(続き)
歴史博物館の南にある小学校も本丸跡にあたり、小学校の南西隅には尼崎城址の石碑と説明板が建てられています。また、校庭にはかつて本丸に存在した天守と隅櫓の模型が設置されていて、説明板によれば昭和15年に教職員と児童によって製作されたものだそうです。…って、戦前に作られた模型が80年以上経った今まで伝えられているんですか!? また、小学校北東の幼稚園(平成28年閉園)の壁には卒園記念として尼崎城天守(ちゃんと四重)が描かれていますし、西本町交差点の地下道には荻原一青の天守画模写が、さらには戎橋南詰の普通のガレージにまで築城四〇〇年として天守が! こうしてみると、尼崎城が市民の誇りであり、天守の再建が悲願だっただろうことを実感します。
庄下川から南外堀沿いに東に進み、北浜公園へ。北浜公園は東外堀にあたる大物川を埋め立てた公園で、南端入口に東大手橋跡の石碑が、公園内に尼崎城絵図があります。北浜公園から北に徒歩3分の深正院は桜井松平氏の菩提寺で、歴代藩主や家臣の墓所になっています。かつての本堂は尼崎城本丸御殿を移築したものでしたが、戦災で焼失したようです…。大物駅北東の大物公園の南辺(病院沿い)には、串団子の形をした刻印のある尼崎城本丸の石垣(と説明板)が設置されていました。
西外堀にあたる庄下川の外側には、西国大名への備えとしてでしょうか侍屋敷と寺町が設けられており、寺町には大物くずれで捕らわれた細川高国が自害した広徳寺(羽柴秀吉が中国大返しの途中に休憩したとも)、佐々成政の墓所がある法園寺、室町二代将軍・足利義詮が在陣し大覚寺城とも呼ばれた大覚寺など、数多くのお寺が軒を連ねています。ただ、広徳寺も大覚寺も尼崎城築城に伴って寺町に移転させられているため、現在地はそれぞれ細川高国最期の地でも大覚寺城跡でもありませんが…。
…ということで、尼崎城には明瞭な遺構は(地表面には)見られないものの、エンタメ天守に歴史博物館や尼信会館、城下にも尼崎城の存在を伝えるものがあちこちに見られ、思いのほか楽しませてもらいました。我がまちのお城を誇りに思う気持ちが感じられるのっていいですね。
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