なじまじょう

名島城

福岡県福岡市


旧国名 : 筑前

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城址碑
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しんちゃん

小早川隆景が大改修。博多湾に築かれた大水軍城。 (2022/12/31 訪問)

名島城は豊前の国の大友氏の庶流、立花艦載によって立花山城の出城として
築かれたと伝わります。
九州平定を果たした豊臣秀吉によって小早川隆景に与えられ、水軍の本拠と出来る
城に大改修されました。
コインパーキングに駐車して名島神社から城域に入ります。
名島神社への参道がその高低差を持ってこれから城域に入るのだと教えてくれます。
名島神社の背後に城址公園、周囲の宗栄寺、住宅地に至るまで丘陵地一帯が城址のようです。
神社も寺も宅地に至るまで全部郭だと考えると城の全体像がイメージできますね。
佐竹義宣の家臣、平塚滝俊がこの城を、島に構築された水軍城で城下町が形成され
直接大船を接岸できる上、石垣も天守も立派だったと伝えています。
小早川隆景が精力を尽くして素晴らしい水軍城を作り上げたのだと想像を掻き立てますね。

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トク

③【関ケ原の26人 】(1)小早川秀秋 (小早川秀秋と名島城) (2022/09/06 訪問)

(前書き1・2の続きです)
2023年トクの空想旅を始めさせて頂きます。
今年もよろしくお願いいたします。
今回は、関ケ原の武将26人の陣跡とゆかりの城またはゆかりの地を巡ります。
まず(1人目)は「小早川秀秋」です。
関ケ原当時の居城、「名島城」を訪れました。

名島城は、豊臣秀吉の九州征伐の恩賞で、筑前の地を加増された「小早川隆景」が30万石で入り、水軍の本拠地となる城に大改修しました。

そして隆景は、1594年秀吉の命で木下家定(ねねの兄)の子で五男の「秀秋」を養子に迎え、文禄の役のあと小早川の家督を譲り、自身は三原へ帰って隠居し、そして生涯を閉じました。

1597年、秀秋はここ名島城より慶長の役へ出陣します。しかし蔚山での軽率な行動を石田三成に報告され越前北ノ庄15万石へ減封左遷されてしまい、名島城は石田三成の預かりとなりますが、翌年秀吉死後、家康の計らいで再び旧領の筑前名島へ復帰します。

そして迎えた1600年7月、小早川軍15,000の中の主力部隊はこの名島城から関ケ原へ向け出陣しました。この時大坂にいた秀秋は戻り合流します。姫路城では実兄(三男)の木下延俊から西軍であるという理由で休息を拒否されたり、伏見城の戦いでは西軍として参戦し東軍の鳥居元忠と戦ったりしながら、本戦前日の9月14日、関ケ原に到着、松尾山に陣を敷きました。

関ケ原の後、秀秋は55万石に加増され岡山城へ移りますが、2年後の21才で生涯を閉じてしまいます。現在の名島城は、本丸に石碑や名島神社が立つのみで名島公園になっています。

私は名島城の本丸跡に立ち、そこから博多湾を眺めて見ました(写真⑧)。秀吉に命じられ、右も左もわからぬまま小早川家へ養子に入ってから6年。旧領の筑前名島へ復帰した当時まだ19才の小早川秀秋は、同じようにここから博多湾を眺め、これまでの事をどう受け止めていたのでしょうか? そしてどのような気持ちで関ケ原へ出陣して行ったのでしょうか? 

次は(小早川秀秋と松尾山)に続きます。
 

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おっちゃん

名島城址公園案内図、名島古城図 (2017/12/03 訪問)

現地案内板より抜粋

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織田晃司

名島城址公園 (2022/02/11 訪問)

名島神社の奥の階段を登るとあります。
開園時間がありますので朝駆けは無理です。

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城郭情報

分類・構造 連郭式平山城(海城)
天守構造 不明(天守台あり)
築城主 立花鑑載
築城年 天文年間(1532〜1555)
主な改修者 小早川隆景
主な城主 立花氏、小早川隆景、小早川秀秋、黒田長政
廃城年 慶長6年(1601)
遺構 曲輪、石垣、天守台、土塁、移築門(福岡城・崇福寺・宗生寺)
再建造物 石碑、説明板
住所 福岡県福岡市東区名島1-15他
問い合わせ先 福岡市教育委員会文化財部文化財整備課
問い合わせ先電話番号 092-711-4783