炬口城からの転戦です。洲本市立淡路文化史料館(34.340542、134.9018)で続100名城スタンプ押印後、月見台駐車場(34.336771、134.904688)に向かいました。
築城年代は諸説あり定かではないようですが、室町時代後期に安宅氏によって築かれたと云われています。
1581年(天正9年)織田信長の命により、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)が淡路国の攻略に乗り出すと、時の城主安宅清康は羽柴秀吉に破れ降伏します。
1582年(天正10年)四国の長曾我部氏が淡路土着の菅平右衛門に命じて洲本本丸跡の石垣城を占領しますが、明智光秀との山崎の合戦に向かう秀吉は武将の仙石秀久を淡路に差し向け、洲本城を奪還します。
1585年(天正13年)秀吉は洲本城から出陣して四国攻めを開始。戦後、仙石秀久が高松城主になると、脇坂安治が洲本城主となり、城の本格的大修築を行い、今日に洲本城跡の石碑残る規模の城となったそうです。
1609年(慶長14年)脇坂安治は伊予大洲に移封。替わって洲本城は徳川家康の腹心である藤堂高虎、次いで姫路城主池田輝政の支配下に置かれました。
1615年(元和元年)徳島藩主蜂須賀至鎮が大坂の陣の軍功により淡路一国8万石を加増されます。
蜂須賀氏は平和な時代になったため、三熊山の麓に御殿を設け、蜂須賀氏の重臣である稲田氏を城代とし、以後、洲本城は蜂須賀氏の支城として、城代の稲田氏が代々居城して明治維新を迎えます。
小規模でかわいらしい天守はかつて展望台として登る事ができたそうですが、耐震性の問題で現在は登る事ができません。
海や町並が見える絶景です。石垣は思いのほか残っていて、迫力がありましたが補修中の石垣がありました。
攻城時間は45分くらいでした。次の攻城先=養宜館に向かいます。
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