みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

トク

【島津VS大友:最終決戦の城巡り】 (第13回)臼杵城(丹生島城)① (2022/09/26 訪問)

(鶴崎城からの続きです)

大友宗麟は、キリスト教に没頭する自分に対する家臣の不満を避けるため、家督と大友館を息子の義統に譲り、自らは早々に臼杵湾に浮かぶ丹生島(にうじま)に城を築いて移り住み、城下には教会・修道院・学校・病院などを建て、キリスト教の街を作っていました。南蛮貿易も盛んに行われ、臼杵の街は大変賑わっていたそうです。そしてこの臼杵城(丹生島城)は、当時の大手口は海側(卯寅口:写真①)のみにあり船でしか出入りできませんでした。島の周りは40mの断崖絶壁で近づく事すらできない難攻不落の浮城と呼ばれていました。家督譲りも表向きで、重要な政事(まつりごと)は全てこの臼杵で行われていたようです。

大友氏改易後は、1593年に「福原直高」が入り石垣造りの城へ改修を始めます(大友時代は断崖の上に館のみ)。そして現在の古橋口に大手門(写真②)を作り陸続きとし、天守台(写真③)などができた時点で直高は府内へ。代わって1597年に「太田一吉」が入り天守台の上に三重の望楼型天守を完成させ(写真④ここに天守があった)、また31基の櫓と7つの櫓門を造り、現在のような城の原形を完成させました。九州の関ケ原では太田一吉は西軍についたため、東軍の中川秀成(後の岡城主)から攻められます。しかし、この城は大友宗麟の時と同じ、またしても落ちる事はありませんでした。2度の戦にも落ちなかった難攻不落の浮城というわけです。

関ケ原後は、郡上八幡から「稲葉貞通」が入り大手門の改修や二の丸の総石垣化などで形を整え(写真⑤⑥⑦)、幕末まで稲葉氏15代の居城となりました。島も江戸時代に入り砂が堆積したり埋め立てられたりして陸続きとなり、城下も拡張されていったようです。稲葉氏の時代の畳櫓(写真⑧)と卯寅口門脇櫓(写真⑨)が現存しており、ともに珍しい重箱櫓となっています。

続100名城スタンプは大手門(古橋口)の前の「観光交流プラザ」内の受付にあります。その観光交流プラザには無料の駐車場があるため、車の方はそこに止めて見学されたらいいと思います。JR臼杵駅からは徒歩10分程です。「城びと」の大きな看板も大手門(古橋口)横にありましたよ!(写真⑩)。


臼杵に入った島津軍はまず街を焼き払います。この時、宗麟が心血を注いで建てた教会・修道院・学校・病院なども全て焼き払われてしまいまいた。宗麟にとってこれはとてもくやしくかつ屈辱的であったようです。そして島津軍は丹生島に近づけないため、陸より鉄砲を放ちます。しかし、届きません。3日間攻め続けますが、落とす事はできません。

この後、大友宗麟はこのまま籠城を続けるかと思いきや、このくやしさを晴らすべく、何と討って出る事にしました! 実はこの時、宗麟にはある秘策がありました。いったい宗麟はどうやって島津軍を攻め、どうやってこの臼杵城を守り抜こうとしていたのでしょうか?

臼杵城②へ続きます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

11年ぶりの鞆城 (2022/11/04 訪問)

大可島城を俯瞰するために鞆城にも脚を伸ばしてみました。2011年8月以来、11年ぶりの鞆城です。その間、大河ドラマで何度も足利義昭が描かれました。「麒麟がくる」の足利義昭は特に印象的でした。この後、対潮楼や桝屋清右衛門宅なども巡って鞆の浦を満喫させて頂きました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

赤い城

別名は宇都野城 (2022/11/13 訪問)

県道30号線を那須塩原方面に向かう途中にあります。
城址の前の道路に駐車スペースがあります。
登城口から登るとすぐに城址。
3つの郭が並び、それぞれ堀切で区切られていました。
主郭と二郭には土塁も残っています。
鎌倉時代の城で、程よく整備された城でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

大磯城山公園 (2022/11/11 訪問)

