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赤い城

本丸は整備工事中 (2022/07/10 訪問)

三の丸が駐車場になっています。
九戸城ガイドハウスがあり、ここにスタンプが設置されています。
橋を渡り、本丸残っていました外周を歩き搦手から二の丸に入ります。
その手前に石沢館がありますが発掘調査中で立入禁止。
二の丸との間には深く広い堀があります。
二の丸から本丸へと思ったら整備工事中で入ることはできませんでした。
本丸と二の丸の間にも堀があり、石垣も残ります。
本丸の虎口は枡形。
九戸氏の城で九戸政実の乱の舞台となりました。
本丸に入れなかったのは残念ですが初めての岩手県を楽しむことができました。
今回の遠征は盛岡三大麺が目的でお昼にぴょんぴょん舎の冷麺、夜はわんこそばととりあえず2つ制覇。
お腹いっぱいで満足でした。

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トク

【熊本城と西南戦争の遺跡を歩く①】官軍と谷千城(前編) (2022/06/22 訪問)

現在の熊本城天守は鉄筋コンクリートで再建されたものですが、実は加藤清正の築城した天守が幕末まで細川家の居城として残っていました。そして1873(明治6)年に廃城令が発布されるも壊されず熊本鎮台として存在していました(明治初期(天守3F展示)と現在の比較写真③と④、⑤と⑥を参照して下さい)。

ではここで問題です😲! 
清正公の天守はその後いつどうやって無くなってしまったのか、皆さんは御存知でしょうか🤔?

1873(明治6)年、「征韓論」に敗れた西郷隆盛は失意の内に鹿児島に戻ります。そこで目にしたのは、明治になり行き場のなくなった若い士族たちでした。西郷は彼らのため私学校を設立し、世界の情勢など自分のこれまで政府で得た知識を教え、彼らが自立するための支援を行います。しかし、1876(明治9)年、明治政府は士族に対し、廃刀令や家禄の廃止などを発布しました。刀という武士の魂を奪われ家禄(給料)まで失くされた旧士族はこれでは生きては行けません。翌1877(明治10)年2月15日、これらへの撤回を明治政府へ訴えるべく私学校の生徒たちを中心に、旧軍人の「桐野利秋」「別府晋助」「村田新八」なども加わり西郷は上京することにしました。

21日「西郷隆盛」の薩軍13,000は、黙って熊本を通すよう要求しますがそうはさせてもらえません。よって、まず熊本城に籠城する「谷千城」(たにたてき)(写真①②)率いる鎮台の官軍3,300を包囲します。その時、包囲された谷は何を考えたのか、翌22日、自ら熊本城に火を放ち天守を焼いてしまいました。おそらく決死の覚悟を見せるためだったのか? それとも自分たちが負けた後にここを薩軍の拠点とされる事を恐れたのか? それとも天守が大砲の標的になりやすいと思ったのか? それとも武士のシンボルとも言える天守を焼く事で敵の戦意喪失を狙ったのか?(放火ではなく官軍の台所から誤って出火したという説もあります)(写真図⑦)。

それだけではなく、谷はさらに熊本城下にまで火を放ってしまいました(これは谷の命令に間違えないようです)。薩軍の隠れる場所を無くし城下全てを見渡せるようにしようと思ったのでしょうか?(写真⑧)

詳細は、「熊本城の天守3F」にて解説されています。焼けた落ちた瓦なども展示されていました(写真⑨)。

また熊本城東側(加藤神社前)の高橋公園(旧千葉城跡)には、「谷千城の銅像」が立てられています(写真①②)。

私は熊本城の天主最上階に立ち、西側の方向を眺めて見ました(写真⑩)。薩軍が陣を敷いた花岡山や激戦となった藤崎台・段山が見えました。当時同じくここに立ち、この眼下13,000の薩軍に取り囲まれてしまった谷千城は、もし放火説が本当なら、いったいなぜ薩軍を見たとたんこの天守を焼いてしまおうと思ったのでしょうか? そしてまたなぜ城下にまで火を放ってしまったのでしょうか?

「②官軍と谷千城(後編)」へ続きます。
 

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三浦の晃ちゃん

ちょっと、登りがキツかった。 (2022/07/27 訪問)

駐車場から、30分ぐらい歩きました。ちょっと、疲れます。
遺構はあまりありません。施設も模擬天守閣です。

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三浦の晃ちゃん

大河ドラマ館を、作るらしく、閉館中でした。 (2022/07/27 訪問)

天守閣は、来年の大河ドラマ館の関係で、閉館中でした。家康館や、駐車場は、今のところ、利用できましたが、近いうちに、改修されるそうです。しばらく、スタンプも、押せなくなるかもしれません。要注意です。

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三浦の晃ちゃん

天気が良かった (2022/07/17 訪問)

郡上まつりのときに、訪問しました。近くまで、車で登れるのがとても、ありがたいです。

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三浦の晃ちゃん

初めてが夜 (2022/07/18 訪問)

初めて登城しました。夜間に特別に公開しているとの情報を得たので、隙間時間に行くことができました。夜景が素晴らしかったです。

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岩崎城

夏の特別展 にっしん焼き物ヒストリー

岩崎城歴史記念館で毎年恒例の夏の特別展を開催します。

日進市の古代から中世にかけての歴史で重要な要素を占める焼き物。
日進市内の窯跡から出土した遺物を中心に展示し、市内における焼き物の変遷などを説明します。
鳥鈕蓋(とりちゅうぶた)などの日進市指定文化財も紹介します。   
日進市から大量出土している山茶碗に触れるコーナーもあります!


