みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

leo_2016

安土城天主復元図

公益財団法人 前田育徳会 尊経閣文庫 様より、部分翻刻の承諾を得ました。

「安土日記等を設計条件とする安土城天主の復元」
構想から四半世紀、作図を始めて約2年掛かって、やっと平面図と立面図がほぼ、完成しました。
未だ、遣る事が沢山有りますが、一先ず公開に漕ぎ着けました。
興味の有る方はご覧下さい。リンクフリーです。
携帯からは観づらいかもしれません。

www.goodfield-design.com

+ 続きを読む

hironobu23

高島城 (2021/05/03 訪問)

無料駐車場からすぐ城内に入ることができ便利です。
近くに温泉や諏訪湖.諏訪大社もあるので、一日楽しめますよ。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

まゆ

長篠・設楽原武将印

設楽原歴史資料館にて
武将印10種発売されたので
ゆかりの地全部コンプリートしました
ハードル高い場所もいくつかありましたが
長篠の戦い好きには、ウハウハです
あと、武田好きにも
聖地過ぎまする
そして、全て近所過ぎました

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

敦賀陣屋(福井県敦賀市鞠山) (2021/05/04 訪問)

敦賀陣屋(城びと未登録)は、江戸前期、小浜藩主 酒井忠直の二男 酒井忠稠が遺領一万石を分知されて敦賀藩を立藩し築いた陣屋です。敦賀藩酒井氏は定府大名であり、陣屋には郡奉行らを置いて八代に渡り続きましたが、明治に入って鞠山藩と改称した後に宗家の小浜藩と合藩して廃藩となり、陣屋も払い下げられ取り壊されました。

敦賀陣屋は日本三大陣屋のひとつに数えられ、往時は本陣のほか長屋、門番所、土蔵などがあったようですが、現在は陣屋跡は立ち入り禁止の更地になっていて、遺構はありません。陣屋跡南西部には藩祖 忠稠を祀った鞠山神社があり、歴代藩主ゆかりの品などが奉納されているようです。

敦賀の街を自転車でめぐった後、金ヶ崎公園駐車場に戻り自転車を収納して、車で鞠山神社へ。下調べでは神社の前に駐車スペースがあるとのことでしたが、「24時間駐停車禁止」の表示があったので、やむなく引き返して集落手前の道路の路肩に駐め、駆け足で写真を撮り、神社にも参拝せずに撤退しました。帰宅してから調べてみると、鞠山神社西隣の公園に駐車場があるようなので、そこに駐めて歩いて行けば良かったな、と。

それにしても、氣比神宮の鳥居といい気比の松原といい。敦賀って「日本三大○○」の多い町なんですね。まさか一日で3つもめぐることになろうとは。
 

+ 続きを読む

わんちめたる

美しい水軍城 (2021/04/19 訪問)

北条水軍基地 
一度はで是非

+ 続きを読む

わんちめたる

こんな景観地が実は古戦場 (2021/04/25 訪問)

逗子マリーナの素晴らしい景色
実は 激しい古戦場だったんですよね

+ 続きを読む

小城小次郎

マニアックな見どころが集まっている (2021/02/27 訪問)

御殿跡の碑は不思議なことに水路の上に立っているが、この水路(葛西用水)はどうやら御殿跡地のど真ん中を貫いているらしい。葛西用水と元荒川との「立体交差」や建長の板碑など、マニアックな見どころが集まっている。

+ 続きを読む

ぴーかる

恩智城/恩智左近墓地 (2021/05/09 訪問)

【恩智城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>バイク

<感想>バイクでちょこ城巡りのツーリング、大阪府内限定第2弾ラスト7城目。現地の史跡碑をまとめると、恩智城は南北朝時代以前にこの地の豪族恩智左近満一が築城した。恩智左近は楠木正成に味方し楠木八臣の一人である。1348年四条畷の戦いで楠木正行が戦死したのちこの恩智城も落城しました。現在の城跡は二の丸跡になるようです。また学生頒布の際にこの地に小学校があったようです。
 城跡は高安山系の西麓にあり城跡碑がある場所は遊具のある場所より一段上がってはいるが、改変されているのかは分からない。
 恩智左近の墓地は徒歩3分程の<34.607135, 135.632373>の地点にありますので是非御立寄りを。

