(鶴崎城からの続きです)
大友宗麟は、キリスト教に没頭する自分に対する家臣の不満を避けるため、家督と大友館を息子の義統に譲り、自らは早々に臼杵湾に浮かぶ丹生島(にうじま)に城を築いて移り住み、城下には教会・修道院・学校・病院などを建て、キリスト教の街を作っていました。南蛮貿易も盛んに行われ、臼杵の街は大変賑わっていたそうです。そしてこの臼杵城(丹生島城)は、当時の大手口は海側(卯寅口:写真①)のみにあり船でしか出入りできませんでした。島の周りは40mの断崖絶壁で近づく事すらできない難攻不落の浮城と呼ばれていました。家督譲りも表向きで、重要な政事(まつりごと)は全てこの臼杵で行われていたようです。
大友氏改易後は、1593年に「福原直高」が入り石垣造りの城へ改修を始めます(大友時代は断崖の上に館のみ)。そして現在の古橋口に大手門(写真②)を作り陸続きとし、天守台(写真③)などができた時点で直高は府内へ。代わって1597年に「太田一吉」が入り天守台の上に三重の望楼型天守を完成させ(写真④ここに天守があった)、また31基の櫓と7つの櫓門を造り、現在のような城の原形を完成させました。九州の関ケ原では太田一吉は西軍についたため、東軍の中川秀成(後の岡城主)から攻められます。しかし、この城は大友宗麟の時と同じ、またしても落ちる事はありませんでした。2度の戦にも落ちなかった難攻不落の浮城というわけです。
関ケ原後は、郡上八幡から「稲葉貞通」が入り大手門の改修や二の丸の総石垣化などで形を整え(写真⑤⑥⑦)、幕末まで稲葉氏15代の居城となりました。島も江戸時代に入り砂が堆積したり埋め立てられたりして陸続きとなり、城下も拡張されていったようです。稲葉氏の時代の畳櫓(写真⑧)と卯寅口門脇櫓(写真⑨)が現存しており、ともに珍しい重箱櫓となっています。
続100名城スタンプは大手門(古橋口)の前の「観光交流プラザ」内の受付にあります。その観光交流プラザには無料の駐車場があるため、車の方はそこに止めて見学されたらいいと思います。JR臼杵駅からは徒歩10分程です。「城びと」の大きな看板も大手門(古橋口)横にありましたよ!(写真⑩)。
臼杵に入った島津軍はまず街を焼き払います。この時、宗麟が心血を注いで建てた教会・修道院・学校・病院なども全て焼き払われてしまいまいた。宗麟にとってこれはとてもくやしくかつ屈辱的であったようです。そして島津軍は丹生島に近づけないため、陸より鉄砲を放ちます。しかし、届きません。3日間攻め続けますが、落とす事はできません。
この後、大友宗麟はこのまま籠城を続けるかと思いきや、このくやしさを晴らすべく、何と討って出る事にしました! 実はこの時、宗麟にはある秘策がありました。いったい宗麟はどうやって島津軍を攻め、どうやってこの臼杵城を守り抜こうとしていたのでしょうか?
臼杵城②へ続きます。
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