黒い色がキレイでした。
+ 続きを読む
検索結果・・・「」を含む投稿
2022/06/08 12:54
好きなアングル (2012/04/04 訪問)
黒い色がキレイでした。
+ 続きを読む
♥ いいね
6人が「いいね」しています。
2022/06/08 11:59
和歌山城 (2020/01/25 訪問)
和歌山城
+ 続きを読む
♥ いいね
4人が「いいね」しています。
2022/06/08 11:31
牛久沼に突出し土塁空壕が良好残存 (2022/05/29 訪問)
常陸小坂城を終えてまだ陽も高く、今回の企画に入れて無かった近くの未踏の城、東林寺城を目指す事にしスマホで情報確認、城びと、古城盛衰記さん余湖図コレクションさんの情報を参考にし、東林寺の住所にナビを合わせる、小坂城から西に約6~7km程、三日月橋を渡って北上すると東林寺が有り門前の駐車場を利用する。
東林寺の参道を行ったり来たり、案内板も無く登城口が良く分からない、丁度地元の方が通ったのでお聞きし、お寺の坂を登り、墓所を抜けると畑の右手に城、左手に城が在ると教えて頂く。(地元の方の城とは残存の土塁と空壕の事のようです。)
東林寺に参拝し、左手の坂を上ると墓地、東林寺城跡五輪塔が標柱、案内板と2基の五輪塔が桜の木の下に安置されてる、元は一ノ郭に在ったものを、牛久沼農地整備開拓に東林寺城一ノ郭の土砂を削り取り活用、その際にそこに在った五輪塔を東林寺に移したと記載有り、墓地を過ぎアコーディオン門扉(開けて有りました)を越えて右手北側へ。
三ノ郭で今は畑に成ってる、作業されてる地元の方にお聞きし北側に城が在る、南の竹藪の先にも城が在ると教えて頂く、北に200~300m歩きと三ノ郭虎口と土塁、空壕が有り壕は深く広い、余湖図コレクションさんの俯瞰図では東西に舌状台地を掘り込んでいる、北奥の四ノ郭を眺めて引き返す。
南に戻って東林寺西裏に二ノ郭空壕が広く深く標柱と共に残存してる枡形虎口の様子、ここも東西に掘り込んでる様子、東林寺敷地は四角い枡形郭の様に成って居る、東に抜けて、西、北、南は堀の切込で囲まれている。
一ノ郭は二ノ郭空壕を抜けて南に畑と民家が立って居る、畑の畦道を南へロードバイク自転車に載ってる方に様子を伺うと、南の先に土塁、案内板が有ると情報を聞く、南端に一ノ郭土塁、埋まった空堀跡、城名標柱、手ずくり感のある案内板令和3年2月新地の台地で活きる会作成、地元の方の活動で城探訪が出来る幸せを感謝です。
民家の私道なのか砂利道ですが三日月橋方向へ続いてる様に見受けられます。
東林寺に引き返すとき雉が飛んでいました、上手く撮影出来ず、約1時間探訪を堪能しました、良い城です。
東林寺の駐車場を使わせて頂き参拝し北の三ノ郭、南の二ノ郭、一ノ郭土塁を探訪するのが良いのではと思いました、四ノ郭に入らなかったのが残念ですが、舌状台地に一ノ郭、二ノ郭、三ノ郭、四ノ郭が連郭式に良く残って居り、一ノ郭は削られてしまいましたが牛久沼が南方に良く眺められます。
歴史的には、牛久城の岡見氏の築城で新地の地名は牛久城の新旧を窺わせると、秀吉方との攻防で北条方が牛久番を近隣の国人領主に交替で天正15年から18年(1590年)に掛け駐屯地的役割をしていたのかと、土塁空壕は北条方の牛久番が大いに関わった様です、廃城は豊臣秀吉の小田原征伐の後の様です。(案内板一部抜粋)
+ 続きを読む
♥ いいね
19人が「いいね」しています。
2022/06/08 00:49
2022/06/07 23:36
整備された空堀・土塁・曲輪に感動です (2022/05/29 訪問)
前日岩手浮牛城、宮城不動堂城、桑折城、大衡城、大窪城を初探訪終えて古川泊まり、朝食後即古川ICより東北道、東磐越道、常磐道、圏央道を約400km程南下し、圏央道牛久阿見ICを降りて約4~5km程、国道408号線小坂団地入口より50m程の所に小坂城入口階段、案内板解説板が設置されてる。