展示期間:2022年8月13日(土)~10月2日(日)
休館日:毎週月曜日(祝日の場合は開館)

場所 :岩崎城歴史記念館 2F 展示室
入場料:無料

【お問い合わせ】
岩崎城歴史記念館
開館時間 9:00~17:00
休館日 月曜日(祝日の場合は開館)、12月28日から1月4日
tel  0561-73-8825
fax 0561-74-0046
HP http://www.mf.ccnw.ne.jp/iwasakijo/

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ユーザー

高山の松倉城 (2022/07/26 訪問)

現在、国史跡指定を目指して発掘調査中とのこと。建物跡等が見つかったようです。

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五箇山の丸岡城 (2022/07/26 訪問)

「タカンボースキー場」から見下ろす位置にある丘が、五箇山の丸岡城です。こちらには恐らく御城印はありません。以前はこの地域の集会所か何かだったようで、山上は均されてしまい、遺構は残っていません。

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井口城址 (2022/07/26 訪問)

水田地帯の中にある墓地に井口城の石碑が立っています。

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上見城 (2022/07/26 訪問)

人家と山の間に入口があります。道らしい道(車道)はありません。右手に目立たない石段があるので、登ると城跡に至ります。

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安養御坊跡 (2022/07/26 訪問)

「御堂屋敷」と言われる地に石碑があります。

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加越国境城跡群及び道 (2022/07/26 訪問)

東側にある松根城と共に、国指定史跡「加越国境城跡群及び道」を楽しめる城跡です。アクセスのため造林作業道が使用できますが、西側より東側から入った方が近いです。この経路の尾根部分が本来の「小原越」です。城址入口付近はヤブまみれですが、主郭付近は草も少なく鑑賞しやすかったです。

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槻橋城 (2022/07/27 訪問)

麓の槻橋神社から登ることもできるようですが、城址北側の林道から主郭近くまで取り付けられます。林道入口の看板に「林道は山頂までは通行出来ません」とありますが、城址までは自動車で行けます。林道を登ると右手に小さな城址入口看板が見えてきます。入ると直ぐに重厚な堀と土塁が迎えてくれます。

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朝田 辰兵衛

だんじり復活,おめでとうございます。 (2020/08/08 訪問)

この年はコロナでだんじり中止。「岸和田はゴーストタウンにでもなったか」ってぐらい,活気が消えていました。受付のおっちゃんも私に指摘されるまで日付を間違えてるし…。
魂が抜けた岸和田を見てしまいました。

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小城小次郎

バランスのいいお城だと思う (2022/02/11 訪問)

天草五人衆の上津浦氏が居住していたが隣の栖本氏に奪い取られていた時期もあるようだ。防御性と居住性を兼ね備え、石垣も横堀も配され、曲輪のバランスも絶妙な、天草を代表するよいお城だと思う。なんで奪われちゃったかなあ。

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郡上八幡城 (2022/07/24 訪問)

続日本百名城

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カズサン

玉石垣が見所の横須賀城 (2008/04/13 訪問)

 横須賀城は徳川氏武田氏の遠州攻防戦、高天神城攻め補給路の為に磐田府中から馬伏塚城、横須賀城へと続けるために家康の命で大須賀康高が築いた平山城、家康はここを拠点に高天神城を攻略。家康関東移封後は豊臣方の城へ、関ヶ原後再び大須賀忠政が横須賀城主と成るが、忠政は榊原康政の子で大須賀康高の養子、忠政の子忠次が榊原康勝の養子と成り、大須賀家は断絶する。以後は譜代大名が続き明治を迎える。

 縄張は南を向いた連郭式、中央に主郭部が有り本丸、天守台、直ぐ西に西の丸、南に本丸南下門の有る大型枡形形状で、南面に玉石垣が葺かれてる、解説板に由ると大井川の川原石とか、城主は石垣が積みたかったのでしょうね⁈ でもここが横須賀城最大の見所です。
 北東に北の丸と元本丸の在った松尾山、東に三の丸・西に二の丸が広く取られていたが現在は市街化し住宅が、南側には外堀が巡っていて、入江遠州灘が城下近くまで及んでいた。が宝永4年(1707年)の大地震で海岸線が隆起し、海岸線が後退した、現在外堀跡が南側の道路沿いに外堀跡と標柱が立ち緑地帯として残っている。
 横須賀城は、発掘調査されて平成7年から8年に掛けて整備し公園化されて居ます。

 登城当日は前日から一泊二日で掛川市のリゾートホテルで私の60歳誕生日と定年退職を浜松在住家内の兄弟夫婦集まって祝ってもらいました、翌日御前崎の海鮮市場で買い物と昼食、美味しいカツオを食し、それぞれ解散、家内と途中の横須賀城に60歳・定年退職記念登城と14年前の平成20年4月中旬洒落込みました。
 近いので都度ある如く訪ねています。
 
 

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前ちゃん

官兵衛の城 (2022/07/25 訪問)

秀吉政権の中枢から外され、赴任した先。宇都宮一族との戦いの詳細が見れたので良しとする。

また、黒田と細川時代の石垣の境も見れる

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前ちゃん

市民憩いの地、臼杵城 (2022/07/25 訪問)

湾に浮かぶ島の要塞も埋め立てが進み、海の面影が無くなっているのは残念に思う
城中はグラウンドと弓道場、神社など市民憩いの場所に

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