JR大磯駅より、旧島崎藤村邸、明治記念大磯庭園(旧大隈重信別邸・陸奥宗光別邸)に寄りつつ行きました。旧東海道の松並木やこゆるぎの浜など歩きましたが、のどかでゆったりと流れる空気や新旧調和し落ち着いた街並みは江の島や茅ヶ崎とは違った湘南の雰囲気です。
国道1号線の南側が旧吉田茂邸地区、北側が旧三井別邸地区となっている県立大磯城山(じょうやま)公園が小磯城址とされています。現状から城の遺構は認められないようです。
山頂の展望台から富士山や箱根の山々がよく見えました。下りは北側の出口へ下山しました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

スミヤキ

朴葉の落ち葉の絨毯が印象的 (2022/10/22 訪問)

鮫ヶ尾城は、上杉謙信の本拠春日山城にも近く、隣接する信濃へ通じる重要拠点として整備された、標高 185m程の丘陵頂上部に主郭がある連郭式山城です。
謙信急死後の後継者争い「御館の乱」で敗れた上杉景虎が自刃して果てた城としても知られています。

現在は、弥生時代後期の斐太(ひだ)遺跡とその後の古墳時代の古墳群と共に史跡公園になっています。
麓から山頂曲輪に至る登城道(遊歩道)には、山城の北斜面を行く「北登城道」と山頂につながる尾根筋を行く「南登城道」と「東登城道」があります。
麓の斐太神社脇に駐車場があり、少し歩き登ると「斐太歴史の里総合案内所」に着きます。続 100名城スタンプ、パンフレットをゲットして、お薦めの登城ルートを確認して下さい。
案内所から東登城道を上り、山頂曲輪を目指し、北登城道を下る小一時間のハイキングになります。熊除け鈴付杖の貸出しも有り、とても重宝します。
緩やかな勾配の東側の尾根を登ると堀切が多数見られ、強力な防御網が敷かれていた事が分かります。また、山頂曲輪からの眺望が素晴らしく、春日山、頸城平野と日本海が一望出来ます。
そして朴葉の落ち葉で埋め尽くされた道を下り歩いたのがとても印象的。

朴の木の花言葉は「誠意ある友情」、「自然の愛情」だそうです。最後に一緒に戦った仲間の裏切りで自刃する景虎さんの心境はどうだったのでしょうねえ?
里山の自然景観が豊かでそれぞれの季節で歩き楽しめる山城です。おすすめですよ!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カルビン

ニアピン賞 (2022/11/13 訪問)

石川県遠征の次の日に疲労蓄積しているのに、勢いで群馬県渋川に行ってきました。。。今度こそ自粛前ラストと言う事で(←たぶん我慢できずにまた遠征するw)

渋川駅からレンタサイクルで白井城再訪を含め延距離10kmくらいの行軍を考えていた(以前同じ距離で足がいっぱいいっぱいだったので(汗))ので、白井城をメインとすると剣城は範囲外になるので当初は手抜きで道中の電車の車窓から城碑撮影出来たら登城した事にしようと考えてました(確信犯w)

しかし借りた自転車がアシスト付だったので行ける所まで行ってみようと思って進んでいたら、意外と行けてしまいました(笑)

現地は線路沿いの畑しかない場所で、手作り感満載の城碑がある風景は正にナニコレ珍〇景でした(^^;

結局4時間の滞在で6城回り、何だかんだで25kmも距離走ってました・・・アシスト付自転車、侮れん(ーー;


ちなみに剣城の謂れや由来、何もわからずじまいでした・・・何しに行ったんだかorz


帰宅後に車窓から当てずっぽうに撮った写真みたら・・・非常に惜しかった事が判明。。。
誰も得しないニアピン賞でしたorz

+ 続きを読む

赤い城

長い堀が素敵な塩谷氏の城 (2022/11/13 訪問)

この日は那須塩原方面へ進軍。
川崎城は矢板ICから那須塩原方面に向かう途中にあります。
公園になっていて駐車場もあります。
注意から登って行くと南曲輪を経て一の堀へ。
なかなかの長さがあります。
この堀は両サイドが竪堀となって落ちていますがまだちょっと薮ってました。
本丸もまだ下草が茂っています。
本丸の土塁上に石碑があります。
三の丸方面に進むとニの堀、ここはまだ薮。
冬季の訪問がよさそうですね。
草が刈ってある部分も多く見応えのある城です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

チェブ

城びと未登録のお城攻め「畠山 重保館」鎌倉編。 (2022/11/13 訪問)