駐車場は入口の対面に小型車4台可能の専用駐車場が在る、バスは入口に1台可能、トイレの設置は無し。専用駐車場を利用。
昨年末に翌年令和4年の城廻り候補城郭を選定し、岩手宮城未踏の城、茨城の小坂城、千葉の利根川南側を一巡のコースに入れ桜の頃、草の伸びる前を狙って居たのですが武漢コロナウイルス新株感染拡大自粛も有り連休と思って居ましたがカーナビがダウンし入手までに時間が掛り5月の末と成り、小坂城は皆さんの投稿と直近の赤い城さんの投稿で私にも登れそうと新たに認知し城廻りに加えました。
登城階段で案内板、解説板を一通り読み登城開始、階段を登り土塁が目に入り興奮状態全開、三ノ曲輪へ土塁・空堀が西から北へ連なり、東に少し小さい四ノ曲輪、三、四ノ曲輪北側に外の空堀土塁が囲んでいる、北東側に外に抜ける虎口が有りそう、今は住宅街団地に成って居る、北側虎口だとすると現在の団地には小坂城の外郭施設があったかも?、三ノ曲輪から二ノ曲輪へ土橋を通って虎口、二ノ曲輪と一ノ曲輪を囲むように外の空堀土塁が更に囲んでいる、二ノ曲輪はL字型曲輪、一ノ曲輪は二ノ曲輪のL字で抱えられてる、二ノ曲輪から一ノ曲輪へ土橋を通って虎口から入る、北側に櫓台、東続きにも櫓台状の土塁、南側は国道408号線の拡張で三割ほど削られ遺構は消滅している。
空堀に降りて眺めたり土塁に登って眺めたり、一ノ曲輪櫓台から北を眺めれば空堀、土塁が連なりうねってる様に見える、東側は崖で谷に落ち急峻、西も緩やかですが谷に落ちてる、南は崖で落ち込んでおり南の小野川が自然の堀の様、北は丘陵尾根続き、鎌倉街道が走ってる。
四ヶ所の曲輪で構成され、一ノ曲輪を二ノ曲輪がL字で囲み守り更に外の空堀・土塁で囲み、北は三、四ノ曲輪が守ってる、南、西、東は崖で谷に落ち込み更に南は小野川の守り、良く地形活用されています。
1時間半内部と外側西から南、東と眺め東の尾根筋谷も確認昼の暑さを忘れて充分堪能しました。よく整備保全されています、是非トイレを設置して頂きたい。
+ 続きを読む
♥ いいね
21人が「いいね」しています。
2022/06/07 22:42
2022/06/07 22:39
終活2:最後の訪問先 (2022/05/24 訪問)
終活2で最後に訪問した城郭です。投稿が少なく遺構不明とありました。遺構を少々見かけたので投稿します。
古城盛衰記さんの情報で難なく到着し早速攻城、駐車場のある南側より登りました。この一帯は緑化公園の様で整地しただけの砂利の遊歩道となっています。遺構は期待せずに気軽な気持ちで登りました。行き着くと虎口は最高地点の南側主郭に取り付いていました。そこには戦時中の高射砲らしき遺構が残っています。主郭の南側下部に何かがあるのに気が付いて帰るに見ようと後回しにしたら違うルートで降りたので見ていません。気が付いた時にすぐさま確認しないといけませんね。
1段下がり北に向けて細長い曲輪があります。いつもの癖で曲輪の端っこを覗くように眺めていたら東側の低い位置に小屋の屋根が見えます。公園用便所の廃墟です。近くにいってみると石積を伴う虎口らしきものと奥には土塁付きの細い曲輪が見える。降りてみたところ確かに石積を伴う虎口の様だ。それでもその時は半信半疑でした。土塁付き曲輪を南に進んでいくと竪堀がある、数えてみると4本確認できた。中には石積で補強しているものもある。他にもある気配はあるのだが斜面の横移動を落ち葉が邪魔したのでやめた、竪堀を見て十分に満足したからです。
45分:1.3km:累計高低差126m
復習
城郭放浪記さんも古城盛衰記さんも詳しい情報が無かったので「なぽのホームページ」で調べてみた。この方も在野で2000城以上攻城しており、しっかりとした情報を記している強者です。目線が私のようなレベルでも理解できるような語り口なので分かり易く助かっています。(私には城関係の文章は堅苦しく、専門用語の多用などでちょっと頭に入ってこないところがあります。むしろ河後森城にある小学生の研究発表の方が頭に入ってきました。)その点こちらのホームページはお勧めです。そこでは石積虎口の情報があり、大分の調査報告書にも記載があるそうです。
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
2022/06/07 22:21
墳丘復元図 (2017/09/02 訪問)
現地案内板より抜粋。
+ 続きを読む
♥ いいね
3人が「いいね」しています。
2022/06/07 22:18
私部城要図 (2017/03/25 訪問)
現地案内板より抜粋。
+ 続きを読む
♥ いいね
3人が「いいね」しています。
2022/06/07 22:15
明治18年頃の三津屋城伝承地付近 (2017/07/30 訪問)
現地案内板より抜粋。
+ 続きを読む
♥ いいね
3人が「いいね」しています。
2022/06/07 21:40
朝日山古戦場(新潟県小千谷市) (2022/06/04 訪問)
1868(慶応4)年5月11日14:00,にわかに激しい雨となる。それを機に,長岡藩槍隊,会津および桑名藩兵は榎峠を駆け降り,朝日山へ登りました。麓にいた長州藩奇兵隊を中心とした新政府軍も登攀を開始。ここに「朝日山の戦い」がスタート。朝日山は,標高:341m。
朝日山に先に到着し大砲をあげ,陣地を構築したのは長岡藩勢力。登山も含め,その指導にあたったのは河井継之助。朝日山古戦場には,この時に構築された「フランス兵法による塹壕跡」が遺っています。
新政府軍は麓に陣地を構築。よって,砲弾が降り注ぐ結果に…。
5月13日,苦戦する新政府軍は山頂へ奇襲作戦に出ます。しかし,失敗して多数の死者を出しました。その中には,参謀代理であった長州藩の時山直八も含まれています。なお,参謀は山縣狂介(後の内閣総理大臣,山縣有朋)です。その山縣は「仇守るとりでのかがり影ふけて,夏の身に沁む越の山風」と,苦戦状況を詠みました。
映画では,まさしくこの朝日山でロケが行われました。ロケ車が入れず,麓の浦柄集落の有志が軽トラックを出したというエピソードも残っています。
その後,苦戦する新政府軍は作戦を変更し,信濃川対岸(西側・左岸)から長岡城へ進攻する奇襲に出ました。この作戦は的中。5月19日,長岡城を占拠。
映画では,長岡城の城感が欲しいシーンは,新発田城でロケが行われましたョ!
戦後,明治政府の命により,長岡藩同盟軍(東軍)の遺体は朝日山の各所に放置されました。登る途中,いたるところにあるのは東軍の墓所ばかりです。1953(昭和28)年になり,福生寺の住職が地元の有志とともに放置された遺骨を集め,朝日山の麓の浦柄神社境内に21基の墓碑を建て,手厚く葬りました。新政府軍(西軍)の遺体は近隣寺院に埋葬されていましたが,小千谷市船岡公園の一角(船岡山西軍墓地)に集められ眠っています。
+ 続きを読む
♥ いいね
18人が「いいね」しています。
2022/06/07 21:25
主郭に方形館の面影を宿す (2022/01/09 訪問)
赤松氏一族で西播磨守護代も務めた宇野氏の本拠とされ、畝状竪堀と横堀が見どころのお城だが、個人的には方形居館をそのまま山上に持って行ったような主郭の風情に守護代館らしい格式を見出してしまったのだが気のせいか。
+ 続きを読む
♥ いいね
10人が「いいね」しています。
2022/06/07 20:43
小泉城(片桐城) (2022/05/08 訪問)
【小泉城】
<駐車場他>小泉神社駐車場
<交通手段>JR大和小泉駅から徒歩
<見所>移築門・池堀
<感想>日帰り列車で奈良盆地1周ちょこ城巡りの旅1城目。小泉城の築城年代は室町時代で築城主の小泉氏は興福寺衆徒であった。小泉氏は長らく筒井氏と反目していたが天文年間に血縁関係となり1万4千石が与えられる。小泉氏は筒井定次の伊賀移封に伴ってこの地を離れたそうです。関ヶ原後は片桐且元の弟片桐貞隆が小泉城に1万5千石で入城し小泉藩を立藩する。大坂の陣後は1万6400石に加増され、片桐氏は江戸時代途中分地等で少し領地を減らすが明治維新まで小泉藩主として続きました。
