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加藤城乃助

100名城お城カードと御城印を求めて (2022/12/25 訪問)

昨日から妻と子供が妻の実家に帰省してるので、1人のクリスマスを満喫?するために遠征しました。
まずは鎌倉に向かい、先日最終会を迎えた「鎌倉殿の13人」の大河ドラマ館を見学。その後、鶴岡八幡宮、和田塚、由比ヶ浜を散歩し、江ノ電で藤沢、東海道線で小田原に行きました。
何度か行っている小田原城ですが、今回の目的は、今まで見た事の無かった関東大震災で崩れた石垣の見学と、御城印とお城カードです。
正規の登城ルートを銅門を目の前に外れ、南曲輪の方に向かい崩れた石垣を見ました。横矢を掛けるためにコーナーになっている部分や排水口もそのまま残っていました。天守を見学し、御城印とお城カードを購入して帰りました。100名城お城カードという物を迂闊にも全く知らなくて、今回初めて購入しました。このカードのためにまた行ったお城に行く事が、ちょっとしんどいような、また楽しみが増えたと喜ぶべきか。城好きならもちろん後者ですね。

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ヒロケン

初代城主 明智光秀公 (2022/12/03 訪問)

福地山城は、由良川に伸びる丘陵を中心に築城された連郭式平山城で城郭及び城下町周辺を堀で囲み、それらを一体的に構築した総構えの城として築城されています。
1579年頃に明智光秀公がこの地に城を築いたのが始まりとされ、築城後は娘婿の明智秀満公を城代として、この地の統治を任せています。
明智氏滅亡後は、羽柴秀長公をはじめととした城主を迎え、改修と増築が進められ江戸時代の有馬豊氏公の時代にはほぼ完成していたと考えられます。1669年に朽木植昌公が入部して以降は明治維新に至るまで朽木氏が13代約200年間藩主を務めています。
現在の天守は1640年頃の絵図を参考にした3層4階の複合連結式望楼型天守が再建され、福知山市民のシンボルとなっています。

諸事情により、12月3日以降城巡りが出来ていません。この投稿が2022年最後の投稿となります。城びとフレンドの皆様、本年中は皆様方の投稿で楽しませて頂きありがとうございました。また来年も健康で城巡りが出来ますようお祈り申し上げます。
それでは皆様、良いお年をお迎え下さいませ(*^▽^*)

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はぎさんともさん

看板修復 (2022/12/25 訪問)

看板が修復されました。
ありがとうございます。

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城とマスク

桜満開丸亀城 (2022/03/30 訪問)

金毘羅様でお参りして桜祭り開催中の丸亀城を訪れました。
小さい現存天守が良いですね。この日は讃岐うどんを2回食べました。

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ぴーかる

燧ヶ城 (2022/11/27 訪問)

【燧城】
<駐車場他>新羅神社駐車場
<交通手段>車

<見所>堀切・枡形虎口・石垣櫓台・横堀
<感想>燧城は燧ヶ城ともいい、福井県の公式サイトと現地説明板よると「源平盛衰記」1183年に木曽義仲が仁科守弘に命じて平維盛軍10万を迎え撃つために築城しました。南北朝時代の1336年には今庄入道浄慶の居城となり北朝・足利方の将となり南朝方の杣山城~金ヶ崎城の連携を絶ちます。戦国時代の1573年には下間頼照と一向一揆勢が織田信長に対抗し立て籠もりますが敗れます。その後は柴田勝家の持城となったようです。
 登山口は北麓の今庄観音堂の左脇にあります。登山道は整備され登り易く15分程度で南東の虎口に着きます。城跡は南東から北西にかけて尾根を切り開いた直線状の連郭で北西側の曲輪以外の曲輪は堀切で仕切っています。南東の虎口前に曲輪法面に石垣が残る馬出しの曲輪があります。堀切から回り込んで横堀になっています。その先が内枡形になっていて仕切り石垣が良好に残っています。その先が長い曲輪になっていて麓側に長い土塁があります。主郭虎口の石積み遺構も良好に残っています。主郭は比較的狭く櫓台かまたは一向衆の城でもあったので御堂跡かの方形の石垣台が2つ残っています。主郭横堀は大きく、巨石が多く転落しているので石垣か何らかの遺構であったろうと思われます。主郭北西側は大堀切で土橋のサイドが石積みになっています。大堀切はそのまま大竪堀になっていて見応えあります。主郭の北西側の曲輪は広く削平され、そのまま北西方向に尾根が狭くなっていきます。北西側にかなり薄くなっていますがL字状の土塁が2か所防御してそのまま何となく遺構がなくなっていて搦手側は防御が薄いです。道はそのまま数キロ先の藤倉山に繋がっているようです。
 JR今庄駅から登城口まで徒歩5分の距離で利便もいいです。私好みの山城+石垣、良好に残るダイナミックな遺構にかなり興奮しました。お勧めの城跡です。

