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刑部

大好きな城址 (2022/05/02 訪問)

本当にここは素晴らしいの一言!私の中でベスト10に入る城です!何がいいか細かい説明は除きます。来たことのある人は納得されると思います、まだの人は絶対訪れてください! 私の訪問1度目は積雪の岡城今回2度目はとても暖かい良い天気の岡城、また機会が有れば行きたいと思います。

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赤い城

烏山神社 (2022/05/28 訪問)

小田急の千歳烏山駅から徒歩で5分くらいで烏山神社に着きます。
ここが推定地の一つ。
遺構はありません。
町の小さな神社です。
推定地はもう一つ。
世田谷文学館付近で高級老人ホームが建つあたりとなります。
当然こちらにも遺構はありません。
北条氏家臣の高橋氏が扇谷上杉氏の深大寺城に対して築いたとされます。
規模的には砦くらいだったと思いますがロマンを感じるのも難しい感じ、もっと心眼を鍛えないと。

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朝田 辰兵衛

榎峠古戦場(新潟県長岡市) (2022/06/04 訪問)

1868(慶応4)年5月2日,小千谷の慈眼寺にて。新政府軍の岩村精一郎に対し河井継之助は嘆願書を差し出し,その趣旨を説こうとしましたが,聞き入れてもらえず…。一説には,慈眼寺の門前で払われたとも。これが「小千谷談判」で,長岡戊辰戦争の引き金です。映画のロケでは,『天地人』でゆかりの雲洞庵(南魚沼市)で撮影されています。

この小千谷談判後,新政府軍は三国街道で2番目の難所である榎峠を制圧(1番目は三国峠です)。さらに朝日山も。当時は,高地や難所を制圧することで,敵方に威圧を与える目的があったといいます。新政府軍は,上田藩兵によってやすやすと制圧しました。
長岡藩的には「新政府軍はさらに攻めてくるだろう」と応戦体制を取っていたようですが,全然攻めてこない…。
軍議の末,5月10日,長岡藩は榎峠の奪還に動きます。信濃川対岸からの砲撃に苦戦したようですが,別働隊が側面と背後から包囲して攻め,榎峠の奪還に成功します。これが「榎峠の戦い」です。
映画では,オオクラ見晴台(小千谷市)にてロケが行われました。

榎峠古戦場パークは,榎峠の麓に造営されています。石碑には長岡藩主牧野家の家紋(三ツ柏)も彫られており,長岡藩のプライドが感じられます。長岡城からは南側へ約16㎞。数100m先は小千谷市。2004年の新潟県中越地震で車が埋もれ,その車の中から奇跡的に子どもが助かった現場の近くです。

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織田晃司

文春砲に (2022/06/04 訪問)

出てきそうな城名です。
浮気城は「うわき」ではなく「ふけ」と読みます。
どちらの読み方も良いイメージではありませんが…

土塁と空堀が残る。
城跡に住吉神社が建つ。

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零汰

思いのほか広い (2022/05/28 訪問)

「島津義弘を大河に」そんな幟を横目に「維新ものに鹿児島は必ず出るのに欲張りだな」そういえば飯盛山城にも「三好〇〇を大河に」ってあったな。「島津か~、三好か~」そんな事を考えながら改めて100城の選定基準を考えてみる。良く考え抜かれた選定だと妙に納得。あの選定なら多くの人々が城に馴染みやすく身近に感じる。

終活2から帰ってきて中3日、体中が痛いのだが物足りなさにソワソワしていた。その日は起きると晴れていたので思い付きでこんな時に取っておいた加久藤城に車で行ってきた。とてもバイクでは出掛ける気にはならなかった。当然下調べは無しで出かけた。

諸先輩方の投稿がある事なので今回は補足も兼ねて、写真の無い範囲を中心に投稿します。案内写真は先輩方の写真をご覧ください。

車を大手門裏に停めて本丸・二の丸を過ぎ新城と呼ばれる曲輪に向かった。二の丸から一旦降りるとそこは堀切道だった。二の丸と新城の境には目隠しを兼ねたような削り残しの櫓台?土塁?がありお互いの場所を直接見ることはできない。堀切道を上がると土塁の残る曲輪がある。が、困った事にそに先に土橋を施して曲輪らしき場所がある。渡ってみて眺めてみたがやっぱり曲輪のように思える。現地で撮ったスマホで案内図を見返すがやはり載っていない。その時は後年の開墾と言い聞かせて搦手・西側の物見郭方向へ向かった。

搦手周辺は見つかったが桝形・物見郭の入り口が見当たらない、物見郭は迂回して土塁上を歩いて確認できた。不明な理由は伐採整備の際に曲輪端部に寄せていて目に付きにくいからだった。同じく南側の物見郭の土橋を伐採樹木で隠れていた。そこを渡ると物見郭に行き着き削り残しの土塁が端部にある。水源地が2か所あるとの事だったがどうにも見つける気にはならなかった。

滞在時間1時間15分:1.7km:累計高低差151m

復習
城郭放浪記さんのサイトで自分の写真と見比べた、そこには新城より先の土橋が載っている。どうやら新城と思っていた場所は中城でその先が新城と呼ばれる曲輪らしい。案内図の枠外が新城のようだ。宮崎県の調査報告書を見てみるとたしかに曲輪が2つに分断されている。なるほど、やはり山城奥が深い。

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まぁちゃん

久しぶりに訪問 (2022/06/02 訪問)

6/2と6/4に久しぶりに訪問。6/2は平日の15時過ぎなのですいていてゆっくりできました。6/2には、内堀をめぐる船で変わったアングルで写真が取れました。

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城好きのメガネ

「石神井城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
石神井城は秩父平氏の一族であった豊島氏の居城とされる。戦国時代には、長尾景春の乱の際に当時の城主・豊島泰経は長尾景春側に与したため太田道灌に攻められる。奮戦するも落城、廃城となる。豊島泰経は白馬に跨り、三宝寺池に深く沈み、長女・照姫も入水した伝説がある。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
西武鉄道池袋線 石神井公園駅 徒歩20分

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城好きのメガネ

「愛宕山砦」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
愛宕山砦は、太田道灌が石神井城に籠城する豊島氏を攻める際に築いた陣城とされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
西武鉄道新宿線 上石神井駅 徒歩10分

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カズサン

【陸奥・大窪城】宮城県大郷町 本丸の高切岸が見所 (2022/05/28 訪問)

 大衡城を終えて東方向へ直線で約10km程の所に大窪城が在る。
 住所:宮城県黒川郡大郷町大松沢真坂26 県道16号線から集落に入った直ぐに「大窪城跡入口」の石碑がある。

 大衡城を終えた後の城廻りを古城盛衰記さんで調べたところ近くに大窪城がBランクで評価されて居ましたので、古城盛衰記さん余湖図コレクションさんの情報の元、初探訪しました。

 車は、古城盛衰記さん案内で県道16号線から集落に入った直ぐの三角コーナーがPと成って居ましたが駐車するに狭く草深く、路肩に停めて駐車出来そうなところを探し眺めて居ましたが、地元の方に大窪城に来た旨を話し相談した処、車で登れる事と駐車場も有りUターン出来ると、急坂で歩くと大変だよと言われ、離合厳しき道を車で登城する。昇り降りローのギヤーでゆっくり走行、コンクリートと砂利道、砂利がタイヤに入り滑りやすく緊張の走行、車が来たらアウトでした。

 車を大窪城近くの配水所に駐車エリア数台は可能に駐める。
 駐車エリアから南に行くと堀切空堀、土橋が有り二の丸に入る左手土塁に八坂神社が祀って有る、東向きに本丸周囲を草深い高切岸の城塁が素晴らしい見所、西に下がって三の丸、二の丸三の丸は草が刈って有りました、本丸には新しくコンクリート製の登城階段スロープ、を登り本丸虎口に入るが草が深く腰まで在る、虎口で全体を眺めて降りる、本丸北側の帯曲輪は草が刈って有り進み探訪、北東に通用門跡と石柱、本丸通用門側東側も草が刈って有り踏査、本丸登城口に縄張図、大窪城跡解説石碑が設置されてる。
 草が刈って有る所まで探訪、保存会の方々に感謝です、タイミングが良かったら本丸も踏査出来たのですが残念です。

 案内板には、明応4年(1495年)伊達尚宗(政宗の4代前)の領地と成り宮沢時実はじめ伊達一族大松沢氏の居城と成る、幕末維新では最後の領主大松沢衛実は伊達藩士300人を率いて戊辰戦争会津の戦い、各地の戦いに功を立てた、戊辰戦争後剃髪して菩提寺眞観寺の住職と成り、戊辰戦争で亡くなった方々の冥福を祈り、僧侶として大往生された。(縄張図解説石碑一部抜粋)

 

 

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イオ

古世城(京都府亀岡市三宅町) (2022/05/21 訪問)

※ 後に惣構の一部に組み込まれているため、亀山城で投稿します。

古世城(城びと未登録)は、築城時期は不明ながら楠木正時の子孫が代々居住していたことから楠屋敷とも呼ばれます。明智光秀の丹波攻めにより焼失し、亀山城の築城により惣構の南東端に組み込まれました。

二の郭址には楠木氏ゆかりの昌寿院が建ち、山門に設けられた昌寿院の説明板に古世城の記述があるくらいで、明瞭な遺構は見られませんが、昌寿院は東側より一段高い立地になっているあたりに城の痕跡が感じられます。

亀山城の惣構としては、昌寿院から東に徒歩1分行くと江戸中期に設けられた京口番所跡(の説明板)があり、京口の東側を流れる年谷川はかつて両岸に松並木が続いていて千本松と呼ばれていたんだとか。一説には亀山城の築城時に年谷川を防衛線として明智光秀が植えたとも云われているようです。
 

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とっくん

特別公開の多聞櫓を見てきました。 (2022/06/05 訪問)

・朝から雨が降っていましたが、特別公開の多聞櫓を見てきました。ガイドさんに詳しく説明をしていただきました。
・赤坂駅から天守台経由で30分以上かかります。
・御城印とスタンプは、福岡城むかし探訪館にあります。

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朝田 辰兵衛

長岡市河井継之助記念館(新潟県長岡市) (2022/06/04 訪問)

長岡市長町1丁目,墓所からは約600m南西にあります。もともと邸宅があった場所です。入館料【200円】ですが,無料でガイドをしていただけます。館内の撮影エリアは限定されていますのでご注意を。
私は長岡市内在住の方2組と一緒にガイドしていただきました。けっこう長く会話が膨らみ,予定していた時間を軽くオーバーしてしまいました。時間に余裕をもって来館されると宜しいかと思います。

この後は,古戦場跡をレポートします。

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ぎりょう

陸奥国守護伊達稙宗の山城に登る (2022/06/05 訪問)

自身が所属する古文書を読む会の移動研修会で桑折西山城を訪問した。4月に研修予定地の事前調査で訪問した日は雨だったが今日は天気に恵まれ、参加会員35名と桑折町のボランテイアガイドさん4名の同行で登城でき、陸奥国守護伊達稙宗が築いた戦国大名伊達氏本拠地の山城を楽しむことができた。
今日は桑折町教育委員会作成の「国指定史跡桑折西山城散策map」モデルコース【本丸往復コース】(約1時間)。大手口登城口⇒大手門跡⇒本丸⇒大手口登城口のコース。登城口近くの「大かや園」に併設されている桑折西山城跡ガイダンス施設を見学後、約20分をかけて本丸に。
比高約80mの本丸からは福島盆地や東北新幹線、東北本線・国道4号線、桑折の街並みが一望できる。古くから奥州街道と羽州街道の分岐点で、交通の要衝であったこの地に本拠地を移した稙宗の考えがよく理解できた。
城は本丸・二ノ丸と中館・西館で構成されており、発掘調査による出土品からいずれも稙宗築城時から存在していたことが判っている。
しかし中館・西館は戦国末期に改修されていることも判っているのだが、政宗(17代・仙台藩祖)によるものか、蒲生氏や上杉氏によるものかは確認できていないと云う。
次回こそは堀切・桝形状虎口など戦国末期の遺構が残る中館・西館を時間をかけて巡りたいと思う。城址は時節柄か草が伸びていたが、ガイドさんのお話では、翌週から草刈りを実施予定とのこと。

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刑部

城下町が魅力 (2022/05/03 訪問)

ここは遠方から見る方がいいですね!城郭の遺構は整備されてて不明ですが、城下町は本当に素晴らしく歩いてるだけで満足でした。お城だけを観て終わらず必ず城下町を散策してください!

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スティクラ

波多野氏 (2022/06/05 訪問)

竹田城の帰りに八上城へ。昨年は赤井氏の居城の黒井城に登ったので今回は波多野氏の居城へ。
車で行ったが、八上城の案内は見つけられず。近くのグルグルしてようやく春日神社前の駐車場へ到着。
八上城があるのは、高城山ということがわかってたらすぐに見つけられたかも。
山頂までの登山コースは3コースあり、春日神社口から登山。時間は45分前後で道は整備されていて歩きやすかったが、階段がほとんどで頂上まで平坦なところが少なく、時間の割に体力が消耗した印象。

頂上は、波多野氏の供養塔らしきものがあり、景色も篠山城ははじめ市内を一望できる。
ただ、個人的には黒井城の方が360°のパノラマがすごく、もし黒井城と八上城どちらしか行けないとなったら黒井城をおススメするかな。

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スティクラ

立雲峡から竹田城跡へ (2022/06/05 訪問)

今年の秋に雲海の竹田城を見たいため予習として初めて立雲峡から竹田城へ。
竹田城は10年以上前に一度行ったことがあるが、立雲峡は初めて。
午前3時前後に立雲峡の駐車場に到着。雲海の時期ではなかったため、駐車場は3台しか止まっていなかった。
立雲峡に入るには、保存のため300円が必要。灯りは当然ないため、夜中に登るには懐中電灯は必須。
一番上の第一展望台は30分から40分くらいで到着。
展望台は第一から第三まであり、少し上から見下ろすには第一展望台、ほぼ平行に見るなら第二展望台がおススメ。
雲海は少しは出ていたが理想通りにならず。でも秋の向けて予習はばっちり。

立雲峡の後竹田城跡へ。
竹田城跡は今のシーズン6時からとのことで、自家用車で行ける一番近い駐車場「山城の郷」で待機。前に来た時は一番近い駐車場まで行けたが、今はタクシーとバスしか行けないらしい。
山城の郷から竹田城跡の料金所まで30分前後かかる。歩きが嫌な人はタクシーか時刻表を確認しバスで行ったほうがいいかも。
竹田城跡は前来た時よりも史跡保護のために歩ける範囲が限られていた。前は柵すらなかったから事故を防ぐためにはやむを得ないか。

国史跡「竹田城跡」公式ホームページ
http://www.city.asago.hyogo.jp/takeda/

立雲峡に登る時に出会った人に教えてもらった立雲峡の雲海出現NAVI
https://www.mitsubishi-motors.co.jp/special/weekend-explorer/unkai/17.html
※6/5は65%だった(笑)。あくまでも雲海は出るがどうかの確率のよう。
 竹田城跡が理想の風景になる確率とは別の話。面白いけど参考程度かな。

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零汰

終活2:100城・続100、城郭巡りの記録:近畿・東海・四国 9日目強制終了

城郭巡りの人間は、100城・続100城を巡る事は義務なのか?そんな疑問を求めて巡る終活シリーズ2。

本来ならば10日目に大分・宮崎の城郭を巡って南下して帰宅するはずだった。九州内は離島を除いた100城・続100城は終えていたので主戦場の九州城郭巡りで7城予定していた。時刻はもうすぐ4時、鏡城まで3分のところで給油、空気圧を測って貰ったのだが給気バルブを折られてしまった。タイヤに空気が入らず走行不能。バイク業界は難しく購入店以外での修理は容易では無い。当然の如く自宅までレッカーによる帰宅となり城郭巡りは強制終了となった。

5月24日(9日目)
1.宇和島城(愛媛)・・・・・40分:1.2km:累計高低差103m
2.大洲城(愛媛)・・・・・・55分:1.5km:累計高低差90m
3.中尾城(愛媛)・・・・・・計測無し
4.烏帽子岳城(大分)・・・・45分:1.3km:累計高低差126m
大洲市から大分市内:走行距離170km

前回もそうだったが、5分刻みでタイムスケジュールを組んで巡った。個々の城郭の滞在時間は攻城団の平均時間をそのまま組み込んでいる。近代は城郭自体は現状で作品としてほぼ完成されており範囲も限られているので攻城は容易だ。その上各媒体で頻繁に取り扱いされており露出も多い。初見の感じが薄く、眺める・確認する、もちろん驚きもするが頭を使うことはそうそう無い、観光客と変わりない。よって滞在時間は短くなる、その上建物内部を見ることも省いているからなおさらだ。それ以外の城郭になると、立ち止まる・考える、探す・考える、眺める・考える、時には引き返すの繰り返しで中々先に進めず時間が長くなる傾向だ。だが、近代とその他が交互に組み合わさっているので各日の終了時間は±30分程度の誤差だった。

途中100城・続100城以外も巡ったが、基本は100城・続100城縛り、今回で丁度折り返し時期となった。前回は残雪のサブテーマーもありお腹一杯満足して終えた。今回は違う、不満ではないが腹一杯ではない、腹八分目にも満たない、とにかく食い足りない。強制終了も原因かもしれないが自分でも不明である。

今後の終活シリーズも様々な事が頭を巡っている、ルート・時期・その他、「・・・義務なのか」のテーマの答えはせめて9割終了してからと考えている。

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ぴーかる

難渡島 (2022/05/03 訪問)

【甘崎城】
<駐車場他>甘崎港駐車場<34.242061, 133.052077>
<交通手段>車

<感想>日帰り伊予海賊海城攻めの旅5城目。甘崎城は諸説あるが671年に越智氏によって築かれた。鎌倉時代には海武士を取締まる城砦、元寇以降は海上交通の取締り拠点、南北朝から戦国期は村上水軍の城となる。豊臣時代には藤堂高虎の属城となり、従弟の良勝が城主となるが藤堂高虎の転封によって廃城となります。
 海割れ時にしか渡れない城でこの日の干潮時刻18:08頃に間に合うように来たが、添付写真に見るようにあと僅かで渡れない。後で調べると年に数回しか海割れが起こらないそうで残念な結果に。5/3の今治市の潮位干潮38㎝であと30~40㎝下がってくれれば行けるという感じなので調査して攻城してもらえれば。下の砂地が見えるので下半身浸かってもいいなら夏場干潮時渡れそうです。先達の渡っている方々すごいです。
 これにてこの旅終了、自家用車の自損をしてしまったがあとは無事帰還しました。700㎞走破。

<満足度>◆◇◇

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火ノ島豊後守正宗

若桜鬼ヶ城 (2022/06/05 訪問)

続63城目。
若桜駅のすぐ近くに観光案内所があります。
ここでスタンプと御城印と城までの情報をゲットしてお城の登山口まで移動しました。案内所の方は親切丁寧で大変助かりました。
登山口は2つありましたが、「八幡広場登山口」の方は立ち入り禁止になっていました。その為、もう一方の「第一町民体育館裏登山口」から登城しました。
40分程度かかり登山することができました。久方ぶりの本格的な山城の登頂であったため足がパンパンになりましたが、山城を制覇したときの感慨は半端ありません。改めて城を一つゲットした程の喜びを感じることができました。山頂の本丸で食べたおにぎりがとても美味しかったです。

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織田晃司

後藤氏の城で (2022/06/04 訪問)

観音寺城の支城。
南面に石垣が良好に残る。

北向岩屋十一面観音の参道前に駐車場があり、そこから登城コースがありますが、駐車場までの道は狭く対向車を交わすのは難しい。

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