宇陀郡の有力国人・秋山氏が南北朝期より本城とした秋山城を前身とし、豊臣秀長の大和国入りに伴って秋山氏が退去した後は豊臣家配下の諸将が城主となって近世城郭に改修。大和郡山城、高取城とともに大和国支配の拠点となりました。関ケ原の戦いの後は福島高晴(福島正則の弟)が入って城下町を整備し松山城に名を改めましたが、大坂夏の陣で豊臣方に内通した嫌疑を受けて改易され、松山城も小堀遠州らによって破却されました。
今年の城始めは、一年の計に則って近場の続100名城から。道の駅の第2駐車場に車を駐め、千軒舎の脇を抜けて登城開始。登城道は舗装された広い道で、奥には10数台は駐められそうな駐車場も整備されていますが、なぜか車は通行止めになっています。登城口から10分あまりで春日神社からの大手道と合流し、切通状の道を進んだ先に巨大な横堀が横たわっていました。横堀は折れを伴って御加番曲輪の西辺をめぐっていて幅も高さもあり、堀底に立ってみるとよじ登ることもできないまま四方八方から撃たれ放題を実感します。新年早々のド迫力に気分を高揚させて先に進むと、南西虎口部(雀門跡)には石垣と石段が見られ、そこから左に折れてさらに右に曲がる連続枡形が続いています。枡形内の石垣もしっかり遺っていて、ここで早くもテンションMAX! 幸先の良い一年のスタートになりました。
御加番曲輪にちょっと寄り道(横堀を見下ろす)してから本丸へ。本丸には発掘調査により本丸御殿をはじめとする礎石建物が確認されており、南東部と西部に虎口を設け、周囲を多聞櫓で囲んでいたようです。南東虎口にはトラロープが張られて通行できなくなっていましたが、石垣と石段が確認できました。本丸からは四方に眺望が開け、大峰山をはじめとする周囲の山並みを見渡すことができます。本丸の東側一段上の天守郭には発掘調査により天守の存在が明らかになっており、北側の虎口には石垣積みの付櫓跡が見られます。天守郭はかつては総石垣だったようですが、破却され土や草に埋もれながらもあちこちに石垣が覗いています。最高所の天守郭からは城内がよく見渡せ、東下にはいくつかの曲輪群が連なっていますが、降りて行く道が見当たらないので直降して向かいました(続く)。
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