以前、神奈川県横浜市の「畠山 重保館」の投稿で
『鎌倉にもあるようです。』
と、書きました。
偶然に、鎌倉の「畠山 重保館」を見つけました。

畠山 重保さんは、畠山 重忠さんと北条 時政さんの娘の子です。
なのに、北条 時政さんと、奥さんの牧の方(りく)の野望の為に消されてしまいました。

場所は鶴岡八幡宮から段葛を通り、由比ヶ浜を目指して歩きます。歩道の左側に『浜の大鳥居跡』の石碑がありました。
もう少し歩くと、『一の鳥居』です。
その右側に『畠山 重保邸』の石碑と供養塔があります。
、、、?。鳥居の近くに館を建てるかな?
畠山 重保さんは鎌倉において重要な方だったのでしょう。
重保さんは、源 実朝さんの奥様になる方を、お迎えに行くメンバーの1人でもありましたし。
この時の都での、いざこざが悲しい結果になってしまうんですけどね。

鶴岡八幡宮の近くで『鶯ヶ谷』の説明板を見つけました。実朝さんが、鶯の初音を聞いた事から名付けられたそうです。平和だ~。

「畠山 重保邸」の石碑には討死するまでの、無念が刻まれてます。
畠山一族、この春の鶯の初音を どのような気持ちで聞いたのか。
冤罪の愚痴を聞いてあげたいと思った「畠山 重保館」訪問でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

水堀が残ってる亥山城跡 (2022/11/03 訪問)

 東郷槙山城を終えて東進、一乗谷城を横目に国道158号線を大野市へ、トンネルを抜けると天空の城とも言われてる越前大野城が見えて来る、チョット寄って行くか?と気持ちが動くが亀山公園北駐車場は車で一杯、表の駐車場も人と車で一杯、何かイベントが有る様です、諦めて目的地の亥山城の有る日吉神社を目指し、神社参拝者駐車場に駐める。参拝者駐車場が満車の場合は北に50m程の所に城下町東広場駐車場が有ります。

 皆さんが投稿されてる様に日吉神社境内が亥山城跡です。南西角に水堀が残って居ます、南側に東に向かって水堀、堀跡が在ったそうで、東側の山王公園も堀跡の名残、ひょっとして北側を走る国道476号線は堀跡かも?境内には日吉神社以外に分社も有り、東側の天守台の様な石段上に道祖神社等鎮座、天守台の様な基壇は丸い川原石による二段積の石垣、ふと金森長近の築いた飛騨の城跡が丸い川原石による石垣が多いので、金森氏の城跡改造の後かな?と思ったりしたり、素晴らしい丸い川原石の二段櫓台?基壇です。

 参拝と見学を終えて今回越前未踏の城廻りの主目的「イオさん」の投稿で長年の疑問が払拭した白山平泉寺城を目指します。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

経ヶ端城 (2022/10/16 訪問)

【経ヶ端城】
<駐車場他>駐車場はなし。城跡入口にトイレあります。
<交通手段>車

<見所>櫓台
<感想>日帰り丹波の黒豆購入と城攻めの旅3城目。経ヶ端城の築城年・築城者は定かではありません。現地説明板に「丹波志」によると河合の谷(この川合地区)四ヶの城は樋口の持城なり。古城主樋口対馬守とあります。
 城跡は山地の突き出た先端を堀切で区切ってお城にしています。比高はそれほどなくすぐに城跡の堀切にたどり着きます。堀切の右手が岩場っぽい櫓台になっていて城跡の最高所となっています。その下段に小さい主郭があります。主郭の北方向の下段に2つ程段曲輪がありますが柵で入れなくなっています。主郭の両サイドに薄くなった竪堀があります。敷地面積が小さいので地区の砦といった感じでした。所要時間も30分程度で見れます。

<満足度>◆◆◇
<その他>昨年丹波市の高見城で投稿いたしました黒豆を購入するべく今回の旅を計画しました。10月の1ヵ月間くらいは黒豆の収穫時期で丹波市ではあちらこちらの黒豆畑の横で路上販売しています。紹介した以外の場所でも購入しましたが、昨年投稿した場所がやはりかなりお得でした。今回の旅はこの経ヶ端城を攻略したあと、黒豆を購入しに行って、そのあと未だ城びと未投稿の久下城(玉巻城)を攻略しに行きましたが山道が見当たらず、藪化していて攻略できませんでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小荷駄

