ぶ高野山の聖地で、最奥の弘法大師御廟では即身成仏をとげた弘法大師が今なお現世に身を留めて衆生に救いの手を差し伸べているとされます。一の橋から中の橋、御廟橋を経て弘法大師御廟に至る約2kmの参道沿いには20万基を超える墓碑や供養塔が建てられており、戦国武将や江戸期の大名家、著名人の墓所には案内の標柱も建てられているので、奥之院で墓碑めぐりをしてみました。

まずは高野山宿坊組合の案内所で「高野山奥の院の墓碑をたずねて」というリーフレットを購入(100円)。奥之院の主な墓碑・供養塔が地図上に詳しく記載されているという優れモノで、これさえあれば見落としなくめぐることができるはず! …ということで、表参道にあたる一の橋からスタートです。

一の橋を渡ってすぐに参道が左右に分かれますが、左側が古くからの参道なのでそちらに進むと、立花家(筑後柳河)、伊達家(奥州仙台、伊予宇和島)、前田家(加賀)、黒田家(筑前)と名だたる大名家の墓所が並んでいます。「鎌倉殿の13人」にも登場した曽我兄弟の供養塔もありました。その先には島津家(薩摩)、池田家(岡山)と続き、森家(岡山津山)の隣には森中将忠政の供養塔も建てられています。脇道に入った先の毛利家(山口)墓所には数多の五輪塔が建ち並び、雄藩の勢威を感じます。その近くの佐竹家(羽後秋田)の墓所の奥には、佐竹義重霊屋が建てられていました。

地元だけに紀州徳川家歴代藩主の墓所も数箇所に分かれて設けられており(初代頼宣、二代光貞・三代綱教・四代頼職・六代宗直、七代宗将、八代重倫・九代治貞・十一代斉順・十二代斉彊、十代治宝・十四代茂承)、藩主夫人方の墓所も別途設けられていました。五代吉宗(後の暴れん坊将軍)の墓所はあるはずなんですが見落としてしまいました。十三代慶福(後の十四代将軍家茂)の墓所の所在についてはよくわかりませんでした。

高野山は「天下の総菩提所」と呼ばれ、宗派も敵味方も関係なく全ての人が等しく供養される地であり、武田信玄・勝頼墓所の背後を守るように馬場美濃守の供養塔が建てられているのはありそうなことだとしても、参道の向かい側斜面の上、信玄墓所と向かい合う位置に上杉謙信の霊廟が(並んで上杉景勝の墓所も)あるのは、高野山ならではの光景かもしれません。他にも、明智光秀の墓所もあれば織田信長の墓所もありますしね(こちらはちょっと離れた位置関係ですが)。

武田家や上杉家の墓所からさらに進むと伊達政宗の墓所があり、さすがに立派な五輪塔が建てられています。その先の薩摩藩初代島津家久・二代光久・綱久の墓所の五輪塔も見事なもので、奥之院で四番目の大きさであることから四番石と呼ばれています。また、伊達や島津のような大藩には規模では及ばないものの、徳川四天王(の家系)の墓所もそれぞれ設けられていて、榊原康政や本多忠勝があれば酒井家(出羽庄内)もあり、井伊家(近江彦根)の墓所には五輪塔に加えて井伊掃部頭の霊廟が建てられていました。

その他、有名武将では石田三成や柴田修理勝家、堀尾吉晴、赤井直正など、大名家(一部家老も)では、岡部家(泉州岸和田)、河野通直(伊予)、大岡家(武蔵岩槻)、大田原家(下野)、松平家(髙松)、前田利治(加賀大聖寺)、北条家(小田原)、京極家(丸亀)、水野家(信州松本)、奥平家(豊前中津)、諏訪家(信州)、南部家(奥州)、鍋島家(肥前)、松前家(北海道松前)、松平家(大和郡山)、酒井家(播州姫路)、吉川家(周防岩国)、蜂須賀家(阿波徳島)、水野日向守勝貞(備後福山)、松浦家(肥前平戸)、池田家(因幡鳥取)、織田家(大和柳本)、津軽家(奥州)、戸田家(美濃大垣)、水野家四代勝種(備後福山)、大久保家(相模小田原)、牧野家(丹後田辺)、山内家(土佐高知)、秋月家(日向高鍋)、内藤家(信州高遠)、内藤家(越後村上)、本多俊次(江州膳所)、益田家(長州萩)、相馬家(奥州)、伊東家(日向飫肥)、高木家(河内)、宍戸家(防州三尾)、有馬家(筑後久留米)、丹羽家(陸奥白河・二本松)、佐久間家(信州飯山)、秋田家(磐城三春)、北条家(遠州掛川)、稲垣家(志摩鳥羽)などの墓所を確認しています。武家以外にも、能楽の観世宗家や歌舞伎の初代市川團十郎、江戸町火消の新門辰五郎の墓所などがありました。