<満足度>◆◆◆
<グルメ>福井そばである今庄そばがお勧めです。国道沿いの「おばちゃんの店」に行き鰻丼のセットをいただきましたが、駅を中心にそば屋が数件あるのでどこに行っても美味しいでしょう。

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小城小次郎

あのザビエルもやってきたらしい (2022/07/09 訪問)

鎌倉時代から市来氏のお城だったが15世紀には島津氏の属城となりフランシスコ・ザビエルも布教に訪れたらしい。ちなみにザビエルが来たのは来日(=キリスト教伝来)の翌年というから市来のキリスト教史はかなり古い。

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岡豊前守 (2022/12/24 訪問)

 矢野川と小河川に挟まれた山の上にあり、両川を天然の堀として尾根に作られた連郭式山城です。北側から登城すると三重の堀切があり、それを超えて行くと主郭と思われる曲輪に行くことができます。西尾根に堀切があり、南尾根に2重の堀切とそれらに伴う竪堀があります。どれも岩盤を削った堀切で武骨な感じがしてよかったです。「相生歴史資料マップ6 下土井城」の縄張りを見ていると、畝状の竪堀もあるように見えますが、よくわかりませんでした。池と書かれた場所はわかりましたが、雨水等を貯めるためのものだったのでしょうか。コンパクトですが堀切がすばらしく見ごたえのある城址です。

 ウィング神姫バス「中郷バス停」の前の道を民家の間を抜けて入っていくと石段があり登って行きます。すぐに獣除けフェンスの入り口があり開け閉めして進んでいくと尾根にでます。フェンスに沿って進んでいくと何となく道らしきものがあります。そこから南へ少し歩くと3重堀切に行くことができます。最初は城郭放浪記さんや古城盛衰記さんが利用された入口からの登城を考えていましたが、倒木により入口の開閉が困難な状況でした。

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肉球

釜子陣屋・福島県白河市 (2022/12/15 訪問)

1741年姫路藩主だった榊原氏が越後高田藩に移され領地15万石のうち9万石近くが本領から遠く離れた陸奥国にありその飛び領を収めるために福島県浅川町に陣屋を築いた。1809年当時の浅川村が幕府領となり残された飛び領を治めるために築かれたのが釜子陣屋です。
案内板によりますと
官軍が棚倉から攻めて来る前に陣屋を焼き払い会津藩の援軍として出兵。高田藩とは別の動きをしたようです。
跡地は住宅街となり県道44号釜の子郵便局付近から少し西へ入った所に案内板があります。遺構はありません。

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赤穂浅野家分家 (2022/12/24 訪問)

 赤穂浅野家の分家・若狭野浅野家の陣屋跡で、 藩札を作っていた札座跡の建物や土塀の一部が残っています。西法寺に移築門がありますが、今回は行っていません。

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住吉神社と善光寺 (2022/12/24 訪問)

 城址には住吉神社と善光寺が建てられています。曲輪跡と井戸(いぼとり井戸)があります。石積みもありましたが、当時のものではないと思われます。

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肉球

石垣よく見えます  (2022/12/15 訪問)

一年ほど前にも訪れた小峰城でしたが、またもや早朝の訪問で本丸内に入れず残念でした。
しかし一年前は解体修復中だった太鼓櫓が復元されてました。
二の丸駐車場から歩いても近いですが櫓前に駐車場が用意されてます。
以前は木々に覆われて見えにくかった三の丸北側の石垣が木の伐採によりよく見えるようになってました。が
柵があり石垣の近くまでは行けません。

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零汰

勝尾城筑紫氏遺跡に入れてもらえなかった城・・・勝尾城東出丸:佐賀県鳥栖市 (2022/10/20 訪問)

先に投稿した若山砦から北北東方向、直線距離500m程、標高319mの位置に勝尾城東出丸があります。惜しくも勝尾城筑紫氏遺跡の範囲に入れて貰えなっかた城跡です。そんなマイナーでローカル城にもちゃんと遺構は残っています。そんな山城跡を訪問するのは大好きです。情報は城郭放浪記さんです。

