小諸城(懐古園)はミニ動物園とミニ遊園地を附設した昔ながらの景観が維持されている、今となってはむしろ珍しい城跡。深い谷に囲まれた独特の地形が動物園や遊園地との併存を可能にしているのかも、とふと思った。
+ 続きを読む
検索結果・・・「」を含む投稿
2022/12/04 10:30
ミニ動物園とミニ遊園地が今なお並存しているのはむしろ珍しいのでは。 (2022/05/07 訪問)
小諸城(懐古園)はミニ動物園とミニ遊園地を附設した昔ながらの景観が維持されている、今となってはむしろ珍しい城跡。深い谷に囲まれた独特の地形が動物園や遊園地との併存を可能にしているのかも、とふと思った。
+ 続きを読む
♥ いいね
7人が「いいね」しています。
2022/12/04 07:03
後編 (2022/11/12 訪問)
城址碑のある主郭(城山山頂)で10分ほど休憩し、しとどの窟へ向かいました。コースマップでは45分となっています。山道ですが歩きやすく気持ちのいい散策路でした。ただ……長いです。
やっとのことで抜け出た椿台は県道椿ラインの展望所で、ライダーさんたちの休憩スポットにもなっていて、幻の路線バスの停留所もありました。(1/2のみ運行とか。カーブが相当怖そうです。)
椿台から短いトンネルを通った先がしとどの窟への入り口。そこから急坂を400m下りますが、ありがたいことにアスファルトで舗装されていました。くねくねと曲がりくねった坂道を下った先から少し階段を上がってようやく岩窟に到着です。
寂しいと思えばめちゃくちゃ寂しいところですが、真新しい解説板もあって、迎え入れてくれている安心感がありました。
この洞穴の上に大庭の追手が二人いたなとか、梶原景時はこのあたりから覗いていたなとか、大河ドラマの場面を思い出しながら暫しその世界に浸り思いを巡らせました。
これでこの日の探訪は終了。湯河原駅に戻るために再び土肥城を目指します(‘◇’)ゞ
2度目の山頂は午前中には見えなかった初島や大島まで見渡せてラッキーでした。
ピクニックグラウンドまで戻ったところから林道が二方向に分かれているのですが、ウォーキングマップに従い、登ってきた道ではなく西側の宮下林道の方に進みました。林道を下るだけだから楽だろうと思っていたのですが、景色があまり変わらないせいもあってか、林道始点のゲートもなかなか現れず、ものすごく遠く感じました。(写真⑩にそれぞれの距離が書いていなかったのですが、気になって後日山歩きをされる方のブログの写真を見ると西側の林道は湯河原まで5000mの標識があり、わりと遠回りだったことが判明しました。)
でもまぁ、無事に帰れたのでOKです!
ちなみにしとどの窟はこの湯河原のほかに真鶴にもあるそうです。(Googleマップでは土肥椙山巌窟が湯河原。)
真鶴の方はここまで労せずに行けそうなのでそちらも行ってみたいです。
+ 続きを読む
♥ いいね
19人が「いいね」しています。
2022/12/04 06:08
2022/12/04 05:48
2022/12/04 05:35
六所神社&善性寺 (2022/12/01 訪問)
六所神社と善性寺が推定地です。東急世田谷線「松原駅」より徒歩5分弱で六所神社に行くことができます。さらに5分くらい歩くと善性寺に行くことができます。遺構はないと思われます。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2022/12/04 05:28
烏山神社 (2022/12/01 訪問)
烏山神社と世田谷文学館付近が推定地とされています。京王線「千歳烏山駅」より徒歩5分くらいで烏山神社に行くことができます。さらに5分歩いて世田谷文学館へ行きました。帰りは「芦花公園駅」を利用しました・
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
2022/12/04 05:23
2022/12/04 05:05
晃華学園 (2022/12/01 訪問)
晃華学園となっています。学校の写真を撮るときは緊張しますね。正門には守衛さんがいたので、西門と隣の里の稲荷神社を撮って退散しました。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2022/12/04 05:01
島屋敷 (2022/12/01 訪問)
京王線つつじヶ丘北口よりみたかシティバスに乗り新川団地中央下車。徒歩1分で島屋敷遺跡解説版に行くことができます。解説版は2カ所あり、さらに徒歩1分くらいの場所に中近世の島屋敷遺跡解説版がありました。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2022/12/04 00:59
2022/12/03 19:21
九州発:佐賀・福岡:4日目最終・・・阿志岐(あしき)山城+葦城(あしき)城+天ケ城+古代山城
城跡を訪問するようになって城名やその土地名に当て字が多い事に気が付いた。鹿児島市に喜入町という地名がある、そこにある城びと登録の城は給黎城、読み方はどちらも「きいれ」だ。どこかの時代に喜入と当て字になったのだと考えている。熊本の水俣方面にある城びと登録の久多良木城、入口を確認しただけで訪問はしていない。行って気が付いた、入口の目印は百済寺だった、この周辺は百済木というらしい。「くだらき」が「くたらき」になってどこかで当て字になったのではと考えています。
初めて福岡県筑紫野市にある阿志岐山城の名前を見た時になんて珍しい呼び名だと感じた。
最終は阿志岐山城周囲にある城跡を訪問した。歩行距離は5.5km、累計高低差は493m、時間は3時間10分です、行かれる方は参考にしてください。マップ左に位置する円満寺の正面西側より林道が始まっています。私は第1水門を見た後に、マップ下の標高259m地点にある葦城城から宮地岳神社~宮地岳山頂(古代城)と進みました。ここから北に電力会社の管理道路を下がって行き第3水門を目指しましたがこのルートでは行けません、途中から山裾を通り辿り着きました。阿志岐山城のみの訪問でしたら。第1水門から第2・3と林道を通り途中山に入る方が早く、往復で1時間程度で廻れます。
行く前に軽く古代山城と葦城城を調べましたが出てきませんでした。阿志岐山城は発見されて四半世紀経っていない城、想像するに古代山城と共に昔から伝承の類が残っていたのだと思いますが、お互いの関連性は分かりませんし、今後も分からないと思います。古代山城は主郭と思える場所もあり、土塁らしき、浅い空堀らしき場所も確認出来ました。(帰宅後城郭放浪記さんの写真と見比べた所同じ場所の写真が幾つか撮っていたのでその中の1枚を9枚目に添付しています。)歴史的裏付はないけれど確かに存在していたようです。
葦城城は呼び名は(あしき)。阿志岐山城と同じです。きっとどちらかが当て字なのでしょう。こちらは帰って福岡県中近世城館報告書にを見ても出てきません。こちらも伝承の類の城跡か中世以前なのかもしれません。こちらにも曲輪・段曲輪が存在し、虎口らしい場所も確認出来ます。
調査報告書を見ていたらルート内にもう一つ有りました。マップの中で第1水門から南下し分岐する近く、電力会社の鉄塔の建っていた場所に「天ケ城」がありました。こちらは歴史的裏付もしっかりとしていて縄張図もあります。実は他にももう一つ葦城城と天ケ城の阿飯田に浅い堀切で区切られた曲輪と石列に囲まれた場所もありました。それっぽいのですがちょっとわかりません。
こちらの住所は現在、筑紫野市阿志岐と言い、以前は葦城村だったそうです。
参考:困った時の城郭放浪記さん、福岡県中近世城館跡調査報告書
+ 続きを読む
♥ いいね
11人が「いいね」しています。
2022/12/03 17:45
築土八幡神社 (2022/11/20 訪問)
東京メトロ東西線の飯田橋と神楽坂の間くらい、飯田橋のほうがやや近いでしょうか。
築土八幡神社が城跡推定地ですが遺構はありません。
神社は高台の上にあるのでそれっぽいです。
近所の方が通りすがりにお参りされている地域にも親しまれている神社のようです。
ちょうどイチョウが色付いていました。
+ 続きを読む
♥ いいね
17人が「いいね」しています。
2022/12/03 16:29
吉岡城(宮城県) (2022/11/26 訪問)
仙台藩主伊達政宗公の三男宗清の居城
〒981-3621 宮城県黒川郡大和町吉岡館下
CVWJ+R4 大和町、宮城県
仙台藩主伊達政宗公の三男宗清の居城跡
黒川郡の領主となった宗清は、まず下草城に入り、のち元和元年(1615)より吉岡城の築城にかかり、翌2年(1616)に完成し養母飯坂の局とともに吉岡城に移り城下町を開府した。(飯坂盛衰記)
同時期に発布された一国一城令で城を名乗ることがはばかられたので吉岡宿(吉岡所)ともいう。
吉岡宿は、宿場町の経済的な窮状を、町人たちがお金を集め、藩に貸した利息で宿場町の経済を支えたことを映画化した『殿、利息でござる!』に、宮城県出身のプロスケーター羽生結弦が出演しているのでも有名。
現状、一の丸があったとされる場所は、福祉センターが建つひだまりの丘(館下公園)となっており、その南方の隅櫓があった地域が城内大堤公園となっていて隅櫓が復元されている。近くの保福寺本堂の玄関は、吉岡城から移築されたものとされている。同寺には、後に吉岡を拝領し、戊辰戦争において奥羽越列藩同盟軍を率いて西郷が率いた西軍と戦った但木土佐成行の公邸の門も移築保存されている。
+ 続きを読む
♥ いいね
13人が「いいね」しています。
2022/12/03 16:26
おしゃれな街で穴城を想う。 (2022/11/27 訪問)
友達に会う為に都内へ。
【行った】をポチっとする為、JR山手線の恵比寿駅から「目黒氏館」に向かいました。
多分、ついで じゃなかったら、巡らなかったかもしれません。
鎌倉幕府御家人の目黒氏の居城です。
調べても情報が少なく、ポチっの為だと、歩きます。
恵比寿駅から緩く下りました。
左手を見ると上り坂。街道の向こうも上ってます。
おしゃれな お店や建物で、土地は覆われてますが、谷間を緩く下ってます。
驚いた事に、「目黒氏館」を示す『目黒学院中学高等学校』は、更に階段を降りた所にありました。
、、、地形、どうなってるんだ?
写真を写して、ふっと見ると ラガーマン。ラグビー部の練習なのか、走って行きました。
不審者と思われる前に退陣です。
お城攻めは、上って行く事が多いのですが、下って行った「目黒氏館」は穴城のような感じなのでしょうか?
目黒川方面から攻めたら印象が変わるかもしれません。
情報の少ない「目黒氏館」。
情報が無い分、想像力が豊かになりました。
+ 続きを読む
♥ いいね
21人が「いいね」しています。
2022/12/03 14:14
門に石垣に紅葉に (2022/11/13 訪問)
大手門と三の門が現存の建築物で、国の重要文化財に指定されています。
木の柱というんでしょうか、漆喰で隠していないので、無骨な印象を受けます。素敵です。
野面積みの石垣が大手門横や、二の丸(一部積み直しはあるよう)から本丸にかけて長々とみられ、迫力があります。
懐古園と表記されることが多いですが、多くの紅葉と深い谷から成っており、非常に趣深い景観で、単なる「城址公園」とするよりはこの名称が非常にマッチします。
大手門の内部は公開されており、現地のおとうさんが親切に解説してくださいました。
城下町よりも低いところに城があり「穴城」とも呼ばれるわけですが、「小諸は城下町じゃなく城上町だね」と教えてくださいました。なるほど!
ちょうど紅葉まつりの時期の日曜日でしたが、10時半ごろなら直近の駐車場に停めることができました。
黒門(一の門)を移築したものが正眼院にあるとのことですが、少し距離があるため寄れず。
またお城に復元移築していただけないものですかねぇ。
足柄門も光岳寺に移築されていますが、こちらは元あった場所がふつうの道路っぽいので、復元移築するのは現実的ではないのかも。
+ 続きを読む
♥ いいね
14人が「いいね」しています。
2022/12/03 11:41
中枢部消滅でも遺構がよく残ってます (2022/11/13 訪問)
一郷山城跡展望台、模擬天守閣風より四方を眺め終えて、東南東方向直線約13~14kmの本庄市雉岡城を目指す。
昨年の10月群馬県埼玉県未踏の城廻りの時間調整予備として藤岡城と雉岡城をリストアップして居ましたが藤岡城で夕刻時間制限で雉岡城は探訪出来ませんでした、今回の上野、武蔵未踏の城廻りに入れ初登城致しました、でも夕刻近くで写真写りはよく有りません。
情報源の古城盛衰記さん余湖図コレクションさんグーグルマップで城址公園南東の公園入口に駐車場とトイレが有りここにナビを定めて走行、ぴったりと到着しました。
到着してまず、土塁の規模にびっくり、大手郭内に突出した塁が有り出構えの様子、南には土塁が残り、東には土塁と水堀、北東部には水堀と伯耆郭が南に突き出てる、大手郭北と北東伯耆郭、西の本丸、本丸南の郭の間に水堀が残ってる、大手郭北側と本丸南郭の間に夜泣き石の有る空堀が在る、大手郭の北側の西に角馬出が残るが近年の改築で石垣は後世の物、角馬出の西に雉岡城縄張推定復元図が掲示して有り、郭の名称はこれを使用しました。
遺構消滅した部分は、本丸と本丸南郭が児玉中学校、三の丸と二ノ丸が児玉高校として使用されて居ます、南東部だけでも残って居り土塁、空堀、水堀、郭がこれだけの規模でも残り大切に城址公園として整備保存されてる事は大変ありがたい事です。
尚、グーグルマップの航空写真を見ると北側の三の丸跡北側の堀跡土塁跡塁線が樹木で痕跡が残ってる様に見受けられます。
歴史:城域は東西約270m、南北約430mに及び、山内上杉氏の築城、後北条氏の領有と成り鉢形城の支城、小田原征伐後徳川氏の領有と成り松平家清が1万石で入封し約10年治める、関ヶ原後松平氏は三河吉田城に転封となり廃城。
後北条氏の大改造で北条流築城、松平氏が10年で改造したのかどうかは?1万石では改造も余り無かったのではと思ったりしたり?
夕刻迫る登城探訪でしたが2年振りにやっと登城する事が出来、規模の大きい土塁、曲輪、水堀に感嘆しました。
+ 続きを読む
♥ いいね
17人が「いいね」しています。
2022/12/03 08:27
2022/12/03 07:17
献血後の攻城 (2022/11/12 訪問)
郡山での献血に時間がかかってしまい、遅い昼食をとった後、赴きました。住宅地となってしまっていて遺構はほぼないも同然かと思いますが、大河ドラマ「独眼竜政宗」で三浦友和が演じた伊達成実が陣を敷いた歴史の地であるようです。小さな公園に城址碑と説明板が建っています。
+ 続きを読む
♥ いいね
9人が「いいね」しています。
2022/12/03 06:08
2022/12/03 00:34
【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第14回)臼杵城(丹生島城)② (2022/09/26 訪問)
(臼杵城①からの続きです)
大友宗麟は、心血を注いで建てた教会・修道院・学校・病院が焼き払われ、臼杵の街が廃墟となったことに相当な怒りを憶えました。そしてこの無念を晴らすべく、このまま籠城せずに何と討って出る事にします!
この時、宗麟にはある秘策がありました。それは秘密兵器「国崩し(フランキ砲)」です(写真①)。ポルトガルから輸入し、日本ではまだ誰も使った事もない見た事もない兵器でした。宗麟は平清水(ひらそうず)に布陣している島津軍めがけ砲撃しました(臼杵城から平清水を眺めた写真②から想像イメージ写真③を作ってみました。こんな感じでしょうか?)。すると、凄まじい爆音とともに着弾し、島津軍はもう度肝を抜かれ大混乱! そして多くの兵が死傷しました。
その隙に、前日から海を渡り隠れていた兵が、平清水(龍原寺付近)(写真④)の島津軍の本陣めがけ果敢に討って出ます。そして、動揺している島津軍へ襲いかかりました。島津兵はさらに驚き退却を始めますが、二王座の切通し(岩を砕いて作った狭い道)(写真⑤)まで退却したところで、同じく前日に海を渡り待ち伏せていた吉岡統増(妙林尼の子)が率いる鉄砲隊が一斉射撃! これに多くの武将が打ち取られてしまいました(またイメージ作ってみました:写真⑥)。
島津義久は、多くの死傷者が出た事と秀吉の大軍が豊前を南下中との知らせを受け、今後の豊臣との決戦に備え、薩摩全軍の体制を立て直すべく、家久へ「もはやこれまで、薩摩へ撤退せよ!」と命令します。念願の宿敵「大友宗麟」の首を討ち取れる寸前あと一歩の所までせまっていた島津家久でしたが、命により無念極まりなく撤退をする事にします。これで、島津の九州制覇の野望は完全に消えてしまいました。そして大友宗麟はこれにより豊後を最後まで守りぬく事ができたのでした!
次は、津久見(大友公園:宗麟墓所)へ続きます。
【余談:臼杵観光】
臼杵城の周辺は、城下町の面影を思わせる街並みがよく残っていて、散策するにはとても良いところでした。城から正面にまっすぐ続く石畳の道は、宗麟が作った道で、突き当りにはかつては教会やセミナリオ(修道院)・病院・学校などがかつてあり、南蛮人も多く、ゾウもここを歩いていたとか?(イメージ写真⑦)。今ではこの石畳の道に、臼杵名物の味噌・醤油の店(フンドーキン・富士甚)やおみやげ屋が並び、教会を模した休憩所などもありました(写真⑧)。またすぐ横の「二王座歴史の道」には、鉄砲を撃ちかけたとされる切通しや、稲葉貞通時代に建てられた寺が多く残っていました(写真⑨)。少し行った所には「臼杵石仏」などもあるので(写真⑩)、臼杵城を訪れた際には、これらも散策される事オススメです!(私もゆっくり歩いてきました😊)。
+ 続きを読む
♥ いいね
15人が「いいね」しています。
✕
人が「いいね」しています。