JR大和小泉駅から徒歩で富雄川を見て片桐城跡碑と小泉城跡碑のあるポイント→復興櫓・薙刀池・お庭池→小泉神社と移築門の順で巡った。西門見落とした。小泉神社の移築門は細くて高い高麗門です。西側の池堀や城跡碑のある所から少し高くなっている段や移築門など色々巡って楽しめる城跡です。
<満足度>◆◆◇
+ 続きを読む
♥ いいね
18人が「いいね」しています。
2022/06/07 16:52
おもてなしの心 (2022/06/05 訪問)
梅雨の走りということで残念な天気であったが、雨情にはお似合いね、ということで登城を開始すると、いきなり急で長い坂道が現れた。舗装はされているが、これはかなりキツイ。登り口には杖が準備されていたが、借りて来なかったことを後悔・・
坂を上りきると、二ノ丸跡に建てられた資料館がある。館内には甲冑や刀、上総掘りの模型などが展示されていて、なかなか興味深い。掃除が行き届いた館内の床はピカピカで、とても気持ちが良い。ぜひ立ち寄って頂きたい。
二ノ丸跡から更に登っていくと、再建天守閣が現れる。横には実際の天守台が残されている。建物の入り口にはスリッパではなく、様々なサイズのクロックスが準備されていた。これなら安全に登ることができる。掃除が行き届いた資料館や杖の準備などもそうだが、登城者に対するおもてなしの気持ちが伝わってくる。
安全に最上階まで登ると、外側をぐるっと回って展望することができる。眺めは良いが、通路が狭く手摺しかないので、十分ご注意を。
この時期の千葉といえば、やはりビワでしょう!ということで、今回のグルメはビワを使ったパフェ。上品な甘さが美味しい!
+ 続きを読む
♥ いいね
24人が「いいね」しています。
2022/06/07 08:16
交通の要衝 (2022/05/21 訪問)
築城者・築城時期など詳細は不明ながら、応仁・文明の乱では東軍の拠点として野田泰忠が入り、戦国末期には波多野氏に仕えた福井貞政が城主となっていましたが、明智光秀の丹波攻めで降伏を拒んで攻撃を受け落城。亀山城築城までの間、光秀の丹波での拠点となりました。
曽我谷川の段丘上に築かれた城で、山陰道と篠山街道が分岐する交通の要衝に位置し、段丘東端の西岸寺が本丸、西岸寺南脇の坂道あたりに大手門、小字「古城」と「古城浦」の間、「古城浦」の西に堀切があったようですが、宅地開発により遺構は消滅しており、西岸寺に石碑と説明板が建てられているくらいです。
なお、西岸寺から西に約600mの長興寺には余部城主・福井貞政の墓所があります。
+ 続きを読む
♥ いいね
19人が「いいね」しています。
2022/06/07 06:30
2022/06/07 02:17
明智光秀「最期の30日」を辿る 【第7回】光秀の最期(小栗栖・醍醐) (2022/05/09 訪問)
(第6回「山崎の戦い」からの続きです)
山崎の戦いから同じ日の天正10年(1582年)6月13日の深夜、光秀は密かに勝龍寺城の北門(勝龍寺城での写真⑩)から脱出し、秀満が待つ坂本城へ向かう事にしました。しかし、途中の「小栗栖(おぐりす)」の竹藪で落ち武者狩りの農民にまさかの竹槍で刺され致命傷を負ってしまいます。そしてそのままもう1km先の「醍醐(だいご)」の地まで進むもそこで力尽き、もはやこれまでと自分の首は知恩院に届けるよう家臣に託して自刃し、その家臣に介錯させ果てたそうです。胴は地元の人々によりそこに埋められ今は胴塚が立っています。その2日後、首を持った家臣は知恩院の手前で捕らえられ、光秀の首は秀吉の元に届けられた後、京の粟田口にさらされたそうです。今でも東山には「首塚」と呼ばれている所があり、さらされた首がその後そこに埋められたとの事です。(「吉田兼見」日記より)😩
