宇利城は文明年間(1469~1487)に今川方の熊谷重実が築城したと案内板には記されています。その後、享禄2年(1529)に松平清康の侵攻によって落城、天文14年(1545)には今川義元の攻撃を受け、今川氏に仕える近藤満用らが在城したとあります。文禄11年(1568)家康側に寝返った近藤氏は居城を柿本城に移し、その後の宇利城の状況は定かではないと記されています。
登城道の途中には松平右京亮の墓があり、本丸と二の丸(姫御殿)の間は堀で分けられ、本丸には北側に土塁が残っていました。西側の郭に石垣が残っているようなのですが、そこに至る道はシダの雑草が生い茂って通行が困難です。途中に井戸が有るのですが、それも草に埋もれかかっています。その先の道は草で見通しが悪いうえに下りが急になっているので、危険と判断し引き返しました。
この城は自分の家からはそれほど距離があるわけでもないので、いずれ訪問の機会があるかもしれません。その後は御馬屋平に向かいますが道はかなり崩れて来ており、これ以上崩壊すると通行は難しくなるかもしれません。
なぜか御馬屋平の入り口にロープが張ってありますが、せっかく来たのでちょっとだけ覗いてみます。すると‥有りました 三日月堀が。だいぶ埋もれてきてはいますが、これは確かに三日月堀です。状態としては野田城のそれに近いですね。
実は本丸の南の郭にも三日月掘らしき場所がありました。破城の痕跡らしき箇所も近くにあって、石が散乱し、だいぶ堀も埋まっているのですが自分には三日月掘の跡に見えました。岩略寺城の三日月堀に形態が似ていると思います。二つ目の三日月堀らしき箇所を確認したことで、この城には三日月堀が有った可能性が有ると考えます。
三河で三日月堀を確認した城は松平城山城、岩略寺城、野田城、古宮城 そして宇利城です。文禄11年以降の宇利城の状況は不明とされていますが、三河諸城同様に天正12年以降に改修を受けている可能性もあります。
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