 今回のちょこ城巡りは昼食も摂らず駆け足で回り、不要不急の外出という意味ではちょい違反ですが人と完全非接触で行けました。また行きます。走行距離77㎞無事走破。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

140年振り故地に復帰した表門 (2021/05/15 訪問)

 15、6年前に木の香りも清々しい頃、発掘調査の上復元、修復され陣屋門構えが完成した折に初登城して以来の再訪、近々に明治の取り壊し以来たつの市西法寺に移築されて山門として使われてた表門が佐用町に寄贈され、表門付近の発掘調査の上、表門の修復、表門虎口の地表面展示が元表門の付近に再現復元されましたので是非見たいと訪問しました。
 15、6年前の真新しい柱、塀は風雪に晒され年期を帯びて風格を帯びて来ました、久しぶりに裏表、土曜日でしたので内部も見学、資料も頂き、管理人の方に説明も頂き申し分ありません。
 表にはルピナスの花が綺麗に咲き、観光客のほとんどはそちらの方が主体の様子。
 
 駐車場:陣屋門構えの裏の砂利駐車場を利用、前の通りにも2台程可能

【修復再現表門】
 所在地:陣屋門構えより南東に約300m(N34°59'22"E134°26'02")佐用町乃井野746-6周辺スマホコンパスデーター
 駐車場:敷地内に2台可能、しかしモルタル地表展示されており使用しない方がいい。交通量少なく路駐可能
 概要:小公園と成って居り修復復元表門、本の近くに在った堀も石列で地表展示、元在った表小路より東に数メートル東に展示。よく残って居り三日月藩の現存陣屋建物は物見櫓と表門の二棟、大切にしたい文化財です。現在見える事に感謝です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

佐用川段丘にひっそりと❣ (2021/05/15 訪問)

 昨年11月上月城探訪の後国道373号線を北上中に左側に佐用城(福原城)への案内標識を確認し寄って行こうか?一瞬思いながら次の鳥取城中の御門表門工事中を日の有る内に見たいと先を急ぎ、寄らなかった事がずっと脳裏に残り今回の母の法要の帰りに、無料の鳥取道を南下し佐用平福ICを降り利神城を道の駅平福で眺め案内解説板、想像図を目視、撮影し石垣修復中の利神城を仰ぎ見て目的の福原城を初登城。
 国道373号線沿いの福原城標識は南から上って来る時は良く分かるのですが北から南下中は分かりにくくちょっと行き過ぎましたが引き返し標識を見つけ山手側に進入、駐車場は在りません。

 今回の駐車場:山手進入約100m程し道が狭く成った所に砂利等資材置場を仮路駐(N34°59'44"E134°21'07")佐用町佐用1580-1周辺とスマホコンパスの情報です。また手前の若干広い道に路駐も可能かも?交通量は少ない。
 
 其処から山手方向を見ると高い杉と樹木がこんもりした鳥居と階段が見える、そこが目的の福原城本丸、少し集落道を登りますが、畑跡地か曲輪跡か草が刈りこまれ芝状態になった平坦地、北側に土塁上の高まり、下一段曲輪か元畑跡地か綺麗に整備されてる、その下は水田、本丸、櫓台か?神社が鎮座、城石碑も有る、西は堀切道、北は崖で住宅等、千種川の支流佐用川の西側段丘を活用したコンパクトな城跡です。

 歴史:室町期赤松36家衆のうち福原氏が受け継ぎ居城、戦国末期織田方羽柴秀吉との攻防により落城、後世土地の人々によって福原氏を祀るため一社を造営され「福原霊社」として広く崇敬されている。(佐用城(福原城)案内解説板より抜粋)

 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

敦賀の街めぐり (2021/05/04 訪問)

敦賀の街なかを自転車でめぐるのがあまりに快適だったので、城以外にもあちこち訪れてみました。

氣比神宮
上古から北陸道総鎮守と仰がれ、国重文の大鳥居は日本三大木造大鳥居のひとつに数えられます。なお、恒良親王、尊良親王を奉じた新田義貞を自らの金ヶ崎城に入城させ、落城時に尊良親王らとともに自害した気比氏治、織田信長の越前侵攻に際し、天筒山城に立て籠もって織田軍と戦った気比憲直、ともに氣比神宮の大宮司です。

妙顕寺
織田信長が天筒山城を攻める際に陣を布いたとされる寺で、立派な仁王門や本堂は建っていますが、陣跡を示すようなものは特に見当たりません。ただ、朝倉方についた氣比神宮は目と鼻の先なので、ちょっと驚きました。

