長岡城を占拠されてしまった長岡藩同盟軍は,栃尾に仮本営を構えました。進軍ルートは,まず見附に出て,南下して長岡城を目指す作戦に出ます。見附の「今町の戦い」では大勝して勢いに乗ります。
しかし,そこに立ちはだかるのは,天然の要害である八丁沖。
八丁沖は,長岡城の北東の郊外,北は百束(ひゃくそく),大黒(だいこく)辺りから,南は富島(とみじま),亀貝(かめがい)辺りまで。南北約5㎞,東西約3㎞の大沼で,中央は底なし沼。大蛇や怪魚が生息し,普段から人は寄り付きませんでした。
新政府軍は八丁沖の北端の大黒の地に堡塁を築き,さらに追加の援兵を送り込み,その数は3万人に達しました。
対して,長岡藩同盟軍はわずか500人余り…。
1868(慶応4)年6月14日,22日,7月2日と3度の夜襲を試みるも,突破できず…。
戦死者は増えるばかりで,手詰まりかという状況下,下級藩士・鬼頭平四郎の弟,熊次郎の存在に気づきます。鬼頭熊次郎は,八丁沖の漁労や山仕事に従事していました。河井継之助は,鬼頭熊次郎のポテンシャルが,阻まれ続けた八丁沖の渡渉に使えるのでは…と。
~続きは,八丁沖古戦場で(明日から遠征に出ますので,来週になります)~
現在の八丁沖は一面田んぼとなっています。2004年の「7.13水害」では,再び沼地となりましたが…。
大黒古戦場跡地には供養塔があり,あの山本五十六書の「戊辰戦蹟記念碑」が建っています。また,東京に医学校を開校した「長谷川泰翁像」も目を引きます。
そして,「長岡市北越戊辰戦争伝承館」があり,無料で鑑賞することができます。あの林修氏も訪れていました。
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