吉野城(城びと未登録、金峯山城とも)は、役行者が開いた大峰山への入口として修験道の寺院が建ち並ぶ吉野山を城郭化したもので、鎌倉末期に大塔宮護良親王が十津川から吉野山に入って金峯山寺蔵王堂を本陣として挙兵。北麓を流れる吉野川の南岸に4つの支城を築き、尾根筋に堀切や木戸を設けて幕府軍と対峙しましたが、大峰山に続く宝塔院側から奇襲を受け、護良親王は高野山に落ち延び、吉野山の多くの寺院が焼亡しました。
下千本駐車場に車を駐めて登城開始。道なりに5分ほど歩くと朱塗りの大橋があります。大橋はかつての吉野城の堀切(空堀)に架けられており、幕府軍との激戦地だったことから「攻めが辻」と呼ばれています。大橋から徒歩6分の金峯山寺銅鳥居は江戸中期に再建されたものですが、このあたりも吉野城の曲輪だったようです。銅鳥居から徒歩4分で金峯山寺に到着。蔵王堂(国宝)は金峯山寺の本堂で、護良親王の本陣が置かれました。蔵王堂の前庭の石柵の中に植えられた四本桜は、落城を前に親王が最後の酒宴を開いた地と伝わります。金峯山寺から6分ほど進むと勝手神社があり、手前で搦手道が分岐することから木戸が設けられていました。
勝手神社から徒歩10分、奥千本行きバスのりばの前に天王橋があります。意識していないと見落としてしまいそうなわかりづらい橋ですが、堀切跡に架けられたもので、東詰に石碑が建てられています。天王橋から少し登ったあたりが桜の名所の中千本で、見晴らしの良さから火見櫓と呼ばれるのろし場が設けられていました。また、火見櫓の南下には立派な大塔宮仰德碑が建てられています。
火見櫓から20分あまりひたすら登って行くと上千本の花矢倉展望台に至ります。展望台からは吉野山が一望のもとです! 花矢倉も曲輪だったようで、この眺望の良さから考えると見張台が設けられていたのでしょうか。花矢倉から4分ほど歩いた吉野水分神社も吉野城の曲輪として機能したとされます。吉野水分神社から15分ほど登った先の高城山には、吉野城の詰城としてツツジが城が築かれました。頂部に平場が広がり、北端には休憩所(展望台)が建てられています。
高城山から20分ほど歩いたあたりが奥千本です。宝塔院と呼ばれる吉野山最奥の一帯には、かつて安禅寺蔵王堂や四方正面堂、多宝塔などが建ち並び、吉野城の一部となっていました。奥千本の先には大峰山を経て熊野まで続く大峯奥駈道が続いていて、護良親王はこの地から吉野山に入り、吉野城を陥落させた幕府軍もここから攻め込んでいます。現在では奥千本まで車で上がることもできますが、そもそもは修験道の修行のための道なので、往時は大変に険しい道だったと思われます。
…ということで、わかりやすく城郭! という箇所はほとんどありませんが(大橋の堀切くらい?)、位置関係や眺望などから、曲輪があったと言われればそうかも、と感じるところはいくつもありました。
# カズサンさん、白山平泉寺の投稿が何がしかのお役に立てたようで何よりです。私の場合は不勉強のため現地に行くまでその存在を知りませんでしたが、今年訪れた中でも屈指の印象に残った城となりました。発掘調査が進めばまだまだいろいろと見つかりそうですし、今後も楽しみなことですね。
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