(14人目)池田輝政「姫路城」の続きです。
家康から西国を牽制する城の築城を命じられたとはいえ、なぜ輝政はここまでの大天守を持つ大城郭を築いたのでしょうか? 城内を見学してもその手掛かりは見出せませんでした。そこで私は姫路城の天守最上階に立ち、築城開始1601年当時の輝政の気持ちになって空想してみました。西側を眺めた時(あれ😯?)ある事に気づきました! 池田輝政はある人物の生き方にとても似てませんか?
徳川家康は豊臣秀吉の妹を正室に迎え五大老筆頭となり力をつけ、その裏で不満を持つ諸将を味方につけ、そしてその間に壮大な渦格式の江戸城を築き、自分より年上である秀吉の死を待って天下取り(関ケ原)へ動きました。もしかして輝政も同じ事を考えていたのではないでしょうか?
(ここから先は私(トク)の空想の世界です)
自分は家康様よりまだ22才若い。そしてこの姫路より西国には、表向きは徳川に従ったとはいえ密かに不満を持つ大名(毛利輝元、黒田官兵衛、加藤清正、島津義久)らの総勢20万の軍勢がまだ無傷で残っている。家康の娘の督姫を正室に迎え縁者となりその下で手柄を立てここまで大きくなれた。そして同じく渦格式で壮大な姫路城を築き始める事もできた。もうすぐ家康様は死ぬであろう。これまで家康様には従ったが秀忠に従う気は全くない。これからは逆にこれら西国の諸将と手を組み、完成した姫路城の大天守から豊臣秀頼様を奉じて天下に号令をかけ、秀忠を討ち父兄の仇である徳川家を滅ぼす。そしてこの私が家康様に代わって天下人となり征夷大将軍に・・・(とは考えすぎでしょうか?)
しかし結局、1613年に輝政は家康より早くまだ50才の若さで突然この世を去ってしまいます(脳卒中とも)。輝政の野望はついに実現する事はありませんでした。清正に続き輝政の突然の死に、大坂方(豊臣秀頼)には衝撃が走ったようです。大坂の陣が始まる2年前の出来事でした。
これに気づいた徳川秀忠は、大坂の陣(豊臣滅亡)翌年の1616年に父の家康が亡くなると(享年75)、輝政の跡を継いだ池田光政がまだ幼く物言えぬのをいいことに、今度は姫路を召し上げ池田家を岡山と鳥取と洲本に分散、そして中心の姫路には楔(くさび)の役として重臣の本多忠政(四天王であった忠勝の子)を桑名より入れました。これは池田が豊臣や毛利に取って代わる存在にならぬよう姫路から忠政に監視させたものと思われます。その後、本多、松平、酒井氏などから城には装飾が施され、姫路城は戦う城から魅せる城へと変貌して行ったのではないでしょうか。
そう考えると私はこれまでの全ての疑問が解決しスッキリしました!
専門家の方々には大変失礼な内容ですいませんでした。
以上、トクの自分勝手な空想物語でした~😊
次は、(15人目)に続きます。
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