お寺? (2022/09/30 訪問)

駐車場とトイレは有るのかないのかわかりませんでした。東側の水堀北側のフェンス越しや西側からは土塁が見えたりしました。鐘楼の石垣は現在工場中です。外回りは一周歩いて20~30分程でした。境内には立派な本堂や経堂そして隅櫓のような鼓楼があります。前々から訪れたいと思っていたので櫓のような鼓楼が見えた時やフェンス越しからの土塁が見えた時はちょっと興奮していたかと思います。非常に楽しく散策出来ました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小荷駄

桑名城跡 (2022/09/27 訪問)

JR桑名駅から徒歩で30分程でした。城跡は九華公園になっていますので駐車場トイレはもちろん有り非常に散策しやすくなっています。遺構はあまり残っていないですが復元された蟠龍櫓や七里の渡少ないですがわずかに残っている石垣などを散策してから町の方に行き三崎見附跡から京町見附吉津屋見附と歩き七曲見附までのんびりと色々と想像をふくらませながら散策しました。城跡と合わせて二時間程でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

とにかく広いのだ (2022/05/03 訪問)

「馬乗り場」とも「古館」とも呼ばれるエリアを見てきた。「内館」と呼ばれるいわゆる本城から500m離れているがここも脇本城内。周囲には「乍木地区」など合わせて五つのエリアがあって全部まとめて脇本城、なのだ。

+ 続きを読む

Tokyobay

三の丸土塁の一部とその上に植えられた「姥杉」が市役所に残る (2022/10/18 訪問)

三の丸土塁の一部とその上に植えられた「姥杉」が市役所に残る。黒門(冠木門)は一旦他所に移築されたものを戻したようであるが、当時の正確な場所は不明なようである。

+ 続きを読む

カズサン

リニューアル工事進行中 (2022/11/22 訪問)

 大河ドラマ「どうする家康」に合わせて浜松城天守閣リニューアル工事中です、昨日登城した折り工事関係者の方に尋ねましたら、天守閣の塗りは終わったようで明日以降覆ってるシート、仮設足場の撤去が始まる様な答え、12月20日工事完了が待たれます。
 また日本庭園のもみじの紅葉は同かなと訪れましたがまだまだ緑のまま、しかし日本庭園の水が抜かれて清掃整備中、初めて水が抜かれた日本庭園の池を見ました、底はコンクリートが打たれて居たのですね、初めて見ました、リニューアル工事に合わしたのか、池の桟橋と木橋が傷んだ所を修復、木部追加工作されて居ました、池の整備工事は終わり、明日以降に水を入れるとの事、ラッキーな体験でした。
 大河ドラマ館は建物関係は完成の様で工事足場は無く成って居ました、またドラマ館前庭の三つ葉葵の芝庭も完成の様、天守曲輪南東端より眺めてみました、紅葉のケヤキ並木は景観の為か本丸下、二の丸登城路辺り低く剪定されて居ました、また周辺の道の本丸東下、北下、大河ドラマ館との連絡散策路と成る辺りはドラマ館オープンまでに修復整備されるようです。
 どうする家康浜松大河ドラマ館のプレオープンは令和5年1月22日(日)、グランドオープンは令和5年3月18日(土)です、前売り入場券も購入済みです、後はネットで入場日を予約入れるだけ。
 既に「どうする家康浜松大河ドラマ館」のサイトはオープンして居ます。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

Tokyobay

短い1本の通りから3人の偉人が生まれる (2022/10/18 訪問)

城跡は市役所にわずかに遺構が残るのみだが見どころは城下。吉小路通り200mの距離に高野長英、後藤新平、斎藤実の生誕地がある。この短い1本の通りから3人の偉人が生まれたというのはある意味奇跡的であるとも言える。高野長英は碑と案内版のみだが、少し離れたところに幼少期に過ごしたとされる母の実家が残っている。後藤新平は生家が残っており、斎藤実は生誕の地に建て直した旧居(斎藤本人は数日間過ごしたのみだが、その後夫人が居住)が残っている。斎藤実記念館には226事件の遺品が展示されており、事件の壮絶さを物語っている。斎藤夫人の「撃つなら私を撃ちなさい」と兵隊の前に立ちはだかって斎藤実をかばった(で、実際に3発撃たれている)というのは有名な話。
ちなみに水沢江刺駅からタクシーで行ったのだが、運転手は大瀧詠一と小沢一郎の話ばかりしていた。これで水沢江刺駅の発車メロディが「君は天然色」であった謎が解ける。岩手は総理輩出県ではあるが、小沢一郎はなり損ねたと言えるのかもしれない。帰りは水沢駅を利用したが、通勤通学時間帯でも1時間以上電車がなく、市役所の最寄り駅でもこんなものなのかと地方の交通事情の悪さを痛感した。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

おもてなしの心 北畠具親城 (2022/11/05 訪問)

織田氏に滅ぼされた、北畠再興を目指した具親。ここは、伊賀の中でも山深く、旧臣も密かに参じ易かったであろうと解説されています。厚い土塁で守られた単郭城が多い伊賀において、山全体を利用した大きな連郭式の城郭です。
県道沿いに目立つ看板があり、登城口、城域に手書きの表示があります。「ようこそ、いらっしゃいませ。城主」がよいですなあ。

さて、この度、ちょっとマニアックで賞:城と標柱、看板部門で一位に選んでいただき、ありがとうございます。この投稿を借りて、皆様にお礼申し上げます。
面白いものやとんちが効いたものが多いなかで、癖がなかったのがかえって評価されたのかも。一方、優等生っぽくて、ちと、気恥ずかしい感も。赤瀬川原平氏の「超芸術トマソン」が好きで、城とトマソンの共演写真が撮れたら最高です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ばばよ

石垣や堀は期待値以上 (2022/10/30 訪問)

鉄櫓は模擬なので期待値低めでしたが、石垣や堀は規模が大きくテンション上がりました。
一部崩れた石垣を修復中でした。
古写真に残る川手櫓は外観復元できないものか。
鉄櫓は16時までしか入れないことを失念していました。
意外と早く閉館するので要注意。。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ばばよ

木造復元できそう (2022/10/30 訪問)

大垣駅の目抜き通りから案内板を目安に振り向いたら、いきなり城門と天守に会えます。
あまり登城した感じがないですが、裏の公園側から眺めればなかなかの景色です。
外観復元のRC造天守の内部は関ヶ原の合戦の解説が詳しく書かれています。
元々の天守は空襲で失われてしまいましたが、古写真が多く残っています。外観だけでなく内部の写真もあり、また柱の位置など設計図もありそうなので、木造復元も不可能ではない印象を受けました。財政面がネックですかね。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

本丸曲輪 (2022/10/22 訪問)

(続き)

御殿場跡から大手道を進むこと10数分で大手曲輪に着きました。大手曲輪といっても腰曲輪程度の小さな曲輪で、岩が転がっているくらいですが、見上げると二の曲輪西辺の石垣があり、城域に入ったことを感じます。大手道から二の曲輪に入ると、奥に進んで先ほど見上げた西辺の石垣へ。写真を撮ろうと斜面を少し降りてみましたが、なかなかの急斜面の上に石垣とくれば攻め上るのは困難だったでしょうね。

そして山頂部の本丸曲輪に到着。本丸曲輪には安土城天守の試作とも云われる不等辺多角形の天守台が綺麗に遺っていますが、後世に積み直しされているようです。池田恒興による改修が岩村城の落城により途中で打ち切られたためか、天守台の周囲には矢穴のある石材が散乱しています。本丸曲輪の周囲には帯曲輪や腰曲輪が配され、割られた石材だけでなく自然石もごろごろとしており、あちこちに石垣が見られました。

本丸曲輪から南に搦手道が続いているようなので、急斜面をストックと灌木を頼りに降りていくと、鞍部には堀切がありました。堀切から搦手道という名の獣道を灌木をかき分けながら進み、藪にしか見えない小曲輪を経て、踊り場に到達。踊り場も自然地形のままの平場でしかありませんが、それでもしっかり「搦手道」「小曲輪」「踊り場」と表示が立てられているのはすごいなぁ、と。…というか、搦手道側は堀切以外は表示がないとわからないんじゃないかと思います。

山城サミット可児大会でリーフレットをもらって以来の念願をようやく果たすことができましたが、山麓部の御殿場跡といい山頂部の本丸曲輪といい、よく整備されていて期待に違わぬ見応えのある城でした。そして、あまり人が訪れなさそうな東砦や搦手道にも案内表示が立てられていることに驚かされました。本当に大切にされているんですね。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ746