手軽に登れます。途中行けないかなぁと思う道もあります。
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2025/06/29 09:50
2024/05/01 22:51
破城の痕跡? 三日月堀が二か所あるようだ (2024/04/29 訪問)
宇利城は文明年間(1469~1487)に今川方の熊谷重実が築城したと案内板には記されています。その後、享禄2年(1529)に松平清康の侵攻によって落城、天文14年(1545)には今川義元の攻撃を受け、今川氏に仕える近藤満用らが在城したとあります。文禄11年(1568)家康側に寝返った近藤氏は居城を柿本城に移し、その後の宇利城の状況は定かではないと記されています。
登城道の途中には松平右京亮の墓があり、本丸と二の丸(姫御殿)の間は堀で分けられ、本丸には北側に土塁が残っていました。西側の郭に石垣が残っているようなのですが、そこに至る道はシダの雑草が生い茂って通行が困難です。途中に井戸が有るのですが、それも草に埋もれかかっています。その先の道は草で見通しが悪いうえに下りが急になっているので、危険と判断し引き返しました。
この城は自分の家からはそれほど距離があるわけでもないので、いずれ訪問の機会があるかもしれません。その後は御馬屋平に向かいますが道はかなり崩れて来ており、これ以上崩壊すると通行は難しくなるかもしれません。
なぜか御馬屋平の入り口にロープが張ってありますが、せっかく来たのでちょっとだけ覗いてみます。すると‥有りました 三日月堀が。だいぶ埋もれてきてはいますが、これは確かに三日月堀です。状態としては野田城のそれに近いですね。
実は本丸の南の郭にも三日月掘らしき場所がありました。破城の痕跡らしき箇所も近くにあって、石が散乱し、だいぶ堀も埋まっているのですが自分には三日月掘の跡に見えました。岩略寺城の三日月堀に形態が似ていると思います。二つ目の三日月堀らしき箇所を確認したことで、この城には三日月堀が有った可能性が有ると考えます。
三河で三日月堀を確認した城は松平城山城、岩略寺城、野田城、古宮城 そして宇利城です。文禄11年以降の宇利城の状況は不明とされていますが、三河諸城同様に天正12年以降に改修を受けている可能性もあります。
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2023/12/17 07:48
三河・遠江国境の城 (2023/09/30 訪問)
宇利城は、標高165m比高90mの山上に位置し、東西両側には深い谷、南は登城口、北は城郭の背後で尾根が続いている山城で、周辺の地域は東南北に峠を抱え、西には遠江との国境がある、交通の要所に位置しています。
中心となる主郭は山頂に位置し、南面を除く周囲に土塁、北端に櫓台、その北側に比高差10m程の切岸、納所平と呼ばれる平坦地、納所平には堀が掘られています。主郭の東側には姫御殿跡が所在し、主郭の前衝的な曲輪の機能を有していると考えられます。宇利城全体では、曲輪・土塁・堀・井戸・石垣が残っています。
宇利城は1469年~1486年頃の間に熊谷重実が築城したとされ、その後の城主、熊谷実長は今川方に属し、三河統一を目指す松平清康に攻められた「宇利の戦い」で熊谷方320名・松平方90名の戦死者を出し、城を明け渡したとされています。
その後、徳川家康公の遠江平定後、宇利城の状況は不明とされているので、廃城になったものと思われます。
駐車場は中宇利交差点の一角に結構広い駐車場があります。トイレはありません。駐車場から歩いて10分位で登城口に着きます。
今回、「宇利の戦い」で戦死した松平右京亮の墓などもあり、戦国時代激しい戦いの場であった城跡を散策しましたが、一部雑木で立ち入ることが出来なかった場所があるため、2013年5月6日に登城した画像と織り交ぜて投稿させていただきます。
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分類・構造 | 山城 |
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築城主 | 熊谷重実 |
築城年 | 文明年間(1469〜1487) |
主な城主 | 熊谷氏、菅沼氏、近藤氏 |
遺構 | 曲輪、石垣、土塁、堀切、横堀(空堀)、井戸跡 |
指定文化財 | 県史跡(宇利城跡) |
再建造物 | 石碑、説明板 |
住所 | 愛知県新城市中宇利字伝田 |
問い合わせ先 | 新城市教育委員会文化課 |
問い合わせ先電話番号 | 0536-22-0673 |