旧敦賀港駅ランプ小屋
前方を照らす照明がまだ機関車に備え付けられてなかった頃に用いられたランプを保管・管理するための小屋で、開業当時のランプ小屋内部を再現した部屋と、案内パネルやパンフレットの置かれた部屋があります。

キハ28と敦賀赤レンガ倉庫
「急行わかさ」として小浜線を走っていたキハ28(の同形車両)が敦賀赤レンガ倉庫の隣に展示されています。本当は赤レンガ倉庫内にも入りたかったんですが、人出が多く密を避けるため、外観だけで我慢です。

旧敦賀港駅舎(敦賀鉄道資料館)
新橋から金ケ崎駅(後の敦賀港駅)を結び、敦賀港から連絡船でウラジオストクに渡って、シベリア鉄道経由でヨーロッパに至る欧亜国際連絡列車の発着駅となった駅舎を再現した建物で、内部は敦賀鉄道資料館になっています。本当は資料館にも入りたかったんですが(以下同文)。そういえば、「いだてん」でも金栗四三たちはシベリア鉄道でストックホルムに向かいましたが、やはりこの地からウラジオストクに渡ったんでしょうね。

敦賀シンボルロード
敦賀駅から氣比神宮まで約1㎞の商店街の両側に、銀河鉄道999(16体)と宇宙戦艦ヤマト(12体)のモニュメントが設置されています。松本零士作品全盛期の世代としては見逃せない! ということでひと通り見て回りましたが、どうして作品の舞台でもなく作者の出身地でもない敦賀に? という疑問はありつつも、鉄道と船(欧亜国際連絡列車)によって未知の世界へと旅立つ地という意味ではわからなくもないのかな、とも。

敦賀市立博物館
国重文の旧大和田銀行本店を活用した博物館で、敦賀の歴史や港、鉄道などに関する資料が展示されている…ようですが、これまた外観だけで(以下略)。

洲崎の高燈篭
江戸後期に回漕業者の庄山清兵衛が建てた石積みの高燈篭で、毎夜ともされる灯火は敦賀湊を出入りする船の目印となりました。日本海側では現存最古の和式灯台と言われ、敦賀観光ホテルの前に建っています。

気比の松原
日本三大松原のひとつに数えられる白砂青松が美しい景勝地…なんですが、連休中に密を避けて外出しようという人々が(私もですが)押し寄せていたので、松原を少し散策して早々に退散しました。かつては氣比神宮の神苑でしたが、織田信長に敵対したことで没収されたんだとか。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

木曽デビュー (2021/05/03 訪問)

県境を越えないゴールデンウイーク、直近1週間の感染者数が0の木曽圏域をターゲットにしてみました。県歌「信濃の国」に謳われてる木曽の桟と寝覚ノ床、それに赤沢森林鉄道で木曽デビューを果たした後、木曽福島の山村代官屋敷に立ち寄ってから、木曽福島城を攻城しました。木曽の城初攻城です。堀切や郭など、それなりに見応えがあって満足できました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

tshimojima

家康と家康に過ぎたるもの (2019/05/03 訪問)

徳川家康のお城ですが、完全に本多忠勝のほうが目立っている印象があります。見た目としても忠勝のほうが圧倒的にカッコいいので仕方ないですね!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

皐月の鹿野城 (2021/05/15 訪問)

 母の法要で寺参りと墓参を済ませ城域内に在る寺なので鹿野城(別名王舎城)を少しの時間探訪しました、天守台の有る城山には登ってませんが周辺をぐるっと、近世城郭に仕上げた亀井新十郎茲矩は南蛮貿易にも手を染め自信を琉球守、城名を王舎城とし、城山の曲輪にオランダ櫓、朝鮮櫓を造るくらい海外貿易に関心が在り、治政37年間(2代政矩含め)津和野に移封されましたが鹿野町始め旧気高郡の人々に慕われて居ます。
 また檀家寺は池田輝政の4男輝澄播磨山崎藩主6万8千石がお家騒動で改易鳥取藩池田光仲にお預けと成って因幡鹿野に堪忍料1万石を与えられ居住した跡だそうです、明治以降に寺地に成りましたがその頃の庭園が残って居り季節季節に見事な色合いを見せてます。

 今回ルート:城山神社鳥前⇒二の丸、出丸、中学校内⇒内堀の赤い橋を渡る⇒本丸虎口、本丸、中学校グラウンドウ⇒戻り二の丸東側⇒内堀、薬研堀⇒外濠の外を東から西へ畑道を歩く⇒案内表示石碑(内堀北、旧小学校の間の道沿い)⇒元の神社鳥前。
 若干曇りで梅雨の走り前の晴れ間の様子、青空で新緑の城山を久しぶりに見る事が出来ました、此処は桜の名所でも在りますので桜の頃が最高です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

自転車で痕跡めぐり (2021/05/04 訪問)

織豊期に蜂屋頼隆により築かれた城で、蜂屋頼隆の病没により大谷吉継が城主となりました。大谷吉継が関ケ原の戦いに敗れ自刃したことで、敦賀は福井藩領となり結城秀康によって代官が派遣されていましたが、一国一城令により廃城となりました。

真願寺から敦賀西小学校、八幡神社、西蓮寺、稲荷神社にかけてが比定地とされますが、目立った遺構はほとんどありません。それでも城の存在を示すものはあちこちにあるようなので、車は金ヶ崎公園駐車場に駐めたまま、積んできた折りたたみ自転車で敦賀城の痕跡をめぐってみました。

真願寺
城の北西部にあたり、敦賀城礎石と城跡碑があります。参拝者用駐車場2台分有り。また、北辺を流れる赤川は堀の名残のようです。

敦賀西小学校
城の中央部にあたり、発掘調査でも建物遺構が発見されているようです。南東隅に敦賀城とその後の奉行所、代官所、県庁の変遷について記された石碑が建てられています。

八幡神社
城の南東部にあたり、大谷吉継が奉納したと伝わる社殿の龍の木彫や、石灯籠、石鳥居があります。大谷吉継を描いた絵馬も奉納されていました。また、境内にある敦賀郷土博物館にも大谷吉継ゆかりの品が収蔵されているようですが、コロナ禍により臨時休館中だったため、未確認です。あと、郷土博物館の玄関脇に無造作に置かれている笏谷石っぽい鬼瓦や礎石が気になりました。敦賀城の遺構?

西蓮寺から稲荷神社
城の南東端で、この辺りが三ノ丸だったようです。西蓮寺西隣の空き地に三ノ丸趾碑があるとのことで訪れるも見当たらず、よく見てみると草の中に倒れていました。また、稲荷神社あたりに三の丸の名のついた地蔵尊の祠があるようなんですが、こちらは見つけられませんでした。

来迎寺
笙の川の西岸にある来迎寺には敦賀城の中門が移築されています。また、敦賀城内にあった腰高障子が伝えられているようです(未確認)。

永賞寺
敦賀城とは直接関係ありませんが大谷吉継の菩提寺であり、笏谷石による九重の供養塔が建てられています。敦賀城から東北東に約1㎞、参拝者用の広い駐車場有り。

空は晴れ渡り、暑くも寒くもなく、駐車場所に頭を悩ませる必要もなく、高低差のない街なかを自転車ですいすいと走り回るのは実に快適でした。10年以上放置していた折りたたみ自転車でしたが、今後の街なかの城めぐりに活躍してくれそうです。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

刑部

鯛が泳ぐ城 (2021/05/02 訪問)

石垣の色・積み方が変わってる。それに1番感動したのは、水堀に海水の魚が沢山泳いでいたのにはびっくりしました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

刑部

ちょっと残念 (2021/05/02 訪問)

続100名城に選ばれた割にはそれ程見所は無かった気がします。私の見方が甘いかも知れませんが・・・。それでも館と城跡、両方見ることが出来ました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

山名氏伯耆支配最初の城、道崩れ登城断念 (2021/05/15 訪問)

 前泊のはわい温泉を朝飯前に朝駆けして初登城を目指す、温泉旅館からは東郷池越しに南東はるか羽衣石城三階櫓が小さく見えるロケーション、田内城は以前より認識は有ったのですが車移動の為駐車場の事が心配で延び延びに成ってましたが城びと昌官忠さんの田内城投稿でオムロン電気工場正門脇の空きスペース駐車と有ったのでGoogleMapの航空写真で確認し在りそうと判断し出掛けました。
 
 駐車場:オムロン電気正面から南に30m程の堤防下登り道の三角コーナー草原(N35°26'27" E135°50'14") 2台可、路駐
 
 今回のルート:堤防下路駐からオムロン電気正門過ぎ⇒堤防を登った西に入口案内看板⇒岩阿弥陀⇒田内城案内看板が倒れた登城口⇒狭いコンクリートブロックの階段を登る⇒足幅程の狭い斜め道⇒10m程登った所で道が1m程崩れてる、滑った足跡も有り法事前に汚れたり怪我をしても仕方ないので登城を諦める。(情報とガイドは古城盛衰記さん)
 途中までと周辺を撮影して終了

 歴史:建武4年(1337年)上野山名城主の山名時氏が伯耆国守護と成った際、守護所を築城、完成後は嫡男師義を城主とした、のち伯耆守護に成った師義は延文年間(1356~1361年)に打吹城を築き守護所を移転、田内城は廃城、廃城されるが戦国期打吹城の出城として運用? 天文13年(1544年)の天神川、小鴨川の大洪水で「見日千軒ミルカセンゲン」と呼ばれた城下は全て流失、守護代南条氏によって城下町は打吹山麓に移された。

 帰って再度調べたら今回南からの急峻なルートでしたが北ルート、南西ルートも有りそうなのでもう少し調べ次回を期したい。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

宇利和利城/志紀長吉神社 (2021/05/09 訪問)

【宇利和利城】
<駐車場他>駐車場はなし。花塚山古墳前は墓地内なので駐車可能
<交通手段>バイク

<感想>バイクでちょこ城巡りのツーリング、大阪府内限定第2弾6城目。宇利和利城は南北朝時代、楠木正成の3男楠木正儀の居城だったそうです。瓜破城とも書き、大阪人にとって瓜破の地名があるのでこちらのほうがなじみがあります。先達方の投稿で城びとポイントには何もないとのことで私も城の出城(出丸?)だった可能性もある花塚山古墳の方にのみ寄った。古墳は市設瓜破霊園内にあり車両も自由に入れ古墳前まで行けます。古墳丘陵部はフェンスがしてあり立入ることはできません。
 ここもイオさんの投稿に習い、大坂の陣で真田幸村が戦勝祈願したとされる志紀長吉神社にも立寄ってみました。六文銭の勝守り等があります。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

八上城の支城、土居ノ内の帰りチョイ寄り (2021/05/14 訪問)

 舞鶴若狭道丹南篠山口ICを降りた辺りからナビに篠山城、八上城が画面に表示され存在の大きさが分かります、先に土居ノ内(大渕館)の探訪を終えて、西に直線2、3km程の沢田城に初登城、八上城からは北西に2、3km程、篠山城からは北東に1km程の所で直ぐ近くです。
 Googleの地図で見ると篠山盆地の田圃に浮かぶ小山に築城した様子が分かります、小林寺のすぐ裏が切岸で本丸、両翼に出丸か?出羽丸を控て馬蹄形、北奥が二の丸、搦手、周囲に池が点在し外濠の名残なのでしょうか?(現地案内板の城址平面図参照)

 先ずは小林寺を目指します。
 駐車場:小林寺山門前に参拝者駐車場(N35°04'45" E135°13'36") 10台以上は可能。

 登城ルート:駐車場⇒山門を潜り⇒本堂参拝⇒奥、本堂横の渡通路を潜り⇒長い階段を登る⇒三蔵法師聖骨塔⇒左横登城口⇒堀底道を歩き本丸、城石碑、説明板が有る⇒更に奥の北が二の丸搦手、回り込むと東の出羽丸、馬場と成る。私は本丸城石碑辺りで引き返す。
 お寺さんのお陰か地元保存会のお陰か本丸までは整備され歩きやすく見学しやすい城跡です、西の出羽丸は檀家さんの墓場に成ってます、東の出羽丸は行ってません。車で行け駐車場も有り大変ありがたい。
 
 歴史:同説明板によると沢田城は戦国の昔八上城主波多野秀治の命令で小林氏が此の地、滝山に築造したものである。小林氏は沢田及び、現在の黒岡・郡家の1100石余を領してた、小林氏4代が城主を務め初代城主長任が築城天文年間(1540年頃)、2代城主長治が父の菩提とし庵を建つ、4代重範天正7年(1579年)柏原八幡山で戦死、沢田城落城。(沢田城案内板による) 光秀の丹波侵攻で波多野氏と共に小林氏も滅亡。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ748