2019年08月15日に登城し、二度目の松本城に行ってきました。
国宝の天守があり、北アルプスが眺められる城です。
『注意』
松本城の別名は烏城ではなく、深志城です。
《小笠原、武田氏時代》
この城は、戦国・永正時代初期の1504年頃に、小笠原氏の居城である林城の支城として
築城された深志城が始まり。
しかし、甲斐の武田信玄が信濃侵攻で1550年8月7日に、林城、深志城が落城すると
城主である小笠原長時が追放され、武田氏が小笠原領を占領し、
林城を廃城にして、深志城代として馬場信春をいれ、
信濃国の支配の拠点とした。
だが、1575年の長篠・設楽が原の戦いで、馬場信春が戦死し、
嫡子である昌房が城代となるが、その昌房も織田家の甲州征伐で降伏し
織田長益に松本城は明け渡され、その後は甲州征伐で織田家に裏切った木曽義昌が城主となった。
その後本能寺の変で信長が亡くなると、織田家の領地に入ってまもない旧武田家領では
武田領を巡り、天正壬午の乱が勃発し、1582年6月上杉家の擁立で小笠原長時の弟の
小笠原洞雪斎が奪われていた小笠原領を回復したが実権は家臣の梶田氏と屋代氏が握り、
求心力は低下し、その間に他の家臣たちは小笠原長時の三男で、
德川家康麾下となっていた貞慶が深志城を攻め、交渉の結果、明け渡された。
そのとき、深志城は松本城という名に変わった。
1589年に貞慶が嫡子の小笠原秀政に家督を譲り、城主は秀政になるが、
1590年に家康が関東に移封となると秀政も下総の古河にうつった
《江戸時代》
城主は元徳川の家臣で、豊臣方に寝返っていた石川数正とその子・康長になった。
数正父子は松本城の改修を行い、天守や城郭、城下町などをつくった。
しかし、大久保長安事件で、康長が改易になると、
城主は小笠原秀政へ戻り、小笠原忠真、戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏、戸田氏
と続き、明治維新を迎えた。
《その後》
明治維新の後の1872年に、天守がオークションにでて、解体されそうになったが、
市川量造ら地元の有志が松本城を借り、博覧会を開き、お金を集め、
天守を買い戻した。
しかし、1897年頃に、地盤沈下の影響で天守が大きく傾き、
それを危なく思った旧松本中学校校長の小林校長らが松本城天守閣天主保存会を設立し、
修理費を募り、1903年~1913年までの10年間で明治の大修理を行った。
1936年には、天守、辰巳付櫓、月見櫓、渡櫓、小天守が当時の国宝
(今は旧国宝とも言われている。)になっている。
1952年に、改めて国宝となる。
1946年にGHQのチャールズ・ギャラガーが松本城にきて、
解体調査を国に依頼し、1950年~1955年の五年間、
国宝保存事業の第一号として昭和の大修理を行った。
【城情報】
・形式 ❙平城
・築城年 ❙1504年頃
・廃城年 ❙1869年
・築城者 ❙小笠原貞朝
・最後の城主 ❙戸田氏
・廃城理由 ❙明治維新を迎えたため
・主な城主 ❙小笠原氏→馬場氏→木曽義昌→小笠原氏→石川氏→小笠原氏→戸田氏
|→松平氏→堀田氏→水野氏→戸田氏
・遺構 ❙ 水掘、掘、土塁、石垣
・主な建築物 ❙天守、渡櫓、辰巳附櫓、乾小天守、月見櫓、太鼓門、黒門など
・説明看板、石碑 ❙両方各地にあり
・駐車場、トイレ ❙あり
・天守 ❙あり(5重6階)国宝
・保存状態(自身判断)❙天守を含め、建築物や遺構がきれいに残っている
・城レベル |4、(詳しくは新ろくべえのプロフィールへ)
・備考 ❙・各地に井戸が残り、巡るのもおもしろい
❙・今は小天守には耐震工事のため入れない
❙・惣堀がある
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