参考訪問データー:1時間:1.4km:累計高低差190m

若山砦の駐車場から北に移動すると三差路(ルートマップ右側周辺)があり、右手に橋、その手前に広い空スペースが有ります。そこに停めて左の山に取り付きました。こちらは殆ど直登です。遺跡範囲に入れて貰えなかった原因は城に行くまともなルートが無かったからだと勝手に想像しています。

尾根は歩き易いので其方を進むと鞍部の曲輪が現れて来ます。そこには浅い堀切がありました。そのまま踏跡を進むと曲輪が見えてきます。150mx40m位でしょうか、東西に長い範囲で北側が崖となっています。そこには曲輪以外に土塁、浅い堀切、浅い竪堀(多分)など一揃いしています。

勝尾城筑紫氏遺跡関連は、こちらを含めると8城の城跡が有ります。私は3回訪問で1城残っています。(鏡城は現在林道崩落で進めませんでした)その気で訪問すると1日で廻れる様な気がします。何方か是非如何でしょう。

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いんげん丸虫

泉城 栃木県矢板市 (2022/12/10 訪問)

南北に約260mx40mの丘陵上にある城跡です。
主郭は陽の光も差し込まないような凄い竹藪で
すね。土塁が周ってます。
あまり期待しないで訪れたのですが、北には大
きな横堀などしっかりとした遺構があり嬉しく
なりました。
南や東の適当なところから登れます。

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赤い城

連続竪堀、連続空堀など見どころ満載 (2022/12/10 訪問)

ここは行った方が良い城です。
松井田バイパスから案内板に沿って進むと大手道の登城口の駐車場に着きます。
登城口に小屋があり、パンフレット、杖、動物(熊)避けの缶の蓋が置いてあります。
杖はあまり必要無いですかね。
登城口から進むとすぐに土塁や空堀で期待値大です。
どんつきの分岐を右に行き、まずは連続竪堀を目指しました。
大手道を進み堀切をさらに進むと連続竪堀がありました。
6条あります。
写真も上げますが肉眼でないと迫力は伝わらないかな。
引き返し本丸へ。
本丸から二の丸を超えて連続空堀へ。
ここも見どころ、かなりの防御力になると思います。
さらに本丸へ引き返し安中郭方面へ。
安中氏の時代のもので武田氏に攻められた部分です。
こちらにも堀切や空堀が見られます。
さらにS字状空堀(ここは立入禁止)、水の手を経て登城口に戻りました。
この日は駆け足での攻城でしたが時間をかけてじっくり見たい城でした。
地元の方の整備にも感謝です。

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todo94

白山市内 (2022/11/26 訪問)

鳥越城と同じ白山市内の城ですが、結構距離はあります。林道を進んでいくと路傍に説明板が建っており、すぐに土塁に囲まれた主郭にたどり着くことが出来ました。

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ぴーかる

疋壇城 (2022/11/27 訪問)

【疋壇城】
<駐車場他>愛発舟川の里駐車場を利用
<交通手段>車

<見所>横堀・石垣
<感想>疋壇城は文明年間(1469~1487年)に疋壇対馬守久保によって築城されました。この地は古くから複数の街道の集合地点で愛発関(あらちせき)があったといわれる場所で疋壇城は朝倉氏の国境の城としていました。織田信長の金ヶ崎城進攻時に落城、刀根坂の戦いで再び落城し廃城となったようです。国道8号線そばにある戦国武将の墓は国道建設時に出てきた刀根坂の戦いで戦死した武将の墓といわれています。
 城跡は大半が畑や畑跡の荒れ地になっていますがいい石垣遺構が残っています。主郭部の東西それぞれに大きい横堀があり西の横堀は腰巻石垣、東の横堀は上方半分の主郭切岸部が全面石垣になっています。主郭部の櫓台石垣は長方形の段状になっています。主郭部中央に溜池、城跡の北側の虎口横に石組井戸が残っています。主郭部の南の南丸となっていた場所は小学校跡になっていてここから南側は遺構が潰されているようです。石垣遺構が多く残された見応えあるいい城跡でした。

<満足度>◆◆◆

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零汰

勝尾城筑紫氏遺跡のうちの一城 (2020/11/29 訪問)

昨日に引き続き勝尾城筑紫氏遺跡のうちの一城です。2年前に訪問したのですが、昨日若山砦を投稿したのでその流れで投稿します。

参考訪問データー:1時間35分:2.5km:累計高低差260m

標高290mの多くの自然石が散見している場所を主郭としており、東に4段程の曲輪、西にも4段程の曲輪、さらにその先には2本の堀切が確認出来ます。南にも横堀と竪堀で遮断して離れた場所にも一つ曲輪が有ります。主要部は東西に200m、南北には50m程度でしょうか。

ルートマップ右側の駐車場からは途中迄は葛籠城とルートが同じです。途中で道が分岐していて右手は関係者以外・・・の看板が立っています。そのまま西に進んで行きましたが途中城域から離れていく様でしたので最接近した場所から直登しました。後から地図を見てみるとそのまま進んで行っても行けそうな感じです。帰りは北側のルートを歩くと関係者以外の看板の場所に出てきました。

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イオ

立体感のある縄張 (2022/11/27 訪問)

高野街道、大沢街道、和泉道が交差する交通の要衝に位置する烏帽子形山の頂部に築かれた山城で、楠木正成築城の楠木七城のひとつとされますが、史料上は室町中期の畠山氏の内紛の際に登場するのが初見で、その後、三好氏と畠山氏の攻防戦の舞台となり、織豊期には河内キリシタンの拠点となりました。現在見られる遺構は羽柴秀吉の紀州攻めに際して中村一氏が改修したもので、紀州平定にともなって放棄され、江戸初期に廃城となったようです。

城跡は烏帽子形公園として整備されており、南西麓の公園駐車場に車を駐めて登城開始。主郭に向けてまっすぐ登るルートもありますが、西側のお弁当広場にある登城口から登城しました。遊歩道を5分ほど行くと西尾根に設けられた堀切に到達。ここからが城域のようです。

堀切を越えて南北に走る横堀の堀底を進み、横堀は南端で東に折れてさらに続いています。少し行ったところで堀底道は北と東に分岐して、北は主郭西側の横堀、東は腰郭の南側から東側に回り込む横堀として続いています。南側の横堀からは発掘調査により堀内障壁(障子堀のようなもの)が検出しており、堀底道を進む敵を腰郭や土塁上から狙い撃てるようになっています。堀内障壁について書かれた説明板のあたりで横堀は南側に分岐して二重になり、内側の堀底沿いに東側に回り込んだ先には横堀を喰い違わせて設けた虎口と土橋が架けられています。虎口から腰郭に入る前に、東側斜面を底部まで下りて見上げると、相当な高低差の斜面に二重に横堀と土塁がめぐらされており、とても攻め込めそうにありません。さらに北東にのびる尾根にも堀切が設けられていて、備えは万全です。

腰郭からは先ほど通ってきた南側の堀底道がよく見渡せ、ここから狙い撃たれたら虎口まではまずたどり着けそうにありません。腰郭の北西上段が主郭で、南北に細長い曲輪内からは発掘調査により二棟の礎石建物が確認されています。主郭の北側は堀に替えて急峻な切岸で守られており、切岸の上からは眺望が開け、楠木七城の他城に加えて畠山氏や三好氏の居城が見渡せる絶好の立地であることが実感できました。

主郭と腰郭を横堀と土塁で囲んだだけのシンプルな構造ですが、横堀は深く幅広く、土塁は高く分厚く、東側は高低差を活かして防衛ラインを構築しており、平面図ではわからない(わかりづらい)立体感のある縄張の城でした。このとんでもない土木量はスーパーゼネコン秀吉組ならではでしょうか。じっくり見て回っても1時間もあればひとめぐりできる小さな城ながら、見応えは充分すぎるほどでした。
 

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todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー54城目 (2022/11/26 訪問)

土砂災害により登城できなかった分、スタンプ置き場の鳥越一向一揆歴史館の映像をじっくりと視聴させて頂きました。一向宗内部の抗争が分かって面白かったです。どこの歴史も一筋縄ではいかないものだと痛感いたしました。人の欲のなせる業かと思います。

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朝田 辰兵衛

旧城寺表記で統一させていただきます。 (2022/11/27 訪問)

この日のラストは榎下城。ここで日没を迎えるのは,気持ちのイイものではありません。私は南側から西側へ廻り潜入しましたが,北側からだとすんなりアクセスできそうな感じがしました。
墓地のほうまで進んでいくと,左側に「山田右京之進城跡碑」のパネルに遭遇します。さらに先には竹ヤブの中に空堀を発見。下へおりられそうなポイントには,立入禁止の立札がありました。

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