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京都一周トレイル道 (2023/01/03 訪問)

京都一周トレイル道は、京都盆地南東の伏見桃山から東山・比叡山を経て、大原に北上。西進して、鞍馬・高雄・嵐山へ。南下して上桂駅というルートです。盆地を囲む山城を訪れる際に、結果的に、このトレイル道を利用することが多いです。
静原城は、大原を通る敦賀街道と鞍馬を通る鞍馬街道を結ぶ道(かつトレイル道)沿いにあります。城びと先人、おっちゃんさんとtodo94さんのレポートを参照して、静原神社脇から登城。谷沿いから尾根に上がるつずら折れを登りきると、本丸まで急で真っ直ぐな尾根道。ここまで、滋賀県坂本から比叡山越えでかなり歩いてきたのできつかったです。
山深い場所と思ってましたが、南の低い山越しに、本丸から京都市街地が望めました。北へ向かう二つの街道の押さえもあり、三好長慶や明智光秀が、利用・増強したのも宜なるかな。

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刑部

強風の中登城 (2023/01/04 訪問)

狭い道の先に小高い所にある城址、公園になっていましたが遺構を残していました!

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刑部

雪積もる城址 (2023/01/04 訪問)

トイレ、駐車場完備の整備された城址。
雪が積もっていて歩く所でないところ歩いてしまい足を取られてしまいました。ちゃんと入り口から入れば良かった!

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イオ

エンタメ天守 (2022/12/10 訪問)

大坂の陣の後に入封した戸田氏鉄が築いた城で、東は大物川、西は庄下川、南は海に囲まれ、三重の堀と四重四階の天守を擁し、中国街道をおさえる大坂城の西の守りとして機能しました。戸田氏鉄が大垣に移った後は、青山氏が4代、桜井松平氏が7代にわたって城主を務め明治を迎えています。明治の廃城令により建物は取り壊され、昭和までに堀もほとんどが埋め立てられてしまいましたが、平成31年3月に西三の丸跡に天守がRC外観復元により再建され、平成最後の築城と話題になりました。

阪神尼崎駅から何度も目にしていた尼崎城(の天守)にようやく行くことができました。天守の建つ尼崎城址公園には模擬石垣と土塀が設けられ、入口付近には戸田左門氏鉄公顕彰碑が建てられています。天守に入る前に周囲をぐるりと一周。一見したときは思ったより小さいと感じましたが、これは前週に姫路城の大天守を観ていたからで、決して小さくありません。一部改変はあるようですが外観復元の天守は存在感があり、抜けるような青空の下に聳える白壁はやはり写真映えしますね。

天守に入城するとエレベーターでまず最上階(5階)へ。5階はわがまち展望ゾーンとして眺望と可動式のタブレット端末に表示される江戸期の城下町の様子を見比べることができます。4階のギャラリーゾーンには尼崎出身の城郭画家・荻原一青の「名城手拭百城」が展示されています。実物は初めて見ますが見事ですね、これは。3階のなりきり体験ゾーンでは忍者や武士、お姫様の衣装を着て記念写真が撮れるようですが、一人で来ているおっさんには敷居が高いので次の階へ。2階の尼崎城ゾーンには尼崎城のVRシアターや、槍・刀・弓矢・火縄銃を手に取ってみたり、剣術や鉄砲体験のゲームなどコンテンツ盛りだくさんです。子どもと来ていればゲームもできそうですが、おっさんが一人で子どもに混じってゲームの列に並ぶのは敷居が(以下略)。1階の尼崎まちあるきゾーン(無料)には尼崎のまちの案内と特産品のショップがあります。RC造天守の内部はその城にまつわる資料館や博物館になっていることが多いように思いますが、もちろん尼崎城天守にも資料館的な要素はあるものの、エンタメ的要素がはるかに強く、子どもでも体験して楽しめる天守でした。

天守を出ると、模擬石垣と土塀が設けられた中央図書館の脇を南に抜けて開明橋へ。西側の外堀にあたる庄下川に架かる開明橋には欄干に尼崎城の縄張図がデザインされています。そして橋を渡らず桜井神社へ。桜井神社は、桜井松平氏だけでなく尼崎城の歴代城主を祭神とする神社で、社殿前には本丸御殿の棟瓦や桜井松平氏三代・松平忠告の俳句が刻まれた外堀の石杭などが見られます。

桜井神社に続いては、本来の天守があった本丸跡地の尼崎市立歴史博物館に向かいます(続く)。
 

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todo94

奈良の城めぐり③ (2022/12/10 訪問)

佐紀神社の裏手の竹藪の中になかなかの空堀を確認することが出来ましたが、写真撮影はかなり困難です。要注意なのは御前池を挟んで佐紀神社は2つあると云うこと。超昇寺城側、西側の佐紀神社は西畑、東側の佐紀神社は亀畑となっていて、亀畑の佐紀神社は佐紀城跡とのことです。

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ぴーかる

富田茶臼山城 (2022/12/04 訪問)

【富田茶臼山城】
<駐車場他>茶臼山公園駐車場
<交通手段>車

<感想>1泊2日城びと美作・備前山城攻めの旅2日目6城目。富田茶臼山城の築城年は定かではないが、公園駐車場、遊具の奥に応仁の乱の頃の茶臼山城主であった生田玄利の墓がありますのでそれ以前にはあったであろうと思われます。
 城跡は公園化されて改変しているので遺構はありません。海側に段差の帯曲輪が、斜面が切岸にようにはなっています。近くに城びと未登録のいい城跡が沢山あるのに何故ここが登録城に選定されたか不思議。

<満足度>◆◇◇

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赤い城

冬でも藪は藪 (2022/12/25 訪問)

岡田神社の前に説明板が立ち、駐車スペースもあります。
以前来たときに神社前の堀が藪だったので改めてこの時季に来てみました。
が、やっぱり藪と伐採された木の枝でほぼ埋め尽くされていました。
薄い部分に少しだけ降りて見ましたが深さは実感できます。
堀に沿って神社との間に高い土塁も残っていました。
前回の訪問時には発掘調査もされていたので整備されていることもわずかに期待してましたがその様子はありませんでした。
結構良い堀なんだけどな。

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城とマスク

2回目の小田原城 (2023/01/02 訪問)

石垣山城から小田原城に移動して見学しました、以前来たときは真夏の昼間でしたが今回は真冬の夜です。お城一周したら暖かくなりました。

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新ろくべえ

国宝五城・松本城に行ってきました!①歴史編 城レベル→4 (2023/01/03 訪問)

 2019年08月15日に登城し、二度目の松本城に行ってきました。
国宝の天守があり、北アルプスが眺められる城です。

『注意』
松本城の別名は烏城ではなく、深志城です。  

《小笠原、武田氏時代》
この城は、戦国・永正時代初期の1504年頃に、小笠原氏の居城である林城の支城として
築城された深志城が始まり。
しかし、甲斐の武田信玄が信濃侵攻で1550年8月7日に、林城、深志城が落城すると
城主である小笠原長時が追放され、武田氏が小笠原領を占領し、
林城を廃城にして、深志城代として馬場信春をいれ、
信濃国の支配の拠点とした。
だが、1575年の長篠・設楽が原の戦いで、馬場信春が戦死し、
嫡子である昌房が城代となるが、その昌房も織田家の甲州征伐で降伏し
織田長益に松本城は明け渡され、その後は甲州征伐で織田家に裏切った木曽義昌が城主となった。
その後本能寺の変で信長が亡くなると、織田家の領地に入ってまもない旧武田家領では
武田領を巡り、天正壬午の乱が勃発し、1582年6月上杉家の擁立で小笠原長時の弟の
小笠原洞雪斎が奪われていた小笠原領を回復したが実権は家臣の梶田氏と屋代氏が握り、
求心力は低下し、その間に他の家臣たちは小笠原長時の三男で、
德川家康麾下となっていた貞慶が深志城を攻め、交渉の結果、明け渡された。
そのとき、深志城は松本城という名に変わった。
1589年に貞慶が嫡子の小笠原秀政に家督を譲り、城主は秀政になるが、
1590年に家康が関東に移封となると秀政も下総の古河にうつった

《江戸時代》
城主は元徳川の家臣で、豊臣方に寝返っていた石川数正とその子・康長になった。
数正父子は松本城の改修を行い、天守や城郭、城下町などをつくった。
しかし、大久保長安事件で、康長が改易になると、
城主は小笠原秀政へ戻り、小笠原忠真、戸田氏、松平氏、堀田氏、水野氏、戸田氏
と続き、明治維新を迎えた。
 
《その後》
明治維新の後の1872年に、天守がオークションにでて、解体されそうになったが、
市川量造ら地元の有志が松本城を借り、博覧会を開き、お金を集め、
天守を買い戻した。
しかし、1897年頃に、地盤沈下の影響で天守が大きく傾き、
それを危なく思った旧松本中学校校長の小林校長らが松本城天守閣天主保存会を設立し、
修理費を募り、1903年~1913年までの10年間で明治の大修理を行った。
1936年には、天守、辰巳付櫓、月見櫓、渡櫓、小天守が当時の国宝
(今は旧国宝とも言われている。)になっている。
1952年に、改めて国宝となる。
1946年にGHQのチャールズ・ギャラガーが松本城にきて、
解体調査を国に依頼し、1950年~1955年の五年間、
国宝保存事業の第一号として昭和の大修理を行った。