今回、まず竹槍で刺された場所とされる小栗栖の竹藪を訪れてみました(写真①②)。地下鉄東西線「石田駅」から、徒歩10分程の少し住宅地の裏手(写真③)に入った所です。竹藪の横にある本経寺には、光秀供養塔もありました(写真④)。
小栗栖の竹藪から、光秀が傷を負いながらここを進んだのではないかと思われる約1kmの道を、私も歩いてみました。光秀は人目につかぬよう小栗栖街道の脇道を通ったようなので、私も車が多く通る表街道は避け、できるだけ脇道や竹藪の中を歩いてみました(写真⑤⑥は私が歩いた途中の場所)。そして醍醐にある胴塚にたどり着きました(写真⑦)。この間、生死をさまよいながらさぞかし苦しかったであろうと私も歩きながらそんな光秀の気持ちを察しました。どんな思いで坂本を目指していたのでしょうか? おそらく、坂本に着けば最も頼りとしている秀満とそのわずかな軍勢がまだ残っている、そこで何とか再起を図ろうと思っていたのでしょう。しかし、それも叶う事はありませんでした。胴塚に着き、ここで明智光秀が亡くなったのかと思うと、思わず感無量になり手を合わせました。
そしてその後、東山にある首がさらされたという粟田口(写真⑧⑨)とその首が埋められたという首塚(写真⑩)も訪れてきました。胴塚・首塚とも地元の方々によってきれいに手入れがなされているのが見てわかったので、今でも人々からは愛されているのだなと感じました。
明智光秀は、信長を討った後いったいどのような世の中を作ろうとしていたのでしょうか? 謀反以外にその道はなかったのでしょうか?
もし信長の遺体が見つかっていれば光秀の与力衆たちも裏切る事はなかったかもしれません。山崎の戦いでは秀吉軍4万のうち2万は与力衆(池田恒興、中川清秀、高山右近など)の軍勢です。そして、先頭になって戦ったのもその与力衆です。秀吉本隊の軍勢は長距離の大返しの移動で疲れ切っており、ほとんどが後方にいてあまり積極的に前に出ようとはしなかったようです。そうなれば戦力は逆転し、かつ相手は疲れ切っているため勝つ可能性は十分すぎるほどあったのかもしれません。さすれば細川藤孝もきっと動いたに違いありません(筒井順慶も同じ)。もしそうなった時、歴史はどう変わっていったのでしょうか? 有能であった光秀に不運が次々と重なり、謀反人・逆賊の汚名を着せられたまま、あまりにもみじめな最期を迎えてしまった事に、私は言葉も出なくなってしまいました。😩
(第8回(最終回)「西教寺」へ続きます)
+ 続きを読む
♥ いいね
16人が「いいね」しています。
2022/06/07 00:16
その1 (2022/05/20 訪問)
3年ぶり4度目の名古屋城。
東門から入城し、1時間ほど城内を見てまわりました。
最初に名勝・二之丸庭園、東庭園へ。お城川柳なごやじょう5部作の5、那古野城跡の説明板と南蛮練塀をチェックしました。
続いて二之丸庭園西側にある埋御門跡へ。いざという時の藩主脱出用の門があったところです。
二之丸広場から東南隅櫓を眺め、清正公石曳きの像をチェックして本丸へ。鉄板貼りの門柱の表二之門をくぐると枡形で、鏡石の埋め込まれた石垣が現れます。石垣だけの一之門跡を見て、空襲で失われたのは天守や本丸御殿だけではないということに今まで思いを致さなかったことを反省しました。
本丸御殿は行列もなくすぐに入れそうでしたがこれまで二度見ているのでパスし、本丸東門へ。枡形内の清正石は焼失した一之門のすぐ脇にあり、鏡石としての存在感が伝わってきます。二之門は旧二之丸東の二之門の移築。解体修理の跡がたくさん見られました。
本丸内に戻り、大天守・小天守・御殿の眺めを堪能。せっかくなので記念撮影してもらって1,200円でお買い上げしました。名古屋嬢です(違います)。
<続く>
+ 続きを読む
♥ いいね
21人が「いいね」しています。
2022/06/06 23:11
16世紀後半の原田城北城推定復元図 (2017/07/30 訪問)
現地案内板より抜粋。
+ 続きを読む
♥ いいね
3人が「いいね」しています。
✕
人が「いいね」しています。