「天空の山城」とも称される備中松山城は岡山県高梁市の北、標高440m臥牛山山頂から山麓にかけて、全長約1.8kmにわたり築かれた巨大な山城です。山上には北から大松山、天神の丸、相畑の城戸、小松山、中と下の太鼓の丸の各曲輪が築かれています。山麓にも馬酔木の丸と呼ばれる出丸と備中松山藩の政庁が置かれた御根古屋があります。
現存する天守は、2層2階で西面に半地下のようにして附櫓が付属する複合式望楼型天守です。現在は西面に付属する付櫓に開けられた出入り口から入れますが、当初は八の平櫓から渡櫓を経て天守へ至りました。また天守に通じる階段は、敵の侵入を遅らせるため直角に曲げられています。外観は建物高さが11mで現存する12天守の中では最も小規模ですが、12天守の中では最も高所にあります。
1617年池田長幸公が6万3千石で立藩しますが。2代長常公に跡継ぎがなく没したため池田家は廃絶。翌1642年に水谷勝隆公が5万石で入封。2代勝宗公は天守建造など3年に渡り大修築を行い、現在の姿にしています。しかし3代勝美公も跡継ぎがなく1693年に死去。その養子となった勝晴公も13歳で死去したため、水谷家も断絶しました。断絶後は「赤穂浪士」で有名な赤穂藩主浅野内匠頭長矩公が城の受け取にあたり。家老大石内蔵助が城番を務めました。その後、安藤家・石川家に引き継がれましたが、最終的には板倉家が5万石で入封し、8代続き明治維新を迎えています。
備中松山城へは、幾度となく訪れていますが、今回の目的は臥牛山山頂にある大松山に行くことと、城主さんじゅーろー様にお目通りする事(#^^#)。大松山には行ったことがなく、皆さんの投稿を見て訪問するチャンスを伺っていました。これまでは、小松山の石垣群と現存天守・現存櫓で満足していたため、大松山には行かず仕舞いとなっていました。今回の投稿は、小松山とさんじゅ-ろー様のみですが、次回の投稿で大松山を紹介したいと考えています。
今回の小松山訪問ではさんじゅーろー様にお目通りが叶い、10分程独り占めすることが出来、大変満足しています(#^^#)
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