【城情報】
・形式       ❙平城
・築城年      ❙1504年頃
・廃城年      ❙1869年
・築城者      ❙小笠原貞朝
・最後の城主    ❙戸田氏
・廃城理由     ❙明治維新を迎えたため
・主な城主     ❙小笠原氏→馬場氏→木曽義昌→小笠原氏→石川氏→小笠原氏→戸田氏
          |→松平氏→堀田氏→水野氏→戸田氏
・遺構       ❙ 水掘、掘、土塁、石垣
・主な建築物    ❙天守、渡櫓、辰巳附櫓、乾小天守、月見櫓、太鼓門、黒門など
・説明看板、石碑  ❙両方各地にあり
・駐車場、トイレ  ❙あり
・天守       ❙あり(5重6階)国宝
・保存状態(自身判断)❙天守を含め、建築物や遺構がきれいに残っている
・城レベル     |4、(詳しくは新ろくべえのプロフィールへ)
・備考       ❙・各地に井戸が残り、巡るのもおもしろい
          ❙・今は小天守には耐震工事のため入れない
          ❙・惣堀がある

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名古屋城駅 (2023/01/05 訪問)

 名古屋城へ行くときは地下鉄を利用しているのですが、前は「市役所」という駅名だったのに「名古屋城」と変わっていました。いつから変わったのか確認すると令和5年1月4日からなっていました。昨日からかと笑ってしまいました。お城を見学する者にとってはわかりやすくてありがたいことです。
 名古屋城周辺には金シャチ横丁が東西にあり、東が宗春ゾーン、西が義直ゾーンとなっていて名古屋グルメなどを食べることができます。
ちなみに私は山本屋総本家金シャチ横丁店さんで久しぶりに味噌煮込みうどんを食べました。

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東南隅櫓特別公開 (2023/01/05 訪問)

 名古屋城冬まつりの開催にあわせて東南隅櫓の特別公開があるとのことで行ってきました。もともと11基の櫓があったのですが、明治維新後陸軍の拠点となったときに取り壊されたり、太平洋戦争時の空襲で焼失したりしたようです。今、現存しているのは3基の櫓と3つの門です。
現存する櫓
 東南隅櫓
 西南隅櫓
 西北隅櫓
現存する門
 本丸表二之門
 二之丸大手二之門
 旧二之丸東二之門(本丸東二之門跡に移築)
子供のころから何度も来ている城ですが櫓内部の見学は初めてでした。

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侍ホリタン

「浮城」と呼ばれた備後の名城を訪ねて (2023/01/05 訪問)

広島城天守が6基も入る程の大きな天守台が特徴のお城です。天守台は三原駅の構内と繋がっていて、6時30分から22時の間無料で中に入れます。天守台にはベンチが数台設置されていて木々も多く公園の様な感じです。天守台の隅石は北西部と北東部の積み方が異なっているのがよくわかります。北東部の方が算木積みと呼ばれる新しい技法で積まれています。天守台に寄り添う様に建てられている駅舎の下には本丸の石垣が使用されているのが確認できます。その他三原駅の南側に船入櫓跡、本丸中門跡、東側の和久原川にかかる神明大橋付近の水刎(みずはね)等見所が点在してますが30分もあれば見学できます。

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Yosihiko

安土城 (2023/01/05 訪問)

攻城🏯17城、攻城址6
岐阜駅の信長像を見て
ふと安土城に行った事無いなぁ~
信長って、岐阜城より安土城でしょ

凄い山城、小高い山で
攻められなかったのか不思議

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ランフランコ

#24 寅臥城 (2022/11/12 訪問)

雲海に浮かぶ竹田城。まさに天空の城でした。

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ランフランコ

#23 桃山城 (2022/12/29 訪問)

立派は立派なんですが模擬天守なんでね・・・ ロケーションはとてもいいです。

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きんにく

犬山城 (2023/01/04 訪問)

犬山城

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きんにく

彦根城 (2023/01/03 訪問)

彦根城

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きんにく

小田原城 (2022/12/28 訪問)

小田原城

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うおれい

浄真寺 (2022/05/04 訪問)

明けましておめでとうございます。
昨年のGWの話になりますが、奥沢城跡を訪問しました。行きは自由が丘駅より歩き、帰りは九品仏駅まで歩きました。九品仏駅の方が近いうえ、道が分かりやすかったです。
現在は浄真寺という寺院になっており、境内に複数のお堂がありました。城跡であるからか、寺院にしては境内の起伏が激しいような気がしました。

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イオ

大物城(兵庫県尼崎市大物町) (2022/12/10 訪問)

大物城(尼崎古城とも・城びと未登録)は室町中期には記録が見られる城で、戦国中期には細川高国が細川晴元に敗れた大物くずれの舞台となり、織豊期には織田信長に反旗を翻した荒木村重が有岡城から逃げ込んだことでも知られます。大坂の陣の後、すぐ西に尼崎城が築かれたことにより廃城となったようです。

大物主神社から北にかけてが大物城跡とされますが、遺構はなく所在地も明らかではありません。ただ、大物主神社を西側の若宮公園から見ると一段高くなっており、推定地とされるのも頷ける気がします。大物主神社の境内には義経弁慶隠家跡の石碑が建てられていますが、これは源義経追討の院宣を受けて大物浦から船で西国に逃れようとした義経・弁慶主従が大物主神社付近に逗留したことによるもののようです。また、大物主神社から北に徒歩3分の大物交番の南脇には大物くづれ戦跡碑(と説明板)が建てられていますので、こちらもあわせてどうぞ。
 

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