中の橋は奥之院参道の中間点にあたりますが、ここですでに一の橋から2時間半が経過…。あと2時間以上も墓碑をめぐり続けるのかと思うと気が遠くなりつつも、ここまできたら最後までやり切るのみです(続く)。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

飛山城史跡公園 (2022/08/28 訪問)

飛山城史跡公園となって整備されています。
歴史体験館の駐車場を利用します。
石碑の先にはいきなり堀と土塁が迎えてくれます。
櫓台のところは横矢になっています。
城内の曲輪も堀で区切られていてなかなか見応えありです。
芳賀氏が鎌倉時代に築いた城です。
戦国時代には宇都宮錯乱と呼ばれる反乱を起こし敗れましたが、その後芳賀氏は宇都宮氏の居城である宇都宮城を奪取しました。
近くには鬼怒川が流れ、城を守っていました。
下草で堀がわかりにくい場所もありますが国指定史跡のよく整備されている城でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

これは城だ (2022/05/14 訪問)

堀江城のあった丘はまるっと遊園地に占領されているが、意外なくらいに縄張を尊重してくれていたようで、横矢の効いた切岸なんかも見つけることができた。遠望すると観覧車が大天守にさえ見えてくる(こないか)。

+ 続きを読む

カズサン

本曲輪南土塁切岸の土砂崩れ (2022/09/27 訪問)

 台風15号の線状降水帯による豪雨が浜松、小笠丘陵、牧之原と流れていき竜巻も発生、中小河川、山筋、谷筋に豪雨被害が発生して居り、昨年春に三の曲輪北側高土塁が樹木伐採景観整備で昔の姿に戻り露わに成りました、昨年6月に梅雨の長雨で土砂の流失を心配して訪ねて以来探訪して居ませんでしたので、今月23日の台風15号の豪雨と竜巻で勝間田城の状況は如何にと探訪しました。

 約1年半振りに訪ねて、伐採された三の曲輪北側高土塁は潅木と夏草で鬱蒼としており、土砂の流失は無し、しかし二段の高土塁、東側の二重掘は潅木茂り夏草茂り遠目では良く分からないし、茂り過ぎて入って行けない。
 二の曲輪も同じく夏草が茂り突入を諦める、大堀切、北尾根曲輪の切岸部は樹木伐採されて居る、東尾根曲輪も夏草茂るが人踏道が微かに在り登る、五重堀を見るが夏草茂り二重堀までしか分からない、下りる道は夏草でよく分からない踏査不可。
 東尾根曲輪から本曲輪を眺めるとブルーシートが南切岸を覆ってる、本曲輪の南側の土塁下からの切岸が土砂崩れ被害発生、工事用三角ポットで進入不可の様子、南曲輪との堀切は土砂が入り込みぬかるんで歩けない、引き上げる。
 本曲輪に登り南側の土塁から南曲輪間の堀切と土砂崩れ痕を覗き込む、幅は5m程の土砂崩れ。
 復旧等の工事案内は無く以後の計画は現地では分かりません。

 一人での探訪でしたが下城路で二人ずれのペアーと遭い、夏草が深い旨会話、車は名古屋ナンバー、現在の駐車場と案内板、パンフレット箱、トイレのある場所から東に70m程の所に第二駐車場完備砂利舗装で40~50台は可能かも。

 午前中探訪し昼からは自宅で安倍総理の国葬をTV中継で黙祷させて頂きました。
 
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ752