吉野山の史跡は南朝関係以外にもいろいろとありますので、その他の史跡もめぐってみました。
義経潜伏の地
吉野山といえば、源義経ゆかりの地でもあります。義経追捕の院宣により京を逃れた義経主従と静御前は吉野山に身を隠しました。吉水神社には源義経潜居の間・弁慶思案の間があり、義経所用と伝わる色々威腹巻(重文)や弁慶の武具など、一行が吉水院を去る時に残していったとされる品々が展示されています。また、吉水神社には弁慶の力釘と呼ばれる岩がありますが、これは追手を前に弁慶が力自慢として岩に親指で2本の釘を打ち込み、あまりの剛力に恐れをなした追手が逃げ去ったという言い伝えによるものです。
上千本には佐藤忠信花矢倉の石碑と横川の覚範の首塚があり、吉野の僧兵に追われた義経を逃がすため佐藤忠信が留まって応戦し、花矢倉から矢を射かけて豪僧 横川の覚範を討ち取ったと伝わります。
さらに奥千本には義経が追手から身を隠したとされる義経隠塔があり、追手に囲まれた際に屋根を蹴破って逃れたことから蹴抜けの塔とも呼ばれています。
西行隠棲地
吉野山は桜の名所として知られますが、奥千本の最奥には桜をこよなく愛した西行が隠棲した地に西行庵が建てられ西行像が安置されています。桜だけでなく紅葉の名所でもありますが、訪問時は見ごろにはまだ早かったようです。西行庵の手前には西行が歌に詠んだ苔清水が今なお湧き出ていました。
吉野水分神社
吉野水分神社は飛鳥期には記録のある古社で、水分(みくまり)が身籠り・御子守り(みこもり)に転じて、子授けと子守の神として信仰を集めています。豊臣秀吉も吉野の花見の際に子授けを祈願して秀頼を授かったと伝わり、その縁によるものか秀頼が再建した桃山建築の社殿と楼門が現存しています(重文)。ただ、秀頼が生まれたのは吉野の花見の前年なので、祈願した時期が違うか、秀頼による社殿再建にちなんで生じた伝承なのかもしれません。また、江戸期の国学者・本居宣長も、父親が水分神社に祈願して生まれたと母親から度々聞かされていたことから、吉野水分神社の申し子を自認しています。
…で、全くの余談ながら、私の両親もなかなか子が授からず吉野水分神社にお参りしたところ程なくして姉が生まれたことから、我が家では年2回のお参りを欠かさず、おかげさまをもって姉も私も大した病気も怪我もすることなく無事に成人することができました。豊臣秀頼や本居宣長とは比べるべくもない凡人ながら、私にとっては(氏神社は別として)最も馴染み深い神社です。
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