【熊本城と西南戦争の遺跡を巡る④】薩軍と西郷隆盛(後編)
(2022/06/22 訪問)
「③薩軍と西郷隆盛(前編)」からの続きです。
熊本城包囲戦に切り替えた西郷は、13,000の軍勢で城を包囲します(籠城する官軍は3,300)。そして、北と東と南からの突入は扇勾配の高石垣や連続桝形、49の櫓、18の櫓門、それらを囲む堀や白川・坪井川など、完璧な縄張りで城にたどり着くことすらできませんでした。そこで西郷は熊本城で最も手薄(縄張りの弱点)とされている城の西側からの攻撃に勢力を集中する事にします(天守最上階から見た西側の写真④を再度掲載します。確かに西側はなだらかな丘陵地帯です)。
清正も、実は築城中にこの西側が唯一手薄であることに気がつき、二の丸との間に西出丸を築き、その両側には大きな堀を築き、堀の上には高石垣、さらにその上に無数の鉄砲狭間を備えた長塀、その背後には最も大きな櫓(宇土櫓)を築きました
明治初期の写真⑤を再度掲載しますので見て頂きたいと思います。 確かに西出丸の横には当時は水を湛えた大きな堀があります。そしてその堀から上には高さ20mの石垣、さらのその石垣の上には、現在はありませんが当時は無数の鉄砲狭間を備えた長塀がありました(確かに写真には長塀が写っています。写っている部分だけでも数えてみたら60以上の狭間がある😲!)。そして、さらにその背後には巨大な宇土櫓がにらみをきかせているのが見ておわかりになると思います。清正は、唯一の弱点と言われている西側でさえも当時このように鉄壁な防御を施し「ここ(西側)を攻め落とすだけでも100日はかかるであろう。その間にわしは大坂から戻ることができる!」と豪語していたそうです。
薩軍は何度も西側から突入を試みます。しかし官軍も必死に抵抗しなかなか城は落ちません。それどころか今度は薩軍がひるんだすきに城より討って出ます。激戦地となった藤崎台のくすの木には弾痕の跡が残り(写真②③)その下の段山には「激戦地の碑」(写真①)が建っていて、ここで激戦があった事を物語っていました。
そして52日間に及ぶ戦闘で、ついに西郷(薩軍)はこの唯一の弱点と言われていた西側さえも落とす事はできませんでした。築城から270年を経て清正が豪語した言葉が本当であった事がこれで実証されたわけです😲!
熊本鎮台が包囲されたとの報告を受けた「大久保利通」などの明治政府は、「有栖川宮総督」を筆頭に「大山巌」「乃木希典」などの最新の大砲や銃を備えた精鋭の部隊を熊本鎮台の救援に向ける事を決意します。その部隊が博多へ上陸し北部九州を南下中との報告を受けた西郷は、この部隊が到着すると大変な事になると熊本城の城攻めはあきらめ、その部隊を迎え撃つべく主力を最も街道が狭く曲がりくねった城から北西部の「田原坂(たばるざか)」へ向かわせる事にしました。この時、西郷は最後にこうつぶやきました。
「おいどんは官軍に負けたとじゃなか、清正公に負けたとでごわす!」
次は、田原坂を歩きます(⑤田原坂へ続く)。
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