③【関ケ原の26人 】(1)小早川秀秋 (小早川秀秋と名島城)
(2022/09/06 訪問)
(前書き1・2の続きです)
2023年トクの空想旅を始めさせて頂きます。
今年もよろしくお願いいたします。
今回は、関ケ原の武将26人の陣跡とゆかりの城またはゆかりの地を巡ります。
まず(1人目)は「小早川秀秋」です。
関ケ原当時の居城、「名島城」を訪れました。
名島城は、豊臣秀吉の九州征伐の恩賞で、筑前の地を加増された「小早川隆景」が30万石で入り、水軍の本拠地となる城に大改修しました。
そして隆景は、1594年秀吉の命で木下家定(ねねの兄)の子で五男の「秀秋」を養子に迎え、文禄の役のあと小早川の家督を譲り、自身は三原へ帰って隠居し、そして生涯を閉じました。
1597年、秀秋はここ名島城より慶長の役へ出陣します。しかし蔚山での軽率な行動を石田三成に報告され越前北ノ庄15万石へ減封左遷されてしまい、名島城は石田三成の預かりとなりますが、翌年秀吉死後、家康の計らいで再び旧領の筑前名島へ復帰します。
そして迎えた1600年7月、小早川軍15,000の中の主力部隊はこの名島城から関ケ原へ向け出陣しました。この時大坂にいた秀秋は戻り合流します。姫路城では実兄(三男)の木下延俊から西軍であるという理由で休息を拒否されたり、伏見城の戦いでは西軍として参戦し東軍の鳥居元忠と戦ったりしながら、本戦前日の9月14日、関ケ原に到着、松尾山に陣を敷きました。
関ケ原の後、秀秋は55万石に加増され岡山城へ移りますが、2年後の21才で生涯を閉じてしまいます。現在の名島城は、本丸に石碑や名島神社が立つのみで名島公園になっています。
私は名島城の本丸跡に立ち、そこから博多湾を眺めて見ました(写真⑧)。秀吉に命じられ、右も左もわからぬまま小早川家へ養子に入ってから6年。旧領の筑前名島へ復帰した当時まだ19才の小早川秀秋は、同じようにここから博多湾を眺め、これまでの事をどう受け止めていたのでしょうか? そしてどのような気持ちで関ケ原へ出陣して行ったのでしょうか?
次は(小早川秀秋と松尾山)に続きます。
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